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王立アカデミーの卒業を祝う夜会は、これ以上ないほどの熱気に包まれていた。
シャンデリアの眩い光が、着飾った貴族の子弟たちをきらびやかに照らし出す。軽やかなワルツの音色、楽しげな談笑、グラスの触れ合う澄んだ音。その全てが、この国の未来を担う若者たちの輝かしい門出を祝福していた。
そんな喧騒の中心、一段高い場所に設けられた玉座に、私は退屈を隠しもせず座っていた。
私の名はブリーナ・フォン・クライネルト。クライネルト公爵家の長女であり、この国の王太子、アルフォンス・フォン・エルツライヒ殿下の婚約者。
物心ついた頃には決まっていた婚約。政略のため、家のための義務。そこに個人的な感情が入り込む余地など、とうの昔に捨てていた。
「ブリーナ、疲れたかい?」
隣に座るアルフォンス殿下が、甘ったるい声で問いかけてくる。金色の髪に、空を映したような青い瞳。絵画から抜け出してきたような美貌の持ち主だが、その瞳が私を映すことはないと、私はよく知っていた。
「いいえ、殿下。このような晴れやかな場に同席でき、光栄ですわ」
完璧な淑女の笑みを浮かべて返せば、殿下は満足そうに頷く。彼はいつだって、私がこうして彼の隣で、完璧な華として咲いていることを望んだ。
(ああ、退屈だわ。早く領地に帰って、新しい温室の設計図を眺めたい)
そんなことを考えていた、その時だった。
「諸君、静粛に!」
アルフォンス殿下がすっくと立ち上がり、朗々とした声をホールに響かせた。音楽が止み、全ての視線が彼へと注がれる。何事かと、会場がざわめき始めた。
私も内心首を傾げる。予定にない行動だ。
「本日、この卒業という記念すべき日に、私は皆に伝えなければならないことがある。私の、いや、この国の未来に関わる重大な決意を!」
芝居がかったその口調に、私は少しだけ眉をひそめた。彼のこういう自己陶酔的なところには、昔からどうにも馴染めない。
殿下は、会場の隅に立つ一人の令嬢に、熱のこもった視線を送った。小柄で、栗色の髪を持つ、庇護欲をそそるタイプの少女。確か、マイヤー男爵家のリリアーナ様。最近、殿下のお気に入りだと噂の令嬢だ。
(なるほど…)
殿下の視線の先を見て、私はこれから起こるであろう出来事のあらましを瞬時に悟った。そして、心の奥底から、歓喜が湧き上がってくるのを止められなかった。
(まさか、こんな公の場で?最高じゃない!)
アルフォンス殿下は、一度私にちらりと視線をよこした。その瞳には、侮蔑と、ほんの少しの罪悪感のようなものが浮かんでいるように見えた。
そして彼は、再び会場を見渡し、高らかに宣言した。
「私はここに、ブリーナ・クライネルトとの婚約を破棄することを宣言する!」
時が、止まった。
シン、と静まり返ったホールに、殿下の声だけが響き渡る。誰もが息を呑み、壇上の私たちを凝視している。友人である令嬢たちの、心配そうな顔。ライバルだった令嬢たちの、嘲るような視線。全てがスローモーションのように感じられた。
「彼女は王太子妃に相応しくない!嫉妬深く、心無い言動で、か弱き者を虐げた!そんな女を、私は国母として認めるわけにはいかない!」
殿下は、まるで悲劇の主人公のように拳を握りしめている。
(まあ、なんて陳腐な脚本なのかしら)
私の悪役令嬢としての悪評は、ほとんどが彼の信奉者たちが作り上げた虚像だ。私はただ、彼にまとわりつく令嬢たちに「殿下は公務でお忙しいので」と事実を告げていただけなのだが。
「そして!」
殿下は、先ほど視線を送ったリリアーナ嬢の手を取り、壇上へと引き上げた。彼女は怯えた小動物のように震え、涙を瞳に溜めている。
「私は、真実の愛を見つけた!私に愛の本当の意味を教えてくれたのは、このリリアーナ・マイヤーだ!よって、私はリリアーナこそが私の唯一無二の伴侶であると、ここに誓う!」
ああ、と誰かが息を漏らす音がした。会場は、驚きと混乱の渦に叩き込まれる。公爵令嬢である私を、こんな形で断罪し、婚約を破棄する。前代未聞のスキャンダルだ。
父や兄の怒り狂う顔が目に浮かぶ。クライネルト公爵家に対する、これ以上ない侮辱。普通なら、卒倒するか、泣き崩れるか、あるいは王太子を罵倒するところだろう。
だが、私は違った。
(素晴らしいわ、アルフォンス殿下。最高の卒業祝いをありがとう!)
私はゆっくりと席を立ち、静かにドレスの裾を両手でつまんだ。そして、この国の淑女の最高礼である、優雅なカーテシーを彼らに向けてみせた。
「―――殿下、リリアーナ様」
鈴の鳴るような、凛とした声。我ながら、よく響いたと思う。
ざわめきが、ぴたりと止む。アルフォンス殿下も、リリアーナ嬢も、そして会場にいる誰もが、固唾を呑んで私の次の言葉を待っていた。
「この度は、ご婚約、誠におめでとうございます」
にっこりと、完璧な笑みを浮かべて。
「お二人の未来に、神の祝福があらんことを。心よりお祝い申し上げますわ」
私の言葉の意味を理解するのに、数秒かかったのだろう。
アルフォンス殿下は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見ている。リリアーナ嬢は、大きな瞳をさらに大きく見開いて、ぱくぱくと口を動かしていた。
予想していた反応と、あまりにも違ったのだろう。彼らが用意していたであろう「断罪される哀れな悪役令嬢」という舞台は、私のたった一言で、滑稽な茶番劇へと成り代わったのだから。
ホールは再び静寂に包まれた。先ほどとは違う、困惑と呆気に取られたような、奇妙な沈黙だった。
シャンデリアの眩い光が、着飾った貴族の子弟たちをきらびやかに照らし出す。軽やかなワルツの音色、楽しげな談笑、グラスの触れ合う澄んだ音。その全てが、この国の未来を担う若者たちの輝かしい門出を祝福していた。
そんな喧騒の中心、一段高い場所に設けられた玉座に、私は退屈を隠しもせず座っていた。
私の名はブリーナ・フォン・クライネルト。クライネルト公爵家の長女であり、この国の王太子、アルフォンス・フォン・エルツライヒ殿下の婚約者。
物心ついた頃には決まっていた婚約。政略のため、家のための義務。そこに個人的な感情が入り込む余地など、とうの昔に捨てていた。
「ブリーナ、疲れたかい?」
隣に座るアルフォンス殿下が、甘ったるい声で問いかけてくる。金色の髪に、空を映したような青い瞳。絵画から抜け出してきたような美貌の持ち主だが、その瞳が私を映すことはないと、私はよく知っていた。
「いいえ、殿下。このような晴れやかな場に同席でき、光栄ですわ」
完璧な淑女の笑みを浮かべて返せば、殿下は満足そうに頷く。彼はいつだって、私がこうして彼の隣で、完璧な華として咲いていることを望んだ。
(ああ、退屈だわ。早く領地に帰って、新しい温室の設計図を眺めたい)
そんなことを考えていた、その時だった。
「諸君、静粛に!」
アルフォンス殿下がすっくと立ち上がり、朗々とした声をホールに響かせた。音楽が止み、全ての視線が彼へと注がれる。何事かと、会場がざわめき始めた。
私も内心首を傾げる。予定にない行動だ。
「本日、この卒業という記念すべき日に、私は皆に伝えなければならないことがある。私の、いや、この国の未来に関わる重大な決意を!」
芝居がかったその口調に、私は少しだけ眉をひそめた。彼のこういう自己陶酔的なところには、昔からどうにも馴染めない。
殿下は、会場の隅に立つ一人の令嬢に、熱のこもった視線を送った。小柄で、栗色の髪を持つ、庇護欲をそそるタイプの少女。確か、マイヤー男爵家のリリアーナ様。最近、殿下のお気に入りだと噂の令嬢だ。
(なるほど…)
殿下の視線の先を見て、私はこれから起こるであろう出来事のあらましを瞬時に悟った。そして、心の奥底から、歓喜が湧き上がってくるのを止められなかった。
(まさか、こんな公の場で?最高じゃない!)
アルフォンス殿下は、一度私にちらりと視線をよこした。その瞳には、侮蔑と、ほんの少しの罪悪感のようなものが浮かんでいるように見えた。
そして彼は、再び会場を見渡し、高らかに宣言した。
「私はここに、ブリーナ・クライネルトとの婚約を破棄することを宣言する!」
時が、止まった。
シン、と静まり返ったホールに、殿下の声だけが響き渡る。誰もが息を呑み、壇上の私たちを凝視している。友人である令嬢たちの、心配そうな顔。ライバルだった令嬢たちの、嘲るような視線。全てがスローモーションのように感じられた。
「彼女は王太子妃に相応しくない!嫉妬深く、心無い言動で、か弱き者を虐げた!そんな女を、私は国母として認めるわけにはいかない!」
殿下は、まるで悲劇の主人公のように拳を握りしめている。
(まあ、なんて陳腐な脚本なのかしら)
私の悪役令嬢としての悪評は、ほとんどが彼の信奉者たちが作り上げた虚像だ。私はただ、彼にまとわりつく令嬢たちに「殿下は公務でお忙しいので」と事実を告げていただけなのだが。
「そして!」
殿下は、先ほど視線を送ったリリアーナ嬢の手を取り、壇上へと引き上げた。彼女は怯えた小動物のように震え、涙を瞳に溜めている。
「私は、真実の愛を見つけた!私に愛の本当の意味を教えてくれたのは、このリリアーナ・マイヤーだ!よって、私はリリアーナこそが私の唯一無二の伴侶であると、ここに誓う!」
ああ、と誰かが息を漏らす音がした。会場は、驚きと混乱の渦に叩き込まれる。公爵令嬢である私を、こんな形で断罪し、婚約を破棄する。前代未聞のスキャンダルだ。
父や兄の怒り狂う顔が目に浮かぶ。クライネルト公爵家に対する、これ以上ない侮辱。普通なら、卒倒するか、泣き崩れるか、あるいは王太子を罵倒するところだろう。
だが、私は違った。
(素晴らしいわ、アルフォンス殿下。最高の卒業祝いをありがとう!)
私はゆっくりと席を立ち、静かにドレスの裾を両手でつまんだ。そして、この国の淑女の最高礼である、優雅なカーテシーを彼らに向けてみせた。
「―――殿下、リリアーナ様」
鈴の鳴るような、凛とした声。我ながら、よく響いたと思う。
ざわめきが、ぴたりと止む。アルフォンス殿下も、リリアーナ嬢も、そして会場にいる誰もが、固唾を呑んで私の次の言葉を待っていた。
「この度は、ご婚約、誠におめでとうございます」
にっこりと、完璧な笑みを浮かべて。
「お二人の未来に、神の祝福があらんことを。心よりお祝い申し上げますわ」
私の言葉の意味を理解するのに、数秒かかったのだろう。
アルフォンス殿下は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見ている。リリアーナ嬢は、大きな瞳をさらに大きく見開いて、ぱくぱくと口を動かしていた。
予想していた反応と、あまりにも違ったのだろう。彼らが用意していたであろう「断罪される哀れな悪役令嬢」という舞台は、私のたった一言で、滑稽な茶番劇へと成り代わったのだから。
ホールは再び静寂に包まれた。先ほどとは違う、困惑と呆気に取られたような、奇妙な沈黙だった。
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