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しおりを挟む「ローズお嬢様、またヴォルグ侯爵家からお茶会へのご招待が……」
侍女のアンナが、困惑を隠せない声で告げた。
銀盆に乗せられた一通の招待状。それは、私の婚約者であるアイゼン・ヴォルグ様の家門が刻まれたもの。
「まあ、ご丁寧にどうも。もちろん、出席するわ」
私は優雅に微笑んでみせる。鏡に映る自分は、完璧な淑女の笑みを浮かべていた。
口角を上げ、目元を少しだけ細める。これだけで、本心など誰にも悟られはしない。
「ですがお嬢様、またリリアナ様もご同席されるのでは……。きっと、嫌な思いをなさいます」
アンナの言う通り、ここ最近、アイゼン様が主催するお茶会には、必ずと言っていいほど男爵令嬢のリリアナ・スチュワート様がいた。
婚約者である私を差し置いて、アイゼン様はいつも彼女の隣に座り、甲斐甲斐しく世話を焼く。
「構わないわ。あの方々が仲睦まじいのは、今に始まったことではないでしょう?」
私は平静を装って答える。
そう、今に始まったことではない。
アイゼン様が、田舎から出てきた無骨な辺境伯令嬢である私を疎み、王都育ちで可憐なリリアナ様に惹かれていくのは、貴族たちの間では周知の事実。
『まあ、ご覧になって。ヴォルグ様とリリアナ様、なんてお似合いなのかしら』
『それに比べて、ティール辺境伯令嬢は……いつも仏頂面で、愛想というものを知らないのかしらね』
『アイゼン様がお可哀想だわ。政略結婚とはいえ、あのような方が婚約者では』
夜会に出席すれば、必ず聞こえてくる嘲笑と侮蔑の囁き。
私はその全てを、ただ黙って受け流してきた。
反論しない。言い返さない。感情を見せない。
ただ、そこにいるだけの、冷たくて退屈な悪役令嬢。
それが、今の私の役割なのだから。
「……お嬢様。辛くはございませんか?」
アンナが、私の手をそっと握る。長年仕えてくれている彼女の温かい手に、一瞬だけ心が揺らぎそうになる。
「いいえ、辛くないわ。私はティール辺境伯家の娘ですもの。この程度のことで、心が揺らいだりはしない」
そう、私は国境を守るティール辺境伯家のローズ・ティール。
こんな茶番、我慢できないはずがない。
数日後、私はヴォルグ侯爵家の庭園で開かれたお茶会に出席していた。
案の定、私の席から一番遠い上座には、アイゼン様とリリアナ様の姿がある。
「まあ、アイゼン様!このお菓子、とても美味しいですわ!」
「そうか?お前が喜んでくれて何よりだ。いくらでも食べるといい」
甘ったるい声と、それに答えるアイゼン様の優しい声。
周囲の令嬢たちは、うっとりとした表情で二人を見つめている。
婚約者である私がここにいることなど、誰も気にも留めない。
私は静かにティーカップを口に運ぶ。
紅茶の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
味はしない。
もう長い間、侯爵家で出されるものの味を感じることはなくなっていた。
「……ローズ様も、いらしていたのですね。わたくし、気づきませんでしたわ」
不意に、リリアナ様がこちらを見て言った。
わざとらしく驚いたような表情。その瞳の奥には、優越感が滲んでいる。
「ええ、リリアナ様。ごきげんよう」
私は無表情に返す。
「まあ、怖いお顔。アイゼン様、わたくし、ローズ様に何か失礼をしてしまいましたでしょうか?」
リリアナ様が、アイゼン様の腕にすがりつく。
守ってあげたくなる小動物のような、完璧な仕草だった。
「気にするな、リリアナ。元々こういう女だ。愛想もなければ、気立ても悪い。辺境育ちというのは、これだから困る」
アイゼン様が、吐き捨てるように言った。
その言葉は、ナイフのように鋭く、私の胸に突き刺さる。
……はずだった。
けれど、私の心は凪いでいる。
不思議なほどに、静かだった。
「……申し訳ございません、アイゼン様。わたくしのような者が婚約者で」
私はゆっくりと立ち上がり、深々と淑女の礼をした。
顔を上げた時、私の表情は完璧な無だったはずだ。
「ふん。分かっているなら、少しはリリアナを見習うんだな。お前と違って、彼女は太陽のように明るく、誰からも愛される」
「はい。肝に銘じますわ」
私はもう一度、小さく頭を下げた。
これ以上、ここにいる意味はない。
「それでは皆様、わたくしはこれにて失礼いたします。ごゆっくりお楽しみくださいませ」
誰からの返事も待たず、私は踵を返した。
背中に突き刺さる、好奇と嘲笑の視線を感じながら。
(今日もアイゼン様はリリアナ様とご一緒ね)
馬車に揺られながら、ぼんやりと考える。
(それでいいのよ。どうぞ、もっとあの方に夢中になって)
もっと私を嫌いなさい。
もっと私を疎みなさい。
そして、一刻も早く、私との婚約を破棄してください。
(その時が、あなたたちの終わりであり、私たちの始まり)
私は窓の外に流れる王都の景色を見つめる。
華やかで、享楽的で、そして腐敗した街。
婚約破棄を告げられる、その瞬間まで。
私はただ、黙っていればいい。
全てを胸に秘めて、完璧な悪役令嬢を演じきる。
屋敷に戻り、自室の鍵をかけると、私は隠し戸棚から一つの箱を取り出した。
中には、びっしりと書き込まれた羊皮紙の束。
それは、私がこの数年間、血の滲むような思いで集め続けた、ヴォルグ侯爵家の不正の証拠。
「……お父様、お兄様。もう少しです」
羊皮紙の一枚を手に取り、私は静かに呟いた。
「この『沈黙』が終わる、その時まで」
窓の外では、陽が傾き始めていた。
王都を茜色に染める夕焼けが、まるでこれから起こる嵐の前触れのようだと、私は静かに思った。
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