婚約破棄されるまで黙っていればいいのね?

東山りえる

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ヴォルグ侯爵家から戻った夜、私は足音を忍ばせて兄の書斎を訪れた。
ティール辺境伯家の次期当主である兄、カイ・ティールは、いつも夜遅くまで領地の運営に関する書類仕事に追われている。

「……ローズか。入れ」

扉をノックすると、中から静かだが、張りのある声がした。
許可を得て中に入ると、インクと古い紙の匂いが私を迎える。

「お兄様、夜分に申し訳ありません」

「構わん。お前がこの時間に来るということは、何か進展があったのだろう」

カイ兄様は書類から顔を上げることなく言った。
私たちの間では、もう何度も繰り返されてきた会話だ。

「はい。本日のお茶会でも、アイゼン様はリリアナ様にご執心でしたわ。私のことなど、まるで存在しないかのように」

私は兄の向かいの椅子に腰を下ろす。
この部屋でだけ、私は「悪役令嬢」の仮面を外すことができた。

「そうか。……辛くはないか、ローズ」

ようやく顔を上げた兄の瞳には、優しい光が宿っていた。
私と違い、快活で、誰からも好かれる兄。だが、その本質は誰よりも冷静で、思慮深い。

「平気です。私が辛いかどうかなど、些細なこと。それよりも計画の進捗を」

私は懐から小さな羊皮紙の巻物をいくつか取り出し、机の上に広げた。

「これは、ヴォルグ侯爵家が管理する鉱山から、密かに横流しされた鉱石の取引記録です。そしてこちらが、その取引に関わった商人たちのリスト」

「……よくやった。確かな証拠だ」

兄は一つ一つの書類に目を通し、小さく頷く。

「ですが、まだ足りません。決定的な一打が欲しいのです。侯爵本人を、言い逃れできぬところまで追い詰めるための証拠が」

「焦るな、ローズ。お前の集めた駒は、着実にヴォルグ家を追い詰めている。王都にいる我々の協力者たちも、上手く動いてくれている」

兄の言葉は、いつも私の心を落ち着かせてくれる。
一人ではないのだと、思い出させてくれる。

「無理はするな。お前の心が壊れてしまっては、何の意味もないのだからな」

「……はい、お兄様」

「アイゼンめ、私の可愛い妹をここまで利用するとは。……必ず、報いは受けさせる」

静かな声に宿る怒りの炎に、私は胸が熱くなるのを感じた。

「ええ。必ず。私たちの愛する辺境と、そこに生きる人々を脅かす者は、誰であろうと許さない。そのために、私は喜んで悪役になりましょう」

兄の書斎から下がる時、私の足取りは少しだけ軽くなっていた。
窓の外には、辺境の厳しい夜空が広がっている。
だが、私にはその空に輝く星々が、共に戦う仲間たちの瞳のように見えた。
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