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第7話 ムーン
2 バイロン
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定食屋に会社帰りのサラリーマンは珍しくないが、一見美少女かと思える美少年を連れたそれはまずいない。
だが、人前で喫茶店の窓を叩くことに比べたら、こちらのほうがはるかに気楽だ。一緒に飯を食べているだけで、怪しげなことは何一つしていないのだから。
ただし、食べているのは鬼頭だけである。雅美は異常に小食で――正確には無食なのだが――まず箸を動かすことはない。店の手前、何かしら頼みはするのだが、すぐに鬼頭のほうへと押しやってしまう。鬼頭もそれを計算に入れて、自分の分を注文するようにしていた。
鬼頭が食べている間、雅美はたいてい頬杖をついていて、じっと鬼頭を眺めている。いつだったか、どうしたと訊くと、あんたが食べているのを見ていると本当にうまそうに見えると言った。それなら試しに食べてみろと、無理に食べさせてみたのだが、雅美は口に含んだとたん、まさに苦虫を噛み潰したような顔になった。鬼頭の味覚が人並みなら、決してまずくはない料理でである。
しかし、鬼頭はその後の、雅美の表情のほうをよく覚えている。
やはり自分はこれをまずく感じるのだと、落胆したような、自嘲するような、そんな悲しげな顔をした。
それ以来、鬼頭は雅美に物は食べさせていない。そればかりか、雅美が紅茶を飲めるようなところで食事をしようとさえした。
だが、雅美は自分に合わせる必要はないと拒んだ。それではおまえが退屈だろうと言うと、雅美はこう答えたのである。
――あんたが食べてるのを見てるだけで、俺も食べてるような気分になれるから。
そんなわけで、鬼頭はひたすら食べ、雅美はそれを眺めるのである。
喫茶店のときよりも、今のほうが怪しく見えることなど、まったく思いもかけずに。
「でかい月だな」
店の外に出ると、見事な満月がすぐ目に入って、鬼頭は思わず声に出した。
「そういや、今日は十五夜か。じゃあ、団子でも買って、どこかで月見でもするか?」
「酒は?」
真顔で雅美が訊く。鬼頭はじろりと雅美を睨んだ。
「おまえ一人で飲むんならいいぞ」
「なら、いい」
雅美はあっさり撤回した。一人で酒を飲むのは嫌らしい。鬼頭はとりあえず駅に向かって歩き出した。
雅美とほとんど毎日会うようになってからは、夕食をとって駅で別れるというのがお決まりのコースになっている。飽きるから、店や道順は決めない。行き当たりばったりで歩いているので、なかなか駅にたどりつけなかったり、反対にあっけなく着いてしまったりする。
最近はまずすぐに駅に入れたことはなかった。駅から離れた店を選んでいるせいかもしれないし、寄り道が多いせいかもしれない。しかし、以前より二人の歩行速度が落ちていることには鬼頭は気づいていなかった。
「そういや」
と、鬼頭は口を切った。
「月っていうと、いつも決まって、『火星年代記』思い出すんだよな」
「『火星年代記』? レイ・ブラッドベリのか?」
意外そうに雅美が問い返す。逆に鬼頭のほうが驚いた。
「よく知ってたな……」
「それはこっちのセリフだ。で? それがどう月と関係あるんだ?」
「うん? ああ、あれって短い話がいくつも入ってるだろ? その中に、バイロンが書いたとかいう、月の詩が出てる話があったんだ。……バイロン。知ってるか? イギリスの詩人。どの話だったか、はたまたその話がどういう内容だったかはもう全然覚えてないんだが、その詩だけはえらく印象に残ってね。あとでバイロンの詩集探して、ほんとにその詩が載ってるか調べたんだ。実際ちゃんと載ってたけど」
今夜の鬼頭はいつになく饒舌だった。人を興奮状態にさせるという月の魔力のせいだったかもしれない。雅美もそう思ったのか、いぶかるように彼を見たが、結局それについては触れなかった。
「へえ。……どんな詩だ?」
「ええと……確か、〝われらはもはやさまようまい、月の光のそのなかを〟だったかな。さすがに全部は覚えてないな。でも、俺はバイロンの原文のほうもわざわざ見たんだぜ。何か日本語訳は、意味が通ってないように思えたから」
「じゃあ、その原文のほうは全部覚えているのか?」
雅美にそう水を向けられると、鬼頭は待っていましたとばかりに微笑んだ。そうすると、彼はひどく少年じみて見えた。
「ああ、それだけはな。数学の公式より必死で覚えたんだ」
決して、大きな声ではなかった。だが、不思議とよく響き、周りの雑音にかき消されることはなかった。
雅美はそれを、目を閉じて聞いていた。それでもちゃんと歩いていられたのは、雅美だからと言うより他はない。
しかし、鬼頭が見たときには、雅美はすでに目を開いていた。そして薄く笑って、こんなことを言ったのである。
「へえ、人は見かけによらないな。あんたがそんなロマンチストだとは思わなかった」
「悪かったな、見かけに合ってなくて」
やはり言わないほうがよかったかと鬼頭は後悔した。現に気障だと思われるから、これまで誰にも言ったことはなかった。それなのに、雅美に言ってしまったのは――たぶん、魔がさしたのだろう。
「別に悪いとは言っていない。それで、その詩のどこがそんなに気に入ったんだ?」
「どこがって……そうだな。物悲しいとこかな。しいて言えば」
「物悲しい詩が好きなのか?」
「そういうわけじゃないが……ただ、わかるような気がしたんだ」
「わかる?」
「ああ……何かうまく言えないけど、いつか自分も月の光しかない夜の道を、一人でとぼとぼと歩いたことがあるような……そんな気がしたんだ」
雅美はじっと鬼頭を見つめた。鬼頭は照れくさくなり、あわてて付け加えた。
「まあ、そんなのは俺の錯覚だろうけどな」
だが、雅美は黙ったまま、今度はうつむいてしまった。何が気に障ったのか、さっぱりわからない。鬼頭は困ったあげく、話題の転換をはかった。
「あ、じゃあ、どっか落ち着いて月が見れるところに行かないか? おまえ、いい場所知らないか?」
雅美は我に返ったように顔を上げた。目線を落として思案する。
「そうだな……きっとたいていの場所は、カップルが占拠しているだろうし……」
ふと、雅美の顔に笑みが浮かんだ。目だけでちろりと鬼頭を見上げる。
そのとたん、鬼頭は久々にあの嫌な予感を覚えた。
「そういえば、うってつけの場所がある。ここからも近いし、人も近寄らない。ススキの一本も生えているだろう」
「おい、雅美……大丈夫か?」
おそるおそる訊ねる。
「何が? あんたが俺にいい場所は知らないかと訊いたんだろう?」
「そりゃそうだが……その場所って、もしかして……」
「安心しろ」
と、逆に人を不安にさせるような笑顔で雅美は言った。
「俺がちょくちょく行っているところだ。そんな危ないところじゃない」
「おまえがちょくちょく行ってるってこと自体、充分危ないと思うがな。で、そこってどこなんだ? ここから近いのか?」
「ああ。たぶん、十分も歩けば着くと思う。丘の上にあるから見晴らしもいいぞ」
「丘の上?」
「行くんならさっさと行こう。明日も仕事だろう?」
そう言いながら、雅美はもう歩きはじめている。
「あ、おい! 待てよ!」
どうしても拭いきれない不安はあったが、鬼頭は雅美の後を追った。
だが、人前で喫茶店の窓を叩くことに比べたら、こちらのほうがはるかに気楽だ。一緒に飯を食べているだけで、怪しげなことは何一つしていないのだから。
ただし、食べているのは鬼頭だけである。雅美は異常に小食で――正確には無食なのだが――まず箸を動かすことはない。店の手前、何かしら頼みはするのだが、すぐに鬼頭のほうへと押しやってしまう。鬼頭もそれを計算に入れて、自分の分を注文するようにしていた。
鬼頭が食べている間、雅美はたいてい頬杖をついていて、じっと鬼頭を眺めている。いつだったか、どうしたと訊くと、あんたが食べているのを見ていると本当にうまそうに見えると言った。それなら試しに食べてみろと、無理に食べさせてみたのだが、雅美は口に含んだとたん、まさに苦虫を噛み潰したような顔になった。鬼頭の味覚が人並みなら、決してまずくはない料理でである。
しかし、鬼頭はその後の、雅美の表情のほうをよく覚えている。
やはり自分はこれをまずく感じるのだと、落胆したような、自嘲するような、そんな悲しげな顔をした。
それ以来、鬼頭は雅美に物は食べさせていない。そればかりか、雅美が紅茶を飲めるようなところで食事をしようとさえした。
だが、雅美は自分に合わせる必要はないと拒んだ。それではおまえが退屈だろうと言うと、雅美はこう答えたのである。
――あんたが食べてるのを見てるだけで、俺も食べてるような気分になれるから。
そんなわけで、鬼頭はひたすら食べ、雅美はそれを眺めるのである。
喫茶店のときよりも、今のほうが怪しく見えることなど、まったく思いもかけずに。
「でかい月だな」
店の外に出ると、見事な満月がすぐ目に入って、鬼頭は思わず声に出した。
「そういや、今日は十五夜か。じゃあ、団子でも買って、どこかで月見でもするか?」
「酒は?」
真顔で雅美が訊く。鬼頭はじろりと雅美を睨んだ。
「おまえ一人で飲むんならいいぞ」
「なら、いい」
雅美はあっさり撤回した。一人で酒を飲むのは嫌らしい。鬼頭はとりあえず駅に向かって歩き出した。
雅美とほとんど毎日会うようになってからは、夕食をとって駅で別れるというのがお決まりのコースになっている。飽きるから、店や道順は決めない。行き当たりばったりで歩いているので、なかなか駅にたどりつけなかったり、反対にあっけなく着いてしまったりする。
最近はまずすぐに駅に入れたことはなかった。駅から離れた店を選んでいるせいかもしれないし、寄り道が多いせいかもしれない。しかし、以前より二人の歩行速度が落ちていることには鬼頭は気づいていなかった。
「そういや」
と、鬼頭は口を切った。
「月っていうと、いつも決まって、『火星年代記』思い出すんだよな」
「『火星年代記』? レイ・ブラッドベリのか?」
意外そうに雅美が問い返す。逆に鬼頭のほうが驚いた。
「よく知ってたな……」
「それはこっちのセリフだ。で? それがどう月と関係あるんだ?」
「うん? ああ、あれって短い話がいくつも入ってるだろ? その中に、バイロンが書いたとかいう、月の詩が出てる話があったんだ。……バイロン。知ってるか? イギリスの詩人。どの話だったか、はたまたその話がどういう内容だったかはもう全然覚えてないんだが、その詩だけはえらく印象に残ってね。あとでバイロンの詩集探して、ほんとにその詩が載ってるか調べたんだ。実際ちゃんと載ってたけど」
今夜の鬼頭はいつになく饒舌だった。人を興奮状態にさせるという月の魔力のせいだったかもしれない。雅美もそう思ったのか、いぶかるように彼を見たが、結局それについては触れなかった。
「へえ。……どんな詩だ?」
「ええと……確か、〝われらはもはやさまようまい、月の光のそのなかを〟だったかな。さすがに全部は覚えてないな。でも、俺はバイロンの原文のほうもわざわざ見たんだぜ。何か日本語訳は、意味が通ってないように思えたから」
「じゃあ、その原文のほうは全部覚えているのか?」
雅美にそう水を向けられると、鬼頭は待っていましたとばかりに微笑んだ。そうすると、彼はひどく少年じみて見えた。
「ああ、それだけはな。数学の公式より必死で覚えたんだ」
決して、大きな声ではなかった。だが、不思議とよく響き、周りの雑音にかき消されることはなかった。
雅美はそれを、目を閉じて聞いていた。それでもちゃんと歩いていられたのは、雅美だからと言うより他はない。
しかし、鬼頭が見たときには、雅美はすでに目を開いていた。そして薄く笑って、こんなことを言ったのである。
「へえ、人は見かけによらないな。あんたがそんなロマンチストだとは思わなかった」
「悪かったな、見かけに合ってなくて」
やはり言わないほうがよかったかと鬼頭は後悔した。現に気障だと思われるから、これまで誰にも言ったことはなかった。それなのに、雅美に言ってしまったのは――たぶん、魔がさしたのだろう。
「別に悪いとは言っていない。それで、その詩のどこがそんなに気に入ったんだ?」
「どこがって……そうだな。物悲しいとこかな。しいて言えば」
「物悲しい詩が好きなのか?」
「そういうわけじゃないが……ただ、わかるような気がしたんだ」
「わかる?」
「ああ……何かうまく言えないけど、いつか自分も月の光しかない夜の道を、一人でとぼとぼと歩いたことがあるような……そんな気がしたんだ」
雅美はじっと鬼頭を見つめた。鬼頭は照れくさくなり、あわてて付け加えた。
「まあ、そんなのは俺の錯覚だろうけどな」
だが、雅美は黙ったまま、今度はうつむいてしまった。何が気に障ったのか、さっぱりわからない。鬼頭は困ったあげく、話題の転換をはかった。
「あ、じゃあ、どっか落ち着いて月が見れるところに行かないか? おまえ、いい場所知らないか?」
雅美は我に返ったように顔を上げた。目線を落として思案する。
「そうだな……きっとたいていの場所は、カップルが占拠しているだろうし……」
ふと、雅美の顔に笑みが浮かんだ。目だけでちろりと鬼頭を見上げる。
そのとたん、鬼頭は久々にあの嫌な予感を覚えた。
「そういえば、うってつけの場所がある。ここからも近いし、人も近寄らない。ススキの一本も生えているだろう」
「おい、雅美……大丈夫か?」
おそるおそる訊ねる。
「何が? あんたが俺にいい場所は知らないかと訊いたんだろう?」
「そりゃそうだが……その場所って、もしかして……」
「安心しろ」
と、逆に人を不安にさせるような笑顔で雅美は言った。
「俺がちょくちょく行っているところだ。そんな危ないところじゃない」
「おまえがちょくちょく行ってるってこと自体、充分危ないと思うがな。で、そこってどこなんだ? ここから近いのか?」
「ああ。たぶん、十分も歩けば着くと思う。丘の上にあるから見晴らしもいいぞ」
「丘の上?」
「行くんならさっさと行こう。明日も仕事だろう?」
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