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第7話 ムーン
1 ウィンドー
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最近の鬼頭の退社後の日課は、夜の雑踏をかき分けて走ることだった。
別に待たせたところでどうということもない相手なのである。それどころか、一緒に帰ろうなどと約束した覚えもない。いつも向こうが勝手に待っているだけだ。
だが、待っていると思うと、つい待たせては悪いなと考えてしまう。我ながら、自分の人のよさに呆れてしまう。
呆れてしまうが、走るのはやめない。鬼頭が立ち止まるのは、会社からかなり離れたところにある喫茶店のウィンドーの前でである。そして、迷うことなく、窓際のいちばん奥の席の横のガラスを拳で叩く。
小憎らしいことにこの相手は、たとえどんなに待っていたとしても、少しもほっとした様子を見せない。わざとではないかと思えるくらいゆっくりと鬼頭に目を巡らせ、まるで何か嫌なものでも見たかのように、ふいと顔をそむけて席を立つ。おそらく、また〝紅茶〟としか書かれていない伝票を持って会計を済ませると、外へ出てきて鬼頭の前に現れる。
「遅い」
開口一番、その相手――霧河雅美は言った。黙っていれば美女でも通る顔をしているが、話す声は意外に低く、表情は少ない。季節を問わず、いつも黒いコートに身を包んでいる。
自称〝予備校生〟だそうだが、鬼頭は常々それを疑わしく思っていた。この少年が机に向かって勉強している姿など、とても想像できない。墓場で幽霊に向かっているならともかく。
「もう七時過ぎてるぞ。おかげで俺は紅茶を三杯も飲む羽目になった」
例によって淡々とした調子である。少しは申し訳ないと思っていた鬼頭も、この言い草にはむっとした。
「だから、無理して待ってなくていいって言ってるだろうが」
もちろん、〝待つな〟とも言っていない。そこが鬼頭の弱いところだった。
「いつもいつも定時に上がれるとは限らないんだよ。おまえ、今度携帯買え。そしたら、ここで紅茶飲んでなくても済むぞ」
「……別に、紅茶を飲むのが嫌なわけじゃない」
紅茶と酒しか飲めない雅美は、そう言って長い睫にふちどられた目を伏せた。
「じゃあ、何だよ?」
「俺に待たれるのは迷惑か」
――うっ!
いきなり、痛いところを突かれてしまった。
迷惑でないと言ったら嘘になる。数週間前、会社前で雅美に待たれていたときには、それこそ、肝を潰した。
なぜここがと思ったが、実は鬼頭は雅美と初めて会ったときに、自分から名刺を渡していたのだった。
なぜそんなことをしたのかと後悔してみても、今さら返せとも忘れてくれとも言えない。とにかく、会社の人間に見られるのはまずいから、待つならここにしてくれと、鬼頭は自らこの喫茶店を指定してしまったのだった。
つまり、鬼頭が休日以外、毎日ここへ走ってこなければならなくなったのは、まったく鬼頭自身のせいだった。
はっきりと取り決めたわけではなかったから、まさか待ってはいないだろうと思ったのだが、翌日、念のためにここへ来てみると、雅美が今日のように悠々と紅茶を飲んでいたのだった。
この時点で、鬼頭は雅美に携帯電話を持たせておくべきだった。まさか今日はいまい、今日はいないだろうと覗きにくるうちに、いつのまにかここで待ち合わせをすることになってしまっていた。
最初のうちは中まで入っていたのだが、周囲の好奇の視線に耐えかね、外からガラスを叩くようになった。それでも、毎日のようにそれを繰り返していれば、充分人目を引いてしまう。そして、確実に誤解されるのだ。恋人同士だと。
「いや、迷惑なわけじゃないんだけど……」
言葉を濁して鬼頭は頭を掻いた。どうしても、雅美を突き放すことができない。そうと知ってか、だんだん雅美も狡猾になってきた。
ほんのちょっと前までは、鬼頭に拒まれるのが怖くて、〝迷惑か〟などとは言えずにいたのである。それが今ではどうだ。調子に乗りやがって、というのが鬼頭の偽らざる心情である。
時々、〝もう二度と会いたくない〟と言ってやろうかとも思う。が、結局実行には至っていないのは、あまり認めたくはないが、本気で雅美に会いたくないとは思っていないからだろう。つきまとわれて迷惑だと思いつつ、そんな彼を可愛いとも思っている。ただ――世間体というものが気になるだけだ。
まったく、それだけだった。
雅美が何か得体の知れない力を持っていること、その正体がはっきりしない――年齢も見かけどおりではないらしい――ことなど、鬼頭はさして、というか、ほとんど意にも介していなかった。彼にとって雅美とは、〝変わった特技を持つひねくれた子供〟であり、それ以上でも以下でもなかったのである。
しかし、その一方で鬼頭は困惑していた。そんな雅美が、なぜ自分と一緒にいたがるのか。
――こいつは俺に恋しているのだろうか。
そう思ったこともある。
だが、これにはすぐに、鬼頭の頭のほうが拒絶反応を起こした。たとえどんなに雅美が美しくても、とてもそんな気にはなれない。もし雅美が少しでもそのようなそぶりを見せたら、そのときこそ〝もう二度と会わない〟と宣告し、すみやかに逃げ去るつもりだった。
それを見越しているのかいないのか。雅美は今のところ、鬼頭と一緒に夜の街をうろつくだけで満足しているように見える。恋――というよりは、ただ純粋に誰かと一緒にいるのが嬉しくて、はしゃいでいるように思えた。だから鬼頭も雅美をそう邪険にはできなかったのである。
「いや、いい」
このときも、鬼頭はそれ以上の発言はあきらめて、スラックスのポケットに手を突っこんだ。
「とにかく、携帯買ってくれ。俺が残業のときなんか、連絡つかないからさ。金がないんなら俺が出す。でもまあ、今は飯食いに行こう。腹減ってるんだ」
「……金ならある」
心外そうに雅美は眉をひそめた。詳しく訊いたことはないが、雅美の実家は金持ちらしい。
「なら、自分で買えるな?」
「あんた、俺に携帯持たせたら、毎日今日は会えないと言うつもりだな?」
やっぱり嫌な奴だと鬼頭は思った。
せめて、週に一、二度にしようと思っていたのに。
別に待たせたところでどうということもない相手なのである。それどころか、一緒に帰ろうなどと約束した覚えもない。いつも向こうが勝手に待っているだけだ。
だが、待っていると思うと、つい待たせては悪いなと考えてしまう。我ながら、自分の人のよさに呆れてしまう。
呆れてしまうが、走るのはやめない。鬼頭が立ち止まるのは、会社からかなり離れたところにある喫茶店のウィンドーの前でである。そして、迷うことなく、窓際のいちばん奥の席の横のガラスを拳で叩く。
小憎らしいことにこの相手は、たとえどんなに待っていたとしても、少しもほっとした様子を見せない。わざとではないかと思えるくらいゆっくりと鬼頭に目を巡らせ、まるで何か嫌なものでも見たかのように、ふいと顔をそむけて席を立つ。おそらく、また〝紅茶〟としか書かれていない伝票を持って会計を済ませると、外へ出てきて鬼頭の前に現れる。
「遅い」
開口一番、その相手――霧河雅美は言った。黙っていれば美女でも通る顔をしているが、話す声は意外に低く、表情は少ない。季節を問わず、いつも黒いコートに身を包んでいる。
自称〝予備校生〟だそうだが、鬼頭は常々それを疑わしく思っていた。この少年が机に向かって勉強している姿など、とても想像できない。墓場で幽霊に向かっているならともかく。
「もう七時過ぎてるぞ。おかげで俺は紅茶を三杯も飲む羽目になった」
例によって淡々とした調子である。少しは申し訳ないと思っていた鬼頭も、この言い草にはむっとした。
「だから、無理して待ってなくていいって言ってるだろうが」
もちろん、〝待つな〟とも言っていない。そこが鬼頭の弱いところだった。
「いつもいつも定時に上がれるとは限らないんだよ。おまえ、今度携帯買え。そしたら、ここで紅茶飲んでなくても済むぞ」
「……別に、紅茶を飲むのが嫌なわけじゃない」
紅茶と酒しか飲めない雅美は、そう言って長い睫にふちどられた目を伏せた。
「じゃあ、何だよ?」
「俺に待たれるのは迷惑か」
――うっ!
いきなり、痛いところを突かれてしまった。
迷惑でないと言ったら嘘になる。数週間前、会社前で雅美に待たれていたときには、それこそ、肝を潰した。
なぜここがと思ったが、実は鬼頭は雅美と初めて会ったときに、自分から名刺を渡していたのだった。
なぜそんなことをしたのかと後悔してみても、今さら返せとも忘れてくれとも言えない。とにかく、会社の人間に見られるのはまずいから、待つならここにしてくれと、鬼頭は自らこの喫茶店を指定してしまったのだった。
つまり、鬼頭が休日以外、毎日ここへ走ってこなければならなくなったのは、まったく鬼頭自身のせいだった。
はっきりと取り決めたわけではなかったから、まさか待ってはいないだろうと思ったのだが、翌日、念のためにここへ来てみると、雅美が今日のように悠々と紅茶を飲んでいたのだった。
この時点で、鬼頭は雅美に携帯電話を持たせておくべきだった。まさか今日はいまい、今日はいないだろうと覗きにくるうちに、いつのまにかここで待ち合わせをすることになってしまっていた。
最初のうちは中まで入っていたのだが、周囲の好奇の視線に耐えかね、外からガラスを叩くようになった。それでも、毎日のようにそれを繰り返していれば、充分人目を引いてしまう。そして、確実に誤解されるのだ。恋人同士だと。
「いや、迷惑なわけじゃないんだけど……」
言葉を濁して鬼頭は頭を掻いた。どうしても、雅美を突き放すことができない。そうと知ってか、だんだん雅美も狡猾になってきた。
ほんのちょっと前までは、鬼頭に拒まれるのが怖くて、〝迷惑か〟などとは言えずにいたのである。それが今ではどうだ。調子に乗りやがって、というのが鬼頭の偽らざる心情である。
時々、〝もう二度と会いたくない〟と言ってやろうかとも思う。が、結局実行には至っていないのは、あまり認めたくはないが、本気で雅美に会いたくないとは思っていないからだろう。つきまとわれて迷惑だと思いつつ、そんな彼を可愛いとも思っている。ただ――世間体というものが気になるだけだ。
まったく、それだけだった。
雅美が何か得体の知れない力を持っていること、その正体がはっきりしない――年齢も見かけどおりではないらしい――ことなど、鬼頭はさして、というか、ほとんど意にも介していなかった。彼にとって雅美とは、〝変わった特技を持つひねくれた子供〟であり、それ以上でも以下でもなかったのである。
しかし、その一方で鬼頭は困惑していた。そんな雅美が、なぜ自分と一緒にいたがるのか。
――こいつは俺に恋しているのだろうか。
そう思ったこともある。
だが、これにはすぐに、鬼頭の頭のほうが拒絶反応を起こした。たとえどんなに雅美が美しくても、とてもそんな気にはなれない。もし雅美が少しでもそのようなそぶりを見せたら、そのときこそ〝もう二度と会わない〟と宣告し、すみやかに逃げ去るつもりだった。
それを見越しているのかいないのか。雅美は今のところ、鬼頭と一緒に夜の街をうろつくだけで満足しているように見える。恋――というよりは、ただ純粋に誰かと一緒にいるのが嬉しくて、はしゃいでいるように思えた。だから鬼頭も雅美をそう邪険にはできなかったのである。
「いや、いい」
このときも、鬼頭はそれ以上の発言はあきらめて、スラックスのポケットに手を突っこんだ。
「とにかく、携帯買ってくれ。俺が残業のときなんか、連絡つかないからさ。金がないんなら俺が出す。でもまあ、今は飯食いに行こう。腹減ってるんだ」
「……金ならある」
心外そうに雅美は眉をひそめた。詳しく訊いたことはないが、雅美の実家は金持ちらしい。
「なら、自分で買えるな?」
「あんた、俺に携帯持たせたら、毎日今日は会えないと言うつもりだな?」
やっぱり嫌な奴だと鬼頭は思った。
せめて、週に一、二度にしようと思っていたのに。
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