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第6話 ドランカー
4 悪夢化
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可奈の言う〝公園〟とは、遊具といえばブランコと砂場くらいしかない、ごく小さなものだった。
幸いにして、カップルなどの先客もおらず、三人は街灯の近くにあるベンチを無事陣取ることができた。
「櫛があったら、もっときれいにできるんだけどな」
そう言いながらも、鬼頭は慣れた手つきで、可奈の髪を編んでいった。
こうしてじかに触ってみても、生きている人間のものとまるで変わりない。サラサラとした手触りのいい髪だ。
本当にこの可奈は幽霊なのか。ただの変わり者の少女ではないのか。編みながら、鬼頭はそんなことを考えていた。
「ほう、うまいもんだな」
ベンチの後ろから覗きこんでいた雅美が感心したように言う。
「まあ、妹が小さいときには、俺がよく編んでやってたからな」
自慢するわけでもなくそう応じると、雅美は驚いたような声を上げた。
「あんた、妹がいたのか」
「ついでに、弟もいるぞ」
「へえ。一緒に暮らしてはいないのか?」
「うん? ああ、妹は東京で一人暮らししてて、弟はまだ田舎にいるよ」
「へえ」
何が面白いのか、雅美はひたすら感心している。
そういえば、雅美にこんな話をしたのは初めてだった。別に話したくなかったわけではなくて、訊かれなかったから話さなかっただけなのだが、こういうことは故意に話そうとしなければ、いつまでたっても話せないものなのかもしれない。
「おまえこそ――」
家族はどうなっているのかと訊きかけたときだった。
「ゴム紐、もう一つあるのか?」
それを制するように、雅美が可奈に訊ねた。
「ううん。持ってない」
可奈はぷるぷると頭を左右に振った。それを聞いて、鬼頭は今、自分が可奈の髪を束ねるものを何も持っていないことに今さらながら気がついた。
「じゃあ、コンビニ行って買ってくるか」
そう言って、ベンチから立ち上がりかけたが。
「なら、俺が買ってくる」
思いもかけなかったことに、雅美がその役を買って出てきた。
「おまえ、財布は持ってるのか?」
何よりもまず、そのことが気になった。
「あんた、俺を何だと思ってるんだ?」
さすがに雅美はむっとしたような顔をしたが、それ以上は何も言わず、さっさとベンチを離れた。どうやら財布は持っているようだ。
だが、いずれにしろ、雅美がコンビニでゴム紐を買っている姿は、鬼頭には想像できなかった。
「おじさんは、いつから雅美とお友達なの?」
雅美が公園を出たのとほぼ同時に、可奈がそう訊ねてきた。
雅美の前では遠慮してくれていたらしい。本当に聡い少女である。ただし幽霊だが。
「うーん……今年の三月からかな」
まだ二十七で〝おじさん〟と呼ばれるのは少々不本意だったが、鬼頭は可奈の髪を握ったまま正直に答えた。
「じゃあ、これからもずっとお友達でいてあげてね。雅美ね、今までずっと一人だったの」
「……君はいつから雅美を知ってるの?」
それは鬼頭が最初から思っていたことだった。
「わかんない。でも、死んでからよ。気がついたら、雅美がそばにいたの」
「そばに?」
「うん。……この公園ね。昔、あたしがよく遊んだ公園なの。轢かれたのも、ここからの帰りだった。だから来ちゃったんだけど、誰もあたしに気がつかないのね。でも、雅美だけはあたしに気がついて、何て言ったかもう忘れちゃったけど、とにかく声かけてくれたの。それから、いつもじゃないけどここに来て、あたしとおしゃべりしてくれるようになったのよ。……最近はずっと来なかったけど」
ここで可奈は意味ありげに笑い、くりっとした目で鬼頭を見た。
鬼頭は何となく居心地が悪くなり、あらぬ方向を見た。
「でもね。あたし、雅美のこと好きよ」
可奈は再び前に向き直って、誰もいない無人の公園を眺めた。
草むらで鳴く虫の声が、ひときわ大きく聞こえる。
「生きてたときに会ってたら、きっと怖かったと思うけど、あたしはもう死んでるから、雅美のこと、わかるの。ねえ、おじさんは? おじさんは、雅美のこと好き?」
――〝好き〟。
ありふれた、しかし、それしかない言葉。
かつては、自分もこの少女のように、無邪気に言えたはずだった。
それなのに、いつからそうではなくなってしまったのだろう。妙なためらいを覚えて、他の言葉に置き換えるようになってしまったのだろう。
〝好き〟という気持ちは、〝好き〟という言葉でしか表現できないのに。
「おじさん? 聞いてるの?」
いっこうに答えようとしない鬼頭に、可奈が苛立った声を上げる。
それで、鬼頭は今夜二度目の困った質問を突きつけられていることにようやく気づいた。
「そうだなあ……嫌いだったら、ここにはいなかっただろうなあ……」
我知らず、苦笑が漏れた。
結局のところ、それほど自分は雅美を嫌ってはいないのだ。ここまできたら、そう認めざるを得ない。
だが、鬼頭のこの返事は、可奈のお気には召さなかったようだ。
「もう、はっきりしてよ! 好きなの? 嫌いなの?」
鬼頭の手を振りほどかんばかりの勢いで、キッと鬼頭を睨みつける。
「嫌いじゃないよ」
動じず鬼頭は答える。その様子に、さらに怒ったように可奈は叫んだ。
「じゃあ、はっきり『好き』って言いなさいよ!」
「それはちょっと……」
やはり、抵抗がある。
「でも――もう、嫌いにはなれないな」
可奈はきょとんとした顔になって、目をぱちくりさせた。
「おじさん」
「うん?」
「もしかして……〝お友達〟じゃなくて、〝恋人〟なの?」
何とか可奈の髪をつかみつづけていた鬼頭は、そこでとうとう離してしまった。
「何で急にそうなるの?」
「えー、何かそう思ったから。……違うの?」
「違いますっ!」
「なーんだ。つまんないの」
わざとらしく唇をとがらせて、可奈は黒いスニーカーを履いた足をぶらぶらさせる。
「つまんないのって……」
鬼頭は呆れて絶句した。たとえ子供でも、女の考えることは恐ろしい。
「買ってきたぞ」
いきなり、そんな声がした。
「……おまえ、足音くらい立てろよ」
無理に平静を装って、鬼頭は背後を振り返った。
「あんたが気づかなかっただけだ」
心外なとでも言いたげに、雅美が細い眉をひそめる。それ以上何も言わないところをみると、今の会話は雅美の耳には入らなかったようだ。鬼頭は勝手にそう思い、ほっと胸を撫で下ろした。
「どの色がいいのかわからないから、とりあえず、全部買ってきた。どれがいい?」
雅美はコートのポケットからゴム紐の入った小袋をいくつか取り出すと、鬼頭の目の前に突き出した。
「じゃあ、その茶色いの」
と、鬼頭はそれを取ろうとしたが、その前に雅美がさっと引っこめた。
「俺が開けておく」
そっけなく雅美は言った。
「その間に、あんたはそいつの髪を編み直したらどうだ?」
「あ、ああ……」
言われるまま鬼頭はうなずき、先ほど離してしまった可奈の髪を手に取った。
どうも変だ。
いや、雅美の言動はもっともなのだが、雅美にそうされると、何か奇妙に感じてしまう。正直言って、不気味だ。
一方、可奈は黙って鬼頭に髪をゆだねていた。が、わずかに見えるその顔は明らかににやにやしている。ということは、そういうことらしい。鬼頭はいよいよ複雑な気分になった。
「ほら、できた」
最後に雅美から渡されたゴム紐で髪を縛り、そっと手を離す。
「鏡も買ってくればよかったね。出来が気になるだろ?」
そう訊くと、可奈は振り返ってくすっと笑った。
「そうね。でも、あたし幽霊だから、鏡に映らないの」
「あ、そうか。……ごめん」
可奈は驚いたように目を見張ったが、また屈託なく笑った。
「どうして謝るの? 変なおじさん」
「変なおじさん……」
「ね、雅美。ちゃんとなってる? なってる?」
ショックを受けている鬼頭にかまわず、可奈はベンチの後ろに立ったままの雅美を見上げた。
「ああ、なってる。元どおりだ」
無愛想だが生真面目に雅美が答える。可奈は嬉しそうに笑ったが、やがてその笑みは消え、思いつめたような表情になった。
「あたし、食べられてもよかったのに」
可奈の呟きに、鬼頭はぎょっとした。可奈のぱっちりとした目は、まっすぐ雅美に向けられている。
「おまえには、もっと人生経験が必要だ」
そう言う雅美は少し苦笑しているように見えた。
「向こうへ行って、また戻ってこい」
可奈は何も言わなかった。ただ悲しそうに笑った。雅美にそう言われることは、すでにわかりきっていたかのように。
しかし、鬼頭にはさっぱりわけがわからない。〝食べる〟とはいったいどういう意味だ? 〝向こう〟とはいったいどこか? 可奈の〝人生経験〟など、もう終わっているではないか。
「じゃあ、おじさん。あたし、もう行くね」
唐突に可奈はベンチから飛び降りた。そのせいで、鬼頭は今の二人の会話の意味を訊ねそこねた。
「髪の毛、編んでくれてありがとう。雅美とずっと仲よしでいてね」
そう言って、鬼頭に小さく手を振る。
「え? あ……うん」
つられて鬼頭は手を振りかけたが、はたと気づいて動きを止めた。
――可奈に〝手〟?
「じゃあね、雅美。また会えたらいいね」
いつのまにか両手のそろった可奈は、今度は笑いながら雅美に手を振り、公園の奥のほうに向かって走り出した。
手こそ振らなかったものの、おさげを揺らして駆けていく可奈を、雅美はずっと目で追っていた。
鬼頭も見るともなく可奈を見ていたが、すぐにあっと声を上げた。
可奈は見る間に透き通っていき、ついには、空気の中に溶けこんでいくようにして消えてしまったのである。
それを見届けてから、雅美は可奈が消えたあたりまで歩いていって、地面から何かを拾い上げた。
雅美の後を追った鬼頭が脇から覗いてみると、それは先ほど可奈の髪につけたはずの、あの茶色いゴム紐だった。髪からそのまま抜き取ったかのように丸くなっている。
右手の中のそれを、雅美はしばらくじっと眺めていた。と、そこから白い炎が上がり、一瞬後には消えた。雅美の白い手には火傷ひとつなく、あのゴム紐も跡形もなかった。
「あの子……行っちまったのか?」
何となく、鬼頭は可奈が走っていった方向にあるブランコを見やった。実際に目にしたことはないが、そこで可奈がブランコの鎖を両手でしっかりと握って遊んでいるような気がして。
「霊の留まる理由は様々だが、たいてい案外単純なものだ」
鬼頭の問いに、雅美はそういう答え方をした。右手はもういつものようにポケットの中に収まっている。
「おまえ、ほんとに三つ編みできなかったのか?」
冷やかしでそう訊ねると、雅美はかすかに眉をひそめた。が、結局何も言わなかった。図星だったらしい。
思わず笑ってしまったが、しかし、鬼頭はそれ以上は突っこまないことにした。誰にでも触れられたくないところはある。
――と鬼頭は思っていたのだが、よくよく考えてみれば、なぜ雅美は今になって可奈の髪を編む気になったのかという問題があった。
もしかしたら、鬼頭は無意識のうちに、この問題に直面することを避けたのかもしれない。真実はともかく、鬼頭は雅美に別のことを訊いた。
「おまえ、他にもああいう幽霊の〝お友達〟がいるのか?」
「いると言えばいる」
今度はすぐにそう答えた。
「生きてる人間の〝お友達〟はいないのか?」
あくまで皮肉のつもりだった。
案の定、雅美は無言で鬼頭を見やったが、その目は決して怒ってはいなかった。ただ純粋に鬼頭を見ているだけである。――いや、少しばかり、期待に近いものがあるような……
「もしかして、俺か?」
黙殺するわけにもいかず、鬼頭は自分からそう言った。雅美は困ったように眉根をわずかに寄せたが、やはり黙ったままだった。
以前までの雅美だったら、あの冷ややかな笑みと共に、〝馬鹿を言うな〟とでも言って、すぐさま否定していただろう。かといって、素直にうなずくことも、遠慮がちに〝迷惑か?〟と訊ねることもできないのだ。鬼頭に拒絶されるのが怖いから。
(ま、いいか)
根負けして、鬼頭は苦笑いを浮かべた。
(とりあえず、〝お友達〟くらいなら)
雅美が鬼頭に突き放されることを恐れているなら、鬼頭は雅美を傷つけることを恐れている。となればもう、鬼頭のほうが折れるしかない。だが、口に出しては何も言わなかった。改まって〝友達になろう〟と言うのも、何だか妙な気がしたので。
一方、雅美は相変わらず黙ったままだった。が、突然、
「俺、さっき、何かあんたの質問に答えようとしていなかったか?」
と訊ねてきた。
「さっき? 今じゃなくて?」
「うん。可奈に話しかけられる前」
そう言われて、鬼頭はしばし上を見た。思い出すためである。確か、何かとんでもないことを訊いてしまったような――
(そうだった)
思い出せなければいいのに、鬼頭は思い出してしまった。
あのとき、ついうっかり口がすべって、雅美に自分のことが好きなのかと訊いてしまったのだ。そして、それに雅美が答えようとした、まさにそのとき、可奈が現れたのだった。
しかし、ひそかに雅美の様子を窺ってみると、彼は眉をひそめて考えこんでいるようだった。しらばっくれているわけではなく、本当に忘れてしまったらしい。ラッキーと鬼頭は思った。
「いや、そんなことはないよ」
ここぞとばかりに鬼頭は笑った。かつてこの笑顔で丸めこめなかった人間はいない。
「きっとおまえの勘違いだよ。自覚ないだろうけど、今、酔ってるからさ」
「……そうか?」
首をひねりながらも、雅美は信じそうな気配を見せた。すかさずそこに畳みかける。
「そうそう。それより俺、腹が減ってるんだ。これからラーメン屋にでも行かないか? な?」
鬼頭の勢いに雅美は押されたようだったが、ふいにその口元をゆるませた。
「今度は煙草の臭いのしないところがいいな」
「禁煙席のあるラーメン屋? それはちょっと難しいな」
だが、ごまかすことにはどうやら成功したようだ。鬼頭は内心ほっとしつつ、公園の入り口に向かって歩き出した。それに雅美が当然のようについてくる。
「雅美。おまえ、紅茶しか飲めないんだったよな?」
「酒も飲めるぞ」
明らかに笑いを含んだ雅美の声音に、鬼頭は思いきり顔をしかめた。
「酒は駄目だ。せめて大学受かってからにしろ――と、そんなことが言いたかったんじゃない」
「じゃあ、何?」
「え、ああ、普通、ラーメン屋に紅茶はないから、ファミレスに変更しようかと……ファミレスなら禁煙席もあるし」
雅美はじっと鬼頭を見た。鬼頭は照れくさくなり、あわてて顔をそらせた。
「何だよ、その目は」
「別に」
淡く雅美は笑った。
「ただ、あんたも酔ってるんじゃないかと思っただけだ」
――そうかもしれない。
思わず、鬼頭も笑った。
今夜のことは、最初から酔って見ている夢なのかもしれない。だから、雅美がいきなり現れて、自分のことが嫌いかと訊ねてきたりするのかもしれない。
「じゃあ、せめて会計が済むまでは、酔いが醒めないことを祈ってるんだな」
軽い気持ちで鬼頭は言った。また雅美が皮肉を返してくることを期待して。
「ああ、祈ってるよ」
この返事を聞いたとき、鬼頭は満足しかけた。しかし、これには続きがあったのだ。
「祈ってる。――あんたの酔いが、一生醒めないことを」
――夢ならどうか覚めてくれ。
たとえ雅美のことは嫌いでなくとも、鬼頭はそう願わずにはいられなかった。
―END―
幸いにして、カップルなどの先客もおらず、三人は街灯の近くにあるベンチを無事陣取ることができた。
「櫛があったら、もっときれいにできるんだけどな」
そう言いながらも、鬼頭は慣れた手つきで、可奈の髪を編んでいった。
こうしてじかに触ってみても、生きている人間のものとまるで変わりない。サラサラとした手触りのいい髪だ。
本当にこの可奈は幽霊なのか。ただの変わり者の少女ではないのか。編みながら、鬼頭はそんなことを考えていた。
「ほう、うまいもんだな」
ベンチの後ろから覗きこんでいた雅美が感心したように言う。
「まあ、妹が小さいときには、俺がよく編んでやってたからな」
自慢するわけでもなくそう応じると、雅美は驚いたような声を上げた。
「あんた、妹がいたのか」
「ついでに、弟もいるぞ」
「へえ。一緒に暮らしてはいないのか?」
「うん? ああ、妹は東京で一人暮らししてて、弟はまだ田舎にいるよ」
「へえ」
何が面白いのか、雅美はひたすら感心している。
そういえば、雅美にこんな話をしたのは初めてだった。別に話したくなかったわけではなくて、訊かれなかったから話さなかっただけなのだが、こういうことは故意に話そうとしなければ、いつまでたっても話せないものなのかもしれない。
「おまえこそ――」
家族はどうなっているのかと訊きかけたときだった。
「ゴム紐、もう一つあるのか?」
それを制するように、雅美が可奈に訊ねた。
「ううん。持ってない」
可奈はぷるぷると頭を左右に振った。それを聞いて、鬼頭は今、自分が可奈の髪を束ねるものを何も持っていないことに今さらながら気がついた。
「じゃあ、コンビニ行って買ってくるか」
そう言って、ベンチから立ち上がりかけたが。
「なら、俺が買ってくる」
思いもかけなかったことに、雅美がその役を買って出てきた。
「おまえ、財布は持ってるのか?」
何よりもまず、そのことが気になった。
「あんた、俺を何だと思ってるんだ?」
さすがに雅美はむっとしたような顔をしたが、それ以上は何も言わず、さっさとベンチを離れた。どうやら財布は持っているようだ。
だが、いずれにしろ、雅美がコンビニでゴム紐を買っている姿は、鬼頭には想像できなかった。
「おじさんは、いつから雅美とお友達なの?」
雅美が公園を出たのとほぼ同時に、可奈がそう訊ねてきた。
雅美の前では遠慮してくれていたらしい。本当に聡い少女である。ただし幽霊だが。
「うーん……今年の三月からかな」
まだ二十七で〝おじさん〟と呼ばれるのは少々不本意だったが、鬼頭は可奈の髪を握ったまま正直に答えた。
「じゃあ、これからもずっとお友達でいてあげてね。雅美ね、今までずっと一人だったの」
「……君はいつから雅美を知ってるの?」
それは鬼頭が最初から思っていたことだった。
「わかんない。でも、死んでからよ。気がついたら、雅美がそばにいたの」
「そばに?」
「うん。……この公園ね。昔、あたしがよく遊んだ公園なの。轢かれたのも、ここからの帰りだった。だから来ちゃったんだけど、誰もあたしに気がつかないのね。でも、雅美だけはあたしに気がついて、何て言ったかもう忘れちゃったけど、とにかく声かけてくれたの。それから、いつもじゃないけどここに来て、あたしとおしゃべりしてくれるようになったのよ。……最近はずっと来なかったけど」
ここで可奈は意味ありげに笑い、くりっとした目で鬼頭を見た。
鬼頭は何となく居心地が悪くなり、あらぬ方向を見た。
「でもね。あたし、雅美のこと好きよ」
可奈は再び前に向き直って、誰もいない無人の公園を眺めた。
草むらで鳴く虫の声が、ひときわ大きく聞こえる。
「生きてたときに会ってたら、きっと怖かったと思うけど、あたしはもう死んでるから、雅美のこと、わかるの。ねえ、おじさんは? おじさんは、雅美のこと好き?」
――〝好き〟。
ありふれた、しかし、それしかない言葉。
かつては、自分もこの少女のように、無邪気に言えたはずだった。
それなのに、いつからそうではなくなってしまったのだろう。妙なためらいを覚えて、他の言葉に置き換えるようになってしまったのだろう。
〝好き〟という気持ちは、〝好き〟という言葉でしか表現できないのに。
「おじさん? 聞いてるの?」
いっこうに答えようとしない鬼頭に、可奈が苛立った声を上げる。
それで、鬼頭は今夜二度目の困った質問を突きつけられていることにようやく気づいた。
「そうだなあ……嫌いだったら、ここにはいなかっただろうなあ……」
我知らず、苦笑が漏れた。
結局のところ、それほど自分は雅美を嫌ってはいないのだ。ここまできたら、そう認めざるを得ない。
だが、鬼頭のこの返事は、可奈のお気には召さなかったようだ。
「もう、はっきりしてよ! 好きなの? 嫌いなの?」
鬼頭の手を振りほどかんばかりの勢いで、キッと鬼頭を睨みつける。
「嫌いじゃないよ」
動じず鬼頭は答える。その様子に、さらに怒ったように可奈は叫んだ。
「じゃあ、はっきり『好き』って言いなさいよ!」
「それはちょっと……」
やはり、抵抗がある。
「でも――もう、嫌いにはなれないな」
可奈はきょとんとした顔になって、目をぱちくりさせた。
「おじさん」
「うん?」
「もしかして……〝お友達〟じゃなくて、〝恋人〟なの?」
何とか可奈の髪をつかみつづけていた鬼頭は、そこでとうとう離してしまった。
「何で急にそうなるの?」
「えー、何かそう思ったから。……違うの?」
「違いますっ!」
「なーんだ。つまんないの」
わざとらしく唇をとがらせて、可奈は黒いスニーカーを履いた足をぶらぶらさせる。
「つまんないのって……」
鬼頭は呆れて絶句した。たとえ子供でも、女の考えることは恐ろしい。
「買ってきたぞ」
いきなり、そんな声がした。
「……おまえ、足音くらい立てろよ」
無理に平静を装って、鬼頭は背後を振り返った。
「あんたが気づかなかっただけだ」
心外なとでも言いたげに、雅美が細い眉をひそめる。それ以上何も言わないところをみると、今の会話は雅美の耳には入らなかったようだ。鬼頭は勝手にそう思い、ほっと胸を撫で下ろした。
「どの色がいいのかわからないから、とりあえず、全部買ってきた。どれがいい?」
雅美はコートのポケットからゴム紐の入った小袋をいくつか取り出すと、鬼頭の目の前に突き出した。
「じゃあ、その茶色いの」
と、鬼頭はそれを取ろうとしたが、その前に雅美がさっと引っこめた。
「俺が開けておく」
そっけなく雅美は言った。
「その間に、あんたはそいつの髪を編み直したらどうだ?」
「あ、ああ……」
言われるまま鬼頭はうなずき、先ほど離してしまった可奈の髪を手に取った。
どうも変だ。
いや、雅美の言動はもっともなのだが、雅美にそうされると、何か奇妙に感じてしまう。正直言って、不気味だ。
一方、可奈は黙って鬼頭に髪をゆだねていた。が、わずかに見えるその顔は明らかににやにやしている。ということは、そういうことらしい。鬼頭はいよいよ複雑な気分になった。
「ほら、できた」
最後に雅美から渡されたゴム紐で髪を縛り、そっと手を離す。
「鏡も買ってくればよかったね。出来が気になるだろ?」
そう訊くと、可奈は振り返ってくすっと笑った。
「そうね。でも、あたし幽霊だから、鏡に映らないの」
「あ、そうか。……ごめん」
可奈は驚いたように目を見張ったが、また屈託なく笑った。
「どうして謝るの? 変なおじさん」
「変なおじさん……」
「ね、雅美。ちゃんとなってる? なってる?」
ショックを受けている鬼頭にかまわず、可奈はベンチの後ろに立ったままの雅美を見上げた。
「ああ、なってる。元どおりだ」
無愛想だが生真面目に雅美が答える。可奈は嬉しそうに笑ったが、やがてその笑みは消え、思いつめたような表情になった。
「あたし、食べられてもよかったのに」
可奈の呟きに、鬼頭はぎょっとした。可奈のぱっちりとした目は、まっすぐ雅美に向けられている。
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そう言う雅美は少し苦笑しているように見えた。
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可奈は何も言わなかった。ただ悲しそうに笑った。雅美にそう言われることは、すでにわかりきっていたかのように。
しかし、鬼頭にはさっぱりわけがわからない。〝食べる〟とはいったいどういう意味だ? 〝向こう〟とはいったいどこか? 可奈の〝人生経験〟など、もう終わっているではないか。
「じゃあ、おじさん。あたし、もう行くね」
唐突に可奈はベンチから飛び降りた。そのせいで、鬼頭は今の二人の会話の意味を訊ねそこねた。
「髪の毛、編んでくれてありがとう。雅美とずっと仲よしでいてね」
そう言って、鬼頭に小さく手を振る。
「え? あ……うん」
つられて鬼頭は手を振りかけたが、はたと気づいて動きを止めた。
――可奈に〝手〟?
「じゃあね、雅美。また会えたらいいね」
いつのまにか両手のそろった可奈は、今度は笑いながら雅美に手を振り、公園の奥のほうに向かって走り出した。
手こそ振らなかったものの、おさげを揺らして駆けていく可奈を、雅美はずっと目で追っていた。
鬼頭も見るともなく可奈を見ていたが、すぐにあっと声を上げた。
可奈は見る間に透き通っていき、ついには、空気の中に溶けこんでいくようにして消えてしまったのである。
それを見届けてから、雅美は可奈が消えたあたりまで歩いていって、地面から何かを拾い上げた。
雅美の後を追った鬼頭が脇から覗いてみると、それは先ほど可奈の髪につけたはずの、あの茶色いゴム紐だった。髪からそのまま抜き取ったかのように丸くなっている。
右手の中のそれを、雅美はしばらくじっと眺めていた。と、そこから白い炎が上がり、一瞬後には消えた。雅美の白い手には火傷ひとつなく、あのゴム紐も跡形もなかった。
「あの子……行っちまったのか?」
何となく、鬼頭は可奈が走っていった方向にあるブランコを見やった。実際に目にしたことはないが、そこで可奈がブランコの鎖を両手でしっかりと握って遊んでいるような気がして。
「霊の留まる理由は様々だが、たいてい案外単純なものだ」
鬼頭の問いに、雅美はそういう答え方をした。右手はもういつものようにポケットの中に収まっている。
「おまえ、ほんとに三つ編みできなかったのか?」
冷やかしでそう訊ねると、雅美はかすかに眉をひそめた。が、結局何も言わなかった。図星だったらしい。
思わず笑ってしまったが、しかし、鬼頭はそれ以上は突っこまないことにした。誰にでも触れられたくないところはある。
――と鬼頭は思っていたのだが、よくよく考えてみれば、なぜ雅美は今になって可奈の髪を編む気になったのかという問題があった。
もしかしたら、鬼頭は無意識のうちに、この問題に直面することを避けたのかもしれない。真実はともかく、鬼頭は雅美に別のことを訊いた。
「おまえ、他にもああいう幽霊の〝お友達〟がいるのか?」
「いると言えばいる」
今度はすぐにそう答えた。
「生きてる人間の〝お友達〟はいないのか?」
あくまで皮肉のつもりだった。
案の定、雅美は無言で鬼頭を見やったが、その目は決して怒ってはいなかった。ただ純粋に鬼頭を見ているだけである。――いや、少しばかり、期待に近いものがあるような……
「もしかして、俺か?」
黙殺するわけにもいかず、鬼頭は自分からそう言った。雅美は困ったように眉根をわずかに寄せたが、やはり黙ったままだった。
以前までの雅美だったら、あの冷ややかな笑みと共に、〝馬鹿を言うな〟とでも言って、すぐさま否定していただろう。かといって、素直にうなずくことも、遠慮がちに〝迷惑か?〟と訊ねることもできないのだ。鬼頭に拒絶されるのが怖いから。
(ま、いいか)
根負けして、鬼頭は苦笑いを浮かべた。
(とりあえず、〝お友達〟くらいなら)
雅美が鬼頭に突き放されることを恐れているなら、鬼頭は雅美を傷つけることを恐れている。となればもう、鬼頭のほうが折れるしかない。だが、口に出しては何も言わなかった。改まって〝友達になろう〟と言うのも、何だか妙な気がしたので。
一方、雅美は相変わらず黙ったままだった。が、突然、
「俺、さっき、何かあんたの質問に答えようとしていなかったか?」
と訊ねてきた。
「さっき? 今じゃなくて?」
「うん。可奈に話しかけられる前」
そう言われて、鬼頭はしばし上を見た。思い出すためである。確か、何かとんでもないことを訊いてしまったような――
(そうだった)
思い出せなければいいのに、鬼頭は思い出してしまった。
あのとき、ついうっかり口がすべって、雅美に自分のことが好きなのかと訊いてしまったのだ。そして、それに雅美が答えようとした、まさにそのとき、可奈が現れたのだった。
しかし、ひそかに雅美の様子を窺ってみると、彼は眉をひそめて考えこんでいるようだった。しらばっくれているわけではなく、本当に忘れてしまったらしい。ラッキーと鬼頭は思った。
「いや、そんなことはないよ」
ここぞとばかりに鬼頭は笑った。かつてこの笑顔で丸めこめなかった人間はいない。
「きっとおまえの勘違いだよ。自覚ないだろうけど、今、酔ってるからさ」
「……そうか?」
首をひねりながらも、雅美は信じそうな気配を見せた。すかさずそこに畳みかける。
「そうそう。それより俺、腹が減ってるんだ。これからラーメン屋にでも行かないか? な?」
鬼頭の勢いに雅美は押されたようだったが、ふいにその口元をゆるませた。
「今度は煙草の臭いのしないところがいいな」
「禁煙席のあるラーメン屋? それはちょっと難しいな」
だが、ごまかすことにはどうやら成功したようだ。鬼頭は内心ほっとしつつ、公園の入り口に向かって歩き出した。それに雅美が当然のようについてくる。
「雅美。おまえ、紅茶しか飲めないんだったよな?」
「酒も飲めるぞ」
明らかに笑いを含んだ雅美の声音に、鬼頭は思いきり顔をしかめた。
「酒は駄目だ。せめて大学受かってからにしろ――と、そんなことが言いたかったんじゃない」
「じゃあ、何?」
「え、ああ、普通、ラーメン屋に紅茶はないから、ファミレスに変更しようかと……ファミレスなら禁煙席もあるし」
雅美はじっと鬼頭を見た。鬼頭は照れくさくなり、あわてて顔をそらせた。
「何だよ、その目は」
「別に」
淡く雅美は笑った。
「ただ、あんたも酔ってるんじゃないかと思っただけだ」
――そうかもしれない。
思わず、鬼頭も笑った。
今夜のことは、最初から酔って見ている夢なのかもしれない。だから、雅美がいきなり現れて、自分のことが嫌いかと訊ねてきたりするのかもしれない。
「じゃあ、せめて会計が済むまでは、酔いが醒めないことを祈ってるんだな」
軽い気持ちで鬼頭は言った。また雅美が皮肉を返してくることを期待して。
「ああ、祈ってるよ」
この返事を聞いたとき、鬼頭は満足しかけた。しかし、これには続きがあったのだ。
「祈ってる。――あんたの酔いが、一生醒めないことを」
――夢ならどうか覚めてくれ。
たとえ雅美のことは嫌いでなくとも、鬼頭はそう願わずにはいられなかった。
―END―
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