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1 森の中
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狩人は白鹿に銃口を向けた。
――白鹿は神の使いだ。いかなることがあろうとも、撃ってはならぬ。
それは、狩人たちにとって鉄則であった。
しかし今、あえて彼はそれを破ろうとしていた。
狩人は引き金を引いた。だが、白鹿はひらりと身をかわすと、森の奥へと消えてしまった。
「またか」
狩人は舌打ちした。狙った獲物は外したことがないというのに、あの白鹿だけは仕留められない。これでもう何度目だろう。
そう思いながらも、とにかく白鹿の後を追いはじめたとき、けたたましい鹿の悲鳴が上がった。
――白鹿か!?
狩人は走った。
木々をかきわけ進むと、はたして白鹿が後ろ足を鋭い鉄の牙にがっちりと噛まれて必死にもがいていた。
「罠にかかったのか……」
白鹿らしからぬことだった。今までこんなことは一度としてなかった。が、これ以上の好機はない。
狩人は白鹿に銃口を向けた。
白鹿の黒い瞳は、激痛のために潤んでいる。
ふと。
狩人は銃を下ろした。そして、身を屈めると、白鹿のか細い足を罠からそっと外した。
しかし、白鹿は立つこともできずに、そのまま地に喘いでいた。
「雨が降るぞ」
狩人は白鹿を担ぎ上げた。観念したように白鹿がうなだれる。そのとき、狩人の金髪に滴が落ちた。
「言ったそばから……」
狩人はあわてて手近な洞窟の中に駆けこんだ。
***
激しい雨が森に降り注いでいた。
狩人はそれを黙然と眺め、白鹿は彼から少し離れたところに横たわって、じっと狩人の背中を見つめていた。
怪我した右の後ろ足には、狩人が布切れを裂いて作った包帯が丁寧に巻かれている。
「白鹿」
外を見ながら狩人は呟いた。
「この森に、おまえ以外の獣はいないのか。このままじゃ俺は飢えて死んじまう。鉄砲撃ちにしか能がないからな」
無論、白鹿は何も答えない。狩人は鹿相手に愚痴る自分がおかしくなって、端整な顔に苦笑いを浮かべた。
「おまえに言っても何にもならんが……こっちも生活がかかっているんでな」
『わかりました』
男のものとも女のものともつかない声が狩人に応じた。
『あなただけは、飢えぬようにいたしましょう』
狩人は驚いて白鹿を見た。が、すぐに「それはありがたいな」と答えた。神の使いならば、しゃべれても不思議はない。
『それと、私を助けてくれたのだから、あなたに礼をしなければ。何か望みはありますか?』
狩人は白鹿を無遠慮に眺めた。
白鹿は立派な角を持つ牡鹿である。狩人は戯れから、白鹿が到底叶えられそうもないことを口にした。
「俺の伽の相手をしてくれ」
一瞬、白鹿は身を起こそうとしたが、傷の痛みに果たせなかった。
『そうすれば、二度と私を狙いませんか?』
「ああ、もちろん」
白鹿はうなだれた。
すると――
白鹿の姿がぼやけ――
一人の人間の女になった。
銀髪の、抜けるように白い肌の女に。
「これで……いいですか……?」
白鹿の化けた女は、消え入りそうな、しかし今度は明らかに女の声で言った。
美しい女だ。狩人は女を見やってから、再び外に青い目を向けた。
「じき雨も上がる」
不気味なほど、何の感情もこもっていなかった。
「白鹿、さっきの約束は、ちゃんと守ってくれるんだろうな?」
白鹿は怪訝そうに狩人を見上げたが、「ええ」とかすかに頷いた。
「あなたの……伽の相手をしなくてもいいのですか?」
狩人は奇妙に顔を歪めた。
「俺には、鹿と寝る趣味はないんでな。おまえも、そのほうがいいだろう?」
白鹿は深くうつむいた。何かを懸命にこらえているようだった。
「俺も約束どおり、二度とおまえを狙わん。――これでいいんだな?」
「……ええ」
低く押し殺した声で白鹿は答えた。
やがて雨はやみ、狩人は去った。
一人残された女は――白鹿は、強く唇を噛みしめ、すすり泣いた。
そのことを、無論、狩人は知らなかった。
――白鹿は神の使いだ。いかなることがあろうとも、撃ってはならぬ。
それは、狩人たちにとって鉄則であった。
しかし今、あえて彼はそれを破ろうとしていた。
狩人は引き金を引いた。だが、白鹿はひらりと身をかわすと、森の奥へと消えてしまった。
「またか」
狩人は舌打ちした。狙った獲物は外したことがないというのに、あの白鹿だけは仕留められない。これでもう何度目だろう。
そう思いながらも、とにかく白鹿の後を追いはじめたとき、けたたましい鹿の悲鳴が上がった。
――白鹿か!?
狩人は走った。
木々をかきわけ進むと、はたして白鹿が後ろ足を鋭い鉄の牙にがっちりと噛まれて必死にもがいていた。
「罠にかかったのか……」
白鹿らしからぬことだった。今までこんなことは一度としてなかった。が、これ以上の好機はない。
狩人は白鹿に銃口を向けた。
白鹿の黒い瞳は、激痛のために潤んでいる。
ふと。
狩人は銃を下ろした。そして、身を屈めると、白鹿のか細い足を罠からそっと外した。
しかし、白鹿は立つこともできずに、そのまま地に喘いでいた。
「雨が降るぞ」
狩人は白鹿を担ぎ上げた。観念したように白鹿がうなだれる。そのとき、狩人の金髪に滴が落ちた。
「言ったそばから……」
狩人はあわてて手近な洞窟の中に駆けこんだ。
***
激しい雨が森に降り注いでいた。
狩人はそれを黙然と眺め、白鹿は彼から少し離れたところに横たわって、じっと狩人の背中を見つめていた。
怪我した右の後ろ足には、狩人が布切れを裂いて作った包帯が丁寧に巻かれている。
「白鹿」
外を見ながら狩人は呟いた。
「この森に、おまえ以外の獣はいないのか。このままじゃ俺は飢えて死んじまう。鉄砲撃ちにしか能がないからな」
無論、白鹿は何も答えない。狩人は鹿相手に愚痴る自分がおかしくなって、端整な顔に苦笑いを浮かべた。
「おまえに言っても何にもならんが……こっちも生活がかかっているんでな」
『わかりました』
男のものとも女のものともつかない声が狩人に応じた。
『あなただけは、飢えぬようにいたしましょう』
狩人は驚いて白鹿を見た。が、すぐに「それはありがたいな」と答えた。神の使いならば、しゃべれても不思議はない。
『それと、私を助けてくれたのだから、あなたに礼をしなければ。何か望みはありますか?』
狩人は白鹿を無遠慮に眺めた。
白鹿は立派な角を持つ牡鹿である。狩人は戯れから、白鹿が到底叶えられそうもないことを口にした。
「俺の伽の相手をしてくれ」
一瞬、白鹿は身を起こそうとしたが、傷の痛みに果たせなかった。
『そうすれば、二度と私を狙いませんか?』
「ああ、もちろん」
白鹿はうなだれた。
すると――
白鹿の姿がぼやけ――
一人の人間の女になった。
銀髪の、抜けるように白い肌の女に。
「これで……いいですか……?」
白鹿の化けた女は、消え入りそうな、しかし今度は明らかに女の声で言った。
美しい女だ。狩人は女を見やってから、再び外に青い目を向けた。
「じき雨も上がる」
不気味なほど、何の感情もこもっていなかった。
「白鹿、さっきの約束は、ちゃんと守ってくれるんだろうな?」
白鹿は怪訝そうに狩人を見上げたが、「ええ」とかすかに頷いた。
「あなたの……伽の相手をしなくてもいいのですか?」
狩人は奇妙に顔を歪めた。
「俺には、鹿と寝る趣味はないんでな。おまえも、そのほうがいいだろう?」
白鹿は深くうつむいた。何かを懸命にこらえているようだった。
「俺も約束どおり、二度とおまえを狙わん。――これでいいんだな?」
「……ええ」
低く押し殺した声で白鹿は答えた。
やがて雨はやみ、狩人は去った。
一人残された女は――白鹿は、強く唇を噛みしめ、すすり泣いた。
そのことを、無論、狩人は知らなかった。
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