2 / 4
2 村の中
しおりを挟む
数週間が過ぎた。
白鹿の約束どおり、狩人が飢えることはなかった。
なぜなら、狩人が森に行けば、必ず大物の獲物を見つけることができたし、当然、彼はそれを仕留めることができたからである。
狩人は小さな村のはずれに一人で暮らしていた。かつては猟犬として犬を何頭か飼っていたが、獣に殺されたり、姿を消したりしたために、今では猟のときも一人だった。
だが、自分の幼なじみの結婚式のある今日ばかりは、狩人も村の広場にいた。
「おまえも早く嫁さんもらったらどうだ?」
幼なじみが笑いながら狩人に言った。
「俺はまだ、身軽でいたいんでな」
狩人も笑って答えたそのとき、人々のざわめきがぴたりとやんだ。
何事かと狩人たちが首を巡らせると、ざわめきがより一層大きくなって返ってきた。
「おい、白鹿だ! 白鹿だぞ!」
「珍しい、あれが村まで来るなんて」
村人の声に目を向ければ、広場の入り口のところに、あの白鹿がたたずんでいた。
「こりゃ吉兆だぞ!」
村人の一人が叫んだ。
「この結婚を、白鹿が祝福に来たんだ!」
狩人の幼なじみとその花嫁は、真っ赤になって照れた。そんな二人をからかって、村人たちはいよいよ囃したてる。
「白鹿が村に来るなんて、本当に珍しい。あんたたちはついてるよ!」
そんな莫迦騒ぎの中、狩人は一人、白鹿を凝視していた。白鹿もまた、濡れた黒曜石のような瞳で、狩人を見つめていた。数週間前、この白鹿を狩人があと少しで殺してしまうところだったと知れば、この場にいる村中の人々が彼を責め苛んだことだろう。
狩人が初めて白鹿を見たのは、今はもう亡い父――母は狩人が赤ん坊の頃に病気で亡くなっていた――に連れられて、猟に出かけたときだった。
ふいに目の前に現れた白鹿に、父はとっさに銃口を向けたが、それが神の使いと言われる白鹿であることを知ると、すぐに銃を下ろした。驚いたことには、それまでさかんに吠え立てていた猟犬たちでさえ、尾を下げて後じさってしまっていた。
白鹿はその名のとおり、全身純白の実に美しい鹿だった。もう何百年も前からこの森に住んでいると言われていたが、人間たちの前に姿を現すのはごく稀なことだった。父も白鹿を見たのは、このときが初めてだったという。
まだ幼かった狩人は、話だけは聞いていた白鹿を見て、ただ素直に綺麗な鹿だと思った。こんなに綺麗な鹿は今まで見たことがないと思った。
白鹿は、そこだけは黒いつぶらな瞳で狩人親子を見つめると、現れたときと同じように、唐突に森の奥へと消えてしまった。
父は安堵の溜め息をつくと、改めて狩人に言い聞かせた。
――今のが白鹿だ。いいか、いつかおまえも猟師になったら、白鹿だけは絶対撃つなよ。あれは神の使いなんだからな。
言われるまま狩人は頷いた。確かに、あの鹿の神々しいまでの美しさは、この世のものとは思えなかった。
このときは、もう二度と白鹿に会うことはあるまいと、父も狩人も思っていた。
白鹿が人前に現れるのは、何か良いことか悪いこと――たとえば豊作とか飢饉とか――が起こる前触れと言われていたが、いずれにしろ、一生のうちで白鹿を何度も見たという猟師は、これまで一人もいなかったからだ。
しかし、狩人はそれからも、森の中でしばしば白鹿と出くわした。父は首をひねり、自分一人のときは白鹿に会わなかったことから、たぶん、おまえが白鹿に気に入られたんだなと狩人に言った。
だが、狩人が近づこうとすると、白鹿はすぐに逃げてしまう。そのくせ、白鹿を無視して立ち去ろうとすると、かなり距離をおいてだが、狩人の後をついてくる。が、狩人が振り返ると、やはり白鹿は消えてしまう。
白鹿のこの行動は、狩人にはまったく不可解だった。神の使いとして敬う気持ちも、いつのまにか薄れていた。狩人の前では、好奇心はあるが怖くて近寄れない、ただの鹿と大差なかったから。
やがて数年が過ぎ、父も病気で亡くなって、狩人一人で森へ猟に出かけるようになっても、白鹿は遠くから狩人を眺めるだけだった。
――おまえはいったい何がしたいんだ!?
ある日、とうとう我慢の限界を超えた狩人は、白鹿に向かって怒鳴った。大声を出されて、白鹿は怯えたように身をすくませた。
――俺に何か言いたいことでもあるのか? 森で猟をするなとでも? おまえが白鹿でなかったら、とっくの昔に撃ち殺しているぞ!
狩人の剣幕に恐れをなしたか、白鹿はたちまち姿を隠した。これでもう自分に付きまとうことはあるまいと狩人は思ったのだが、再び森に足を踏み入れると、白鹿は何事もなかったかのようにまた現れた。
そのときから、機会があったら白鹿を殺してやろうと、ひそかに狩人は思っていた。
もしも、白鹿が狩人が近づいても逃げ出したりしなければ、彼は自分の猟犬たちと同じように白鹿を愛することができただろう。しかし、見つめるだけの白鹿は、いたずらに狩人の神経を苛立たせただけだった。
だが、数週間前、狩人は白鹿を殺せる絶好の機会を、自ら放棄してしまっていた。村人たちの非難を恐れたわけではない。狩人以外の人間の前には滅多に現れないのだ。この森からいなくなってもわかる者はない。
ただ、狩人を追いつめたあの黒い瞳を見たとき、引き金に掛けた指も止まってしまった。
白鹿の濡れた目は、狩人に重大な何かを訴えかけているように見えた。――今も。
そんな睨みあいが、どれくらい続いただろうか。
白鹿はふいに純白の体をひるがえすと、そのまま黒い森のほうへ戻ってしまった。
白鹿がいなくなっても、まだ村人たちは気づかずに、若い二人を囃したてつづけていた。
白鹿の約束どおり、狩人が飢えることはなかった。
なぜなら、狩人が森に行けば、必ず大物の獲物を見つけることができたし、当然、彼はそれを仕留めることができたからである。
狩人は小さな村のはずれに一人で暮らしていた。かつては猟犬として犬を何頭か飼っていたが、獣に殺されたり、姿を消したりしたために、今では猟のときも一人だった。
だが、自分の幼なじみの結婚式のある今日ばかりは、狩人も村の広場にいた。
「おまえも早く嫁さんもらったらどうだ?」
幼なじみが笑いながら狩人に言った。
「俺はまだ、身軽でいたいんでな」
狩人も笑って答えたそのとき、人々のざわめきがぴたりとやんだ。
何事かと狩人たちが首を巡らせると、ざわめきがより一層大きくなって返ってきた。
「おい、白鹿だ! 白鹿だぞ!」
「珍しい、あれが村まで来るなんて」
村人の声に目を向ければ、広場の入り口のところに、あの白鹿がたたずんでいた。
「こりゃ吉兆だぞ!」
村人の一人が叫んだ。
「この結婚を、白鹿が祝福に来たんだ!」
狩人の幼なじみとその花嫁は、真っ赤になって照れた。そんな二人をからかって、村人たちはいよいよ囃したてる。
「白鹿が村に来るなんて、本当に珍しい。あんたたちはついてるよ!」
そんな莫迦騒ぎの中、狩人は一人、白鹿を凝視していた。白鹿もまた、濡れた黒曜石のような瞳で、狩人を見つめていた。数週間前、この白鹿を狩人があと少しで殺してしまうところだったと知れば、この場にいる村中の人々が彼を責め苛んだことだろう。
狩人が初めて白鹿を見たのは、今はもう亡い父――母は狩人が赤ん坊の頃に病気で亡くなっていた――に連れられて、猟に出かけたときだった。
ふいに目の前に現れた白鹿に、父はとっさに銃口を向けたが、それが神の使いと言われる白鹿であることを知ると、すぐに銃を下ろした。驚いたことには、それまでさかんに吠え立てていた猟犬たちでさえ、尾を下げて後じさってしまっていた。
白鹿はその名のとおり、全身純白の実に美しい鹿だった。もう何百年も前からこの森に住んでいると言われていたが、人間たちの前に姿を現すのはごく稀なことだった。父も白鹿を見たのは、このときが初めてだったという。
まだ幼かった狩人は、話だけは聞いていた白鹿を見て、ただ素直に綺麗な鹿だと思った。こんなに綺麗な鹿は今まで見たことがないと思った。
白鹿は、そこだけは黒いつぶらな瞳で狩人親子を見つめると、現れたときと同じように、唐突に森の奥へと消えてしまった。
父は安堵の溜め息をつくと、改めて狩人に言い聞かせた。
――今のが白鹿だ。いいか、いつかおまえも猟師になったら、白鹿だけは絶対撃つなよ。あれは神の使いなんだからな。
言われるまま狩人は頷いた。確かに、あの鹿の神々しいまでの美しさは、この世のものとは思えなかった。
このときは、もう二度と白鹿に会うことはあるまいと、父も狩人も思っていた。
白鹿が人前に現れるのは、何か良いことか悪いこと――たとえば豊作とか飢饉とか――が起こる前触れと言われていたが、いずれにしろ、一生のうちで白鹿を何度も見たという猟師は、これまで一人もいなかったからだ。
しかし、狩人はそれからも、森の中でしばしば白鹿と出くわした。父は首をひねり、自分一人のときは白鹿に会わなかったことから、たぶん、おまえが白鹿に気に入られたんだなと狩人に言った。
だが、狩人が近づこうとすると、白鹿はすぐに逃げてしまう。そのくせ、白鹿を無視して立ち去ろうとすると、かなり距離をおいてだが、狩人の後をついてくる。が、狩人が振り返ると、やはり白鹿は消えてしまう。
白鹿のこの行動は、狩人にはまったく不可解だった。神の使いとして敬う気持ちも、いつのまにか薄れていた。狩人の前では、好奇心はあるが怖くて近寄れない、ただの鹿と大差なかったから。
やがて数年が過ぎ、父も病気で亡くなって、狩人一人で森へ猟に出かけるようになっても、白鹿は遠くから狩人を眺めるだけだった。
――おまえはいったい何がしたいんだ!?
ある日、とうとう我慢の限界を超えた狩人は、白鹿に向かって怒鳴った。大声を出されて、白鹿は怯えたように身をすくませた。
――俺に何か言いたいことでもあるのか? 森で猟をするなとでも? おまえが白鹿でなかったら、とっくの昔に撃ち殺しているぞ!
狩人の剣幕に恐れをなしたか、白鹿はたちまち姿を隠した。これでもう自分に付きまとうことはあるまいと狩人は思ったのだが、再び森に足を踏み入れると、白鹿は何事もなかったかのようにまた現れた。
そのときから、機会があったら白鹿を殺してやろうと、ひそかに狩人は思っていた。
もしも、白鹿が狩人が近づいても逃げ出したりしなければ、彼は自分の猟犬たちと同じように白鹿を愛することができただろう。しかし、見つめるだけの白鹿は、いたずらに狩人の神経を苛立たせただけだった。
だが、数週間前、狩人は白鹿を殺せる絶好の機会を、自ら放棄してしまっていた。村人たちの非難を恐れたわけではない。狩人以外の人間の前には滅多に現れないのだ。この森からいなくなってもわかる者はない。
ただ、狩人を追いつめたあの黒い瞳を見たとき、引き金に掛けた指も止まってしまった。
白鹿の濡れた目は、狩人に重大な何かを訴えかけているように見えた。――今も。
そんな睨みあいが、どれくらい続いただろうか。
白鹿はふいに純白の体をひるがえすと、そのまま黒い森のほうへ戻ってしまった。
白鹿がいなくなっても、まだ村人たちは気づかずに、若い二人を囃したてつづけていた。
0
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
毎日19時に更新予定です。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
あなたへの恋心を消し去りました
鍋
恋愛
私には両親に決められた素敵な婚約者がいる。
私は彼のことが大好き。少し顔を見るだけで幸せな気持ちになる。
だけど、彼には私の気持ちが重いみたい。
今、彼には憧れの人がいる。その人は大人びた雰囲気をもつ二つ上の先輩。
彼は心は自由でいたい言っていた。
その女性と話す時、私には見せない楽しそうな笑顔を向ける貴方を見て、胸が張り裂けそうになる。
友人たちは言う。お互いに干渉しない割り切った夫婦のほうが気が楽だって……。
だから私は彼が自由になれるように、魔女にこの激しい気持ちを封印してもらったの。
※このお話はハッピーエンドではありません。
※短いお話でサクサクと進めたいと思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる