悪魔使い

邦幸恵紀

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第一話 黒い鍵

2 悪魔使い

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 ケーキも紅茶もおいしかった。でも、少しでも早く二階へ行きたくて、急いで紅茶を飲んだら舌を火傷した。
 食べ終わってから、別に全部平らげる必要はなかったんじゃないかと気づいたが、おいしいものをわざわざ残す気にはなれなかった。たぶん、帰りに料金を払うことになるのだろうし。
 気になってメニューを覗いたら、〝ソロモンの鍵〟は五百円だった。もっとも、〝ソロモンの小さな鍵〟も同じ値段であるとは限らないが。
 少女はソファに置いていたバッグを持つと、美形のマスターに軽く会釈してから、自分のすぐ横のドアを開けた。
 真正面に〝W・C〟と書かれた木製のドアがある。左手は行き止まりで、掃除用具でも入っているのか、鉄製のロッカーが置かれていた。
 右手は狭くて暗い廊下が続いていて、突き当たりに通用口があるのが見えた。とりあえず、そちらへ向かって歩いていくと、左手に二階へ通じる階段があった。
 どうやら、このビルにエレベーターはないようだ。二階でよかったと思いながら、少女は階段を上った。
 二階もまた暗かった。天井に蛍光灯はあったから、電気をつけることもできるのだろうが、廊下の突き当たりにある窓から陽が差しこんでいたので、スイッチは探さなかった。スカートのポケットから例の鍵を取り出し、きつく握りしめる。
 黒いドアとあの紙には書いてあった。階段を上がったすぐ正面にあったドアの色は銀色。違う。左右を確認しながら、少女はゆっくりと廊下を進む。
 右手に二つ並んでドアがあった。やはり銀。
 最後に残った左手のドア。黒。これだ。少女は足を止め、ドアの前で深呼吸する。
 このドアの向こうに、自分の願いを叶えてくれるという人がいる。嘘かもしれない。でも、マスターはいい人そうだった。
 いざ、鍵をドアノブの鍵穴に差しこもうとして、ノックをしてから開けるべきだろうかと少女は悩んだ。だが、よく考えてみると、あの紙のどこにもこの部屋の中に誰かいるとは書かれていなかった。結局、少女はノックなしで鍵を差しこみ、ゆっくり回した。
 カチリ。
 錠が外れた。少女はおそるおそるドアを引いた。
 黒。塗りこめたような、圧倒的な黒。
 とっさにドアを閉めようかと思ったとき、少女の頭上に明かりが灯った。
 左右一つずつ。電気ではない。炎。まったく癒しにならなかったアロマキャンドルのような、オレンジ色の炎。
 あっけにとられて見上げていると、その炎の先にさらに炎が灯った。また一つ。もう一つ。先の見えない闇へ向かって、少女を導くように次々と炎が灯されていく。
 いったいこの部屋にはどれだけの奥行きがあるのか? ここに自分は入らなくてはいけないのか?
 逡巡している間に、炎の増殖が止まった。少女は覚悟を決めると、床があるかどうかもさだかではない部屋に一歩足を踏み出し、ドアを閉めた。そのとたん。
 まるでトンネルの中を疾走するような感覚に襲われて、少女は小さな悲鳴を上げた。扉が見える。古めかしい、中世の城の中にありそうな扉。それがどんどん近づいてくる。ぶつかる。助けて! 少女は思わず目を閉じた。

「ようこそ。おかもとまゆさん」

 若い男の声がした。少女――繭美はこわごわ目を開けて、ドアを開けたとき以上に唖然とした。
 あの扉はおろか、闇も炎もなかった。
 そこは部屋の中だった。確かに部屋だった。壁はすべて見るからに古そうな分厚い書物ばかりが収まった書架に塞がれ、繭美の正面にある木製の大きなテーブルの上は、煌々と輝くランプの他に、やけに色鮮やかな液体の入っているガラスの入れ物や、用途のわからない奇妙な形の金属製品に占領されていたが。
 繭美の名前を呼んだこの部屋の主らしき人物は、テーブルの傍らに置かれた椅子に座っていた。先ほど聞いた声からすると男なのだろう。まるで魔法使いのようなフードつきの黒いローブを身につけていたので、顔はほとんど見えなかった。
 ただ、白い口元だけは見えた。繭美は本当に男なのか自信が持てなくなった。艶やかな赤い唇。

「あの……あなたが、あのメールをくれた人ですか?」

 不安に震えながらそう訊くと、魔法使い――とりあえず、そう思うことにした――は静かにうなずいた。

「そうです。まずはお掛けください」

 魔法使いが指し示した先には、簡素な木製の椅子があった。繭美は遠慮なく腰を下ろす。緊張と驚きの連続で、これ以上立っていられそうになかった。

「お疲れ様でした。ここはわかりにくかったでしょう?」

 魔法使いはそんな労いの言葉をかけてきた。服装は普通ではないが、中身はまともそうだ。繭美はほっとして「大丈夫です、わかりました」と返した。

「それより……本当に、あたしの願いを叶えてくれるんですか? あたしの父を、生き返らせてくれるんですか?」

 魔法使いは答えなかった。表情は見えなかったが、ためらっている気配は伝わってきた。繭美はさらに畳みかける。

「叶えられるから……だから、あたしに返事をくれたんですよね? そうじゃなかったら、呼びませんよね?」
「……私は、悪魔使いです」

 魔法使い改め悪魔使いは、絞り出すようにそう言った。

「私自身には、何の力もありません。私にできるのは、あなたの願いを叶えられる悪魔を呼び出し、あなたの願いを叶えさせることだけです。結論から言いましょう。岡元さん。悪魔の力をもってしても、死んだ人間を生き返らせることはできません。私も昔、それを願いましたが、叶いませんでした」
「だったら……何であたしにメールくれたんですか? 無視してくれなかったんですか? そしたら、こんな期待しなくて済んだのに……」

 繭美は悲愴な声を上げた。叶えてくれると思ったからこそ、早退して三時間以上もかけてここに来たのだ。やはりできないと断られるためではない。

「少なくとも、悪魔にはできないことをお伝えするためです。それと、生き返らせることはできなくても、一時的になら会うことはできることを。今回は報酬はいただきません。あなたが望めば、今すぐにでも実行いたします。……どうしますか?」

 繭美は迷った。今さら本当に悪魔がいるのかなどと問い返すつもりはない。自分の願いを叶えてくれるのなら、悪魔だろうが神様だろうが、何だってよかった。
 しかし、繭美が望んでいたのは、父に一時的に会うことではなく、父にこの世に存在しつづけてもらうことだった。繭美は悩んだあげく、首を横に振った。

「生き返らせることができないんなら……いいです。ちょっとだけ父に会えたって、余計辛くなるだけだから……」
「……そうでしょうね」

 悪魔使いの声は、深い同情に満ちていた。彼も死んだ人間を生き返らせたいと思ったことがあると言っていた。それなら、繭美の気持ちもよくわかるだろう。
 もしかしたら、繭美が選ばれたのもそのせいかもしれない。悪魔使いが蘇らせようと思った人間は、やはり自分の父親だったのだろうか。

「わかりました。あなたの願いを叶えることができなくて、本当に申し訳ありません。お詫びとして、あなたに差し上げたいものがあります」

 悪魔使いは立ち上がると、テーブルの上から何かを取って、それを繭美に手渡した。
 それは一見、コースターに似ていた。黄ばんだ丸い紙に、円形の紋章のようなものが黒インクで描かれている。これは何なのか訊こうと思い、悪魔使いを見上げた繭美は、そのままの形で硬直してしまった。
 椅子に座っているときには、フードに隠れて悪魔使いの顔は見えなかった。だが、立ち上がって繭美の前に立っている今は、下からその顔を覗くことができた。
 今までこれほど綺麗な顔は見たことがないと繭美は思った。黙っていたら、女と言われても信じてしまう。月光しか浴びたことのないような青白い肌。夜色をした髪。愁いに満ちた黒瞳。唇だけが、鮮やかに赤い。

「それは一度だけ悪魔を召喚できる護符です。あなたが必要だと思ったとき、そこにあなたの血を一滴垂らして、あなたの願いを口にしてください。その願いを叶えられる悪魔が召喚されます。……いいですか。一度だけですよ。それと、その護符の存在を他言すれば、そのときその護符とそれに関するあなたの記憶は消え去ります」

 ぽかんとしている繭美に悪魔使いは男の声で説明すると、自分の座っていた椅子に戻って両腕を組んだ。

「さて。いつもでしたら、ここに来た方にはここに来たことを忘れて帰っていただくんですが、あなたにそれをすると、その護符の使い方も忘れてしまうことになる。どうぞ今日はそのままお帰りください。ただし、私や下の店のことはくれぐれも内密に。メールにも書きましたが、人に漏らせば、即刻制裁が下ります。それがどういうものかはあえて説明しませんが。悪魔は死んだ人間を生き返らせることはできませんが、それ以外のことはたいていできるんですよ」

 悪魔使いの口調は軽かったが、繭美はぞっとしてバッグを抱えこんだ。
 この美しい悪魔使いの正体は何なのだろう? 自分には何の力もないと言ったが、やはり悪魔なのではないだろうか?

「とはいえ、私にはあなたの願いを叶えられないのに呼び出した非があります。せめて帰りはうちの者に送らせましょう」

 悪魔使いは部屋の隅に顔を向けた。つられて繭美もそちらを見たが、薄汚れた寄木細工の床があるだけだった。

「セエレ」

 悪魔使いがそう言ったと同時。床に青白い光が生じて、何か円を描きはじめた。さっき悪魔使いにもらった護符の図柄に似ているような気がする。そんなことを思ったとき、その円の中に忽然と人影が現れた。

「ちはっス、大将。お久しぶり」

 繭美はあっけにとられた。そこに立っていたのは、青いシャツと作業ズボンを身につけた、若い男だった。髪を短く刈り上げた、さわやかな印象の美青年だ。彼は頭にかぶった青い野球帽を軽く持ち上げ、悪魔使いに一礼した。

「最近お呼びがかかんなかったけど、俺の仕事、誰かに回してないっスか?」
「そんなことはないよ。たまたま用事がなかっただけだ。商売のほうはどうだ?」
「まあ、ぼちぼちっスね。あんまり速いと怪しまれるから、時間調整がちと面倒なくらいで」
「それはよかった。ところで、この子を家まで送り届けてくれないか?」
「おや、お客さんスか」

 青年は繭美に目を向けて、愛想よく笑った。
 〝セエレ〟というのがこの青年の名前なのだろうが、風貌は日本人にしか見えない。――否。人間にしか見えない。
 繭美はぎごちなく笑って、わずかにお辞儀をした。

「ああ。失礼のないように。丁重にな」
「大将。これでも俺は運びのプロっスよ。東京タワーのてっぺんにシャンペンタワーだって運べます。お客さん、ちょいと失礼」

 セエレは繭美の手をつかんで椅子から立ち上がらせると、自分のそばへと引き寄せた。

「それでは、岡元さん。二度とお会いできませんが、お元気で」

 悪魔使いは椅子に座ったまま、繭美に軽く頭を下げた。
 そのときになって、繭美はこの悪魔使いに一度も名乗っていなかったことを思い出した。彼に出したメールにも、名前は書いていなかった。

「あ、あの……!」

 まだ訊きたいことがあった。しかし、セエレは繭美を片手で抱きかかえ、悪魔使いから引き離した。

「お客さん、しっかりつかまっててね」

 そうセエレに言われた瞬間。悪魔使いとその部屋は、急速に小さくなって繭美の視界から消えた。

 ***

「お疲れ」

 そう言って、的場はコーヒーの入った白いマグカップをデスクの角に置いた。
 ミルクと砂糖が大量に投入されたインスタントコーヒーである。「彼」は『ゲーティア』で飲める本格コーヒーより、こういう変格コーヒー(と尾藤は言う)のほうが好きなのだ。ただし、分量にはうるさい。気に入らないと飲まずに残す。
 的場は試行錯誤の末、「彼」が満足するインスタントコーヒーを完璧に入れられるようになった。もちろん、その割合レシピは誰にも教えない。教えてたまるか。自分にしかできない仕事を増やすのが、的場の生きがいなのだから。

「サンキュー……」

 疲れきった様子で「彼」がマグカップに手を伸ばす。〝悪魔使い〟を演じるのは、どうしても苦手らしい。それならやらなきゃいいのにと的場たちは思っているのだが、「彼」いわく、これは「彼」にしかできないボランティア活動なのだそうである。神経をすり減らしてまでやる必要はないのではないかと思いつつも、的場は決して反対はしない。このときにしか「彼」にはお目にかかれないからだ。

「ああ……そういや、まだ飯食ってなかった……」

 半分ほどコーヒーを飲んでから、思い出したように「彼」が呟く。

「なあ。もう元に戻してくれよ。下行って、飯食いたい」
「今が元の姿だろうが」

 的場は太い眉をひそめて「彼」を見下ろした。もう用は済んだのに、まだフードを被っている。
 室内はすでに普段の姿を取り戻していた。がらくただらけのテーブルはパソコンモニタが立ち並ぶデスクに、怪しげな書物が収められた書架は空きの目立つスチール製の書棚に戻っている。床には灰色のカーペット。「彼」の座っている椅子やその向かいに置かれているそれは、ありふれたデスクチェアだ。

「もうあっちが元だ。何で〝高瀬〟のままでいられないんだ?」
「何度も言ってる。術のかかった状態で、召喚はできないんだ」
「……やっぱ、整形しかないか」

 ぼそりと「彼」が呟く。それを聞いて的場は血相を変えた。

「それだけはやめてくれ! だから俺が二十四時間術をかけてるんじゃないか!」
「だったら、早く元に戻せ」

 的場は深い溜め息を吐き出した。彼の至福の時間はいつもあまりにも短すぎる。だが、これ以上主人を苛つかせるわけにもいかない。的場は大きな手を伸ばすと、「彼」の顔を隠すフードを脱がせた。

 ――ああ、この顔だ。

 陶然と的場は「彼」を見つめる。
 艶やかな黒髪。白い肌。長い睫に縁どられた切れ長の目。舐めたら甘そうな――実際、今ならあのコーヒーのせいで甘いのだろうが――赤い唇。少し不機嫌そうだが、それでもなお「彼」は美しい。
 初めて召喚されたとき、的場は一目で「彼」に見惚れ、その場で忠誠を誓った。幸い、的場は「彼」が必要とする能力を複数持っていた。その最大のものが〝術者を変身させる〟能力だった。
 しかし、この能力を持つのは的場だけというわけでもない。「彼」の不興を買えば、他の仲間を召喚されてしまうかもしれない。だから、的場は「彼」にとって代替のきかない存在になろうと、日々努力を重ねているのだった。

あきあきら――」

 「彼」の前にひざまずき、その白い手に恭しく接吻する。

「やはり、おまえは美しい……」
「マルバス……頼むから、もう元に戻してくれ……」

 「彼」の願いが叶うまで、もうしばらく時間がかかりそうだった。                          
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