悪魔使い

邦幸恵紀

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第一話 黒い鍵

3 あの男

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 新学期が始まってしばらく経った頃。
 繭美は自分のパソコンでサイトめぐりをしていて、偶然、そのページを見つけた。
 最初は、よくある占いサイトだと思った。
 だが、巧妙に隠されたリンクボタンをいくつも辿っていったその先には、繭美にとって魅惑的な言葉が並んでいた。

〝あなたの望み、叶えます〟
〝望みの種類は問いません〟
〝あなたの名前、住所等を書く必要はありません。望みの詳細な内容と、望みが叶った場合、当方に支払う報酬の内容をメールでご連絡ください〟
〝検討の上、叶える価値ありと判断した場合のみ、お会いする場所と日時をメールでご連絡いたします。必ずお一人でおいでください。お連れの方がいらした場合、あなたとのお話はなかったことにさせていただきます〟
〝なお、場所・日時の連絡メールは、到着から二十四時間後に自動的に消滅いたします。また、コピーもプリントアウトもできませんので、ご注意ください〟

 ――これは悪い冗談だ。あるいは、悪質な悪戯をしかけるための稚拙な罠。

 頭ではそうわかっていたのに、ずいぶん悩んだ末に、繭美はその裏サイトの管理人宛てに、自分の望みを書いたメールを匿名で送った。
 決して、本気ではなかった。
 たぶん、誰にも叶えられないことだとわかっていたから、神社に絵馬を奉納するような気持ちで、メールを送りたくなったのだ。
 ところが、それから一月後、そんなメールを出したことも忘れかけた三日前になって、返事が来てしまった。
 そのメールには、今日の日付と時刻の他に、あの喫茶店の店名と住所が書いてあった。
 そのまま無視することもできた。相手は自分の名前も住所も知らないのだ。メールアドレスを変えてしまえば、二度とメールを送られることもないだろう。
 しかし、繭美はそうすることができなかった。

〝なお、あなたがこの店名と住所を第三者に漏らした場合、しかるべき制裁が即時に下されます〟

 そんな一文が添えられていたから。
 自然消滅してしまったメールには、『ゲーティア』へ来たら、まずこれをマスターに注文しろと書いてあった。
 一見すると、それは『ゲーティア』のメニュー表にも載っている。
 だが、微妙に違う。
 繭美は正確に、メールどおりに注文した。

 ――〝ソロモンの小さな鍵〟をください。

 ***

「お客さん、もういいっスよ」

 セエレのその声を合図に、繭美は反射的に閉じていた目を開いた。

「大将は家までって言ってたけど、今の時間じゃまずいっしょ」

 言われて周囲を見回してみれば、そこは繭美の自宅近くの路地裏だった。普段から人通りのないところだが、今も彼女とセエレ以外に人の姿はなかった。
 繭美はまじまじとセエレを見つめた。近くで見ても、やはり普通の若い男――ただしイケメン――にしか見えない。セエレは照れたように笑うと、帽子を軽く持ち上げた。

「んじゃあ、俺はこれで失礼します。気をつけてお帰んなさい」
「あ、ま、待って!」

 今にも消えてしまいそうなセエレをあわてて引き止める。セエレは帽子の庇に手をかけたまま、繭美を振り返った。

「あの……あなたは、悪魔なんですよね?」
「そうっスよ?」

 何でもないことのように――まるで社会人なんですよねと言われたかのように――セエレはあっさり認めた。

「じゃあ、あの人は?」

 セエレは少し怪訝そうな顔になったが、〝あの人〟というのが、あの〝悪魔使い〟――セエレは〝大将〟などと呼んでいるが――のことだとわかると、初めて困ったような表情を浮かべた。

「余計なことは話すなって言われてんだけどなあ……」
「誰にも言いません。これだけ教えてください。……あの人は、人間なんですか?」

 セエレはほっとしたような笑みをこぼした。この質問は彼の許容範囲内だったようだ。

「ああ、それなら答えられるな。大将は正真正銘、お客さんと同じ人間。人間じゃなきゃ、悪魔は召喚できないから」

 そう答えてから、セエレはついでのようにこう付け加えた。

「それと、大将は金儲けのためにこんなことしてるわけじゃないよ。自分が助けたいと思った人にしか手は貸さない。だから、お客さんの報酬なんて最初から全然当てにしてなかった。まあ、寿命二十年っていうのは俺たちには魅力的だったけどね?」

 目を見張る繭美に、セエレはこれまでとは違う皮肉めいた笑顔を見せると、今度こそ彼女の前から消えた。
 最初から、そこには繭美しかいなかったかのように。



 セエレが自宅ではなく自宅の近所に帰してくれたのは、確かに繭美にはありがたかった。今日、自分が早退したことは、家の者には秘密にしておきたい。
 繭美はいつもの帰宅時間になるまで、馴染みの市立図書館で時間を潰した。土日祝日はたいていそこで過ごしている。彼女が知る、飲食代以外に金がかからない場所は、そこくらいしかなかった。
 繭美の母は、若いときから生命保険会社の外交員として働いているが、夕方にはたいてい帰宅している。家の窓にはすでに明かりが灯っていた。そして、家の前には母の白い軽自動車ともう一台、白い普通車が止まっていた。
 思わず繭美の表情が険しくなる。この時間だったら、まだいないはずなのに。しかし、他に行く当てもない。繭美は溜め息を吐いてから、玄関を開けた。

「ただいま」

 誰にも聞こえないような小さい声で呟いて、繭美は家に上がった。このまま、誰にも気づかれないうちに、二階の自分の部屋へ行ってしまおう。
 だが、彼女が階段を上りかけたとき、リビングから一人の男が出てきた。

「あ……」

 間に合わなかった。目が合ってしまった。もう気づかなかったふりもできない。
 繭美はどうすればいいのか迷って固まっていた。

「……お帰り」

 繭美より先に相手が言った。が、後の言葉が続かない。これからどうしたらいいのか、困ったような顔をしている。
 繭美の前にいるといつもそうだ。だから繭美も困ってしまう。

「……ただいま」

 顔をそらせたまま、先ほどよりいっそう小さな声で答えると、繭美は階段を駆け上がった。
 あの男は――繭美の義理の父親は、案の定、彼女を引き止めなかった。



 初めて会ったとき、人のよさそうなおじさんだと思った。母の再婚相手でさえなかったら、繭美はその印象をずっと持ちつづけただろう。
 背はそれほど高くはなかったが、やや太り気味のせいか大きく感じた。髪はふわふわとしたくせっ毛で、母に教えてもらった年齢よりも若く見えた。
 もしも、あの男が〝悪い人〟だったら、繭美は家を出て、高校も中退し、ドラマやマンガで見るような、いわゆる〝不良〟になっていただろう。他人は訳知り顔で納得してくれたはずだ。
 しかし、あの男は〝悪い人〟ではなかった。彼と一緒に住みはじめてからもうじき一年になるが、繭美は一度も暴力や性的虐待などは受けたことがない。
 酒も煙草もやらない。ギャンブルもパチンコもやらない。母のことも繭美のことも、いまだに〝さん〟をつけて呼ぶ(ただし、繭美は滅多に呼ばれることはない)。
 どこの会社でどんな仕事をしているのかは知らないが――繭美はあえて訊かなかった――繭美より早く出かけ、繭美より遅く帰ってくる。時々、休日出勤もあるようだ。
 かと言って、仕事一筋というわけでもなく、家にいるときは家事もよく手伝っている。
 だから、あの男がいるときには、繭美は母の手伝いをしなくなった。母には叱られたが、あの男が〝いいからいいから〟と言って止めた。以来、その状態が現在まで続いている。
 繭美は嘆息すると、学習机の上にある小さな写真立てに目をやった。
 若い頃の母――短髪で痩せていて、今とあまり変わらない――と父が並んで立っている。
 線の細い、端整な面立ちの青年。あの悪魔使いにはかなわないけれど(あれはやっぱり人間ではないと思う)、充分美青年の範疇に入るのではないか。残念ながら、自分はその美貌を受け継げなかったが。
 繭美の実の父親は、彼女が生まれる前に死んだ。病気で死んだのだと母は言ったが、いつのまにか、繭美は父は自殺したのだということを知っていた。母の口からは一度も聞いたことはない。それでも、繭美は知っていた。
 母はあまり父の話をしたがらなかった。無理もないと思う。繭美も子供ながらに訊いてはいけないと思った。母以外に身内もなく、そうして母と二人きり、十六年生きてきた。
 だが、一年前のあの日。母が突然、自宅にあの男を連れてきた。

 ――まゆ、あんたのお父さんよ。

 母はいきなりそう言った。もちろん繭美は驚いたが、それ以上にあの男のほうが驚いていた。事前の打ち合わせになかったことだったのだろう。
 得意先の会社で働いている人だと母は説明したが、いずれにしろ、母の再婚はすでに決定事項であり、繭美には反対する理由も権利も与えられてはいなかった。
 それまで、繭美は母と一緒に安アパートで暮らしていたが、再婚してからは、中古だが一軒家に移り住んだ。しかし、母や繭美の姓は変わらず、あの男の姓だけが変わった。
 贅沢な悩み、なのかもしれない。あの男に問題らしきものは何もないのだから(容姿はかなり不満だけれど)。
 だが、あの男が現れたとき、繭美の中では自分の父はあの写真でしか知らない青年しかありえなくなっていた。だから、あの男を殺すことではなく、父を生き返らせることを願ったのだ。

 ――でも。

 悪魔使いからもらった護符を手にとって、繭美はふと考える。

 ――もしも、この護符にあの男を殺してくれと願ったら、あの男を殺せるのだろうか?



 気は重かったが、腹は空いてきた。繭美は適当な時間を見計らって階下へ降りた。
 あの男がいるときは手伝いはしないが、何もしない娘にただ食べさせるほど、母は寛容ではなかった。せめて皿を並べるのと後片づけくらいはしろと言われ、渋々実行している。繭美だって、あの男がいなければ、自ら率先してやっているのだが。
 しかし、おそるおそるリビングのドアを開けると、そこにあの男の姿はなかった。キッチンも見てみたが、調理中の母しかいない。
 トイレか風呂にでも入っているのだろうか。いつも食事が終わってから風呂に入っているのに(ちなみに、繭美はいちばん最後に、風呂の水を全部入れ替えてから入る)。

昭彦あきひこさん、具合が悪いんだって」

 何も口にはしていなかったのにどうしてわかったのか、母は唐揚げを揚げながら繭美に言った。

「今日は早めに帰ってきたんだって。あたしより先に帰っててびっくりしたわ。あんたは? いつ帰ってきたの? 帰ってきたら挨拶しなさいっていつも言ってるでしょ?」
「……帰ってきたとき、玄関で会った」

 誰にとはあえて言わなかった。母は繭美をちらりと見て、軽く溜め息をついた。

「もう〝お父さん〟と呼べとは言わないけどね。せめて名前くらい言いなさい。……昭彦さん、夕飯はいらないってもう寝たわ。だから、今日はあんた、手伝いなさいよ」

 繭美は黙ってうなずいた。あの男がいない以上、拒む理由は見つからなかった。


 久しぶりの、実の親子二人きりの夕飯は、なぜか少し味気なかった。
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