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第一話 黒い鍵
4 悪魔召喚
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翌朝。ベッドで眠る繭美を強引に起こしたのは、目覚まし時計の不快な電子音ではなく、切羽詰まったような母の声だった。
「なに……」
寝ぼけながらも、枕元の目覚まし時計を見て、思いきり眉をひそめる。
「何よ、もう……まだ六時前じゃない……」
「繭美」
まだパジャマ姿の母の顔は、これまで見たことがないほど真剣だった。ただならぬ気配を感じて、繭美の眠気は急速に覚めた。
「どうしたの? 何かあったの?」
「……とにかく、下に来て。話があるの」
それだけ言って、母は部屋を出ていった。
いったい何事だろう。ベッドから飛び出て、椅子の背に掛けていたカーディガンを羽織りながら階下に降りると、母はリビングではなく、ダイニングのテーブルで繭美を待っていた。
あの男はまだ寝ているのか。いつもならこの時間にはもう起きているはずなのに。
少し奇妙に思いながらも、繭美は母の向かいに腰を下ろした。
「それで、お母さん。話って?」
母はしばらく間をおいてから、手に持っていた何かを繭美の前に差し出した。
それは白い封筒で、表には〝遺書〟と書かれていた。
「お母さん……?」
「今朝、起きたら昭彦さんがいなくなっていて……これがこのテーブルの上に置いてあったの」
そう語る母の表情は硬く、繭美をまともに見ていなかった。
「どういうこと?」
思わず呟いてから、何を馬鹿なことを言っているのだと我ながら思った。〝遺書〟なのだ。そういうことだろう。
だが、母は娘をなじりはせず、深くうつむいた。
「こんなことになるんなら……あんたには全部正直に話しとくんだった。あんたにとっては、昭彦さんは義理の父親だもんね。そう簡単に懐けるわけないわよね。特にあんたは死んだ父親にずいぶん憧れてたから」
「お母さん……何が言いたいの?」
「違うのよ、繭」
「何が違うの?」
繭美は眉をひそめた。もしかしたら、母はショックでおかしくなってしまっているのではないだろうか。
「昭彦さんはあんたの義理の父親じゃない。あんたの実の、本当の父親なのよ」
母は狂っている、と繭美は思った。
でなかったら。
今、この世界が狂っている。
それまで、繭美は自分を平凡な女子高校生だと思っていた。
確かに、本当の父親は自分が生まれる前に亡くなり、母親は昨年再婚したが、そんなことは世間ではいくらでもあることだ。
しかし、その朝、繭美が母から聞かされた話は、彼女の想像を超えるものだった。
母はまず、繭美の実父である雅弥の死は、病死ではなく自殺だったと言った。そのことはすでに知っていたが、繭美はただ黙ってうなずくだけに留めた。
「あの人は押しに弱くてね。友達――なんて言いたくもないけど、そいつに借金の連帯保証人頼まれて、言われるままなってやってたの。ところが、そいつが逃げ出したもんだから、とんでもない金額の借金をしょいこんじゃった。もちろん、あたしたちは何とかしようとした。でも、金額が大きすぎた。おまけに、あたしのお腹の中にはもうあんたがいた。雅弥は悩みに悩んだ末、あたしたちに迷惑をかけないようにと、一人で崖から身を投げた――」
ここで母は少し笑った。繭美はぞっとしてそんな母を見つめた。
「でも、それも嘘。雅弥は死んじゃいなかった。自殺したふりをしただけだったの。絶対に死体が上がらないっていう自殺の名所に行って、そこに遺書と靴を置いただけだったのよ。雅弥は死んだことにして、ほとぼりが冷めるまで、身を隠すことにした。大変だったわよ、ほんとに。借金取りにはつきまとわれるし、生まれたばかりのあんたを抱えて働かなきゃならなかったし、雅弥ともこっそり連絡とらなきゃならなかったし。でも、雅弥の死亡が確定して、あたしも雅弥もようやく落ち着いてきたとき、あたしたちは改めて一緒になりたいと思ったの。あたしには雅弥以外考えられなかった。でも、雅弥はもう死んだことになってる。死んだ人間とは結婚できない。だから、雅弥に他人になってもらったの」
「……まさか」
「そうよ。整形して、名前も変えて、まったくの別人になった。辻昭彦っていう別人にね」
母は少し得意そうに見えた。以前から変わったところのある人だとひそかに思っていたが、ここまでとは。繭美は呆然と母を見つめるより他はなかった。
「だからあの人は、本当にあんたのお父さんなのよ。あたしはそれを知ってたから、あんたに何も訊かないで結婚を決めちゃった。でも、あんたはそんなこと知らないんだもん、馴染めないわよね。あの人もあんたに本当の父親だと名乗れないことにずいぶん苦しんでた。それはあたしもわかってたんだけど……まさかこんなに――」
そこで母の表情が曇った。繭美は母の手元にある白い封筒に目を向ける。
「そこには、何て書いてあったの?」
母は無言で封筒から手紙を取り出し、繭美に見せた。手紙はとても短かった。
恵美へ。
僕は繭美を騙し続けることに疲れた。
君には本当に迷惑ばかりかけた。本当にすまない。
後は頼む。
雅弥
繭美は手紙から顔を上げ、母を見た。
母は泣いていた。どこか遠くを見つめたまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「罰が当たった……のかしらね」
泣きながら、母は言った。
「これでやっと親子三人、一緒に暮らせると思ったのに……」
――何が悪かったんだろう。
手紙を握りしめたまま、繭美は自問した。
――あたし? あたしが〝お父さん〟と呼べばよかったの? でも、あの人はお父さんじゃなかった。……そう思ってた。
「捜さなきゃ」
ぽつりと繭美は呟いた。
「どうやって?」
泣き笑いのような表情を浮かべて母が問い返す。
「車がなくなってる。たぶん、夜中に抜け出したんだと思うわ。何で気づかなかったのかしら」
「でも、ここでこうしてたってしょうがないじゃない!」
繭美は叫んで、手紙をテーブルに叩きつけた。
「お母さんたちは勝手よ! どうして今まで話してくれなかったの! そしたらあたし、あんな依頼なんて……!」
そこまで言って繭美は気づいた。
そうだ。依頼して、叶えられなくて、その代わりだと言って渡されたあの護符。血を垂らして願いごとを唱えれば、悪魔が召喚できると言った――
繭美はダイニングを飛び出して、階段を駆け上がった。母が何か言っていたが、最初から聞く気もなかった。
自分の部屋に飛びこんで、机の引き出しを乱暴に開ける。昨夜、とりあえず投げこんでおいたあの護符があった。
あとは血だ。刃物を探したが、あせっているせいかすぐに見つからない。そうだ、キッチンになら包丁があると思いついて、あわててまた下へ駆け下りる。
「繭……いったい何――」
面食らう母を無視して繭美はキッチンへ行き、食器の水切りのところに置きっぱなしにしてあった包丁をつかんだ。
「繭、何する気……!」
母の悲鳴のような声が聞こえたが、繭美はかまわず、護符を握っている左の人差指の先を包丁の鋭い切っ先で切った。
血はすぐには出なかった。が、しばらくすると傷口から膨れあがってあふれ、護符の上に落ちた。護符に落ちた血は、すぐに吸いこまれるようにして消えた。
「お願い!」
護符に向かって繭美は叫んだ。
「今すぐここに、あたしの本当のお父さんを連れてきて!」
「繭美!」
母が繭美の手から包丁を取り上げ、流しに投げ捨てた。
「何て馬鹿なことするの! あんたに死なれたらあたしたちは……」
そこで母の言葉が途切れた。
繭美の手の中にある護符が青白く輝いている。手で持っていられないほど熱くなって、たまらず空中へ放り投げた。とたん、護符は目もくらむような白光を吐き出した。
「おや、私か」
低い男の声が部屋中に響いた。繭美にはまったく聞き覚えのない声。
「シャックスあたりが呼び出されるかと思ったが……まあ、あいつは嘘つきだからな」
繭美は宙を見上げたまま固まっていた。
包丁を持っていなくてよかった。持っていたら下へ落として、足に突き刺していたかもしれない。
母もまた繭美と同じ状態になっていた。ということは、これは繭美にだけ見える幻ではないのだ。
テーブルの向こうで、あぐらをかいて浮いていたもの。
それは、一言で言うなら〝怪物〟だった。
体の大きさ自体は、普通の人間とあまり変わらない。だが、その体色は緑色をしていて、腰には黒い毛皮のようなものを巻いていた。背中には蝙蝠を思わせる翼があり、毛のない頭には鬼のような二本の角が生えている。耳はやたらと大きく、まるでフレンチ・ブルドッグのようだ。顔は人間と大差なかったが、そこにもやはり眉や髭といった毛はいっさい存在していなかった。
その怪物は、凍りつく母娘を面白そうに眺めながら、長い爪の生えた人差指でぽりぽりと頬を掻いた。
「残念だったな。正午だったら、人間の姿をとれたんだが」
外見は異形だが、話す言葉はまぎれもなく日本語だった。
「我が名はガープ。汝の召喚に応じ参上した。汝の願いは、本当の父親をここへ連れてくることで間違いないか?」
金色の瞳に見つめられて、繭美はすぐには声が出なかった。が、やっとの思いで答える。
「はい。間違いないです」
「承知した」
悪魔ガープが軽くうなずいた。と、その姿が掻き消え、また現れた。
ただし、今度は小脇に誰かを抱えていた。ガープはまるで子猫のようにその誰かの襟首をつかみ、床の上に座らせた。
「雅弥!」
行動は母のほうが早かった。何が起こったかわからないような顔で辺りを見回しているその誰か――今は〝昭彦〟である〝雅弥〟に、転びそうになりながら駆け寄った。
「……恵美? どうして……」
首に抱きついて泣いている母を不思議そうに見つめる。その手には千切れたロープが握られていた。
繭美はその場に立ちつくしていた。
自分が願ったのは〝本当のお父さん〟。
悪魔には、その意味は伝わっているだろうか?
「悪魔には、戸籍だの養子縁組だのは、まるで無意味だ」
繭美の心を読んだように、ガープはにやりと笑った。
「その男は、おまえの血縁的な意味での〝父親〟だ。悪魔の言葉が信じられないのなら、DNA鑑定でも何でもするがいい」
「わ、な、何だ?」
声でようやくガープの存在に気づいたらしい。ガープを見上げた雅弥はあわてて後ろにいざった。
「どうして、死のうとするの?」
繭美は雅弥を見すえて問いかけた。雅弥は母を抱えたまま、おそらく初めてまともに繭美と目を合わせた。
「繭美……」
「死んじゃったら……悪魔にだって生き返らせられないのよ? 死ぬくらいなら、ほんとのこと話してよ。あたしに、〝お父さん〟って呼ばせてよ……」
両目から涙があふれた。
自分の寿命を二十年削ってまでも会いたかった〝父親〟が、いま目の前にいる。
いや、今までもいたのだ。ただ、知らなかっただけで。あの写真の中の若い父とは、あまりにもかけ離れているけれど。
「繭美……」
〝両親〟が心苦しそうに彼女を見つめる。ガープだけが涼しげな顔で三人を見下ろしていた。
「さて。これで私は御役御免というわけだが。岡元繭美、おまえは約束を破ったな」
「約束?」
はっとガープを見上げる。それに触発されたように雅弥が立ち上がり、繭美を抱き寄せてガープから引き離した。
母とは違う力強い腕。これが〝父親〟というものなのか。
「そう。おまえはあの護符を人前で使用した。したがって、おまえやおまえの家族から、護符に関するいっさいの記憶は失われる」
そんなことはかまわないと答えようとして、繭美は電池が切れたおもちゃのように動きを止めた。
護符に関する記憶には、昭彦が雅弥だったという事実も含まれるのだろうか?
もしそうなら、自分や父はまた同じことを繰り返してしまうのではないか?
お互いを避け合い、父は自殺を決意し――だが、今度は父を捜し出すための護符はない。
「な、何をする気だ?」
話やガープの正体はわからないながらも、繭美に何かしようとしているということは伝わったらしい。多少声は震えていたが、雅弥は繭美をかばってガープの前に立ちふさがった。
母のほうはもっと現実的で、さっき流しに捨てた包丁をいつのまにかつかんでガープを睨みつけていた。それを横目で見ながら、ああ自分は愛されているのだと繭美は思った。
「この人が、本当のお父さんだってことは、忘れてもかまわない……」
父を押しのけて、繭美はガープを見上げた。
「でも、あたしは記憶をなくしても、この人のことを〝お父さん〟って呼びたいの」
ガープは目を細めて翼を大きく広げた。羽ばたいてはいないが、ずっと空中に浮かんでいる。
「本来なら、それはまた別の願いになるが……まあ、よかろう。特別サービスだ」
ガープは器用にウィンクしてみせた。思わず繭美の表情がほころぶ。両親は何かの見間違いではないかというように、互いの顔を見合わせた。
「きっと、秋津もそれを望んでいるだろうからな……」
それは誰かと問いたかったが、繭美は急速な眠気に襲われた。目を開けていられない。体中から力が抜けていく。
意識をなくす寸前まで耳の中で響いていたのは、ガープの楽しげな笑い声だけだった。
「なに……」
寝ぼけながらも、枕元の目覚まし時計を見て、思いきり眉をひそめる。
「何よ、もう……まだ六時前じゃない……」
「繭美」
まだパジャマ姿の母の顔は、これまで見たことがないほど真剣だった。ただならぬ気配を感じて、繭美の眠気は急速に覚めた。
「どうしたの? 何かあったの?」
「……とにかく、下に来て。話があるの」
それだけ言って、母は部屋を出ていった。
いったい何事だろう。ベッドから飛び出て、椅子の背に掛けていたカーディガンを羽織りながら階下に降りると、母はリビングではなく、ダイニングのテーブルで繭美を待っていた。
あの男はまだ寝ているのか。いつもならこの時間にはもう起きているはずなのに。
少し奇妙に思いながらも、繭美は母の向かいに腰を下ろした。
「それで、お母さん。話って?」
母はしばらく間をおいてから、手に持っていた何かを繭美の前に差し出した。
それは白い封筒で、表には〝遺書〟と書かれていた。
「お母さん……?」
「今朝、起きたら昭彦さんがいなくなっていて……これがこのテーブルの上に置いてあったの」
そう語る母の表情は硬く、繭美をまともに見ていなかった。
「どういうこと?」
思わず呟いてから、何を馬鹿なことを言っているのだと我ながら思った。〝遺書〟なのだ。そういうことだろう。
だが、母は娘をなじりはせず、深くうつむいた。
「こんなことになるんなら……あんたには全部正直に話しとくんだった。あんたにとっては、昭彦さんは義理の父親だもんね。そう簡単に懐けるわけないわよね。特にあんたは死んだ父親にずいぶん憧れてたから」
「お母さん……何が言いたいの?」
「違うのよ、繭」
「何が違うの?」
繭美は眉をひそめた。もしかしたら、母はショックでおかしくなってしまっているのではないだろうか。
「昭彦さんはあんたの義理の父親じゃない。あんたの実の、本当の父親なのよ」
母は狂っている、と繭美は思った。
でなかったら。
今、この世界が狂っている。
それまで、繭美は自分を平凡な女子高校生だと思っていた。
確かに、本当の父親は自分が生まれる前に亡くなり、母親は昨年再婚したが、そんなことは世間ではいくらでもあることだ。
しかし、その朝、繭美が母から聞かされた話は、彼女の想像を超えるものだった。
母はまず、繭美の実父である雅弥の死は、病死ではなく自殺だったと言った。そのことはすでに知っていたが、繭美はただ黙ってうなずくだけに留めた。
「あの人は押しに弱くてね。友達――なんて言いたくもないけど、そいつに借金の連帯保証人頼まれて、言われるままなってやってたの。ところが、そいつが逃げ出したもんだから、とんでもない金額の借金をしょいこんじゃった。もちろん、あたしたちは何とかしようとした。でも、金額が大きすぎた。おまけに、あたしのお腹の中にはもうあんたがいた。雅弥は悩みに悩んだ末、あたしたちに迷惑をかけないようにと、一人で崖から身を投げた――」
ここで母は少し笑った。繭美はぞっとしてそんな母を見つめた。
「でも、それも嘘。雅弥は死んじゃいなかった。自殺したふりをしただけだったの。絶対に死体が上がらないっていう自殺の名所に行って、そこに遺書と靴を置いただけだったのよ。雅弥は死んだことにして、ほとぼりが冷めるまで、身を隠すことにした。大変だったわよ、ほんとに。借金取りにはつきまとわれるし、生まれたばかりのあんたを抱えて働かなきゃならなかったし、雅弥ともこっそり連絡とらなきゃならなかったし。でも、雅弥の死亡が確定して、あたしも雅弥もようやく落ち着いてきたとき、あたしたちは改めて一緒になりたいと思ったの。あたしには雅弥以外考えられなかった。でも、雅弥はもう死んだことになってる。死んだ人間とは結婚できない。だから、雅弥に他人になってもらったの」
「……まさか」
「そうよ。整形して、名前も変えて、まったくの別人になった。辻昭彦っていう別人にね」
母は少し得意そうに見えた。以前から変わったところのある人だとひそかに思っていたが、ここまでとは。繭美は呆然と母を見つめるより他はなかった。
「だからあの人は、本当にあんたのお父さんなのよ。あたしはそれを知ってたから、あんたに何も訊かないで結婚を決めちゃった。でも、あんたはそんなこと知らないんだもん、馴染めないわよね。あの人もあんたに本当の父親だと名乗れないことにずいぶん苦しんでた。それはあたしもわかってたんだけど……まさかこんなに――」
そこで母の表情が曇った。繭美は母の手元にある白い封筒に目を向ける。
「そこには、何て書いてあったの?」
母は無言で封筒から手紙を取り出し、繭美に見せた。手紙はとても短かった。
恵美へ。
僕は繭美を騙し続けることに疲れた。
君には本当に迷惑ばかりかけた。本当にすまない。
後は頼む。
雅弥
繭美は手紙から顔を上げ、母を見た。
母は泣いていた。どこか遠くを見つめたまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「罰が当たった……のかしらね」
泣きながら、母は言った。
「これでやっと親子三人、一緒に暮らせると思ったのに……」
――何が悪かったんだろう。
手紙を握りしめたまま、繭美は自問した。
――あたし? あたしが〝お父さん〟と呼べばよかったの? でも、あの人はお父さんじゃなかった。……そう思ってた。
「捜さなきゃ」
ぽつりと繭美は呟いた。
「どうやって?」
泣き笑いのような表情を浮かべて母が問い返す。
「車がなくなってる。たぶん、夜中に抜け出したんだと思うわ。何で気づかなかったのかしら」
「でも、ここでこうしてたってしょうがないじゃない!」
繭美は叫んで、手紙をテーブルに叩きつけた。
「お母さんたちは勝手よ! どうして今まで話してくれなかったの! そしたらあたし、あんな依頼なんて……!」
そこまで言って繭美は気づいた。
そうだ。依頼して、叶えられなくて、その代わりだと言って渡されたあの護符。血を垂らして願いごとを唱えれば、悪魔が召喚できると言った――
繭美はダイニングを飛び出して、階段を駆け上がった。母が何か言っていたが、最初から聞く気もなかった。
自分の部屋に飛びこんで、机の引き出しを乱暴に開ける。昨夜、とりあえず投げこんでおいたあの護符があった。
あとは血だ。刃物を探したが、あせっているせいかすぐに見つからない。そうだ、キッチンになら包丁があると思いついて、あわててまた下へ駆け下りる。
「繭……いったい何――」
面食らう母を無視して繭美はキッチンへ行き、食器の水切りのところに置きっぱなしにしてあった包丁をつかんだ。
「繭、何する気……!」
母の悲鳴のような声が聞こえたが、繭美はかまわず、護符を握っている左の人差指の先を包丁の鋭い切っ先で切った。
血はすぐには出なかった。が、しばらくすると傷口から膨れあがってあふれ、護符の上に落ちた。護符に落ちた血は、すぐに吸いこまれるようにして消えた。
「お願い!」
護符に向かって繭美は叫んだ。
「今すぐここに、あたしの本当のお父さんを連れてきて!」
「繭美!」
母が繭美の手から包丁を取り上げ、流しに投げ捨てた。
「何て馬鹿なことするの! あんたに死なれたらあたしたちは……」
そこで母の言葉が途切れた。
繭美の手の中にある護符が青白く輝いている。手で持っていられないほど熱くなって、たまらず空中へ放り投げた。とたん、護符は目もくらむような白光を吐き出した。
「おや、私か」
低い男の声が部屋中に響いた。繭美にはまったく聞き覚えのない声。
「シャックスあたりが呼び出されるかと思ったが……まあ、あいつは嘘つきだからな」
繭美は宙を見上げたまま固まっていた。
包丁を持っていなくてよかった。持っていたら下へ落として、足に突き刺していたかもしれない。
母もまた繭美と同じ状態になっていた。ということは、これは繭美にだけ見える幻ではないのだ。
テーブルの向こうで、あぐらをかいて浮いていたもの。
それは、一言で言うなら〝怪物〟だった。
体の大きさ自体は、普通の人間とあまり変わらない。だが、その体色は緑色をしていて、腰には黒い毛皮のようなものを巻いていた。背中には蝙蝠を思わせる翼があり、毛のない頭には鬼のような二本の角が生えている。耳はやたらと大きく、まるでフレンチ・ブルドッグのようだ。顔は人間と大差なかったが、そこにもやはり眉や髭といった毛はいっさい存在していなかった。
その怪物は、凍りつく母娘を面白そうに眺めながら、長い爪の生えた人差指でぽりぽりと頬を掻いた。
「残念だったな。正午だったら、人間の姿をとれたんだが」
外見は異形だが、話す言葉はまぎれもなく日本語だった。
「我が名はガープ。汝の召喚に応じ参上した。汝の願いは、本当の父親をここへ連れてくることで間違いないか?」
金色の瞳に見つめられて、繭美はすぐには声が出なかった。が、やっとの思いで答える。
「はい。間違いないです」
「承知した」
悪魔ガープが軽くうなずいた。と、その姿が掻き消え、また現れた。
ただし、今度は小脇に誰かを抱えていた。ガープはまるで子猫のようにその誰かの襟首をつかみ、床の上に座らせた。
「雅弥!」
行動は母のほうが早かった。何が起こったかわからないような顔で辺りを見回しているその誰か――今は〝昭彦〟である〝雅弥〟に、転びそうになりながら駆け寄った。
「……恵美? どうして……」
首に抱きついて泣いている母を不思議そうに見つめる。その手には千切れたロープが握られていた。
繭美はその場に立ちつくしていた。
自分が願ったのは〝本当のお父さん〟。
悪魔には、その意味は伝わっているだろうか?
「悪魔には、戸籍だの養子縁組だのは、まるで無意味だ」
繭美の心を読んだように、ガープはにやりと笑った。
「その男は、おまえの血縁的な意味での〝父親〟だ。悪魔の言葉が信じられないのなら、DNA鑑定でも何でもするがいい」
「わ、な、何だ?」
声でようやくガープの存在に気づいたらしい。ガープを見上げた雅弥はあわてて後ろにいざった。
「どうして、死のうとするの?」
繭美は雅弥を見すえて問いかけた。雅弥は母を抱えたまま、おそらく初めてまともに繭美と目を合わせた。
「繭美……」
「死んじゃったら……悪魔にだって生き返らせられないのよ? 死ぬくらいなら、ほんとのこと話してよ。あたしに、〝お父さん〟って呼ばせてよ……」
両目から涙があふれた。
自分の寿命を二十年削ってまでも会いたかった〝父親〟が、いま目の前にいる。
いや、今までもいたのだ。ただ、知らなかっただけで。あの写真の中の若い父とは、あまりにもかけ離れているけれど。
「繭美……」
〝両親〟が心苦しそうに彼女を見つめる。ガープだけが涼しげな顔で三人を見下ろしていた。
「さて。これで私は御役御免というわけだが。岡元繭美、おまえは約束を破ったな」
「約束?」
はっとガープを見上げる。それに触発されたように雅弥が立ち上がり、繭美を抱き寄せてガープから引き離した。
母とは違う力強い腕。これが〝父親〟というものなのか。
「そう。おまえはあの護符を人前で使用した。したがって、おまえやおまえの家族から、護符に関するいっさいの記憶は失われる」
そんなことはかまわないと答えようとして、繭美は電池が切れたおもちゃのように動きを止めた。
護符に関する記憶には、昭彦が雅弥だったという事実も含まれるのだろうか?
もしそうなら、自分や父はまた同じことを繰り返してしまうのではないか?
お互いを避け合い、父は自殺を決意し――だが、今度は父を捜し出すための護符はない。
「な、何をする気だ?」
話やガープの正体はわからないながらも、繭美に何かしようとしているということは伝わったらしい。多少声は震えていたが、雅弥は繭美をかばってガープの前に立ちふさがった。
母のほうはもっと現実的で、さっき流しに捨てた包丁をいつのまにかつかんでガープを睨みつけていた。それを横目で見ながら、ああ自分は愛されているのだと繭美は思った。
「この人が、本当のお父さんだってことは、忘れてもかまわない……」
父を押しのけて、繭美はガープを見上げた。
「でも、あたしは記憶をなくしても、この人のことを〝お父さん〟って呼びたいの」
ガープは目を細めて翼を大きく広げた。羽ばたいてはいないが、ずっと空中に浮かんでいる。
「本来なら、それはまた別の願いになるが……まあ、よかろう。特別サービスだ」
ガープは器用にウィンクしてみせた。思わず繭美の表情がほころぶ。両親は何かの見間違いではないかというように、互いの顔を見合わせた。
「きっと、秋津もそれを望んでいるだろうからな……」
それは誰かと問いたかったが、繭美は急速な眠気に襲われた。目を開けていられない。体中から力が抜けていく。
意識をなくす寸前まで耳の中で響いていたのは、ガープの楽しげな笑い声だけだった。
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