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数時間後、廊下を歩く緋王は背後から呼び止められた。
「陛下」
その相手の顔を見て、あからさまに嫌な顔をする。
「何だ。説教なら聞き飽いたぞ」
「それは私の仕事じゃないですから。———その様子では、早速、またもう一悶着あったようですね」
目敏く左手に巻いた布を見咎められ、緋王はばつが悪そうに目をそらした。
穏やかさが服を着て歩くような外見の史郎は、説教は書記官である自分の仕事じゃないと言いながらも、言葉の端々に嫌みを入れるのがお得意だ。
「まさかとは思いますが……」
「殴ってないぞ。そこまで馬鹿じゃない」
「それはそれは。まあ、人を傷つけるのは殴るばかりじゃないですからね」
「……史郎。何が言いたい」
「雨の中話し込んでおられたんですか、庭で」
「たまたま俺の通り道に奴がいたんだ。それに小雨だった」
「それで、ご自分は優雅に湯を浴びて手当も受けて、さあこれから夕餉ですか」
緋王は舌打ちでもしそうな顔で、逃げるように歩き始めた。
「陛下。あの子、風邪をひきますよ」
ぐい、と無遠慮に帯を引っ張られる。さすがに均衡を崩すまではいかないが、空いたお腹に帯が食い込んでこの上なく気分が悪い。
「何すんだお前は!無礼者が」
「話の途中で歩き出す方に言われたくありません。———陛下。稀千君はまだ庭に立っていましたよ」
「———は?」
やれやれ、といったように史郎は首を振る。
「早く迎えに行ってやってください」
「何で俺が。———お前行ってこい」
「偉そうに命令しないでください」
「あのな、王が偉そうに命令しないでどうすんだ。———行ってくださいお願いしますって言えというのか」
「そうじゃなく。尻ぬぐいに臣下を使わないでください、と言っているんです」
「何が尻ぬぐい———」
「それに。私は陛下ほど冷たい血をしていませんから。とうの昔に声をかけました」
「———だったら言うなよ」
「あの子は動かなかったんですよ。私が何を言っても、頑なに首を振るだけで」
「……………」
「恐れながら王の御物に手を触れて申し訳なかったのですが、氷のように冷たい手をしていましたよ」
それでも動かない緋王に、史郎はとうとう冷たい声を放った。
「何をしているんです」
普段穏やかなだけに、滅多に見せない怒った表情は、熱も一気に冷めるほど鋭い。
「それでも男ですか。さっさとお行きなさい」
「お前……何で、平気なんだ。あいつは黒国の使者だぞ?大姫を殺した、敵じゃないか。何を言い含まれてきたかもわからない。何でそうやって迎えられる?」
史郎はまじまじと緋王の顔を見ると、また深いため息と共に軽く首を振った。
「何を言っているんですか。あの子はまだ十三の、ただの幼い少年ではないですか。守る手を必要としているただの子供ですよ。見知らぬ土地に来て誰も彼を庇護してやれない。私たち大人が守ってやらずに、誰が守るんです」
それが、後宮の下官、臣下一切に統一された方針だった。使者が子供と知ったときからの。———恨みは一先ず置こう、守ってやらねば、と。
緋王の眉間のしわが深くなる。
「俺は、とっとと帰ってもらいたいんだ。使者などいらぬ。しかも黒王は、あれを下賜品と称してよこしたんだぞ」
「だからこそ守ってやらねば。———陛下。黒王の性格です、あの子はただで帰ることなど許されないでしょう」
「それでは、奴はやはり間者ではないか」
「まったく。———緋王陛下。王になって十年、ずいぶん頭が固くなりましたね。昔のあなたなら、きっと迷わず彼を助けていただろうに」
「仕方ないだろう。俺はもう……王だ」
「あなたは私に言った。即位式で、誓ったはずです。その言葉を覚えているのなら、行くべきだと思いますよ。あの子が間者だろうが刺客だろうが。国が富んでも初心は忘れないでもらいたいものです」
難しい顔をする緋王に、史朗はやれやれと悩ましげに首を振った。
「王がそれでは、我々はどうすればいいんでしょうね」
それだけ言って、史郎は回廊を曲がっていってしまった。
「何なんだよ、一体……」
そう遠い昔の話でもなかった。
あの日。
急な父王の死と、矢継ぎ早に訪れる黒国からの同盟の使者。何が起きたのかわからないまま、自分は緋王となった。
それまでの戦で、多くの同胞が死んだ。緋国の年長者はこぞって若者を守ろうと戦に出で、帰ってこなかった。
即位式の時。史郎とそして全宇の二人に、ついてきてほしいと言った。政の何もわからない自分を、支えてほしいと。そして今も二人は自分の左右に控えてくれている。
忘れるはずがない。即位式の日。涙をこらえ、二度と泣かないと誓い、そして自分は大人になったのだ。
———子供の泣かない国を作りたい。理不尽な怒りを抱かない国を。人は道具ではない。たとえ他国が理不尽な侵略をしてきても、それに捕らわれない心を持って。
しばらく廊下で立ちつくしていた緋王だったが、次の瞬間には舌打ちと共に踵を返していた。
「陛下」
その相手の顔を見て、あからさまに嫌な顔をする。
「何だ。説教なら聞き飽いたぞ」
「それは私の仕事じゃないですから。———その様子では、早速、またもう一悶着あったようですね」
目敏く左手に巻いた布を見咎められ、緋王はばつが悪そうに目をそらした。
穏やかさが服を着て歩くような外見の史郎は、説教は書記官である自分の仕事じゃないと言いながらも、言葉の端々に嫌みを入れるのがお得意だ。
「まさかとは思いますが……」
「殴ってないぞ。そこまで馬鹿じゃない」
「それはそれは。まあ、人を傷つけるのは殴るばかりじゃないですからね」
「……史郎。何が言いたい」
「雨の中話し込んでおられたんですか、庭で」
「たまたま俺の通り道に奴がいたんだ。それに小雨だった」
「それで、ご自分は優雅に湯を浴びて手当も受けて、さあこれから夕餉ですか」
緋王は舌打ちでもしそうな顔で、逃げるように歩き始めた。
「陛下。あの子、風邪をひきますよ」
ぐい、と無遠慮に帯を引っ張られる。さすがに均衡を崩すまではいかないが、空いたお腹に帯が食い込んでこの上なく気分が悪い。
「何すんだお前は!無礼者が」
「話の途中で歩き出す方に言われたくありません。———陛下。稀千君はまだ庭に立っていましたよ」
「———は?」
やれやれ、といったように史郎は首を振る。
「早く迎えに行ってやってください」
「何で俺が。———お前行ってこい」
「偉そうに命令しないでください」
「あのな、王が偉そうに命令しないでどうすんだ。———行ってくださいお願いしますって言えというのか」
「そうじゃなく。尻ぬぐいに臣下を使わないでください、と言っているんです」
「何が尻ぬぐい———」
「それに。私は陛下ほど冷たい血をしていませんから。とうの昔に声をかけました」
「———だったら言うなよ」
「あの子は動かなかったんですよ。私が何を言っても、頑なに首を振るだけで」
「……………」
「恐れながら王の御物に手を触れて申し訳なかったのですが、氷のように冷たい手をしていましたよ」
それでも動かない緋王に、史郎はとうとう冷たい声を放った。
「何をしているんです」
普段穏やかなだけに、滅多に見せない怒った表情は、熱も一気に冷めるほど鋭い。
「それでも男ですか。さっさとお行きなさい」
「お前……何で、平気なんだ。あいつは黒国の使者だぞ?大姫を殺した、敵じゃないか。何を言い含まれてきたかもわからない。何でそうやって迎えられる?」
史郎はまじまじと緋王の顔を見ると、また深いため息と共に軽く首を振った。
「何を言っているんですか。あの子はまだ十三の、ただの幼い少年ではないですか。守る手を必要としているただの子供ですよ。見知らぬ土地に来て誰も彼を庇護してやれない。私たち大人が守ってやらずに、誰が守るんです」
それが、後宮の下官、臣下一切に統一された方針だった。使者が子供と知ったときからの。———恨みは一先ず置こう、守ってやらねば、と。
緋王の眉間のしわが深くなる。
「俺は、とっとと帰ってもらいたいんだ。使者などいらぬ。しかも黒王は、あれを下賜品と称してよこしたんだぞ」
「だからこそ守ってやらねば。———陛下。黒王の性格です、あの子はただで帰ることなど許されないでしょう」
「それでは、奴はやはり間者ではないか」
「まったく。———緋王陛下。王になって十年、ずいぶん頭が固くなりましたね。昔のあなたなら、きっと迷わず彼を助けていただろうに」
「仕方ないだろう。俺はもう……王だ」
「あなたは私に言った。即位式で、誓ったはずです。その言葉を覚えているのなら、行くべきだと思いますよ。あの子が間者だろうが刺客だろうが。国が富んでも初心は忘れないでもらいたいものです」
難しい顔をする緋王に、史朗はやれやれと悩ましげに首を振った。
「王がそれでは、我々はどうすればいいんでしょうね」
それだけ言って、史郎は回廊を曲がっていってしまった。
「何なんだよ、一体……」
そう遠い昔の話でもなかった。
あの日。
急な父王の死と、矢継ぎ早に訪れる黒国からの同盟の使者。何が起きたのかわからないまま、自分は緋王となった。
それまでの戦で、多くの同胞が死んだ。緋国の年長者はこぞって若者を守ろうと戦に出で、帰ってこなかった。
即位式の時。史郎とそして全宇の二人に、ついてきてほしいと言った。政の何もわからない自分を、支えてほしいと。そして今も二人は自分の左右に控えてくれている。
忘れるはずがない。即位式の日。涙をこらえ、二度と泣かないと誓い、そして自分は大人になったのだ。
———子供の泣かない国を作りたい。理不尽な怒りを抱かない国を。人は道具ではない。たとえ他国が理不尽な侵略をしてきても、それに捕らわれない心を持って。
しばらく廊下で立ちつくしていた緋王だったが、次の瞬間には舌打ちと共に踵を返していた。
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