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第1章
29.愛
ユリアがようやく目を覚ましたのは、昼前だった。
目が覚めたようなのにしばらくぼうっと天井を見つめている。
ヘルマンも声をかけずにその様子を見ていた。
目の下のくまが深い。いったいいつからだったんだろう。胸が締め付けられるようで、険しい顔になる。
ユリアの視線がふと動き、目が合った。ユリアはまだ放心しているようだったが、そのうちにはっとして飛び起きた。
あまりに急いで起きたから案の定めまいがしたようで、上体が大きく傾く。ヘルマンがそれを支えた。
ユリアは青ざめた顔をしていた。顔色が悪いのに、さらに色をなくしている。
「ご主人様……申し訳ありません」
身体を支えているのに頼ろうともせず、ただ頭を下げている。
ヘルマンはここで初めて、自分がとんでもない間違いを犯していたことに気づいた。
ユリアは続けた。
「もっとちゃんとやります。ちゃんと寝て、食べて、仕事も……こんなことは二度と起こさないように注意します。申し訳ございません」
細い体が今にも倒れてしまいそうだった。
――寝て、食べて……そんな当たり前のことが、ユリアにはどれほど難しいことなのだろうか。
ヘルマンは頭を殴られたような気がした。
「ユリア」
たまらず呼びかけたが、ユリアは謝罪を繰り返すだけだった。
「ユリア」
ヘルマンはもう一度呼びかけ、ユリアをぎゅっと抱き寄せた。
ユリアの体が固く身構えた。
以前はあれほど頼り自分に委ねられていた体が、今は少しでも距離を取ろうとしている。
小さな体を壊さないように抱きしめて、ヘルマンは慎重に言葉を選んだ。
「ユリア。大丈夫だ、頑張らなくて――」
「っいえ、できます!今日は少し、調子が……お願いです、い、言わないでください」
切羽詰まった様子にヘルマンはユリアの表情を見た。見捨てられるのを怖れているようにヘルマンにすがってくる。
「もう一度だけ、させていただけませんか。次はちゃんと……」
「ユリア。何を言っているんだ」
「僕、ここで働きたいんです」
「わかっている。お前はここで補佐官になるんだろう?」
ヘルマンの言葉にユリアは必死だった目を見開いた。緑の美しい瞳が間近に迫る。
「――いいんですか」
「ああ。待っている。お前が成人になって補佐官になるのを楽しみにしている。言っただろう、元気になったら視察も行けると」
「――っふ、うっ……」
宝石のような緑の瞳からぽろぽろと涙があふれ出た。
「ユリア。仕事を辞めさせられると思っていたのか?なぜ……」
ヘルマンは会いに行かなかったが、仕事は普通に行っていたはずだ。
「だ、って……僕には、仕事、任せられないって……」
「そんなことは言っていない」
全く身に覚えがない。
「会って、くださらな……、し」
「それは悪かった」
「ずっと、ご迷惑しかおかけしていないので、嫌われても……煩わしくて、当然です。だからせめて仕事はちゃんと、って思うのに、全然できなくて……」
「そんなことはない。報告書はちゃんと書けていたじゃないか」
「う……も、もっと、が、頑張ったら、ごしゅ、じ、……さま、に――う、ううう」
話したいのに。ちゃんと喋りたいのに、ヘルマンが、いつものように抱きしめて宥めてくれるから。
低く優しい声で。
ユリアは涙がどんどん止まらなくなった。それ以上喋ることができなくて、嗚咽を漏らし過呼吸のようになりながらただ子供のように泣いた。
「我慢しなくていいから」
無理に泣くまいとして喉が鳴るだけだったので、ヘルマンが落ち着くように背中をさすった。
「大丈夫だ、待つから。ちゃんと泣いてしまいなさい」
そう言われたら、もうユリアは涙が止まらなかった。
ユリアが泣き止むまでヘルマンは背中をさすってくれていた。
その温かい手にユリアは涙が止まった後も、ふわふわと夢心地の様な気分でいた。
「――落ち着いたな」
ヘルマンに言われてユリアは頷いた。泣きすぎて目が痛い。
「ここまで思い詰めているとは思わなかった。悪かった。仕事は――フェルナンドに任せていればいいと思っていたんだが」
「……………」
「任せられないなどと言ったことはないからな」
「はい」
ヘルマンは赤く腫れた目元をそっと撫でた。
「――そう誤解させてしまったんだな」
頭が働いていな状態で。眠れず食べれずの状態で、何か取り違えがあったんだろう。仕事をセーブして様子を見るように言っていたからかもしれない。
優しい手つきにまたユリアの涙がにじむ。睫毛がどんどん濡れていった。
「僕、補佐官を目指していて、いいんですね」
「当然だろう。フェルナンドもそのつもりでいる」
「こんな僕が……」
ヘルマンがハンカチを差し出した。今更ではあったが、
「どうしてそう思うんだ。お前はよくやっている。語学も経理も間違いがないし丁寧にやってるじゃないか。地理も覚えて、領地経営に段々と実践を積んでいるだろう」
「僕は――」
ユリアはハンカチで顔を覆ったままぼそりと呟いた。
「金貨一枚分の価値なんです」
――なんだって?
唐突な台詞に聞き返すこともできなかった。
「金貨一枚で売られました。それも、すがって、お情けで買ってもらえた金額です」
「っ、ユリア」
「そんな僕が、身に余る幸せを今望んでいるんだって、わかってます。ご主人様のように立派な方に拾っていただいて。ご主人様が優しいから、僕をこんなに支援してくれて」
「――待て。ユリア」
ヘルマンはユリアのハンカチを奪い取った。ユリアの顔を覗き込む。間近で目が合った。
ユリアはその金貨一枚という事実を、悲観したり憤ったり、そんな様子はない。
ただ事実として受け止めていた。本当に自分が金貨一枚の価値なんだと、そう言われたからそうなんだろうと。
「ずっとそんな風に思っていたのか。自分が、その程度の価値だと」
ユリアは黙って肯定した。
心の奥底からふつふつと怒りが湧き上がってくるのを感じた。腹の底が熱い。しかしその感情をユリアに見せないよう、ヘルマンは努めて冷静に声を絞り出した。
「そんなこと、あるものか。金貨などでお前の価値は測れない。お前はもっと……かけがえのないものだ」
「でも。――ここに来なかったら、僕は何もできなかった」
「そんなことはない。何かを成したかだけが価値を決めるわけじゃない。何をしなくても、お前はユリアという、変わりのない大切な一人の人間だろう」
ユリアはヘルマンから視線を逸らして、少しうつむいた。
「ご主人はお優しいので、そう言ってくださいますが」
「ユリア。私を優しいというのはお前くらいだ」
ヘルマンは少し困ったように息を吐いた。
「何と言ったらいいか、わからないな。私がお前に優しくするのは、お前が大切で仕方ないからなんだが」
どういえばユリアは自分が大切だと思ってくれるのだろうか。
「迷惑だとか、煩わしいだとか思ったことはない。一度も」
「一度も……?」
「ああ」
それどころか。ヘルマンはその言葉は飲み込んだ。
「じゃあ、どうして――」
会ってくれなかったのか。その言葉は言えなかった。ユリアの立場から聞いてよいことではないという思いと、聞くのが怖かったのもある。
「すまない」
ヘルマンの謝罪に少し驚く。
ヘルマンが謝ることは滅多になかった。謝る必要のない人でもあるし、ヘルマンが失敗することなんてないと思っていたから。
ヘルマンは少し体を離した。背中が空いてすこし寂しい。代わりにヘルマンはユリアの手を取った。両手で両手を包み込んで、温かい手でしっかり握ってくれる。
「ユリア。――私は、お前が私を頼ってくれた時、無分別にも、心のどこかで喜んでいた。早く良くなってほしいと思う反面、ずっとこの手でお前を守っていてやりたいと思っていた」
ヘルマンはどこか悲しそうな顔をしていた。
「自分でも嫌になる。傷ついたお前を見てつらいはずなのに、私だけに許し、私からのみ食べ、私だけに触れさせるおまえに、私は確かに悦んでいたんだ。――ここを出て一歩を踏み出そうといった時、心のどこかで、去っていくお前を見送るのが、耐えがたかった……」
ぎゅっとヘルマンの握る手に力が入った。
ヘルマンの青い瞳がじっとユリアを見ていた。その瞳の奥に、いつもとは違う情欲がともっているような気がして、ユリアはどきりとする。
「距離を置かなければ、私はおまえを捕まえて、閉じ込めてしまいそうだった」
まさか。ヘルマンが?
あまりにも思いがけないことだった。
「ご主人様、僕を元気づけようとして言ってるんじゃ……」
「こんなことを言われて元気づくのか」
馬鹿なことを、とヘルマンは自分に向けて嘲るように笑った。こんなおぞましい感情を。
「はい」
ユリアはきっぱりと言い放った。
望むものは何でも手に入る、公爵であるヘルマンが。他でもないユリアを大切だと言ってくれる。ずっとそばにいてほしいと。
これ以上の言葉はなかった。
ヘルマンは逡巡するような顔を見せた。
「ユリア……。今、離れなければ、私はこの感情を抑えきれなくなるだろう」
「僕は離れません。ご主人様が何と言っても、離れたくありません」
ユリアのまっすぐな目がヘルマンを見つめた。揺るがない、美しい緑の瞳。
「私はお前を傷つけてしまうかもしれない。立場の弱いお前を、無理矢理束縛して苦しめたくない」
「嫌だったら嫌って、ちゃんと言います。だって僕も、ご主人様に触れられて、守ってもらって。だ、抱きしめて、もらったり……それがあったから頑張れたんです」
ユリアはヘルマンの手を握り返した。
ヘルマンは内から湧き上がってくる熱情に揺さぶられるように、ユリアの両手を自分の額に当てた。
「ユリア……愛している」
請い願う様に。その声は震えていた。
ユリアは驚きに固まった。
こんなヘルマンの姿は初めて見た。いつも迷いのないヘルマンの、躊躇しつつも、自信なく、感情を抑えきれないような。
まさかヘルマンから、そんなことを言ってもらえるとは思ってもいなかった。
「ご主人様……き、聞き間違いでしょうか」
「ユリア」
僕なんか、と言いそうになるユリアに、すかさず頬に手を伸ばしヘルマンは黙らせた。
「愛している。ユリア。他の誰でもなく、お前だけを」
全身に染み渡るような、ヘルマンの告白だった。
衝撃に涙も出ないまま、それでもユリアは指先から爪先まで温かい血が行き交うような感覚を覚えた。じんじんと胸が熱くて、焼けてしまいそうで、思わずそこを抑えた。
震えそうになるのをヘルマンが、その身体全体をそっと抱きしめてくれる。
「愛している」
温かで大きなヘルマンの腕の中で、ユリアはその言葉を何度も繰り返し聞かされた。
目が覚めたようなのにしばらくぼうっと天井を見つめている。
ヘルマンも声をかけずにその様子を見ていた。
目の下のくまが深い。いったいいつからだったんだろう。胸が締め付けられるようで、険しい顔になる。
ユリアの視線がふと動き、目が合った。ユリアはまだ放心しているようだったが、そのうちにはっとして飛び起きた。
あまりに急いで起きたから案の定めまいがしたようで、上体が大きく傾く。ヘルマンがそれを支えた。
ユリアは青ざめた顔をしていた。顔色が悪いのに、さらに色をなくしている。
「ご主人様……申し訳ありません」
身体を支えているのに頼ろうともせず、ただ頭を下げている。
ヘルマンはここで初めて、自分がとんでもない間違いを犯していたことに気づいた。
ユリアは続けた。
「もっとちゃんとやります。ちゃんと寝て、食べて、仕事も……こんなことは二度と起こさないように注意します。申し訳ございません」
細い体が今にも倒れてしまいそうだった。
――寝て、食べて……そんな当たり前のことが、ユリアにはどれほど難しいことなのだろうか。
ヘルマンは頭を殴られたような気がした。
「ユリア」
たまらず呼びかけたが、ユリアは謝罪を繰り返すだけだった。
「ユリア」
ヘルマンはもう一度呼びかけ、ユリアをぎゅっと抱き寄せた。
ユリアの体が固く身構えた。
以前はあれほど頼り自分に委ねられていた体が、今は少しでも距離を取ろうとしている。
小さな体を壊さないように抱きしめて、ヘルマンは慎重に言葉を選んだ。
「ユリア。大丈夫だ、頑張らなくて――」
「っいえ、できます!今日は少し、調子が……お願いです、い、言わないでください」
切羽詰まった様子にヘルマンはユリアの表情を見た。見捨てられるのを怖れているようにヘルマンにすがってくる。
「もう一度だけ、させていただけませんか。次はちゃんと……」
「ユリア。何を言っているんだ」
「僕、ここで働きたいんです」
「わかっている。お前はここで補佐官になるんだろう?」
ヘルマンの言葉にユリアは必死だった目を見開いた。緑の美しい瞳が間近に迫る。
「――いいんですか」
「ああ。待っている。お前が成人になって補佐官になるのを楽しみにしている。言っただろう、元気になったら視察も行けると」
「――っふ、うっ……」
宝石のような緑の瞳からぽろぽろと涙があふれ出た。
「ユリア。仕事を辞めさせられると思っていたのか?なぜ……」
ヘルマンは会いに行かなかったが、仕事は普通に行っていたはずだ。
「だ、って……僕には、仕事、任せられないって……」
「そんなことは言っていない」
全く身に覚えがない。
「会って、くださらな……、し」
「それは悪かった」
「ずっと、ご迷惑しかおかけしていないので、嫌われても……煩わしくて、当然です。だからせめて仕事はちゃんと、って思うのに、全然できなくて……」
「そんなことはない。報告書はちゃんと書けていたじゃないか」
「う……も、もっと、が、頑張ったら、ごしゅ、じ、……さま、に――う、ううう」
話したいのに。ちゃんと喋りたいのに、ヘルマンが、いつものように抱きしめて宥めてくれるから。
低く優しい声で。
ユリアは涙がどんどん止まらなくなった。それ以上喋ることができなくて、嗚咽を漏らし過呼吸のようになりながらただ子供のように泣いた。
「我慢しなくていいから」
無理に泣くまいとして喉が鳴るだけだったので、ヘルマンが落ち着くように背中をさすった。
「大丈夫だ、待つから。ちゃんと泣いてしまいなさい」
そう言われたら、もうユリアは涙が止まらなかった。
ユリアが泣き止むまでヘルマンは背中をさすってくれていた。
その温かい手にユリアは涙が止まった後も、ふわふわと夢心地の様な気分でいた。
「――落ち着いたな」
ヘルマンに言われてユリアは頷いた。泣きすぎて目が痛い。
「ここまで思い詰めているとは思わなかった。悪かった。仕事は――フェルナンドに任せていればいいと思っていたんだが」
「……………」
「任せられないなどと言ったことはないからな」
「はい」
ヘルマンは赤く腫れた目元をそっと撫でた。
「――そう誤解させてしまったんだな」
頭が働いていな状態で。眠れず食べれずの状態で、何か取り違えがあったんだろう。仕事をセーブして様子を見るように言っていたからかもしれない。
優しい手つきにまたユリアの涙がにじむ。睫毛がどんどん濡れていった。
「僕、補佐官を目指していて、いいんですね」
「当然だろう。フェルナンドもそのつもりでいる」
「こんな僕が……」
ヘルマンがハンカチを差し出した。今更ではあったが、
「どうしてそう思うんだ。お前はよくやっている。語学も経理も間違いがないし丁寧にやってるじゃないか。地理も覚えて、領地経営に段々と実践を積んでいるだろう」
「僕は――」
ユリアはハンカチで顔を覆ったままぼそりと呟いた。
「金貨一枚分の価値なんです」
――なんだって?
唐突な台詞に聞き返すこともできなかった。
「金貨一枚で売られました。それも、すがって、お情けで買ってもらえた金額です」
「っ、ユリア」
「そんな僕が、身に余る幸せを今望んでいるんだって、わかってます。ご主人様のように立派な方に拾っていただいて。ご主人様が優しいから、僕をこんなに支援してくれて」
「――待て。ユリア」
ヘルマンはユリアのハンカチを奪い取った。ユリアの顔を覗き込む。間近で目が合った。
ユリアはその金貨一枚という事実を、悲観したり憤ったり、そんな様子はない。
ただ事実として受け止めていた。本当に自分が金貨一枚の価値なんだと、そう言われたからそうなんだろうと。
「ずっとそんな風に思っていたのか。自分が、その程度の価値だと」
ユリアは黙って肯定した。
心の奥底からふつふつと怒りが湧き上がってくるのを感じた。腹の底が熱い。しかしその感情をユリアに見せないよう、ヘルマンは努めて冷静に声を絞り出した。
「そんなこと、あるものか。金貨などでお前の価値は測れない。お前はもっと……かけがえのないものだ」
「でも。――ここに来なかったら、僕は何もできなかった」
「そんなことはない。何かを成したかだけが価値を決めるわけじゃない。何をしなくても、お前はユリアという、変わりのない大切な一人の人間だろう」
ユリアはヘルマンから視線を逸らして、少しうつむいた。
「ご主人はお優しいので、そう言ってくださいますが」
「ユリア。私を優しいというのはお前くらいだ」
ヘルマンは少し困ったように息を吐いた。
「何と言ったらいいか、わからないな。私がお前に優しくするのは、お前が大切で仕方ないからなんだが」
どういえばユリアは自分が大切だと思ってくれるのだろうか。
「迷惑だとか、煩わしいだとか思ったことはない。一度も」
「一度も……?」
「ああ」
それどころか。ヘルマンはその言葉は飲み込んだ。
「じゃあ、どうして――」
会ってくれなかったのか。その言葉は言えなかった。ユリアの立場から聞いてよいことではないという思いと、聞くのが怖かったのもある。
「すまない」
ヘルマンの謝罪に少し驚く。
ヘルマンが謝ることは滅多になかった。謝る必要のない人でもあるし、ヘルマンが失敗することなんてないと思っていたから。
ヘルマンは少し体を離した。背中が空いてすこし寂しい。代わりにヘルマンはユリアの手を取った。両手で両手を包み込んで、温かい手でしっかり握ってくれる。
「ユリア。――私は、お前が私を頼ってくれた時、無分別にも、心のどこかで喜んでいた。早く良くなってほしいと思う反面、ずっとこの手でお前を守っていてやりたいと思っていた」
ヘルマンはどこか悲しそうな顔をしていた。
「自分でも嫌になる。傷ついたお前を見てつらいはずなのに、私だけに許し、私からのみ食べ、私だけに触れさせるおまえに、私は確かに悦んでいたんだ。――ここを出て一歩を踏み出そうといった時、心のどこかで、去っていくお前を見送るのが、耐えがたかった……」
ぎゅっとヘルマンの握る手に力が入った。
ヘルマンの青い瞳がじっとユリアを見ていた。その瞳の奥に、いつもとは違う情欲がともっているような気がして、ユリアはどきりとする。
「距離を置かなければ、私はおまえを捕まえて、閉じ込めてしまいそうだった」
まさか。ヘルマンが?
あまりにも思いがけないことだった。
「ご主人様、僕を元気づけようとして言ってるんじゃ……」
「こんなことを言われて元気づくのか」
馬鹿なことを、とヘルマンは自分に向けて嘲るように笑った。こんなおぞましい感情を。
「はい」
ユリアはきっぱりと言い放った。
望むものは何でも手に入る、公爵であるヘルマンが。他でもないユリアを大切だと言ってくれる。ずっとそばにいてほしいと。
これ以上の言葉はなかった。
ヘルマンは逡巡するような顔を見せた。
「ユリア……。今、離れなければ、私はこの感情を抑えきれなくなるだろう」
「僕は離れません。ご主人様が何と言っても、離れたくありません」
ユリアのまっすぐな目がヘルマンを見つめた。揺るがない、美しい緑の瞳。
「私はお前を傷つけてしまうかもしれない。立場の弱いお前を、無理矢理束縛して苦しめたくない」
「嫌だったら嫌って、ちゃんと言います。だって僕も、ご主人様に触れられて、守ってもらって。だ、抱きしめて、もらったり……それがあったから頑張れたんです」
ユリアはヘルマンの手を握り返した。
ヘルマンは内から湧き上がってくる熱情に揺さぶられるように、ユリアの両手を自分の額に当てた。
「ユリア……愛している」
請い願う様に。その声は震えていた。
ユリアは驚きに固まった。
こんなヘルマンの姿は初めて見た。いつも迷いのないヘルマンの、躊躇しつつも、自信なく、感情を抑えきれないような。
まさかヘルマンから、そんなことを言ってもらえるとは思ってもいなかった。
「ご主人様……き、聞き間違いでしょうか」
「ユリア」
僕なんか、と言いそうになるユリアに、すかさず頬に手を伸ばしヘルマンは黙らせた。
「愛している。ユリア。他の誰でもなく、お前だけを」
全身に染み渡るような、ヘルマンの告白だった。
衝撃に涙も出ないまま、それでもユリアは指先から爪先まで温かい血が行き交うような感覚を覚えた。じんじんと胸が熱くて、焼けてしまいそうで、思わずそこを抑えた。
震えそうになるのをヘルマンが、その身体全体をそっと抱きしめてくれる。
「愛している」
温かで大きなヘルマンの腕の中で、ユリアはその言葉を何度も繰り返し聞かされた。
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