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第2章
6.亀裂
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翌日、午前中は城内を見て回った。
中央の門から入って食堂、客間はすぐわかるが、それぞれいろいろな部屋を回ろうと思うと入り組んでいて確実に迷う。普通に階段を上がり広い廊下を歩いたかと思ったら、狭い階段を延々とぐるぐる回りながら登ることもある。市街を一望できる屋上に上ったと思ったら帰り道が分からなくなり。二階を歩いていると思ったらここは一階だと言われる。
厨房も昔のものは使えないからと二か所あったり、もとは王宮なだけあって地下にはちょっと怖い部屋もあり、騎士詰め所、今はホールのようになっている謁見の間や玉座の間と、部屋も多い。
二周してみたが、まだ道を覚えられなかった。
「とにかく迷ったら、壁に沿って歩きなさい。あとは……できるだけ一人で知らないところに行かないことだな」
ユリアが混乱しているのでヘルマンが気遣って教えてくれる。
城の管理人はいるが、モンクレアに執政官はいない。ヴェッターホーン地区なので中央で直轄している。本当に第二の公爵邸といった様子だった。
午前いっぱいかけて城を回ってから、ところどころ石が崩れている部分も見つつ、確かに老朽化が進んでいるのを実感する。
歴史的な価値も市街地と城と共に高いから、費用は掛かっても保存する方向で検討しているという。
ユリアは帰ったら歴史もしっかり勉強せねばと考えるのだった。
昼食を取ったら市街地へ出かけることにした。
住居も同じ時期に造られたものが多く、そちらの改修も必要かもしれない。図書館、市庁舎、学校、博物館など公の建物もあれば、民家もある。
「とても一日では回れないから、とりあえず博物館に行こう」
ヘルマンはそう言って、二人は馬車で博物館へ向かった。
博物館を一通り見て回ったら、すでに夕方なっていた。
夏なのでまだ明るいが、街行く人々は家路に急いでいる。
「すっかり遅くなってしまいましたね。――ゆっくり見過ぎてしまって」
博物館というのも初めて見たし、中にあるのも珍しいものばかりですっかり楽しんでしまった。ヘルマンが一つ一つどれを見ても説明してくれるから、それも楽しくて。
「気に入ったものがあったか?」
「そうですね。前王朝の王杯は素晴らしかったです。――あんな大きなラピスラズリ、初めて見ました」
ヘルマンはなるほど、と頷いた。
シルバーに細かな装飾が施され、宝石が埋め込まれた杯だ。
確かにそれを説明する時目が輝いていた。
「では、次の誕生日プレゼントはあれにしよう」
ユリアは一瞬固まって、それから笑った。
「ご主人様でもそんな冗談を仰るんですね。一瞬びっくりしてしまいました」
「私は本気だが」
事もなげに言い放つ。
「この博物館は公爵家の宝物庫から公開している」
「い、いりません。そういう意味じゃないです」
一体王杯など何に使うというのだ。飾る場所もない。
「あのラピスラズリを取り出してブローチにでもすればいい」
「そんな!歴史的な価値あるものを分解するなんて、とんでもないです!」
「ではあのまま使うか?――ああ、ルイスは喜ぶかもしれないな」
「喜びませんし、いりませんよ」
そんな会話をしつつ、馬車どめ場まで歩いて行く。
「ヘルマン様!?」
突然声をかけられ、見ると、若い男がこちらに走ってきて――ヘルマンに抱きついた。
白に近い金の髪の小柄な男だった。貴族ではなさそうだ。
ヘルマンが驚きつつも振り払わないのは知り合いだからだろう。
「お前は……」
「フィンです。お忘れですか?」
「いや……」
「ずっとお待ちしていたんですよ。もう長らくお越しではなかったですから」
フィンは茶色の大きな瞳でヘルマンを見上げていた。体はまだ密着したままだ。
色が白く、細い体もその顔も中性的で、一言で言えば可愛らしい部類だろう。
往来であるにもかかわらずいつまでも抱きついたままだ。
ユリアは衝撃に二人を眺めながら、目眩を感じた。
ずっと待っていた……ヘルマンを?
――一時期は休みの度に来ていたのは、このフィンの為?
嫌な予感が脳裏を掠める。
馬車で待機させられていた護衛が何事かと駆けつけ、フィンをヘルマンから引き剥がした。
「あん、もう――!ちょっと、気安く触らないでよ!」
「公爵閣下に断りなく触れるな。不敬罪でつかまりたいのか」
「不敬……?」
フィンは心の底からおかしそうに笑った。
「触れたらダメだって、ははは……!」
ヘルマンを窺うと、目が合った。
ヘルマンがユリアに口を開きかける前にフィンが騒ぎ出す。
「もう、わかったよ!離して!――ヘルマン様、またお邪魔しますね。それとも、来てくださいますか?」
「……………いや、行く予定はない」
フィンは少し目を丸くして、それからちらりとユリアを見た。
「ふうん……」
値踏みするような嫌な視線だ。居心地が悪くて視線を逸らす。はっ、とフィンの笑い声のような声が聞こえた。
「残念。これから仕事が入ってるんです。ヘルマン様、それじゃ、また――」
そう言ってフィンは護衛達をそれぞれ睨みつけながら、去っていった。
嵐が去ったような微妙な空気を、ヘルマンのため息が打ち切った。
「―――帰ろう」
二人は馬車に乗り込んだ。そこから城までの間、どちらも口を開くことはなく沈黙が流れる。
先ほどまで感じていた幸せが嘘のように冷め冷めとした空気だった。
――どうして何も言ってくださらないんだろう。
さっきのは、と何度も言いかけて口をつぐむ。
それを聞く勇気は今のユリアにはなかった。
夕食になっても、ヘルマンは先ほどのフィンについては何も説明しなかった。
ユリアから聞くこともできない。
まるでその話題を避けているように、明日の予定を話したり城のことを話したりするヘルマンに、ユリアの不安は増すばかりだった。
ユリアより少し年上だろうか。顔立ちもきれいで、よく手入れされた肌をしていた。綺麗な髪をしていた。サラサラとした髪が風に揺れて……まさかヘルマンは、あの髪に触れることがあるのだろうか。
ぐっとフォークとナイフを握り込んでしまう。
「ユリア……?」
ヘルマンの声に、はっと我に帰った。
「疲れてしまったみたいです。今日はもう、失礼してもよろしいでしょうか」
「大丈夫か?何か――」
「寝れば治ります。失礼します」
ユリアは逃げるように自室に帰ってきた。
ヘルマンはそんなに彼に会いに来ていたんだろうか。ヘルマンが屋敷を開けることはよくあることだから、わからない。行き先をいちいち、ユリアは知らない。
ベッドの上で膝を抱えて、長く、重いため息をつく。
こんな風に考えるのは嫌なのに……。
この日はなかなか寝付けなかった。
翌日、食堂へ行ってもヘルマンの姿はなかった。
聞けば、早朝に出かけて行ったらしい。
まさか。
ユリアは胸が抉り取られたような気がした。
――まさか。行ったのだろうか。彼に会いに?
行って、あの手で、あの口で……。
「ユリアさん?」
遠くにモンクレア城管理人の声がする。
「大丈夫ですか。お顔の色が……」
「大丈夫です……」
そう返すのがやっとだった。
水も喉を通らなかった。
部屋に戻ります、と言えたかどうか。
ユリアはのろのろと自室に向かって歩いた。
中央ホールを通り過ぎる時、階下から言い争う声が聞こえた。
「――ねえ、ちょっと、離してよ!」
この声は。どきりとして。全身が緊張する。
まさか。ここに来たのだろうか。
意を決してホールを見下ろす。フィンは一人だった。ヘルマンの姿はない。
「だからぁ、ヘルマン様に取り次いでって言ってるの!あんたみたいな下っ端じゃなくて!」
相手をしているのは、確か執事にあたる仕事をしている人だ。管理人のすぐ下の人である。下っ端ではない。
彼はむっとした様子もなく、淡々とフィンを止めていた。
「公爵閣下は今、ご不在です。お引き取りください」
「だったら帰るまで待つから」
「お約束のない方にいていただくわけには参りません」
その応酬を見て、体の力が抜けるほどほっとした。
ヘルマンはどうやら彼といた訳では無さそうだ。
フィンはあたりを見渡し、階段の上のユリアを見つけた。
「あ、あんた!昨日の!」
指差され、びくりと身構える。
「ねえ、ヘルマン様はどこにいるの?あんたと一緒じゃないの?」
そっといなくなってやり過ごしたかったのに。逃がさないとばかりに、立て続けに質問される。
「いい加減にしないと、騎士を呼びますよ」
「呼べば?その騎士に通してもらったから。あんたは知らないだろうけど、僕はずっと前からここに出入りしてるの!」
「私はお聞きしていません」
「あんたが下っ端だからでしょ」
「――あの、ご用件は」
流石に執事も頭に血が昇ってきたようなので、仕方なく間に入る。
執事は頭を下げて出て行った。おそらく騎士を呼びに行ったのだろう。
階段を降りるユリアにフィンは駆け寄った。
「ヘルマン様に会いにきたんだけど。いないの?」
「はい、ご不在です」
フィンはユリアを上から下まで見てくる。不躾な視線に、それでもユリアは何も言えなかった。
「あんた、ヘルマン様の今の相手でしょ」
「えっ……」
あまりの衝撃に、返事ができなかった。
今の……なんと言った?相手?
その言い方はまるで、フィンが以前の相手だと言っているようではないか。
ユリアはまた目眩を感じた。
ユリアの反応を見てフィンは勝手に納得したようだった。
「ふうん。やっぱりそうなんだ」
フィンが遠慮なく、一歩を踏み出す。距離が縮まってユリアは身構えた。
フィンが囁くように続けた。
「そんな細い体で、ヘルマン様のお相手が務まってんの?」
ユリアは怒りか、羞恥かで顔が赤くなるのを感じた。
「あまりに、不躾ではないですか」
フィンは声を上げて笑った。
「不躾って……!あんたいいとこのお坊ちゃんなんだね。――じゃあ、ヘルマン様は遠慮してるんじゃない?」
フィンが勝ち誇ったような顔をしていた。
何を言っているのか理解できない。
「やっぱり。その様子じゃ、ちゃんとお相手してないんだ」
くすくすとフィンが笑っている。
足元がぐらぐらと揺れるような、おかしな感覚になってきた。
「やっぱり僕がいなきゃ」
――いったいなんの話をしているんだろう。
フィンがぽん、と肩に手を置いた。
「あんたは恋人ごっこしてたらいいよ」
ユリアは久しぶりにせりあがってくる吐き気に、うっと手を押さえた。
顔を青ざめて今にも倒れそうなユリアに、フィンは怪訝な顔をする。
「ちょっと……大丈夫?」
「離し、て……」
だめだ。こんなところで吐くわけに――。
必死で抑え込もうとしているところへ、入り口のドアが開く。
「ユリア!」
入ってきたのはヘルマンだった。ユリアが青ざめた顔で今にも倒れそうなのを見て。更に、フィンの手が肩にあるのを見て――素早く二人の間に入った。
フィンの手が離れ、ヘルマンの背中に覆われて、フィンのことも、ヘルマンの表情も見えない。
「ヘルマン様!」
「これは、どういうことだ」
「お会いしたくて。来ちゃいました」
「………私は呼んでいないが」
「ごめんなさい。待ちきれなくって」
ヘルマンはため息を吐いた。
「いま、オーナーに会ってきたところだ」
「本当ですか!やだ、すれ違っちゃったんですね」
「――フィン。呼んでもいないのに押しかけてくるのがお前のやり方か」
「だって……いつも、呼んでくださるじゃないですか」
「今は呼んでないだろう」
しん、と静寂が流れる。
「その男に鞍替えってことですか!」
突然フィンが怒鳴る。ユリアは驚いてびくりと肩が震えた。
「いい加減にしろ。何を勘違いしている。私とお前は、あくまで客と男娼の関係だろう」
「ヘルマン様のことを受け止められるのは、僕だけです!!ヘルマン様、そうおっしゃったじゃないですか!」
「フィン。これ以上ここで揉めるようなら、私も手段は選ばない。――お前には世話になったから、こうして話をしているんだ。私の忍耐がどこまでもつか試したいのか……?」
「ひどい……ぼく、ずっと待っていたのに。――ヘルマン様、そんな男で満足できるんですか?そんなはずないです。僕とやったのと同じこと、そいつにできるんですか!」
僕だけが――そういうのを、ヘルマンはついに許さなかった。
片手でフィンの口を抑え込み、そのままドアの外まで力づくで連れて行く。
外に出されて勢いを無くしたフィンにヘルマンは続けた。
「それ以上言うなら容赦はしない。それと――彼は補佐官だ。無礼は許さない」
連れていけ、とヘルマンが騎士らに指示する。
城の騎士は顔を青くしていた。
フィンを通した不始末を思ってのことだろう。
静かになったホールで、ユリアは呆気に取られたまま立ち尽くしていた。
初めのショックももうどこか行ってしまった。ただ、嵐が過ぎたようで呆然としていた。
ヘルマンが近づいてきて、困ったような顔をしている。
「ユリア……大丈夫だったか」
フィンに触れられていた肩にそっと手を乗せる。
「遅くなってすまなかった。朝食までには戻るつもりだったんだが……」
ユリアが不安げに見上げる。ヘルマンは痛ましいような顔をして、ユリアの頰を撫でた。
「――少し、話をしてもいいか」
「……はい」
中央の門から入って食堂、客間はすぐわかるが、それぞれいろいろな部屋を回ろうと思うと入り組んでいて確実に迷う。普通に階段を上がり広い廊下を歩いたかと思ったら、狭い階段を延々とぐるぐる回りながら登ることもある。市街を一望できる屋上に上ったと思ったら帰り道が分からなくなり。二階を歩いていると思ったらここは一階だと言われる。
厨房も昔のものは使えないからと二か所あったり、もとは王宮なだけあって地下にはちょっと怖い部屋もあり、騎士詰め所、今はホールのようになっている謁見の間や玉座の間と、部屋も多い。
二周してみたが、まだ道を覚えられなかった。
「とにかく迷ったら、壁に沿って歩きなさい。あとは……できるだけ一人で知らないところに行かないことだな」
ユリアが混乱しているのでヘルマンが気遣って教えてくれる。
城の管理人はいるが、モンクレアに執政官はいない。ヴェッターホーン地区なので中央で直轄している。本当に第二の公爵邸といった様子だった。
午前いっぱいかけて城を回ってから、ところどころ石が崩れている部分も見つつ、確かに老朽化が進んでいるのを実感する。
歴史的な価値も市街地と城と共に高いから、費用は掛かっても保存する方向で検討しているという。
ユリアは帰ったら歴史もしっかり勉強せねばと考えるのだった。
昼食を取ったら市街地へ出かけることにした。
住居も同じ時期に造られたものが多く、そちらの改修も必要かもしれない。図書館、市庁舎、学校、博物館など公の建物もあれば、民家もある。
「とても一日では回れないから、とりあえず博物館に行こう」
ヘルマンはそう言って、二人は馬車で博物館へ向かった。
博物館を一通り見て回ったら、すでに夕方なっていた。
夏なのでまだ明るいが、街行く人々は家路に急いでいる。
「すっかり遅くなってしまいましたね。――ゆっくり見過ぎてしまって」
博物館というのも初めて見たし、中にあるのも珍しいものばかりですっかり楽しんでしまった。ヘルマンが一つ一つどれを見ても説明してくれるから、それも楽しくて。
「気に入ったものがあったか?」
「そうですね。前王朝の王杯は素晴らしかったです。――あんな大きなラピスラズリ、初めて見ました」
ヘルマンはなるほど、と頷いた。
シルバーに細かな装飾が施され、宝石が埋め込まれた杯だ。
確かにそれを説明する時目が輝いていた。
「では、次の誕生日プレゼントはあれにしよう」
ユリアは一瞬固まって、それから笑った。
「ご主人様でもそんな冗談を仰るんですね。一瞬びっくりしてしまいました」
「私は本気だが」
事もなげに言い放つ。
「この博物館は公爵家の宝物庫から公開している」
「い、いりません。そういう意味じゃないです」
一体王杯など何に使うというのだ。飾る場所もない。
「あのラピスラズリを取り出してブローチにでもすればいい」
「そんな!歴史的な価値あるものを分解するなんて、とんでもないです!」
「ではあのまま使うか?――ああ、ルイスは喜ぶかもしれないな」
「喜びませんし、いりませんよ」
そんな会話をしつつ、馬車どめ場まで歩いて行く。
「ヘルマン様!?」
突然声をかけられ、見ると、若い男がこちらに走ってきて――ヘルマンに抱きついた。
白に近い金の髪の小柄な男だった。貴族ではなさそうだ。
ヘルマンが驚きつつも振り払わないのは知り合いだからだろう。
「お前は……」
「フィンです。お忘れですか?」
「いや……」
「ずっとお待ちしていたんですよ。もう長らくお越しではなかったですから」
フィンは茶色の大きな瞳でヘルマンを見上げていた。体はまだ密着したままだ。
色が白く、細い体もその顔も中性的で、一言で言えば可愛らしい部類だろう。
往来であるにもかかわらずいつまでも抱きついたままだ。
ユリアは衝撃に二人を眺めながら、目眩を感じた。
ずっと待っていた……ヘルマンを?
――一時期は休みの度に来ていたのは、このフィンの為?
嫌な予感が脳裏を掠める。
馬車で待機させられていた護衛が何事かと駆けつけ、フィンをヘルマンから引き剥がした。
「あん、もう――!ちょっと、気安く触らないでよ!」
「公爵閣下に断りなく触れるな。不敬罪でつかまりたいのか」
「不敬……?」
フィンは心の底からおかしそうに笑った。
「触れたらダメだって、ははは……!」
ヘルマンを窺うと、目が合った。
ヘルマンがユリアに口を開きかける前にフィンが騒ぎ出す。
「もう、わかったよ!離して!――ヘルマン様、またお邪魔しますね。それとも、来てくださいますか?」
「……………いや、行く予定はない」
フィンは少し目を丸くして、それからちらりとユリアを見た。
「ふうん……」
値踏みするような嫌な視線だ。居心地が悪くて視線を逸らす。はっ、とフィンの笑い声のような声が聞こえた。
「残念。これから仕事が入ってるんです。ヘルマン様、それじゃ、また――」
そう言ってフィンは護衛達をそれぞれ睨みつけながら、去っていった。
嵐が去ったような微妙な空気を、ヘルマンのため息が打ち切った。
「―――帰ろう」
二人は馬車に乗り込んだ。そこから城までの間、どちらも口を開くことはなく沈黙が流れる。
先ほどまで感じていた幸せが嘘のように冷め冷めとした空気だった。
――どうして何も言ってくださらないんだろう。
さっきのは、と何度も言いかけて口をつぐむ。
それを聞く勇気は今のユリアにはなかった。
夕食になっても、ヘルマンは先ほどのフィンについては何も説明しなかった。
ユリアから聞くこともできない。
まるでその話題を避けているように、明日の予定を話したり城のことを話したりするヘルマンに、ユリアの不安は増すばかりだった。
ユリアより少し年上だろうか。顔立ちもきれいで、よく手入れされた肌をしていた。綺麗な髪をしていた。サラサラとした髪が風に揺れて……まさかヘルマンは、あの髪に触れることがあるのだろうか。
ぐっとフォークとナイフを握り込んでしまう。
「ユリア……?」
ヘルマンの声に、はっと我に帰った。
「疲れてしまったみたいです。今日はもう、失礼してもよろしいでしょうか」
「大丈夫か?何か――」
「寝れば治ります。失礼します」
ユリアは逃げるように自室に帰ってきた。
ヘルマンはそんなに彼に会いに来ていたんだろうか。ヘルマンが屋敷を開けることはよくあることだから、わからない。行き先をいちいち、ユリアは知らない。
ベッドの上で膝を抱えて、長く、重いため息をつく。
こんな風に考えるのは嫌なのに……。
この日はなかなか寝付けなかった。
翌日、食堂へ行ってもヘルマンの姿はなかった。
聞けば、早朝に出かけて行ったらしい。
まさか。
ユリアは胸が抉り取られたような気がした。
――まさか。行ったのだろうか。彼に会いに?
行って、あの手で、あの口で……。
「ユリアさん?」
遠くにモンクレア城管理人の声がする。
「大丈夫ですか。お顔の色が……」
「大丈夫です……」
そう返すのがやっとだった。
水も喉を通らなかった。
部屋に戻ります、と言えたかどうか。
ユリアはのろのろと自室に向かって歩いた。
中央ホールを通り過ぎる時、階下から言い争う声が聞こえた。
「――ねえ、ちょっと、離してよ!」
この声は。どきりとして。全身が緊張する。
まさか。ここに来たのだろうか。
意を決してホールを見下ろす。フィンは一人だった。ヘルマンの姿はない。
「だからぁ、ヘルマン様に取り次いでって言ってるの!あんたみたいな下っ端じゃなくて!」
相手をしているのは、確か執事にあたる仕事をしている人だ。管理人のすぐ下の人である。下っ端ではない。
彼はむっとした様子もなく、淡々とフィンを止めていた。
「公爵閣下は今、ご不在です。お引き取りください」
「だったら帰るまで待つから」
「お約束のない方にいていただくわけには参りません」
その応酬を見て、体の力が抜けるほどほっとした。
ヘルマンはどうやら彼といた訳では無さそうだ。
フィンはあたりを見渡し、階段の上のユリアを見つけた。
「あ、あんた!昨日の!」
指差され、びくりと身構える。
「ねえ、ヘルマン様はどこにいるの?あんたと一緒じゃないの?」
そっといなくなってやり過ごしたかったのに。逃がさないとばかりに、立て続けに質問される。
「いい加減にしないと、騎士を呼びますよ」
「呼べば?その騎士に通してもらったから。あんたは知らないだろうけど、僕はずっと前からここに出入りしてるの!」
「私はお聞きしていません」
「あんたが下っ端だからでしょ」
「――あの、ご用件は」
流石に執事も頭に血が昇ってきたようなので、仕方なく間に入る。
執事は頭を下げて出て行った。おそらく騎士を呼びに行ったのだろう。
階段を降りるユリアにフィンは駆け寄った。
「ヘルマン様に会いにきたんだけど。いないの?」
「はい、ご不在です」
フィンはユリアを上から下まで見てくる。不躾な視線に、それでもユリアは何も言えなかった。
「あんた、ヘルマン様の今の相手でしょ」
「えっ……」
あまりの衝撃に、返事ができなかった。
今の……なんと言った?相手?
その言い方はまるで、フィンが以前の相手だと言っているようではないか。
ユリアはまた目眩を感じた。
ユリアの反応を見てフィンは勝手に納得したようだった。
「ふうん。やっぱりそうなんだ」
フィンが遠慮なく、一歩を踏み出す。距離が縮まってユリアは身構えた。
フィンが囁くように続けた。
「そんな細い体で、ヘルマン様のお相手が務まってんの?」
ユリアは怒りか、羞恥かで顔が赤くなるのを感じた。
「あまりに、不躾ではないですか」
フィンは声を上げて笑った。
「不躾って……!あんたいいとこのお坊ちゃんなんだね。――じゃあ、ヘルマン様は遠慮してるんじゃない?」
フィンが勝ち誇ったような顔をしていた。
何を言っているのか理解できない。
「やっぱり。その様子じゃ、ちゃんとお相手してないんだ」
くすくすとフィンが笑っている。
足元がぐらぐらと揺れるような、おかしな感覚になってきた。
「やっぱり僕がいなきゃ」
――いったいなんの話をしているんだろう。
フィンがぽん、と肩に手を置いた。
「あんたは恋人ごっこしてたらいいよ」
ユリアは久しぶりにせりあがってくる吐き気に、うっと手を押さえた。
顔を青ざめて今にも倒れそうなユリアに、フィンは怪訝な顔をする。
「ちょっと……大丈夫?」
「離し、て……」
だめだ。こんなところで吐くわけに――。
必死で抑え込もうとしているところへ、入り口のドアが開く。
「ユリア!」
入ってきたのはヘルマンだった。ユリアが青ざめた顔で今にも倒れそうなのを見て。更に、フィンの手が肩にあるのを見て――素早く二人の間に入った。
フィンの手が離れ、ヘルマンの背中に覆われて、フィンのことも、ヘルマンの表情も見えない。
「ヘルマン様!」
「これは、どういうことだ」
「お会いしたくて。来ちゃいました」
「………私は呼んでいないが」
「ごめんなさい。待ちきれなくって」
ヘルマンはため息を吐いた。
「いま、オーナーに会ってきたところだ」
「本当ですか!やだ、すれ違っちゃったんですね」
「――フィン。呼んでもいないのに押しかけてくるのがお前のやり方か」
「だって……いつも、呼んでくださるじゃないですか」
「今は呼んでないだろう」
しん、と静寂が流れる。
「その男に鞍替えってことですか!」
突然フィンが怒鳴る。ユリアは驚いてびくりと肩が震えた。
「いい加減にしろ。何を勘違いしている。私とお前は、あくまで客と男娼の関係だろう」
「ヘルマン様のことを受け止められるのは、僕だけです!!ヘルマン様、そうおっしゃったじゃないですか!」
「フィン。これ以上ここで揉めるようなら、私も手段は選ばない。――お前には世話になったから、こうして話をしているんだ。私の忍耐がどこまでもつか試したいのか……?」
「ひどい……ぼく、ずっと待っていたのに。――ヘルマン様、そんな男で満足できるんですか?そんなはずないです。僕とやったのと同じこと、そいつにできるんですか!」
僕だけが――そういうのを、ヘルマンはついに許さなかった。
片手でフィンの口を抑え込み、そのままドアの外まで力づくで連れて行く。
外に出されて勢いを無くしたフィンにヘルマンは続けた。
「それ以上言うなら容赦はしない。それと――彼は補佐官だ。無礼は許さない」
連れていけ、とヘルマンが騎士らに指示する。
城の騎士は顔を青くしていた。
フィンを通した不始末を思ってのことだろう。
静かになったホールで、ユリアは呆気に取られたまま立ち尽くしていた。
初めのショックももうどこか行ってしまった。ただ、嵐が過ぎたようで呆然としていた。
ヘルマンが近づいてきて、困ったような顔をしている。
「ユリア……大丈夫だったか」
フィンに触れられていた肩にそっと手を乗せる。
「遅くなってすまなかった。朝食までには戻るつもりだったんだが……」
ユリアが不安げに見上げる。ヘルマンは痛ましいような顔をして、ユリアの頰を撫でた。
「――少し、話をしてもいいか」
「……はい」
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前世の知識というチート能力を秘めたレオンは、絶望の地を希望の楽園へと変えていく。
そんな彼の前に現れたのは、ミステリアスな傭兵カイ。
共に困難を乗り越えるうち、二人の間には強い絆が芽生え始める。
だがレオンには、誰にも言えない秘密があった。
彼は、この世界で蔑まれる存在――「オメガ」なのだ。
一方、レオンを追放した王国は、彼の不在によって崩壊の一途を辿っていた。
これは、どん底から這い上がる悪役令息が、運命の番と出会い、真実の愛と幸福を手に入れるまでの物語。
痛快な逆転劇と、とろけるほど甘い溺愛が織りなす、異世界やり直しロマンス!
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