蒼空の守護

むらさん

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第2章(ナナ)

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 翠の国の最後の生き残り達を乗せた船は、一路北を目指していた。翠北(すいほく)港を出てから一ヶ月、豊富に積んであった食料も燃料も底をつきかけている。極限状態の中で尚暴動が起きないのは、かつて「絆の民」と呼ばれた人々の最期の意地でもあった。
 この船は、翠の国の最速の戦艦である。彼らの帰るべき国はすでに無い。「暗黒の女王」と呼ばれる黒の国の女王・ミューザの軍の攻撃は凄まじく、老若男女に至る全ての翠の民を殺戮しようとしていた。圧倒的な国力差のある相手に対し、善戦敢闘した翠軍も遂に支えきれなくなり、敵の空爆で王都・翠都は灰塵と化し、残されたのどかな辺境の町々は一つずつ侵略され、虐殺されていった。王都を奪われ、流浪の身となった翠の国の王・優王(ゆうおう)は降伏の申し出を歯牙にもかけない敵に絶望し、残された兵を集め最後の攻撃を行うことを決めた。彼の唯一の心残りはまだ17歳の一人娘、テノン姫のことであった。王は自らと長い間苦楽を共にした老臣・ウェルタと竣工して間もない高速戦艦・リプトスの艦長・ラルバにテノンを託した。高速だが多くの人が乗れるこの国最速の船はテノン、ラルバ、ウェルタを始めとする2000人の民を乗せて、ひたすら北を目指した。枯渇しつつあった燃料と食料を掻き集めて、積載限界ギリギリまで載せてくれた父を、テノンは1日も忘れたことはない。出航した時は、最後の砦である翠北港を守る北方航空隊が別れを惜しむかのように艦の上を旋回し続けた。
 優王が遺した言葉を守り、艦はひたすら北を目指した。船に慣れない者達ばかりが乗るこの艦の艦内では、船酔いする者が続出した。いつ終わるか分からない航海、食事も満足に取れない、眠れない日々が続いても文句を言う者は誰もいなかった。本土に残った者達の方が、遥かに苦しい日々を送っていることをみんな理解していたからである。

 「姫、もう少し食べられた方が良いですぞ。あまり食べられぬと、お身体が心配です。」
 そういうウェルタの髪の毛も、翠都にいた頃よりも目に見えて少なくなっていた。
 「よい。民を差し置いて食べるなど、気がすすまぬ。それに、そなたの方が食べてなかろう。」
 「老い先短い者の事など気にされますな。さぁ、食べられませ。」
 「馬鹿を言え。今お前に死なれたら、誰を頼ればいいのか…」
 そう言ってテノンは窓の外を眺めた。もう何度この窓から景色を見ただろうか…。見える景色はいつも決まっていた。どんなに眺めても、あの憎らしい水平線は一向に形を変えようとはしない。

リプトスはこの国の最新鋭の艦で、この国のあらゆる大型艦の中で最速のスピードと最長の距離を航行する事が出来る高速戦艦・ルプトス級の末妹艦であった。何より特徴的だったのが、戦艦であると言うのに他の艦に比べて圧倒的に燃費が良かった。同型の艦はルプトスを始めとして4艦あり、どの艦も十分な仕事を果たしたが、黒の国の大量の航空機を前に全て撃沈された。リプトスはこの黒翠戦役(こくすいせんえき)の開戦直後に起工され、同型艦として建造が進んでいたが、戦況が日毎(ひごと)にに悪化するにつれ避難船としての側面を持つ必要が出てきた。そこで従来のルプトス級よりも居住区域と貯蔵スペースを増やし、多くの人員を乗せられるように改造された。元々からルプトス級は攻撃に特化した艦ではなく、小型艦と共に遠征を行い資源を確保するのが主な任務であった。他の戦艦と比べると、燃費が良い代わりにその攻撃能力は貧相なもので、甲板の前方に三連装砲が1門、後方に連装砲と高射砲が2門ずつ、側面についている単装砲は両面合わせても10門もなかった。しかしそのような艦でも戦況の悪化に伴い、前線に出ざるを得なかった。輸送中に潜水艦の魚雷で沈んだ船は1隻に過ぎず、残りは全て海戦における航空攻撃によって深海へと旅立った。この最後のルプトス級戦艦は、他の姉妹艦とは違い従来の力を存分に発揮して希望を繋ぐことを求められていたのである。

 ラルバが双眼鏡を顔に当てる仕草は、日に日に増えていた。もはやどんなに食料を節約した所で、3日で底をつくのは間違いない。燃料だって5日も持たないだろう。王は出来る限りの食料と燃料を持たせてくれたが、所詮儚い望みに過ぎなかったのだ。
 どうせ朽ち果てるのであれば自分が何よりも愛した、あの「翠藍海峡(すいらんかいきょう)」でこの艦と運命を共にしたかった。翠藍海峡は、かつて翠の国と藍の国の国境線となった海峡の名である。翠の国と藍の国は時に盟友であり、時に敵国となる間柄であったが、海に生きる者達は皆あの海峡の景色を眺めることが好きだった。特によく晴れた日の朝の海峡には、霧が立ち込めて幻想的な雰囲気になる。その海峡の近くにある小さな町で生まれたラルバもよく海岸に足を運んだ。彼が恋や夢に悩んだ時、人生の岐路に立たされた時は決まって海に向かって悩みを叫んだ。もちろん答えが返ってくるわけではないのだが、胸の中が幾分か晴れるのであった。
 黒の国が藍の国を滅ぼして翠の国に攻め入って来た時、真っ先に犠牲になったのがラルバの住む町だった。ラルバはその知らせを赴任先の翠北港で聞いた。家族を残してこの北の港に赴任して来たラルバは、その報を聞いて気が気ではなかったが、どうすることも出来なかった。軍人たる者、国家の非常時に軍務を離れる訳にはいかない。その日以来家族はおろかその町から脱出出来た人がいるという話すら聞けていない。その報告を聞いてから、ラルバは家族の夢をよく見るようになった。幼少期から厳しく育てられたものだが、不思議と優しくしてくれた時の夢ばかり見るのである。

 感傷的な気分になっていることに気づき、ラルバは自嘲した。このような死に様で、果たして自分は武人と言えるのだろうか。まさにそう思った次の瞬間だった。
 「前方、何がが見えます!」
 その声を聞いてラルバは無意識に首にかけてあった双眼鏡を手に取り、食い入るように覗き込む。
 (どこだ…どこだ…?)
 ラルバの目に飛び込んできたのは、小さな点だった。目が飛び出さんばかりに、その点のようなものを見つめる。
 それは間違いなく、一隻の船の形をしていた。

 ラルバはすぐに命令した。
 「進路そのまま北、あの船に寄せるぞ、見失うな!それから甲板に人を出せ、皆で呼ぶのだ!」
 この距離では声が届くはずもなかったが、止める者はいなかった。ようやく現れた希望の光を見て何かせずにはいられなかったのである。
 相手の船もこちらに向かっているようだった。距離はぐんぐん縮まり、船の姿はどんどん大きくなる。翠・藍・黒…自分の知っているどの国の船でもなかった。甲板で手を振っている人々は興奮しきって、三連装砲の上に乗って手を振る者まで現れ始めた。副艦長のハバクが慌てる。
 「あれでは万一攻撃された時、反撃できませぬ、すぐに降りさせましょう!」
「かまわん。ここで戦うような事があれば、この国は我々を受け入れないということだ。むしろ砲の上に人が乗ることで、戦うつもりが無いことも分かるかも知れん。この船を逃したら次はないだろう。何としても活路を見出さなねばならんのだ。」
 いよいよ、お互いの乗っている人の姿が分かるところまで来た。相手の船の兵装は、見た限りでは単装砲1門だけである。よく分からない飛行体が上についているプロペラを勢いよく回して上昇し、南へ飛んで行った。甲板、艦内で驚きの声が漏れる。どうやら、全く違う文化の国であることだけははっきりした。
 「停船するぞ!」
 艦が減速を始める。甲板の興奮はいよいよ高まり皆手を振って飛び跳ねていた。対照的に司令室には緊張が広がる。
 「錨を下ろせ!」
 ラルバの声と共に錨が海に投げ込まれた。相手の船はその後もゆっくりと動き、こちらの感に並ぶようにして停船する。
 「俺がいく。」
 そう言ってラルバは立ち上がった。
 「なりません!危険です!」
 止めようとするハバクに対してラルバは言った。
 「姫に出ていただく訳にはいかんだろう?」
 そう言われて返す言葉をハバクは持っていなかった。
 「…必ずお戻り下さい。いつまでもお待ちしておりますぞ。」
 「…行ってくる。艦を頼むぞ。」
 そう言ってラルバは司令室を出た。

 紫雲(しうん)が最南港に戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃であった。異国の船・戦闘機の出現の話は既に最南島どころか蒼の国全体に大ニュースとして伝わっていたので、メルは下船してすぐに報道陣に囲まれた。
 「異国の船は、現在どのような状態ですか?」
 「最南警備隊が拿捕して、最南港に曳航中である。」
 「戦闘機が現れたとのことですが、最南島が空爆される恐れはありますか?」
 「全機既に撃墜している、安心して欲しい。」
 「新手が来る可能性は?」
 「ないとは言えない。」
 矢のように質問が飛んできて、とても終わりそうにない。事前にノノウと打ち合わせ、この後の行動を決めておいて正解だった、と胸を撫で下ろす。ノノウとアブエロは王族命令書を携え、紫雲からヘリで最南第1空港に向かっていた。
 
2人がまず向かったのは最南陸上警備隊の本拠地であった。最南陸上警備隊の本部は空港のすぐ北に隣接している。2人は本部に赴くと、アブエロは隊員の1人に尋ねた。
 「アブエロである。アスター殿は居られるか?」
 アスターは最南陸上警備隊隊長である。最南陸上警備隊は窃盗・傷害事件から災害救助まで、最南島の中で起こった事件の整理を行う部隊である。その部隊の動きを統制しているのが、隊長のアスターであった。
「これはアブエロ殿、如何された?」
 「メル様より、王族命令書を預かっておる。」
 「拝見しよう。」
 アスターは、命令書を受け取ると、慣れた手つきで命令書を開く。このベテランの陸上警備隊長は、最南島で軍役に就いている者達の中でも最年長である。命令内容は、異国民の護衛であった。
 「分かりました。予備として置いてある第3特殊行動隊、一個中隊を派遣しましょうぞ。」
 「これは頼もしい。」
 特殊行動隊は、狙撃・立てこもり犯への突入など危険な任務を遂行する隊である。きっと異国民の護衛も果たすであろう。
 次に向かったのは最南島南部中央病院であった。院長を呼び出して、命令書を渡す。命令内容は、意思表示機の一日貸し切りであった。院長はメガネ越しでも分かるくらい目を白黒させながら、何度も頷いた。違反すれば市中引き回しの上で死刑となる。見せしめなど時代遅れの刑だとノノウは思っているが、それを覆えすのはメルでも不可能である。彼女の父・望宮のような上級王族であれば可能かもしれないが、そのような話を提起しそうな人物は見当たらない。

 望宮邸は、蒼都の中心から少し西に位置している。メルが生まれてから最南鎮守宮になるまで暮らしていた場所であった。今から約50年前、メルの祖父にあたる初代望宮が創建した。。
 メルへの取材はすぐに蒼の国全土で報道された。既にこの事件は大きな関心を集めていて、多くのテレビ局が報道特番を組んでいる。最南鎮守宮の実家である望宮邸の中でも、一人の男がこのニュースを見ていた。
 「我が子ながら、いい女になったな。娘でなければ我が側室にしたいものだ。」
 そう言いながら口づけを交わした相手はまた別の側室である。
 「望宮様、今はセレムだけを見ていてくださいませんか?」
 「悪かった。そなたの方がずっと可愛い。」
 そう言ってセレムの頭を抱き寄せた。胸に彼女の熱い息を感じながら、またテレビの中のメルを見つめる。その顔はあの女の面影を色濃く残していた。19年前に自分の腕の中にいたのは、あの女だった。

 ナナを初めて見たのは、その年の中で一番熱い夏の日だった。
 望宮の女好きは今に始まったことではなく、若い頃から色んな女性に手を出している。その日も気になった女の子に声をかけたのだが、既に彼氏がいたため5人目の側室を持つことは叶わなかった。望宮は今まで数多くの女に声をかけているが、初対面の時に自らの身の上を明かすことはなかった。その気になれば王族命令書を使うことも出来るし、事実そうして側室を手に入れる王族もいる。しかし、たとえ振られても–振られることのほうが圧倒的に多いが–王族命令書は使わない、というのが望宮の矜持である。なぜなら、無理矢理女と一緒になったとしてもそこに女の幸せはないからである。自分という「男」に惹かれないのであれば潔く手を引く、というのが望宮の恋愛に対する美学であった。
 とはいえ、落胆はする。女性に振られた時、望宮は決まって何処かに一人で飲みに行く。いつも同じ店ではなく、出来るだけ違う店を訪れることにしていた。同じ店ばかり行くと、その店に行くたびに苦い思い出をまとめて思い出してしまうような気がするからである。その日入った店は、今まで一度も行ったことのない店であった。1年前に出来た比較的新しい店だが、客入りが少ないらしく来週いっぱいで閉店する旨が書かれた張り紙がされていた。その店を選んだのは、その店に自分と同じ寂しさを感じたからかもしれない。
 店内には2、3人の客しかおらず、閑散としていた。望宮は店の一番右奥のテーブル席に座ると、軽くため息をついた。程なくして店員がやって来る。
 「ご注文はお決まりですか?」
 今日は酔いたい気分だ。きつめの酒を頼もうと顔を上げた時だった。
 美しい。それかナナに対して抱いた最初の感情だった。自分より4、5歳ほど若いようであるが、どこか大人びている。きつい酒を頼もうと思っていたのに、甘めのワインの名前を口走っていた。
 「かしこまりました。」
 そう言ってクルリと背を向ける。フワッと甘い柑橘系の香水が漂った。
 「ちょっと!」
 思わず呼び止める。細い、スラッとした足がピタッと止まる。
 「はい?」
 「この後、時間は空いてる?」

 断られないとは意外だった。今まで数多くの失恋を重ねてきた望宮だったが、これほど玉砕覚悟で声をかけたのは初めてだった。
 「閉店まで待ってくれたら」と言うので、望宮はちびちびとワインを飲んで時間を潰し、閉店直前に精算を済ませると、前のベンチでぼんやりとしていた。数時間前に告白した女の子の事など、望宮の記憶からすっかり消えていた。振られた事をこれほど簡単に忘れられたのは、後にも先にもこの時だけである。
 「まさか、本当に待ってくれているとは思わなかった。」
 閉店から15分ほど経った頃、後ろから声をかけられた。見上げると、ナナが軽く微笑んでこちらを見下ろしている。立ち上がって挨拶をした。
 「私の名はジラーニィ。王宮に勤めている者だ。」
 嘘は言っていない。王族に詳しい人ならばこれだけで彼の身の上が分かるだろうが、彼女はそうではないようだった。
 「私はナナ。波島の生まれよ。」
 波島は、蒼本島より北西にある小さな島である。
 「波島か。一度行ったことがある。静かで良いところだった。」
 「そう?何も無い退屈な町よ。都会暮らしの人にはそうみえるのかしらね。」
 その時に垣間見せた寂しげな表情を見逃すほど、望宮は鈍感ではない。

 この時間にもなると、開いている店は少ない。どうせ潰れる運命の店なのだから、さっさと店仕舞いしてくれれば良かったのに。身勝手な望みだと自覚しながらも、望宮はそう思わずにはいられなかった。
 しかしながら、彼が振られた女の数は数多く、その為居酒屋の知識も豊富である。すぐ近くにこの店より閉店時間が2時間遅い店があるので、そこに入ることにした。
 会話は思ったよりも弾んだ。王宮の話、2人の趣味の話、友達の話…時間はあっという間に過ぎて閉店時間が近づいてきた頃、彼女の身の上話に話題が移った。
 「君の父さんは何をしているんだ?」
 「フフ、聞きたい?」
 ナナの顔は大分赤くなっている。望宮は頷いた。
 「私の父はアブエロというの。どう?これだけで分かるかしら。」
 少し面白がるような目で望宮を見つめる。望宮は直ぐに分かった。
 「波島の島長じゃないか。」
 「流石ね。王宮勤めってのはこのくらいはパッと出てくるものなのかしら?」
 「まぁ…」
 上級王族だからな、とはまだ言えない。上級王族にとっては、島長レベルは言えて当然である。
 「父にはね、息子がいないの。だから次の島長になると思われる人に、私を嫁にして婿入りさせようとした。」
 そう言ってグラスを傾ける。望宮はその姿に見とれつつも、相槌をうちながらグラスの中の氷をストローでかき回した。
 「でも、私はあの小さな島で一生を過ごすのは嫌だった。もっと広い、色んな世界を見たかったから。」
 カランコロンと氷がグラスを鳴らす。
 「つまり君は…」
 「そう。父に黙って、蒼々本島行きの船に乗った。」

 「来てすぐは大変だったわ。右も左も分からないんだもの。とにかく煌びやかな都に驚かされるばかりで。なんとか職を得なくちゃならなくて、色んな所を歩いた。辿り着いたのがあの店だったのよ。」
 望宮はすぐにあの張り紙を思い出した。
 「しかし、あの店は来週で閉まってしまうではないか。その後はどうするのだ?」
 「そうなのよね…」
 ナナは大きなため息をついた。
 「まだ決まっていないのだけど、店長にお前の容姿なら身体を売れば生計が立つって言われたから、その道の仕事にいくわ。」
 望宮は何故か無性に腹が立った。自分より『いい男』に奪われるならともかく、ナナを素性も分からない男に代わる代わる抱かれるような女にさせてたまるか。それならいっそ、自分が…
 「時間ね。」
 ナナは時計を見上げて呟いた。
 「私が誘ったんだ。支払いはまかせろ。家は何処なんだ?」
 「ここから少し東に行った所よ。」
 「奇遇だな、私もだ。途中まで送ろう。」

 この時間にもなると大分暑さは和らいでいた。2人とも夜風に身を任せ、火照りを冷ましながら歩いていた。
 「…なぁ」
 少しの沈黙を挟んで、望宮が話し出す。
 「君は本当にそれでいいのか?」
 「何が?」
 迷ったが、望宮はどうしても言わずにはいられなかった。
 「君が見たい世界は見ず知らずの男、しかも毎晩違う男に抱かれる、そんな世界じゃないだろう?」
 ナナの足がピタッと止まる。望宮は続けた。
 「王都には色んな仕事がある。もっとよく身の振り方を考えるべきだ。なんならいくつか紹介するぞ。」
 「…私には」
 声が少し震えている。
 「私には学がないの。父は最初から私を誰かに嫁がせるために育てたから、私には最低限の知識しかない。もちろん色んな仕事を探したけれど、誰も振り向いてくれなかった。だから考えてないなんて、勝手なことを言わないで!」
 「考えてその答えを出したことが許せないんだ!…だって」
 望宮はナナを抱き寄せた。拒まれたら諦めようと思ったが、彼女は抵抗しなかった。
 「君が好きだから。」
 長い口づけを交わす。夜も更けて、通りに人は誰もいない。2人を見つめるのは、夜空に燦然と輝く星々だけだった。

 私は何をしているのだろう。少しずつ明るんできた自分の部屋のベッドの上で、ナナはぼんやりと考えた。隣では望宮がスヤスヤと眠っている。ズルい人。愛を確かめ合う前に、王族である事、妻子持ちであることを教えて欲しかった。しかし、彼の寝顔を見ても不思議と怒りは湧いて来ない。島を出てから誰一人として自分の辛い思いを聞いて貰えず、すさんでいた彼女の心の中に、彼は何の躊躇もなく入って来た。結局、彼の優しさに甘えてしまったのだ。ナナは静かにベッドを抜け出し、脱ぎ捨てられていた自分の服を集めながら小さくため息をついた。軽くシャワーを浴びた後、2人分の料理を作る。出来上がる頃になって、彼はむっくりと起き上がった。
 「いい匂いがするなぁ。」
 その途端、グゥーと大きなお腹の音がなった。その音を聞いて、ナナは思わず声を上げて笑ってしまった。これほど笑うのは久しぶりだ。笑いながら、ナナはこの島に来て以来ずっと彼女の心に食い込んでいた大きな重石(おもし)がなくなっていることに気づいた。昨晩、望宮が最後に尋ねた質問に答える決心がついたのは、まさにこの瞬間だった。
 「決めたわ。私は貴方の側室になる。」
 「おお!それは良かった。」
 望宮は満面の笑顔でナナを見つめた。窓から差し込む光が、その笑顔を一層眩しいものにした。これからどうなるのか、どんな運命を辿るのか想像もつかないけれど、この人についていけるのなら私はきっと後悔しない。私が見たい世界はきっと彼の近くにある。ナナはそう思わずにはいられなかった。

 ナナと一緒にいられたのは、2年にも満たない短い期間だった。彼女は1人の女の子を産んですぐに息を引き取った。望宮が生涯でただ1人、王族命令書を使って人を殺めたのは彼女の出産を担当した医師だった。その医師は、彼女は母娘共に危険な状態の中、自分か娘のどちらを生かすかを聞かれ、娘を選んだのだと言った。その医師の言葉は間違いなく嘘だと望宮は今も信じて疑っていない。子供などいつでも作れる。メルが生まれる前に、彼は正室・側室との間に2男2女、4人の子供をもうけていた。聡明な彼女がどうしてそれほど重要でもない娘を選び、自分を捨てるだろうか。彼の心の中には、いつのまにか暗い想いが去来していた。胸の中に悲しみがこみ上げてくるのに耐えられず、望宮はテレビを消した。腕の中に顔を埋めているセレムを押し倒す。ナナが死んでから17年、色んな女を妻にしたが彼女を失った悲しみは未だに癒やされてはいない。

 ようやく取材から解放されたメルは少し疲れた様子で最南鎮守府の司令宮室に戻って来た。
 「お帰りなさいませ。」
 部屋には既にアブエロとノノウが戻って来ていた。
 「全く、同じことばかり質問されるのには困ったものだ。なんとかならないのか。」
 メルは軽くため息をついた。
 「マスコミを敵に回してはなりません。彼等の報道で、我々の印象は大きく左右されますから。」
 アブエロがたしなめる。
 「分かっている。」
 メルは大きく息を吐いた。彼女に意外と人間らしい一面があることを、ノノウは側に仕え始めてから知った。テレビで見ていた頃は雲の上の人だと思っていただけに、そういった姿を見るとノノウは少し安心感を覚えるのだった。
 アブエロがつけておいたテレビから、異国船が最南港に入港する様子が生中継されている。突然司令宮室に例のけたたましい呼び出し音が鳴り響いた。アブエロが対応する。
 「ダルヤ殿から、異国船の艦長と思われる男を最南島南部中央病院に連れて行くと連絡がありました。我々も行きましょう。」
 「うむ。」
 その直後、またけたたましいベルが鳴り響く。今度はノノウがとった。
 「蒼候と総理大臣が、夕方モニターでの会談を行いたいと連絡がありました。」
 「承ったと伝えよ。」
 「はい!」
 「直ぐに着替えて南部中央病院へ向かう。表に車を回しておいてくれ。」
 「ハッ!」
 車を回して3分もたたないうちに、メルは軍の制服から司令宮の制服に着替えて車に乗り込んだ。張り込んでいた取材班から一斉にフラッシュをたかれる。最南鎮守宮に就任して初めてこの建物に入った時の2、3倍は眩しかった。この事件の成り行きがいかに人々の注目を浴びているか、メルはひしひしと感じさせられた。この先の未来に何が待つか、それはメルにも分からない。異国船の艦長の話は、この問題の根本が何処にあるのかはっきりさせてくれるだろうか。

 ラルバは翠の国では見たこともない乗り物に乗せられていた。どうやらこの島の一番偉い人物に会わせてくれるようである。その人物に救援を乞う意思を何としても伝えなければならない。この島のトップがどんな人物であろうと、そのことについてはラルバは相当な覚悟を持っていた。
キッと乗り物が大きな建物の前で止まった。車を降りて建物の中に入ると、病人や怪我人が沢山生活していた。どうやら病院らしい。この島のトップはこの病院の院長なのだろうか。そんなことを考えながら、ラルバは病室の一角に案内された。重厚な雰囲気の椅子型の機械が2つ置かれていて、そのうちの一方には両側にふつうの椅子が置かれている。ラルバは両側に椅子が置かれていない方の機械に座らされ、不思議なものを渡された。細長い紐状のものに、指先サイズのゴム製品がくっついている。付き添いの男は、耳を指差していた。どうやら、耳にはめるものらしい。待つこと数分、3人の人間が入ってきた。老人と少女、もう1人は少女より少し年上くらいの女性であった。付き添いの男が直立不動の態勢をとる。恐らく、あの老人がこの島のトップに違いない。3人の中で女性が機械に座り、老人と少女がそばの椅子に腰を下ろした。3人とも自分がつけた紐状の製品を耳にはめる。次の瞬間、ありえないことが起こった。
 (私の声が聞こえるか?)
 何と頭に直接声が響いて来たのである。言葉という次元ではなく、自分の体の中にダイレクトに入って来ていた。話している人物も分かる。真ん中に座っているあの女性で間違いない。ラルバは反射的に頷いた。
 (名を名乗れ。この機械は伝えたいと思った事が直接相手に伝わるのだ。私はメル。この島の管理を任されている。皆からは守宮と呼ばれておる。)
 (モリノミヤ…様)
 (そうだ。そんな感じで名を私に伝えてみよ。)
 (ラルバ。私は戦艦リプトスの艦長、ラルバと言います。)
 (何故この島に来た?)
 (話せば…いや、伝えれば、長くなりますが。)
 (構わん。)
この人物に協力を仰ぐならば、洗いざらい、一切合切を話すべきだろう。ラルバは覚悟を決めて、翠の国の成り立ちから今までのことを、一つ一つ順に話し始めた。

 3人は驚愕するしかなかった。ラルバの話が正しければ、南の果てにはこの国の誰も知らない国がいくつも存在し、その国々が「黒の国」に征服されつつある。撃墜した5機の戦闘機は、おそらく黒の国のものであろう。もし翠の国が完全に占領されたのだとすれば、果てしなく広い海を挟んでいるとはいえ、蒼の国と黒の国は国境を接していることになる。いつ戦闘機が飛来してきても不思議ではない。事態はまさに、この国の防衛に関わる話になりつつあった。
 重い空気が司令宮室の中を漂っていた。ラルバにはとりあえず上に判断を仰ぐと言って帰したが、政府・王宮がどんな判断を下すのかは誰にも分からない。蒼候、総理大臣とメルの三者会談は1時間後に迫っていた。
 「このたび皆に集まってもらったのは、この事件に対する最南鎮守府の見解を示すためだ。意見あるものは気兼ねなく話せ。」
 部屋にはアブエロ、ノノウの他にメルの招集命令を受けて、スィラ、フィデルタ、ダルヤ、アスター、そして最南島の島長であるリブリ、合計8名の最南鎮守府関係者が集まった。島長をトップとする島役場は鎮守府が軍を管轄するのに対して、行政を担っている。緊急時には、鎮守宮が島長を招集出来ることになっていた。これだけのメンバーが揃うのは、メルが最南鎮守宮で就任後最初の会談をして以来である。
 重い沈黙を破ったのは、ノノウだった。
 「まず考えねばならないのは、黒の国への対応です。強硬路線か、融和路線か、どちらを優先するかを考えねばなりません。」
 「その答えは明白だろう。」
 応じたのはフィデルタである。
 「既に我々は、黒の国の戦闘機を5機撃墜している。この事実を知られたら、相手が黙っているはずがない。」
 「それはそうかもしれんが。」
 口を挟んだのはアスターである。
 「その事実を相手が果たして確認出来るものかのう?本日、相手の戦闘機を無事引き揚げられたそうではないか。撃墜の事実を知らせずにその戦闘機を綺麗に修復して黒の国に返すことが出来れば、相手はこちらに友好的な目を向けてこようぞ。」
 「果たしてそうでしょうか。」
 そう言ったのはダルヤだった。
 「相手はむしろその行動をこちらの弱腰と侮るでしょう。つけあがって無謀な行動を起こされたら、迷惑するのは我々現場です。」
 「なんだと!」
 アスターの顔が真っ赤になる。
 「私はそなたらの為を思って発言しているのに、迷惑とは無礼であろう!若くして上級将校になったことを鼻にかけて、図に乗りおって!」
 「アスター殿の考えは古すぎるのです。もうそろそろ、後進に道を譲ることも考えられては?」
 「ふざけるな!」
 「アスター殿!」
 間に入ったのはアブエロである。
 「メル様の前で、そのような醜態を晒してはなりませんぞ!ダルヤ殿も言い過ぎじゃ。」
 憤懣やるかたなしといった表情でアスターが俯く。
 「もうよい。」
 メルは笑顔を作って室内を見渡した。
 「皆、今日はご苦労であった。この中の1人でも欠けていたら最南島の民や翠の国の者たちの命は危なかっただろう。これからもよろしく頼む。」
 「ハッ!」
 全員が深々と頭を下げた。メルがいるから収まったものの、彼女不在の時はどうすればまとまるのか、ノノウは分からなかった。この足並みの乱れは、黒の国が攻めてきた場合、致命傷になるかもしれない。

 「あのように何もまとまらぬうちに会議を終わらせてどうするのです!黒の国への対応すらまとまらなかったではありませんか。」
 招集した者達を返して、再び3人になった瞬間、アブエロはメルに詰め寄った。
 「仕方ないだろう。ノノウの質問一つであそこまで争われてはどうしようもない。これから黒の国を相手にするかもしれないのに、これ以上無駄に皆の間に軋轢を作る方が怖い。」
 「しかし…」
 アブエロは心底困った顔をしている。アブエロが言いたいであろうことを、ノノウは代弁した。
 「最南鎮守府としての見解はどうするのです?」
 「やむを得ん。ここは私見を述べざるを得ないだろう。」
 「具体的には?」
 「南海域に防衛ラインを引いて、その中に入ってきた異国の飛翔体は直ちに撃墜、異国船は出来る限り拿捕、不可能なら撃沈する。これが我々のやるべきことではないか?」
 「確かにそうかもしれません。しかし、それでは恒久的な解決にはならないでしょう?」
 「ならないな。だが、そこは王宮と政府が話し合って決めれば良いとは思わないか。」
 「なるほど…」
 最南鎮守府としての意見がまとまらない以上、それがベストだろうとノノウも思った。
 「守宮様は、王宮と政府はどう判断すると思いますか?」
 「成帝陛下が在(お)わす限り、融和の道を探るだろう。蒼候殿下もまた、この数十年平和を保ち続けてきたのに、今更路線変更するはずがない。」
 「確かに…」
 メルの話を聞きながら、ノノウは何故か安心感を感じていた。普通なら慌てるものだが、メルからは一切焦りを感じなかった。この人に私は本当に必要なのかな、と疑問に思う時は少なくない。
 「そろそろ時間か?」
 「はい。会談10分前ですね。回線は既に繋いであります。モニタールームへお願いします。」

 蒼候がモニター前にやってきて、3人全員が揃ったのは会談開始1分前のことであった。誰が漏らしたのか既に三者会談が行われることはスクープされていて、報道関係者は現蒼候・賢宮のいる王宮、首相・キサンのいる首相官邸、そしてメルのいる最南鎮守府に続々と押しかけてきていた。不幸中の幸いはこの会談が非公開であることによって、部屋にまで報道陣が押しかけて来ないことである。
 「ギリギリになってすまんのう。」
 賢宮がゆっくりと席に座る。71歳にして今なお蒼候を務めるこの老宮の労苦は計り知れない。7年前に成帝が倒れて以来、本来帝王が行うはずの公務も代行せざるを得なくなり、20歳は若く見えると言われた彼の姿はここ5年で一気に老けた。近頃は帝王の病状が悪化の一途を辿っており、ますます多忙を極めているらしい。アブエロはその姿を『王族の誇り』と評し、ノノウは『悲運の老人』と言った。全く別の評価だが、メルはどちらも的確な表現だと感じている。
 まず口を開いたのはキサンである。
 「蒼候殿下の時間も余りないですし、早速本題に入りましょう。守宮様、まずは事件の経過と最南鎮守府としての見解をお聞かせください。」
 キサンは首相になって1年目で、穏健保守派の党「紡ぐ党」の出であった。最近架空支出問題が発覚し大きく支持率を落としていて、1ヶ月後の選挙を勝利することは厳しいと言われている。今日の午前中も議会でこの問題を野党に追及されて釈明に追われていた。この事件への対応は、彼にとって一発逆転のカードにもとどめの一撃にもなり得るだろう。低く野太い棒読みの声に疲れが混じっているのを感じながら、メルは返答した。
 「本日午前10時頃、最南港より南方に200Kmの地点で不審船を探知、最南海上警備隊と紫雲で不審船の確認に向かった所、高速で北上する5機の戦闘機と思われる未確認飛行隊を確認したので、リラトル隊が撃滅しました。不審船に関しては拿捕し、艦長と意思疏通機を使って会話をした所、驚くべき情報を聞かされたのです。」
 「ほう…その情報とは?」
 賢宮がこの会談で最初の言葉を発した直後だった。
 バタン、という音の後に男が1人、賢宮を映すモニターの右側から画面の中に入ってきて彼に何かを耳打ちした。その途端、賢宮の顔がみるみるうちに青ざめていく。
 「会談は中止じゃ。大変なことが起きた。」
 「大変な事?」
 言いながら、メルは予感した。この大事件より優先される事案は1つしかない。
 「陛下が…陛下が御崩御なされた。」
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