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前編 日常の亀裂
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高城あかり、28歳。都心の広告代理店で働く彼女の日常は、灰色のアスファルトのように単調だった。毎朝、見知らぬ人々の体温とため息で満たされた満員電車に押し込まれ、無機質なオフィスでクライアントからの終わらない要求に応える。液晶画面の数字と格闘し、疲弊しきった顔を化粧室の鏡で見るたび、自問する。
「この生活は、いつまで続くのだろう」。
だが、人生は絶望だけではなかった。週末に親友の美咲と交わす他愛ないお喋り、行きつけのカフェの香り高いコーヒー、ジムでトレーナーと交わす冗談。そんなささやかな幸福の欠片が、すり減っていく心をどうにか繋ぎ止めていた。
住まいは、駅から徒歩10分の築30年のマンション。エレベーターはなく、セキュリティは古びたオートロックのみ。隣に誰が住んでいるのかさえ知らない。そんな都会特有の希薄な人間関係と孤独には、もうとっくに慣れたはずだった。しかし、最近、その日常に微細な、だが確実な亀裂が入り始めているのを感じていた。
誰かに見られている──。
エレベーターのないマンションの階段を上る時、背後に感じる気配。自室のドアを開ける一瞬、視界の端で揺らめく人影。買い物帰りの夜道、すぐ後ろをついてくるような足音。だが、勢いよく振り返っても、そこには街灯に照らされた無人のアスファルトが広がっているだけ。
「あかり、疲れてるんじゃない? 新規プロジェクトのプレッシャーで、少し過敏になってるだけだよ」
親友の美咲は、いつものように明るく笑い飛ばした。確かに、彼女の言う通りかもしれない。連日のプレゼン準備で睡眠時間は削られ、胃に流し込むのはコーヒーばかり。それでも、肌を刺すような視線の感覚は、気のせいだと切り捨てるにはあまりに生々しかった。
異変は、週明けの月曜日に、より明確な形となって現れた。いつものように身動きも取れない地下鉄の車内。ふと顔を上げると、向かいの席に座る中年の男と目があった。着古されたスーツは皺だらけで、脂で光る髪が不潔な印象を与える。目が合った瞬間、男の唇が歪み、粘つくような笑みが浮かんだ。あかりは蛇に睨まれた蛙のように硬直し、反射的に視線を逸らす。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
次の駅で、あかりは人混みをかき分けて車両を移った。だが、男の視線は壁を貫通するように、背中に突き刺さってくる。目的の駅でホームに降り立ち、恐る恐る振り返ると、もう男の姿はどこにもなかった。しかし、胸に残った不快なざわめきは、一日中消えることがなかった。
その夜、帰宅したあかりを待っていたのは、決定的な恐怖だった。郵便受けに、一通の無記名の封筒。差出人の名も、切手もない。誰かが直接投函したのだ。震える指で封を切ると、中から現れた白い便箋には、黒いインクで書かれた、たった一文が記されていた。
『あかりさん、今日の赤いスカート、とても素敵でしたよ』
全身の血が凍りつく。
誰が? どうして私の名前を?
今朝、私が着ていた服を、なぜ知っている?
あかりは便箋をくしゃくしゃに握りつぶし、転がるように部屋に駆け込んだ。カーテンを全て閉め切り、ドアに二重のロックとチェーンをかける。
震えながら警察に電話をしたが、返ってきたのは「具体的な危害が加えられない限り、我々も動くのは難しい」という事務的な声だけだった。
マンションの監視カメラは、管理人に尋ねると「故障中」だという。社会というシステムから、自分だけが切り離されてしまったかのような絶望感に襲われた。
「この生活は、いつまで続くのだろう」。
だが、人生は絶望だけではなかった。週末に親友の美咲と交わす他愛ないお喋り、行きつけのカフェの香り高いコーヒー、ジムでトレーナーと交わす冗談。そんなささやかな幸福の欠片が、すり減っていく心をどうにか繋ぎ止めていた。
住まいは、駅から徒歩10分の築30年のマンション。エレベーターはなく、セキュリティは古びたオートロックのみ。隣に誰が住んでいるのかさえ知らない。そんな都会特有の希薄な人間関係と孤独には、もうとっくに慣れたはずだった。しかし、最近、その日常に微細な、だが確実な亀裂が入り始めているのを感じていた。
誰かに見られている──。
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「あかり、疲れてるんじゃない? 新規プロジェクトのプレッシャーで、少し過敏になってるだけだよ」
親友の美咲は、いつものように明るく笑い飛ばした。確かに、彼女の言う通りかもしれない。連日のプレゼン準備で睡眠時間は削られ、胃に流し込むのはコーヒーばかり。それでも、肌を刺すような視線の感覚は、気のせいだと切り捨てるにはあまりに生々しかった。
異変は、週明けの月曜日に、より明確な形となって現れた。いつものように身動きも取れない地下鉄の車内。ふと顔を上げると、向かいの席に座る中年の男と目があった。着古されたスーツは皺だらけで、脂で光る髪が不潔な印象を与える。目が合った瞬間、男の唇が歪み、粘つくような笑みが浮かんだ。あかりは蛇に睨まれた蛙のように硬直し、反射的に視線を逸らす。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
次の駅で、あかりは人混みをかき分けて車両を移った。だが、男の視線は壁を貫通するように、背中に突き刺さってくる。目的の駅でホームに降り立ち、恐る恐る振り返ると、もう男の姿はどこにもなかった。しかし、胸に残った不快なざわめきは、一日中消えることがなかった。
その夜、帰宅したあかりを待っていたのは、決定的な恐怖だった。郵便受けに、一通の無記名の封筒。差出人の名も、切手もない。誰かが直接投函したのだ。震える指で封を切ると、中から現れた白い便箋には、黒いインクで書かれた、たった一文が記されていた。
『あかりさん、今日の赤いスカート、とても素敵でしたよ』
全身の血が凍りつく。
誰が? どうして私の名前を?
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あかりは便箋をくしゃくしゃに握りつぶし、転がるように部屋に駆け込んだ。カーテンを全て閉め切り、ドアに二重のロックとチェーンをかける。
震えながら警察に電話をしたが、返ってきたのは「具体的な危害が加えられない限り、我々も動くのは難しい」という事務的な声だけだった。
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