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中編 忍び寄る影
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水曜日。長引く残業を終え、会社を出たのは22時を過ぎていた。恐怖を紛らわすため、あえて人通りの多い道を選んでいたが、その日は魔が差したのかもしれない。少しでも早く家に帰りたくて、街灯の少ない裏路地へと足を踏み入れてしまった。
コツ、コツ、と自分のヒールの音だけが響く。そう思っていた。だが、背後からもう一つ、同じリズムを刻む音が聞こえ始めた。ゆっくりと、しかし確実に、距離を詰めてくる。振り返る。誰もいない。ただ、路地の曲がり角の壁に、異様に長く引き伸ばされた、歪な人間の影が映っていた。
あかりは早足になる。背後の足音も、呼応するように速まる。恐怖が喉元までせり上がってくる。心臓が張り裂けそうだ。もはや後ろを確かめる余裕もなく、角のコンビニの自動ドアに飛び込んだ。店内の眩い光と店員の気怠げな視線に、ようやく安堵の息をつく。外を見るが、あの影は消えていた。
「すみません、今、誰か通りませんでしたか?」
店員は怪訝な顔で、「いえ、ここしばらく誰も通っていませんよ」と答えるだけだった。
翌日、会社のデスクに、見慣れないデザインのコーヒーカップが置かれていた。訝しみながら蓋を開けると、その裏に小さなメモが貼り付けられている。
『君の笑顔は、僕だけのものだ』
全身から汗が噴き出した。周囲の同僚たちは、誰も気づいていない。総務に監視カメラの映像を確認してもらったが、返ってきた答えは、「その時間帯、君のデスクに近づいた者は誰も映っていない」。ありえない。まるで幽霊の仕業だ。脳裏に、あの地下鉄の男の、粘つくような笑顔が蘇った。
金曜の夜、ジムからの帰り道だった。いつもの路地を歩いていると、またあの足音が聞こえる。意を決して振り返ると、そこに「男」が立っていた。地下鉄で会った、あの中年の男だ。マスクをしていない今、その痩せこけた頬と、血走った目がはっきりと見えた。
「あかりさん、やっと会えたね」
男が、恍惚とした表情で囁く。あかりは声にならない悲鳴を上げ、踵を返して走り出した。背後から、男の狂気を帯びた声が追いかけてくる。
「待ってくれ! 僕たちは運命で結ばれているんだ!」
夜の闇に響き渡る叫び声。あかりは夢中で大通りまで走り、人混みに紛れて近くの交番に駆け込んだ。警官がすぐに路地を調べてくれたが、男の姿はどこにもなかった。
憔悴しきって家にたどり着くと、部屋の電話がけたたましく鳴り響いていた。非通知の番号。恐る恐る受話器を取ると、あの男の声がした。
「今、君の部屋の灯りが見えるよ。綺麗だね」
カーテンの隙間から外を見る。街灯の下に、あの男が、黒い影のように佇んでいた。動かない。ただ、じっとこちらのアパートを見上げている。あかりは悲鳴を飲み込み、部屋の全ての電気を消してベッドに潜り込んだ。電話は執拗に鳴り続けた。やがて諦めたように切れたかと思うと、留守番電話に低い声が吹き込まれていた。
『あかり、僕の愛は、永遠だよ』
翌朝、ドアを開けると、そこには黒く枯れたバラの花束が置かれていた。『永遠の愛を誓う』と書かれたカードを添えて。もう限界だった。警察は動かない。美咲は「すぐに引っ越しなさい!」と叫ぶが、そんな貯金はない。あかりの心に、恐怖とは別の、冷たい決意が芽生え始めていた。この見えない敵の正体を、この手で突き止めなければならない。
迫りくる恐怖
土曜の朝、あかりはほとんど眠れないまま、再び警察署を訪れた。だが、枯れた花束を見せても、警官の反応は変わらない。「ストーカー規制法は、あくまで『つきまとい等』が確認されないと…」。苛立ちと無力感に、唇を噛みしめるしかなかった。
自室に閉じこもり、ネットの海を彷徨う。ストーカー被害者の掲示板で、あかりは似たような経験談を見つけた。元同僚に妄想を抱かれ、追い詰められた女性の、悲痛な叫び。その書き込みに、一つの手がかりがあった。『犯人は、誰もが無視するような、影の薄い存在だった』。
月曜日、出社したあかりにとって、オフィスはもはや安全な場所ではなかった。すれ違う社員全員が、仮面をかぶったストーカーに見える。そんな彼女のデスクに、またしても新たなメモが置かれていた。
『シャンプーの香り、変わったね。前のほうが好きだったな』
吐き気がした。誰かが、私のすぐそばで、私を観察している。だが、監視カメラには何も映っていない。このオフィスには、カメラにも映らない「何か」がいる。
その夜、帰宅ルートを大きく変え、ネオンが煌めく繁華街を抜けることにした。雑踏に紛れれば、尾行はできないはずだ。だが、人混みの中でも、背中に突き刺さる視線は消えない。コンビニで買い物を終えて外に出た瞬間、目の前に男が立っていた。あの男だ。黒いコートに、血走った瞳。
「あかり、どうして僕から逃げるんだい?」
その声は、悲しみと怒りが混じり合った、不気味な響きをしていた。あかりは絶叫し、再び走り出す。追いかけてくる男の足音。運良く通りかかったタクシーに飛び乗り、どうにかその場を逃げ切った。震える声で運転手に尋ねる。
「すみません、今、誰か追ってきませんでしたか?」
運転手はバックミラー越しに、不思議そうな顔で答えた。
「いいえ、お客さんの他には誰もいませんでしたよ」。
コツ、コツ、と自分のヒールの音だけが響く。そう思っていた。だが、背後からもう一つ、同じリズムを刻む音が聞こえ始めた。ゆっくりと、しかし確実に、距離を詰めてくる。振り返る。誰もいない。ただ、路地の曲がり角の壁に、異様に長く引き伸ばされた、歪な人間の影が映っていた。
あかりは早足になる。背後の足音も、呼応するように速まる。恐怖が喉元までせり上がってくる。心臓が張り裂けそうだ。もはや後ろを確かめる余裕もなく、角のコンビニの自動ドアに飛び込んだ。店内の眩い光と店員の気怠げな視線に、ようやく安堵の息をつく。外を見るが、あの影は消えていた。
「すみません、今、誰か通りませんでしたか?」
店員は怪訝な顔で、「いえ、ここしばらく誰も通っていませんよ」と答えるだけだった。
翌日、会社のデスクに、見慣れないデザインのコーヒーカップが置かれていた。訝しみながら蓋を開けると、その裏に小さなメモが貼り付けられている。
『君の笑顔は、僕だけのものだ』
全身から汗が噴き出した。周囲の同僚たちは、誰も気づいていない。総務に監視カメラの映像を確認してもらったが、返ってきた答えは、「その時間帯、君のデスクに近づいた者は誰も映っていない」。ありえない。まるで幽霊の仕業だ。脳裏に、あの地下鉄の男の、粘つくような笑顔が蘇った。
金曜の夜、ジムからの帰り道だった。いつもの路地を歩いていると、またあの足音が聞こえる。意を決して振り返ると、そこに「男」が立っていた。地下鉄で会った、あの中年の男だ。マスクをしていない今、その痩せこけた頬と、血走った目がはっきりと見えた。
「あかりさん、やっと会えたね」
男が、恍惚とした表情で囁く。あかりは声にならない悲鳴を上げ、踵を返して走り出した。背後から、男の狂気を帯びた声が追いかけてくる。
「待ってくれ! 僕たちは運命で結ばれているんだ!」
夜の闇に響き渡る叫び声。あかりは夢中で大通りまで走り、人混みに紛れて近くの交番に駆け込んだ。警官がすぐに路地を調べてくれたが、男の姿はどこにもなかった。
憔悴しきって家にたどり着くと、部屋の電話がけたたましく鳴り響いていた。非通知の番号。恐る恐る受話器を取ると、あの男の声がした。
「今、君の部屋の灯りが見えるよ。綺麗だね」
カーテンの隙間から外を見る。街灯の下に、あの男が、黒い影のように佇んでいた。動かない。ただ、じっとこちらのアパートを見上げている。あかりは悲鳴を飲み込み、部屋の全ての電気を消してベッドに潜り込んだ。電話は執拗に鳴り続けた。やがて諦めたように切れたかと思うと、留守番電話に低い声が吹き込まれていた。
『あかり、僕の愛は、永遠だよ』
翌朝、ドアを開けると、そこには黒く枯れたバラの花束が置かれていた。『永遠の愛を誓う』と書かれたカードを添えて。もう限界だった。警察は動かない。美咲は「すぐに引っ越しなさい!」と叫ぶが、そんな貯金はない。あかりの心に、恐怖とは別の、冷たい決意が芽生え始めていた。この見えない敵の正体を、この手で突き止めなければならない。
迫りくる恐怖
土曜の朝、あかりはほとんど眠れないまま、再び警察署を訪れた。だが、枯れた花束を見せても、警官の反応は変わらない。「ストーカー規制法は、あくまで『つきまとい等』が確認されないと…」。苛立ちと無力感に、唇を噛みしめるしかなかった。
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その声は、悲しみと怒りが混じり合った、不気味な響きをしていた。あかりは絶叫し、再び走り出す。追いかけてくる男の足音。運良く通りかかったタクシーに飛び乗り、どうにかその場を逃げ切った。震える声で運転手に尋ねる。
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