キミの泥梨は博愛に欠くか

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甘塚満季(あまづかみたき)編

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無償の愛というものを手に入れたような気持ちになっていた。
おれの電話に出てよ、真っ先に誕生日を祝ってよ、他の人に抱かれないでよ、束縛したくて駄々をこねるおれに「気づくのが遅くなってごめんね」と言って泣きやむまで頭を撫でてよ。
ずっと誰かに底抜けに優しくしてほしかった。
なんて嘘だよ、あなたから与えられた感情にしか価値はない。
安心して幸せそうに笑う顔を見ると叩き潰したくなる。
叩き潰された幸福を寂しそうに眺める顔を見て本当は優しくしたかったと気づいてしまう。
後悔はいつも手遅れになってからやってきた。

窓の外で、夏が近づいた高い空が煌めいている。
蝉の鳴き声が聞こえてきて、気温も日に日に上がり、五月雨は過ぎ去っていた。
「大丈夫ですか?」
ふいに横から聞こえてきた声に、振り返る。
甘塚満季(あまづかみたき)はおれの勤め先である小学校のスクーリングカウンセラーだ。
驚くほど白い肌に口元のホクロと陰った紫の髪、夕陽をくり抜いたような穏やかな橙色の瞳を持っている。
「……甘塚先生。えぇと、大丈夫、というのは……」
「なんだか、顔色が悪いように見えたので……困ったことがあれば、遠慮なく私に頼ってくださいね」
こんな距離の縮め方をする女性は初めてで、おれはちょっと圧倒されていた。

それでも嫌な気がしなかったのは、無邪気な笑顔でこちらを見つめる彼女が、きっと可愛かったせいだ。
美人って得だな、とおれは頭の隅で考える。
それが、満季さんと交わした最初の会話だった。
それから職場で必要最低限の付き合いしかしないおれに対し、満季さんはことあるごとに話しかけてくるようになったのだ。
主におれの趣味や食生活について、とか、彼女の好きな本やぬいぐるみについて、というような取るに足らない話題が多かったけど、これまで女性とろくな関わりがなかったおれにとって全部が鮮烈で、彼女に恋愛感情を抱くまで時間はかからなかった。

夜の校庭の、四本並んで植わっている桜の木の下で、桜の白い小さな花びらが星のカケラの様に夜空に浮かんでいる。
地震があり点検のため、真夜中に勤め先の小学校へと駆り出されていたおれは、先程まで懐中電灯片手に校舎を一緒に歩き回っていた満季さんに意を決してたずねた。
「どうして、おれに話しかけてくれるんですか」
青白い月光に照らされた彼女を見詰めれば、ただ静かに見返されて何となくどぎまぎしてしまう。
黄色を帯びた綺麗な琥珀は美しく輝いて、目が離せない。
こちらの動揺を知ってか知らずか、彼女はゆったりと柘榴のような唇を開いた。。
「だって、あなたはとっても寂しそう」

彼女がまっすぐにおれの目を見つめて、穏やかな笑みで大した重みはないだろうけど、きっとおれという人間の一番奥深くに触れた「寂しそう」に、琥珀に閉じ込められた虫のごとく身動きが取れなくなっている自分に気づいた。
彼女がそんな風に接しているのは何もおれだけではなくて、相手の感情の飢えを自覚させるような言葉を、満季さんはよく口にしている。
そもそも、満季さんは大抵誰にでも積極的に話しかけていて、彼女を慕う人間は掃いて捨てるほどいた。
きっとそのリスクを深く考えることもなく、軽い調子で、承認に飢えた弱った人間に彼女は必ず寄り添って甘い言葉を囁く。
そうして、甘塚満季を失ったらと二度と幸せになれないかのように錯覚させる。

ぽろぽろと涙を流して、自分でも思いがけなかった言葉が出た。
「おれは、満季さんのいないところに行くんだ」
満季さんは目を丸くしてベッドから身を起すと、おれの顔をまじまじと見つめて微かな溜息をもらす。
おれは自分の中で膨れ上がる満季さんへの執着心が怖くなり、実に思いがけない滑稽とも阿呆らしいとも形容に苦しむほどの失言を続けた。
「満季さんと、はなれたい。はなれさせて、おれはついさっき満季さんがきらいになったんだ。いやもっと前から、満季さんが、別の男と居るのを何度も見たんだ。満季さんは、おれを愛してるわけじゃない。満季さんは、おれに優しくしてくれたけど、特別な意味はなくて、でも、それでも満季さんはおれの初恋の人で……」

涙が溢れ、嗚咽が込み上げ、喉が焼けるようだ。
言葉が止まらない。
寝起きの頭で話すせいで、思考はろくに回らず声が無様に裏返っていた。
グチャグチャになった心の破片が、喉を通って出てくるのが分かる。
俯いて子供みたいにぴーぴーと喚き散らして、昨夜のシーツの沁みが涙で上書きされていく。
恋人でも家族でもない、事が済んだら用無しなはずのおれの頭を律儀にゆるゆると撫でた。
顔を上げると、彼女の丸い瞳には月明かりのような欲の光がしらじらと揺れている。
恋する少女のように頬を紅潮させて、剣のように目を細めるかんばせは、数多の男の屍を踏みつけ歩く毒婦のように蠱惑的だ。
「私は、好きよ。寂しそうで愛を求めるあなたが好き。嫌な女って軽蔑する?愛を求めるのは悪いことじゃないわ」

こんな表情を、言葉を、きっとおれ以外の沢山人々も向けられてきたのだ。
この女は、清浄潔白ではない。
そのどうしようも無い性分は、おれに変えることはできないのだろう。
「私は、あなたが一番好きよ」
満季さんはおれが惨めに泣いているのを見ると、思ってもないのだろうにそう言ってくれたけど、おれはやはり泣いて頷くばかりだ。
隣に座る彼女は時計を一瞥してから、しばらく思案するように黙り込むと、おれに両手を伸ばした。
その仕草が、抱き寄せて欲しいというよりは、何かを受け止める合図みたいだったので、おれは目の前の、男の力だと簡単に潰れてしまいそうな柔らかく華奢な女性の身体を思いっきり掻き抱く。

男の太ももより細いんじゃないかと感じる腰に両腕を回して、しなやかな肩に自分の額を甘えるように擦りつけた。
「満季さん、満季さん……」
おれはみっともなく満季さんの名を呼ぶ。
彼女の優しさは悪意で出来ていて、その愛情は自尊心に過ぎない。
自分を削らないと一緒に居られない時点で終わってたのに、失恋をきちんと失恋にしてあげることがどうしても出来なかった。
帰結した事実がぐるぐるとおれの中を駆け巡り、自我を侵食していく。
おれの好きな人は、おれのことを愛してなどいない。
それでもおれは、彼女がいないと生きていけなかった。
呪いみたいな言葉がおれの鼓膜を揺らす。
「あなたも甘塚満季を、ずっとずうっと愛していてね」

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