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ヤン編(※BL&浮気描写あり)
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喫茶店の窓から見える景色は梅雨の空気に包まれていた。
遠くは薄暗く、立ち並ぶビルの輪郭線がぼやけて見える。
紫色の瞳を丸くするついさっきまで恋人だった男の顔を見つめた。
おれはもう一度、「悪かった、別れてくれ」と言う。
ヤンの前に置かれた白いティーカップから湯気は立っていなかった。
「……ごめんネ」
やっと発された言葉はそれだけだ。
いったい何に対する謝罪なのか分からない。
ヤンは少し悲しそうに笑いながら、自分の分より少し多めの代金をテーブルに置き、音もなく席を立つとそのまま店の外へと出て行って、降り注ぐ雨に覆われながら消えた。
言いたい事はあったのに、どうしてか何も出てこない。
ヤンとは小学生の時に知り合って、中学時代から付き合い始めた。
薄茶色とビビットピンクのツートーンカラーの髪を三つ編みにして、制服である学ランを着用せずにチャイナ風の私服で登下校している。
いつまでたっても小学生の頃の癖が抜けずに似非中国人のような口調とファッションだけど、明るくフレンドリーな性格で世話焼きなお人好し。
集団になると頻出だけど、場を掌握能力に長けていて、彼を慕う人間は少なくはない。
おれはヤンが好きだったけど、年齢と共に隠し切れない焦りはあった。
高校生になっても、カップルが一度は通るであろう肉体的な衝動を抱けなかったことにお互いが気づいてしまったのだ。
ヤンのことは家族くらい大切なつもりだった。
でも彼から触られたいだとか、逆に触ってあますところなく混ざり合いたいというような、性的な欲望を微塵も抱けなかった。
愛し合っているのだから性行為なんてなくてもいい、そういうカップルだって沢山存在するじゃないか、と頭ではわかっていたけど心は焦燥して仕方がない。
ヤンと長電話したりゲーセンで遊ぶだけの日々に不安を覚えたのだと実感したら、目に見える綻びがどんどん広がり、やがて大きな隙を作ってしまった。
昨日、おれを誘ってきた女の子はおれの大学の後輩で、ゼミがたまたま同じだっただけでプライベートで会話をしたことは無い。
特別な好意なんて抱いていなかったのに、彼女から寄りかかられた時、彼女の柔らかい髪から清潔な匂いがして、その唇にしゃぶりつきたい衝動に駆られた。
俺にだって年相応の肉欲は存在していたのだなと、冷静に分析する自分が居たのだ。
彼女からの誘いは一旦保留したものの、ヤンと恋人を続けるのは無理だと判断し、おれは全てを話して別れを切り出した。
ヤンが雨の中に紛れて去って行った日のことが今も脳裏に焼き付いて離れない。
大学卒業後は大きくは無いがアットホームな会社に就職して、気づくとおれはその辺りに掃いて捨てるほど居る凡庸な大人になっていた。
大学時代の彼女とは別れてしまったけど、今のおれは身の丈にあったと感じた女の子と付き合っている。
料理は下手くそで、同い年でありながら時々母親じみた説教をしてくる相手だったけど、少し騒がしいなと感じるだけで特に悪い気はしない。
特別美人では無いけど、目を糸のように細めて笑う顔も好ましいと思えたし、確かに穏やかな幸せを感じてる。
その幸せを壊したのだと話し、目の前の男はおれを見て微笑んだ。
ヤンはティーカップを傾けて、優雅に紅茶を飲んでいる。
おれは唖然と口を開けた。
「……な、なんで?」
「ナーニーが?君の今カノが可愛かったからセックスしたって話アルか?あの子、背中に二つホクロがあって色っぽかったネ」
ヤンの言う通り、おれの彼女の背中には目立つホクロがあるけど、そんなことは服を脱がなければ知る術がないはずだ。
おれが絶句していると、ヤンはアメリカ人のジェスチャーのように大袈裟に肩を竦めた。
「無論、レイプじゃねーアルよ。むしろ、あの子の方が乗り気だったアル。俺の職場の前で思い詰めた顔で突っ立ってたから、話を聞いてやっただけネ。そしたらナ、彼氏や友達の前では気丈に振舞ってたものの、職場でトラブルがあったらしくて、誰にも話せなくて苦しかったみてーアル。話を聞いてやって適当にアドバイスしたら、好きになったとか言われてナ。いざ、事にまで及んだけど、自分に彼氏が居ることを思い出して今更怖くなったらしくてナ。別れたいのか?ダイジョーブ、俺が話をつけてきてやるアルって言って、今君と話してるネ。文句ねーアルな?」
小説の朗読でもするように澱みなく紡がれた言葉は、何の感情も乗っていない。
緊張か恐怖か、身体が萎縮する。
「……言いたいことは、色々あるけど、おれに、ヤンを咎める権利は、ないですよ」
心臓を強く握り潰されたような圧迫感で息が苦しくなって、努めて丁寧に吐き出した言葉は震えていた。
窓の向こうはいつの間にか夜になっていて、濃淡のない闇色に反射するおれの顔は今にも首を吊ってしまいそうなほど憔悴している。
「そうアルねー」
ヤンのやや薄い唇が軽やかに笑う。
おれが別れを告げたあの日と同じように、自分の分より多めの代金を置いて、喫茶店から出ていった。
他人を傷つけて楽しそうに笑っている。
本当は、ヤンはこんな人間だったのだろうか。
ヤンと最後に会ったのは夏の半ばだったけど、半年も経てば冷たい風が吹き始め、口から溢れる息は白くなる。
日が傾き始め、雨の降る気配に眉根を寄せながら帰路を歩いていると、バス停で亡霊のように立ち尽くす存在がいた。
それは半年前に別れた、ヤンと幸せそうにしているはずのおれの元恋人だった。
彼女の言い分は支離滅裂で要領を得なかったけど、情報を頑張って組み合わせると、彼女はヤンに捨てられたという。
何の理由も告げられずに別れを言い渡されて、連絡が取れなくなり、ヤンの家に行ったもののもぬけの殻で短期契約の部屋だったことが後に判明したらしい。
おれは彼女がバスに乗るのを見送って、少し躊躇ったがヤンに電話をかけることにした。
電話は直ぐに繋がって、携帯の向こうから心底楽しそうな声がする。
『はろー、あの子はやっぱり君を頼ったんだネ』
「なんで別れたんだよ」
語気を強めて問う。
おれは、彼に復讐をされたのだと思っていた。
そして、ヤンの答えを聞いて、先程までの煮えたぎるような怒りが、膨大な後悔と激しい恐怖に生まれ変わっていく。
畏怖で締まった喉から引き攣った声が漏れる。
電話の先から鳴り響くカンカンカンカンという踏切の音がやけに響いていた。
『別れた理由?そんなの、昔みたいに君から電話して欲しかったから』
▼ E N D
遠くは薄暗く、立ち並ぶビルの輪郭線がぼやけて見える。
紫色の瞳を丸くするついさっきまで恋人だった男の顔を見つめた。
おれはもう一度、「悪かった、別れてくれ」と言う。
ヤンの前に置かれた白いティーカップから湯気は立っていなかった。
「……ごめんネ」
やっと発された言葉はそれだけだ。
いったい何に対する謝罪なのか分からない。
ヤンは少し悲しそうに笑いながら、自分の分より少し多めの代金をテーブルに置き、音もなく席を立つとそのまま店の外へと出て行って、降り注ぐ雨に覆われながら消えた。
言いたい事はあったのに、どうしてか何も出てこない。
ヤンとは小学生の時に知り合って、中学時代から付き合い始めた。
薄茶色とビビットピンクのツートーンカラーの髪を三つ編みにして、制服である学ランを着用せずにチャイナ風の私服で登下校している。
いつまでたっても小学生の頃の癖が抜けずに似非中国人のような口調とファッションだけど、明るくフレンドリーな性格で世話焼きなお人好し。
集団になると頻出だけど、場を掌握能力に長けていて、彼を慕う人間は少なくはない。
おれはヤンが好きだったけど、年齢と共に隠し切れない焦りはあった。
高校生になっても、カップルが一度は通るであろう肉体的な衝動を抱けなかったことにお互いが気づいてしまったのだ。
ヤンのことは家族くらい大切なつもりだった。
でも彼から触られたいだとか、逆に触ってあますところなく混ざり合いたいというような、性的な欲望を微塵も抱けなかった。
愛し合っているのだから性行為なんてなくてもいい、そういうカップルだって沢山存在するじゃないか、と頭ではわかっていたけど心は焦燥して仕方がない。
ヤンと長電話したりゲーセンで遊ぶだけの日々に不安を覚えたのだと実感したら、目に見える綻びがどんどん広がり、やがて大きな隙を作ってしまった。
昨日、おれを誘ってきた女の子はおれの大学の後輩で、ゼミがたまたま同じだっただけでプライベートで会話をしたことは無い。
特別な好意なんて抱いていなかったのに、彼女から寄りかかられた時、彼女の柔らかい髪から清潔な匂いがして、その唇にしゃぶりつきたい衝動に駆られた。
俺にだって年相応の肉欲は存在していたのだなと、冷静に分析する自分が居たのだ。
彼女からの誘いは一旦保留したものの、ヤンと恋人を続けるのは無理だと判断し、おれは全てを話して別れを切り出した。
ヤンが雨の中に紛れて去って行った日のことが今も脳裏に焼き付いて離れない。
大学卒業後は大きくは無いがアットホームな会社に就職して、気づくとおれはその辺りに掃いて捨てるほど居る凡庸な大人になっていた。
大学時代の彼女とは別れてしまったけど、今のおれは身の丈にあったと感じた女の子と付き合っている。
料理は下手くそで、同い年でありながら時々母親じみた説教をしてくる相手だったけど、少し騒がしいなと感じるだけで特に悪い気はしない。
特別美人では無いけど、目を糸のように細めて笑う顔も好ましいと思えたし、確かに穏やかな幸せを感じてる。
その幸せを壊したのだと話し、目の前の男はおれを見て微笑んだ。
ヤンはティーカップを傾けて、優雅に紅茶を飲んでいる。
おれは唖然と口を開けた。
「……な、なんで?」
「ナーニーが?君の今カノが可愛かったからセックスしたって話アルか?あの子、背中に二つホクロがあって色っぽかったネ」
ヤンの言う通り、おれの彼女の背中には目立つホクロがあるけど、そんなことは服を脱がなければ知る術がないはずだ。
おれが絶句していると、ヤンはアメリカ人のジェスチャーのように大袈裟に肩を竦めた。
「無論、レイプじゃねーアルよ。むしろ、あの子の方が乗り気だったアル。俺の職場の前で思い詰めた顔で突っ立ってたから、話を聞いてやっただけネ。そしたらナ、彼氏や友達の前では気丈に振舞ってたものの、職場でトラブルがあったらしくて、誰にも話せなくて苦しかったみてーアル。話を聞いてやって適当にアドバイスしたら、好きになったとか言われてナ。いざ、事にまで及んだけど、自分に彼氏が居ることを思い出して今更怖くなったらしくてナ。別れたいのか?ダイジョーブ、俺が話をつけてきてやるアルって言って、今君と話してるネ。文句ねーアルな?」
小説の朗読でもするように澱みなく紡がれた言葉は、何の感情も乗っていない。
緊張か恐怖か、身体が萎縮する。
「……言いたいことは、色々あるけど、おれに、ヤンを咎める権利は、ないですよ」
心臓を強く握り潰されたような圧迫感で息が苦しくなって、努めて丁寧に吐き出した言葉は震えていた。
窓の向こうはいつの間にか夜になっていて、濃淡のない闇色に反射するおれの顔は今にも首を吊ってしまいそうなほど憔悴している。
「そうアルねー」
ヤンのやや薄い唇が軽やかに笑う。
おれが別れを告げたあの日と同じように、自分の分より多めの代金を置いて、喫茶店から出ていった。
他人を傷つけて楽しそうに笑っている。
本当は、ヤンはこんな人間だったのだろうか。
ヤンと最後に会ったのは夏の半ばだったけど、半年も経てば冷たい風が吹き始め、口から溢れる息は白くなる。
日が傾き始め、雨の降る気配に眉根を寄せながら帰路を歩いていると、バス停で亡霊のように立ち尽くす存在がいた。
それは半年前に別れた、ヤンと幸せそうにしているはずのおれの元恋人だった。
彼女の言い分は支離滅裂で要領を得なかったけど、情報を頑張って組み合わせると、彼女はヤンに捨てられたという。
何の理由も告げられずに別れを言い渡されて、連絡が取れなくなり、ヤンの家に行ったもののもぬけの殻で短期契約の部屋だったことが後に判明したらしい。
おれは彼女がバスに乗るのを見送って、少し躊躇ったがヤンに電話をかけることにした。
電話は直ぐに繋がって、携帯の向こうから心底楽しそうな声がする。
『はろー、あの子はやっぱり君を頼ったんだネ』
「なんで別れたんだよ」
語気を強めて問う。
おれは、彼に復讐をされたのだと思っていた。
そして、ヤンの答えを聞いて、先程までの煮えたぎるような怒りが、膨大な後悔と激しい恐怖に生まれ変わっていく。
畏怖で締まった喉から引き攣った声が漏れる。
電話の先から鳴り響くカンカンカンカンという踏切の音がやけに響いていた。
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