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本編
シマアジ
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上半身の体積二人分くらいあるキャンバスを背中からズレないように風呂敷で固定して、わたしは足元に置いていた紅色のキャリーケースを持ち上げる。
中身はアクリルと油絵具の画材一式である。
昨日の夜、試しに体重計に載せて測ったら齢一歳の子供くらいの重量があった。
梅雨明けの公式な宣言はまだ出ていなかったはずなのに、空は真っ青に晴れ上がり、真夏の太陽が留保なく渡り廊下に照りつけている。
目が眩むような暑さに汗を垂らしながら、わたしは本校で最上級の眺望を誇る南校舎七階の美術室に向かわなければならない。
うちの美術部はどうしてこうも、画材の貸し出しをしてくれないのか。
「君ィ、大丈夫?荷物が重そうだねェ、運ぶの手伝ってあげようか?」
うんざりしかけた瞬間、背後から声をかけられて、はっとする。
振り向くと、狼谷三月(かみやみづき)先輩……通称、かみみ先輩がいた。
焦げ茶色の髪を後ろで短い尻尾のように縛って、整いすぎた目鼻立ちが冷え冷えとした印象を与えるほどの美貌を持つ。
かみみ先輩はルビーの双眸を細めて、にこっと笑いかけてきた。
この男は、笑えば人懐っこそうで年相応に愛嬌があるのだ。
「重いでしょ、ソレ。美術室まで運んであげようか?だぁいじょーぶ。こう見えて俺は力に自信があるよ」
かみみ先輩は非常に頭が良くて、他人を明け透けに見下す一面もあるけど、約束を破らずに安請け合いをするため、クラスメイトのみならず教師からも信頼が厚い。
彼はふゆくんに並ぶお金持ちで、地元のちょっとした有名人である。
ふゆくんが殆ど満点のインテリくんなら、かみみ先輩は満点以外を取ることが出来ない万年一位の完璧超人だ。
人付き合いに関しては不真面目なふゆくんと違って、かみみ先輩は人脈が広くて社交性がある。
彼の本気の話術にかかれば、大抵の人間が上手く丸め込まれてしまうのだ。
まさに人心掌握術の達人である。
かくいうわたしも、他人への猜疑心はそこまで強くない。
なにより、重い荷物を持って一階から七階までの階段を登るのは嫌だった。
わたしはキャリーケースを渡すと、ペコリペコリとかみみ先輩に何度も頭を下げる。
「よ、よろしくお願いしますっ!」
「いいよいいよー」
かみみ先輩は笑みを深くして、空いてる方の手をヒラヒラと振る。
ガラガラと音を立てながら、キャリーケースが廊下を引きずられた。
わたしはかみみ先輩の数歩後ろを歩く。
後輩であろう見知らぬ男子生徒とすれ違う。
辺りの明度が一つ下がった。
「ウオノエって寄生虫を知ってる?」
「え?」
「あれ、知らない?ウオノエって言うのはね、魚に寄生する甲殻類で、宿主である魚の口内やエラに寄生するんだ。主に魚の血液などをエサにしてる。江戸時代の頃は縁起物だったらしいけど、宿主にされちゃう魚からしたらなんか怖そうだよね」
「なるほど……?」
「まー、人間には害がないし、味は中々に美味しいらしいよ。濃厚なエビみたいな感じだって」
「た、食べたことあるんですか?」
「まだ無いなー。そこまで興味があるわけじゃないし。機会があればって感じだけど、別に無くてもいいかな」
「そうなんですね」
すれ違った女子生徒をちらりと見る。
記憶にない、知らない顔だ。
「君って、一人っ子?」
「よく分かりましたね。そうですよー。かみみ先輩はご兄弟いるんですか?」
「俺?俺は弟がいるよ。すっげー無視されてるけどね。そう仕向けたのは俺だし、こっちが全面的に悪いんだけどさ」
「えぇー、かみみ先輩なら弟さんの扱いも上手くやりそうですけど、一体なにしたんですか?」
西校舎を抜けるときに通りがかった教室から、一瞬の悲鳴と大きな笑い声が響く。
「買い被りすぎだろ。まー、上手くやった結果が現状かな。大切な人には自由に生きて欲しいからさ。家族のしがらみって、生きていく上で一番邪魔じゃない?」
会話が途切れて、しばらく黙って歩いた。
目的地に近づくにつれて、生徒とすれ違わなくなっていく。
「タバコ、ちゃんと辞めなよ」
発言の意図が分からずに、わたしは首を傾げた。
かみみ先輩は南校舎の階段前で立ち止まって、わたしの方を振り返る。
その眼差しに、冷たい手で心臓を掴まれたような恐怖を感じて、逃げ出したくなった。
表情のない瞳をして、眉間に深い皺を寄せている。
その長身で、わたしを見下ろしていた。
「停学になったんだって?好きでもないのに良くやるね。君らは見ていて少しばかり心配になってくるよ。これは年上からの助言だけど、君と彼はあまり深入りするべきじゃない。こう見えて俺ってイイヒト属性だからさ」
耳障りな言葉に、鼓膜が震える。
心臓がドクドクと嫌な音を立て、キンと耳鳴りさえした。
かみみ先輩の言葉が吹雪のような冷気を持ってわたしの全身を凍らせる。
わたしは後ずさり、制服のスカートの裾を両手を握りしめた。
ふゆくん、ふゆくん、ふゆくん、ふゆくん。
両目をぎゅうと瞑って、心の中で呪文のように唱える。
ある時から、わたしは辛い時や悲しい時に好きな人の名前を呟く習慣がついた。
ふゆくんへの空想を巡らせると脳神経がフツフツと熱を帯びて、酸素も血流も過度に行き渡る錯覚に陥るのだ。
「やだな、そんなに怖がるなよ。ごめんね。ただ少し心配なだけだよ。俺だって、馬に蹴られて死にたくはないんだけどさ」
ゆっくり瞼を開けると、かみみ先輩は困ったような表情を浮かべていた。
「いきなりでびっくりしちゃったね。他人の恋路にとやかく言うべきじゃない。ごめんね」
哀れむような目つきでじっと見つめられる。
不安になって、わたしはおずおずと尋ねた。
「あの、怒ってないんですか……?」
「じゃあ、君は怒ってないの?踏み込んだことを言われたら、誰だって腹が立つものだけど。それこそ恋人だろうと家族だろうと、他人な限り例外はないだろ」
聞き返されて、わたしは言葉に詰まる。
鎮められていたはずの激しいものが胸中に湧いて、奥歯を噛み締めて黙り込んでしまう。
かみみ先輩は楽しそうに笑って、キャリーケースを持ち上げると、わたしを置き去りにする勢いで階段を上って行ってしまった。
慌てて追いかけて、かみみ先輩の隣を歩く。
踊り場の窓から見える晴天に、目を細めた。
キャリーケースが朝陽を反射してきらりと輝く。
「まー、そうだね。しいて言うならさ」
かみみ先輩はわたしのうなじを掴んだ。
彼は、わたしの耳に唇を近づけて囁く。
「君ィ、やるならもっと上手くやりなよ」
中身はアクリルと油絵具の画材一式である。
昨日の夜、試しに体重計に載せて測ったら齢一歳の子供くらいの重量があった。
梅雨明けの公式な宣言はまだ出ていなかったはずなのに、空は真っ青に晴れ上がり、真夏の太陽が留保なく渡り廊下に照りつけている。
目が眩むような暑さに汗を垂らしながら、わたしは本校で最上級の眺望を誇る南校舎七階の美術室に向かわなければならない。
うちの美術部はどうしてこうも、画材の貸し出しをしてくれないのか。
「君ィ、大丈夫?荷物が重そうだねェ、運ぶの手伝ってあげようか?」
うんざりしかけた瞬間、背後から声をかけられて、はっとする。
振り向くと、狼谷三月(かみやみづき)先輩……通称、かみみ先輩がいた。
焦げ茶色の髪を後ろで短い尻尾のように縛って、整いすぎた目鼻立ちが冷え冷えとした印象を与えるほどの美貌を持つ。
かみみ先輩はルビーの双眸を細めて、にこっと笑いかけてきた。
この男は、笑えば人懐っこそうで年相応に愛嬌があるのだ。
「重いでしょ、ソレ。美術室まで運んであげようか?だぁいじょーぶ。こう見えて俺は力に自信があるよ」
かみみ先輩は非常に頭が良くて、他人を明け透けに見下す一面もあるけど、約束を破らずに安請け合いをするため、クラスメイトのみならず教師からも信頼が厚い。
彼はふゆくんに並ぶお金持ちで、地元のちょっとした有名人である。
ふゆくんが殆ど満点のインテリくんなら、かみみ先輩は満点以外を取ることが出来ない万年一位の完璧超人だ。
人付き合いに関しては不真面目なふゆくんと違って、かみみ先輩は人脈が広くて社交性がある。
彼の本気の話術にかかれば、大抵の人間が上手く丸め込まれてしまうのだ。
まさに人心掌握術の達人である。
かくいうわたしも、他人への猜疑心はそこまで強くない。
なにより、重い荷物を持って一階から七階までの階段を登るのは嫌だった。
わたしはキャリーケースを渡すと、ペコリペコリとかみみ先輩に何度も頭を下げる。
「よ、よろしくお願いしますっ!」
「いいよいいよー」
かみみ先輩は笑みを深くして、空いてる方の手をヒラヒラと振る。
ガラガラと音を立てながら、キャリーケースが廊下を引きずられた。
わたしはかみみ先輩の数歩後ろを歩く。
後輩であろう見知らぬ男子生徒とすれ違う。
辺りの明度が一つ下がった。
「ウオノエって寄生虫を知ってる?」
「え?」
「あれ、知らない?ウオノエって言うのはね、魚に寄生する甲殻類で、宿主である魚の口内やエラに寄生するんだ。主に魚の血液などをエサにしてる。江戸時代の頃は縁起物だったらしいけど、宿主にされちゃう魚からしたらなんか怖そうだよね」
「なるほど……?」
「まー、人間には害がないし、味は中々に美味しいらしいよ。濃厚なエビみたいな感じだって」
「た、食べたことあるんですか?」
「まだ無いなー。そこまで興味があるわけじゃないし。機会があればって感じだけど、別に無くてもいいかな」
「そうなんですね」
すれ違った女子生徒をちらりと見る。
記憶にない、知らない顔だ。
「君って、一人っ子?」
「よく分かりましたね。そうですよー。かみみ先輩はご兄弟いるんですか?」
「俺?俺は弟がいるよ。すっげー無視されてるけどね。そう仕向けたのは俺だし、こっちが全面的に悪いんだけどさ」
「えぇー、かみみ先輩なら弟さんの扱いも上手くやりそうですけど、一体なにしたんですか?」
西校舎を抜けるときに通りがかった教室から、一瞬の悲鳴と大きな笑い声が響く。
「買い被りすぎだろ。まー、上手くやった結果が現状かな。大切な人には自由に生きて欲しいからさ。家族のしがらみって、生きていく上で一番邪魔じゃない?」
会話が途切れて、しばらく黙って歩いた。
目的地に近づくにつれて、生徒とすれ違わなくなっていく。
「タバコ、ちゃんと辞めなよ」
発言の意図が分からずに、わたしは首を傾げた。
かみみ先輩は南校舎の階段前で立ち止まって、わたしの方を振り返る。
その眼差しに、冷たい手で心臓を掴まれたような恐怖を感じて、逃げ出したくなった。
表情のない瞳をして、眉間に深い皺を寄せている。
その長身で、わたしを見下ろしていた。
「停学になったんだって?好きでもないのに良くやるね。君らは見ていて少しばかり心配になってくるよ。これは年上からの助言だけど、君と彼はあまり深入りするべきじゃない。こう見えて俺ってイイヒト属性だからさ」
耳障りな言葉に、鼓膜が震える。
心臓がドクドクと嫌な音を立て、キンと耳鳴りさえした。
かみみ先輩の言葉が吹雪のような冷気を持ってわたしの全身を凍らせる。
わたしは後ずさり、制服のスカートの裾を両手を握りしめた。
ふゆくん、ふゆくん、ふゆくん、ふゆくん。
両目をぎゅうと瞑って、心の中で呪文のように唱える。
ある時から、わたしは辛い時や悲しい時に好きな人の名前を呟く習慣がついた。
ふゆくんへの空想を巡らせると脳神経がフツフツと熱を帯びて、酸素も血流も過度に行き渡る錯覚に陥るのだ。
「やだな、そんなに怖がるなよ。ごめんね。ただ少し心配なだけだよ。俺だって、馬に蹴られて死にたくはないんだけどさ」
ゆっくり瞼を開けると、かみみ先輩は困ったような表情を浮かべていた。
「いきなりでびっくりしちゃったね。他人の恋路にとやかく言うべきじゃない。ごめんね」
哀れむような目つきでじっと見つめられる。
不安になって、わたしはおずおずと尋ねた。
「あの、怒ってないんですか……?」
「じゃあ、君は怒ってないの?踏み込んだことを言われたら、誰だって腹が立つものだけど。それこそ恋人だろうと家族だろうと、他人な限り例外はないだろ」
聞き返されて、わたしは言葉に詰まる。
鎮められていたはずの激しいものが胸中に湧いて、奥歯を噛み締めて黙り込んでしまう。
かみみ先輩は楽しそうに笑って、キャリーケースを持ち上げると、わたしを置き去りにする勢いで階段を上って行ってしまった。
慌てて追いかけて、かみみ先輩の隣を歩く。
踊り場の窓から見える晴天に、目を細めた。
キャリーケースが朝陽を反射してきらりと輝く。
「まー、そうだね。しいて言うならさ」
かみみ先輩はわたしのうなじを掴んだ。
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