『青』の作り手 失恋女子と見習い藍師

渡波みずき

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九 夢破れての帰郷

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 学習机の抽斗に貼られたシールは、日に焼けて色あせている。確かあれは、千草が小学校低学年のころに貼った覚えがある。シールに描かれたかわいらしい男女の双子のキャラクタは、さいきんは昔とは呼び名が違うとも聞いたことがあった。

 時間の流れを突きつけられて、実家に帰ってきたという実感がじわじわと胸にわく。寝転んでいたカーペットから起き上がると、前庭のほうから、車のエンジン音がした。

 だれか、訪ねてきたらしい。階下の引き戸が開くのを聞いて、千草は窓に寄ったが、肝心の車は、母屋に隠れた場所に停まっていて見えなかった。

 徳島県の実家に戻ったのは、二週間前のことだ。年度末を迎えるまえに引き継ぎを終え、有給を消化することもなく、千草は会社を辞めた。涼真と別れると決めたときから、部屋を引き払うつもりではいたが、退職までするとは思っていなかった。職が無ければ新しい部屋は借りられないが、涼真との思い出が残る部屋には住めなかった。

 恋も仕事も、心安まる部屋も一気に失って、都会に留まる気力は失せた。家具も小物も服も大半を処分し、ほとんど身ひとつになって戻ってきた娘を、両親は理由も聞かずに迎えてくれた。それが、どれだけありがたかったことか。

 東京で何かがあったことは、悟られているだろう。ずっと付き合っている恋人があることは、母には伝えていた。いつ紹介してくれるの? 結婚は? と、聞かれるたびに、はぐらかしてきたけれど、軽々しく紹介していなくてよかったなと、いまになって考える。

「千草ぁ! おやつ食べるー?」

 母が声をはりあげている。来客がお土産でも持ってきてくれたのか。千草は母と同じように大声をあげ、「いま行く!」との返事とともに、急な階段を駆け下りた。

 東京の短期大学への入学を機に、千草は徳島を離れた。短大生のうちは、関東にある母の実家で祖父母と同居し、そこを足がかりに都内で就職を決めた。職場の近くにひとりぐらしを始めると、実家から足が遠のいたが、両親も兄姉も何も言わずに見守ってくれた。

 この家を出てからは十年以上経つが、子ども部屋の半分は当時のまま残されていた。小学校に上がるときに買ってもらった学習机も、姉と使っていた二段ベッドも、ファンシーな小物類やシールだらけになった洋服ダンスも。千草の使っていた何もかもが時を止めて、主が戻るのを待っていた。

 結婚が決まったら、実家のものは片付ける。それが母との約束だ。兄や姉も、結婚するときに私物を片付けていった。千草は姉と部屋をシェアしていたから、半分だけが当時のままなのだ。

 頬についたカーペットの跡を指でこすって消そうとしながら、仏間にむかう。来客なら、玄関に近い客間がわりの仏間に通されているだろうと思った。

 母屋は薄暗く、階段も床も軋む。磨き込まれた木の表面は黒蜜のように深い艶が出ているし、木の香りはほっとする。天井や鴨居が低い造りのせいで、兄や姉はよく鴨居へ頭を打ち付けていたものだ。祖父に似て背の低い千草には無縁のことだったので、彼らが痛がるたびに大笑いして、『他人事だと思って!』と、叱られていた。

 仏間に顔を出すと、母の姿はなかった。かわりに、縁側に腰掛ける後ろ姿がある。

「あさぎ叔母さん! うわあ、えっとぶりでえ!」

 くつろいでいたあさぎは千草の声に半身ふりかえり、頬を指さしてからかう。

「ちーちゃんは、相変わらずしょーたれとるね」

「だって、眠くって。春だからかな」

 やっぱり、昼寝の跡がくっきり残っているらしい。だらしないとまで言われて恥じ入るも、懐かしさのほうが勝った。たびたび新作を送ってくれてはいたし、電話でのやりとりもあったけれど、直接の会話は、年単位でご無沙汰だ。

 父の末の妹であるあさぎは、今年で四十五歳になる。白髪の一本も見当たらないつやつやの髪は、きれいに巻かれて肩のうえで踊っている。肌も手入れは完璧で、白くきめ細かい。首に巻いたスカーフは淡い青で、黒髪に色白の彼女には、よく似合っていた。

「それ、新作?」
「ん。ほんとうはかめ覗きに染めてみたかったの。ほなけんど、やっぱりあれは難しいわ」

 問いかけに、あさぎはスカーフを見せびらかすようにつまんでみせた。その指は、先に向かって薄青に染まっている。きれいにかたちの整った爪は、入りこんだ染料で縁取られていて、まるで、あさぎの仕事を紹介してまわっているみたいだ。

 あさぎは染色作家だ。徳島特産の阿波藍あわあいを用いた藍染め作品を仕上げ、販売することで生計を立てている。千草も時おり試作品や新作をもらっているが、あさぎはデザインや縫製には関わらないそうだ。あくまで、染めるのが仕事。でも、紺屋ではない。だから、便宜上は染色作家と名乗るものの、作家というより職人というほうがしっくりくると、本人もよくぼやいている。

 あさぎは千草を縁側に手招いて、自分の傍に置かれた盆を示す。

「ちーちゃんの好きな神山のういろ買うてきたよ。ホタもあるけん、あとで食べな」
「やったあ、ありがとう!」

 わざと子どもっぽく両手を挙げて喜びを表現し、千草は盆のうえに置かれた抹茶味のういろうを手に取る。

 神山森林公園近くにある和菓子屋で『ういろ』として売られているういろうは、幼いころの千草の好物だった。あさぎのアトリエ兼住居は比較的に公園に近いので、姪っ子への手土産をわざわざその和菓子屋で買い求めてきたのだろう。

 ういろうは大ぶりで、直角三角形をしているので、まるでサンドイッチのようにみえる。透明なフィルムを剥がしてかぶりつくと、昔のままの味がした。しつこすぎないほのかな甘みは、やはり好みの味だった。

 しばらく、あの公園には行っていない。また行けたらいいが、なかなかひとりで行く気にはなれない場所だ。

 ──また今度、叔母さんに連れてってもらったらいいのかな。

 そんなことを思いながら、ういろうを飲みくだし、あさぎと目を合わせる。

「そういえば、めずらしいね。叔母さんがうちに来てるの。たいてい、お正月とか、すくもができたころとかにしか顔見ないから、会えてよかった」

 母が仏間に来て、千草のぶんのお茶を座卓に置くのを見て、あさぎは母に聞かせるように理由を口にする。

「俊子さんから、ちーちゃんがもんてきてるって聞いたけん。……ね、このあと、うちんくに遊びにいや。新しい作品も見せたいけん」
「いいの?」

 母は腰をおろしつつ、後押しするように笑顔になった。

「そうね、そうなさいな。あなた、帰ってきてからこちら、一日じゅうだらだらとしているばかりだもの。たまには、ドライブでもしてくると良いわ」
「思いたったが吉日やけん。ほな行こか」

 あさぎは、ぐいーっとひといきに茶を呷ると、ハンドバッグに手を伸ばす。千草は手にした食べかけのういろうを慌てて頬張り、むーっ! と唸った。あさぎは面白そうに膨らんだ千草のほっぺたをつつくと、朗らかに笑った。

「リスみたいな顔して」

 口のなかは、ういろうでねっとりしている。淹れたてのお茶は、まだ熱すぎた。ちびちびと水分を取っているわきで、母はあさぎに声をかける。

「お夕飯、うちで召し上がります?」
「かんまんけど、揚げ物やったらパス」
「海鮮ちらし寿司の予定です」
「了解。何時ごろまでに戻ったらええの?」

 出かける当人をよそに詳細を詰めていくふたりの会話を聞きながら、ようやく口をすっきりさせると、千草は湯飲みを置いた。

「わたし、化粧もしてないし、着替えもしたいから、上に戻るね! そんなにすぐには出られないから!」

 あさぎは千草といっしょに立ち上がりざま、ごちそうさまと、盆を座卓に戻す。

「ちーちゃんは若いけん、すっぴんでええよ」
「わたしももうアラサーなの! バッチリ化粧してる叔母さんと比べられたくないよ!」

 あっはっはっはと、大笑いしたあさぎは、さっさと玄関にむかっていく。

「うちの子、マニュアルやけん、エンジン温めとくわ。ほなね、俊子さん」
「ちょっ、早っ!」

 靴を履きはじめるあさぎを横目に、千草は慌てて階段をかけあがった。本人は認めたがらないだろうが、マイペースで強引なところは、ほんとうに祖父ゆずりだと思う。よく似た親子だ。

 手早く着替えを終え、階下にとって返し、洗面台で髪をまとめ、五分メイクを施す。外からはことばどおりのエンジン音が聞こえてきて、気持ちは逸る。

 三面鏡で全体を眺めて、とりあえずの体裁は保たれたことを確認すると、千草は貴重品とスマホだけポシェットに放り込んで、玄関を飛び出した。
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