『青』の作り手 失恋女子と見習い藍師

渡波みずき

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二十六 後世まで残るもの

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 三十センチメートル四方の木綿のハンカチだ。布地を広げるまでもなく、千草はこの素材が何であるか知っている。あさぎに藍染めの教室を依頼した当の本人だからだ。

 染めの手順の説明が始まれば、無論、うわのそらではいられなくなる。あさぎのことばの隠された意図について考えるのはひとまず後回しにして、実地の藍染めに取り掛かる。

 今日の課題は絞り染めだ。ハンカチを思い思いに糸でくくり、防染してから染める。あさぎとは違い、生徒は全員ゴム手袋装備だ。トップバッターは須原になるかと思いきや、譲り合いの末、千草になった。

「静かに。かき回さんように気ぃつけて」

 あさぎの指示につい、息まで止めて、千草はそうっとハンカチを藍甕のなかに沈める。甕のなかの染め液は、想像していたよりも温かい。ゴム手袋ごしに感じるのは、人肌よりはやや低いかというくらいのぬるさだ。液中は暗く濁っていて、真っ白なハンカチもゴム手袋の指先も、すぐに見えなくなった。

 のろのろとした動きで腕を入れていく。肘までの長いゴム手袋の口から、染め液が入ってくるのではないかと思うくらいで、ようやく甕の底に届く。そこでハンカチから手を離し、底にそっと置いてくる。戻るときも、気を抜かずに静かに手をあげていく。

 続いてバトンタッチしたのは須原だった。大きな口を叩くわりに手慣れていないのか、彼女も緊張した顔つきをしている。

 千草は染め液の滴るゴム手袋をからだから離して、流し台へよろよろと向かう。藍甕から離れ、息の詰まるほどの沈黙から逃れると、やっと満足に呼吸ができた。こんなに集中力を発揮したのは、もしかしたら、東京での就職面接以来かもしれない。

 全員が同じ作業工程を終えたところで、あさぎはいつもの飄々としたようすで、みんなを見渡した。胸のあたりで両手を打ち合わせて、先生らしい声を張る。 

「休憩! 手袋はあっちに置いてね。いただいたチーズタルトで、お茶にしましょう」
「やったあ!」

 バンザイをした神田を、松葉があきれたように見やる。須原は対あさぎ用のおすまし顔だ。それぞれがいつもどおりに見えるのに、作業場にはふしぎな一体感が漂っている。

 あさぎがゴムエプロンを外して二階にむかうのを見て、千草は須原に声をかける。

「チーズタルトって、一時期いろんなお店が話題になってたよね。わたしも、あのお店のがいちばん好きだな」

 あさぎの手伝いをしに行かなければ。思いながら、作業場のガラス戸に手をかけ、気づいて、ふりかえる。

「手土産、あとでワリカンにさせてね?」

 須原が驚いたように眉をあげる。男性陣が話に割り込んで、ひとりぶんの金額を割り出し始める。それを横目に、千草は階段をあがっていった。

 あさぎはゴム長靴を踊り場のあたりに無造作に脱ぎ捨てて、室内に入ったようだった。千草もそれに倣い、玄関よりも手前で靴を脱ぎ、戸口で声をかけた。

「叔母さん、手伝うよー?」
「おおきに。入って!」

 キッチンから声がする。入っていくと、あさぎは電気ケトルに水をためているところだった。

「ごめんね、須原さん、ああいう子だってわかってたけど、連れてきちゃった」
「気になさんな。客商売やけん、慣れとるよ」

 慣れているにしては、怒っていた。そう思ったけれど、口には出さず、千草はタルトを箱ごと受け取る。

「これね、オーブントースターで、ちょこっと焼くと、美味しいんだよ」
「へえ、やってみる?」
「いまはいいんじゃないかな。一個残るから、夜にでもやってみたら?」

 箱を開け、ひとつだけ冷蔵庫に戻して、盆を用意する。すかさず、あさぎが紙コップと、木枠を五つ、棚から出した。つまみがついたドーナツ型の木枠だ。まるで、親子丼をつくるときの鍋みたいなかたちだった。

 これはいったい何だろうと思って、見入っていると、あさぎは微笑み、目の前で使ってみせてくれた。つまみを下に向け、穴の部分に上から紙コップをはめ込む。

 めずらしいかたちのカップホルダーに、千草は盛大に拍手して、手に持たせてもらった。くるくる見回して、オイルの艶のある仕上げや、ホルダー部分の上下がただの輪ではなく、きっちりと面を取りながらも、平らに仕上げられているのを見て取る。

「わあ、木製って良いね、紙コップって軽すぎて持ちにくいけど、これならしっかり持てそう。しかもこのかたちのホルダーなら、平たいから重ねて仕舞いやすいだろうし」

 感想を述べ、どこかで売っていたら欲しいなと思ったのは、すっかり伝わっていたらしい。あさぎはティーポットの準備をしながら、囁くような声音で言った。

「もう、亡くなられたかたが、あたしのために作ってくれたものなの。器用なかたでね、本業は塗師ぬりしやったけんど、遊山箱ゆさんばこを一から作ったり、こうして小物を考えたりするのもお好きやったの」

 遊山箱は、ひなまつりの日の遊山──ピクニックのための持ち手のついた子ども用のお弁当箱だ。小さな重箱を二、三段入れられる外箱があって、たいていは全体が漆塗りだったり、かわいらしい装飾や絵があったりする。親世代ならギリギリ知っているような廃れかかった風習だ。

 千草も使ったことがあるが、ピクニックではなく、もっぱら、おままごとのためだった。きっとあれはあさぎか、他の叔母のだれかが子どものころに使った遊山箱なのだと思う。全体が赤で、桜か桃の花が描かれていた。

 たまに母が張り切って、ういろうやら稲荷寿司やらをほんとうに詰めてくれて、家の前庭にレジャーシートを広げたこともある。

船渡ふなとさんの塗った遊山箱、買うといたらよかったと、いまでも思うわ。もう、どうやっても手に入らんもの。さっき、ちーちゃんが見してくれたハンカチも、そのひととの合作なのよ」

 金魚や海草を防染するための型もデザインも船渡氏が作成し、自分は染めただけなのだと、あさぎは言った。

「ものがあったら、作ったひとを思い出せる。思い出してくれるひとがおるうちは、作り手も生きていられる。それなら、その先は? 偉人や名人は生き続けられても、その分野の歴史に名を残せん有象無象は、きっとあとかたも無う消えていくのよね」

 ぞくりとすることばだった。千草はあさぎが紅茶を用意するのを見守り、何か言おうとして、うまくことばを用意できずに口をつぐむ。あさぎは反応を求めているワケではなさそうだった。淹れた紅茶を別のポットに注ぎ入れると、自分はそのポットだけ手にして千草を急きたてる。

 玄関先でゴム長靴に器用に足を入れながら、あさぎは小声で問いかける。

「ちーちゃんは松葉くんと付き合うとるの?」
「……よく気づいたね」
「わかるわよ、視線でやりとりしとるもの」

 そんなに松葉のことばかりをじろじろと見ていたつもりはなかった。ふりかえっていると、千草が靴を履くのを待ちつつ、あさぎは考えるようにする。

「なんたら隊員の期間が終わっても、こっちにおってくれるとええね」

 胃の腑が冷えるような意地悪なことをさらりと言って、あさぎはさっさと階段をおりていく。その背を追いながら、しかし、千草はそのとおりだと思った。

 松葉は藍作りを学んだり、地域振興のための活動をしたりしているが、それは地域おこし協力隊として任じられているあいだだけのこと。一時的なことなのだ。期間を満了してしまえば、彼をこの土地に縛り付けるものは、当人の気持ちくらいしかない。

 ──それまでに人捜しが終わらなかったら、いてくれるのかな。

 馬鹿げたことがよぎる。打ち消すようにかぶりを振って、千草は盆を抱えて作業場に戻った。
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