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二十五 魔法と化学

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 蒅は、乾きかけの泥の塊のようだ。とてもではないが、これから青が抽出できるとは思えないような茶色をしている。繊維の名残のような見た目があるので、植物からできていることはわかっても、知らずに見て、これが染料の藍だとわかるひとはいないだろう。知っている千草でさえ、藍の寝床のときにはあるアンモニア臭が嘘のように消え去っているのをみると、ふしぎな心地になる。

「生の藍草には、インジカンって物質が含まれとるの。このときには、無色透明なインジカンが、葉を乾燥させることで、青の色素のインジゴに変化します」

 畑にあるときは緑をしている藍草が、藍粉成しのために庭に広げられ、乾燥が進んでいくにつれ、徐々に青みを帯びていく。あれは、インジゴに変化していたからなのか。

「青色色素以外の成分、葉の繊維質や糖質、タンパク質なんかを発酵によって分解して、インジゴの含有量を高めた状態が、この蒅。やけんど、ここで難題があったのね。──インジゴは、水に溶けんのや」

 発酵は、つまり、藍の寝床のことだ。手順の存在理由を知ると、知識と経験とが密接に結びついていく。かすかな興奮と達成感を覚え、千草はあさぎの説明を先取ろうと、レジュメに見入った。 

「藍染めは、インジゴの青を布などに定着させることやけん、どうにか水に溶かしたい。ここで行うのが、藍建て。蒅に含まれる細菌を利用して還元を行います。還元を経ると、インジゴは水溶性のロイコ型インジゴという黄色の色素に変化します。この状態でやっと、染めができます。細菌は、嫌気性で高温とアルカリを好みます。強アルカリの環境を維持するために灰汁を使うて、嫌気性の細菌のごきげんを損ねんように、染め液はあまりかき混ぜません」

 そこまで説明すると、あさぎは全員を立たせた。ひとつの藍甕のまわりに集まらせ、蓋を開ける。中には、黄土色を少々濃くしたような色合いの液体が入っていた。

「へええ、こんな色なんだあ」

 素直に驚き、感心する神田の隣で、須原が眉を寄せる。

「これ、色がおかしくないですか? 藍の華もないし、発酵臭もしないんですけど」

 彼女にしてはひかえめな語彙選択ではあったが、明らかにクレームを入れるような口ぶりだった。あさぎは、もう怒ることすらしなかった。密やかに笑い、動き出す。

 バケツに水を張り、藍甕の側に持ってくる。テーブルのうえからティッシュペーパーを一枚取って、静かに染め液に浸した。ゆったりと慎重なしぐさでティッシュを揺らす。黄色い液中で、ティッシュがふわりとくらげのように広がった。

 染め液をじゅうぶんに吸ったティッシュは、水面から上がるとしぼんで垂れ下がる。あさぎはティッシュをつまんだ手を、先程水を張ったバケツにつっこんだ。藍甕のなかで見せていたのったりとした動きとは、まったく正反対の荒い動きでティッシュを泳がせる。

 呼吸を忘れたのは、千草だけではなかったようだ。その場にいるめいめいの吐息がもれた。あさぎはその音を聞くと、ニヤッと得意げに笑った。

 黄土色だったティッシュは、バケツの中で涼しげな青に変わっていた。まるで、手品のようだ。あさぎは水を滴らせたままのティッシュを両手で広げてみせる。

「ね、染まるでしょ? 染め液の色は、これで平気。水溶性のロイコ型インジゴがティッシュに付着した状態で、水にさらされて一気に酸化したのが、いまの現象です。発色するってことは、もとの青色の不溶性のインジゴに戻ったってこと。もっと詳しゅう言えば、イオンとかなんとか説明できるんやけんど、そこまでの話は、いま必要ないでしょう。あとは自分らで研究論文でもなんでも読んで調べてね」

 あさぎはエプロンに提げていた手拭いで指先の水気をふいた。そして、須原を見据える。

「正藍染めは微生物の力を借るけん、結果が必ずしも伴わんし、藍甕のようすも、建てるごとに違うてくる。翻せばね、それでも安定した結果を出せるからこそ、染め師を名乗れるの。染色作家は、芸術家やのうて、職人よ」

 後半は千草や男性陣にも目を配っていたが、ことばの矛先は須原であることは明白だった。これで生計を立てている職人を舐めるなと言わんばかりの気迫がある。

 青く染まった指がテーブルを示す。再度、着席を促されて、元の席に戻りながら、千草は須原をちらっと見た。目で見て納得したのか、何かまた要らぬことを言う気配は無い。そのようすに胸をなでおろす。

「さて。これまでの内容を踏まえて。なぜ、あたしがしつこう着替えを迫ったか、わかるわよね?」

 あさぎは、そろえた指先を向け、神田を指名する。神田は、むぅとかわいらしくくちびるをとがらせる。

「染め液が跳ねたら、洗濯で取れないから?」

 小首を傾げた彼に苦笑いして、あさぎは松葉に目を向けた。その程度の答えは求めていない。もっと深い答えを寄越せと、あさぎは笑う。視線の先で、松葉はレジュメを見返すこともしなかった。

「酸化したが最後、不溶性のインジゴは、再度の還元が無い限り、落ちないんですね」

 そのとおり! と口で言いながら、あさぎの青い指が宙に花丸を描いた。

「つまりね、基本、日常生活程度の負荷では正藍染めが褪色することは、あり得ません。化学反応を考えれば、当たり前よね。歴史的背景としても、江戸時代においては庶民が着るための染め物やったんやけん、洗濯や水濡れで色落ちしたら困りもんやわ。やけんど、何度もくりかえし濃う染めた布に、濡れた白い布を強うこすりつければ、そら、さすがに色移りはあります。それは、化学染料でも同じことでしょう。ふつうに身につけるぶんには、ごっつい丈夫な代物だと思うてもらえれば、まあ、間違いないわね」
「――ああ、道理で」

 いったい、何に気づいたものか。松葉が思わずと言ったふうに発したひとりごとに、場が注目した。先程の回答のせいで期待しているのか、あさぎが発言を待つようすを見せる。

 松葉は少し決まり悪そうに、千草をちらりと見やった。口にしてよいものか迷うそぶりを見せつつ、彼は手でこちらを示した。

「東京にいたときに、千草さんが藍染めのハンカチを包帯代わりにしているのを見たことがあって。藍染めが洗えないものだと、当時の俺は思っていたんで、思い切ったことをするひとだなと考えていたんですが、いま教わったことを、千草さんはきっと実体験として知っていたんだろうなと、納得したんです」

 日比谷駅での出来事に言及されて、松葉がためらった理由に思い至る。恋人が元彼とケンカして転んだ話なんて、いくら経緯まで話さないと言っても、あんまり披露したいものではない。

 でも、松葉がことばにして指摘してくれなければ、千草はきっと気づきもしなかった。そうだ、あさぎにもらった藍染めの数々は、まったく色褪せたことがない。ふだんの生活のなかでも、染め物が洗濯に弱いという意識さえなかった。藍染めが染められたときの風合いを保つのは、千草にとってはあまりに当たり前のこと過ぎた。

 ──松葉さんや神田さんや、藍染めに初めて触れるひとにとっては、インジゴの話を聞かなくたって、褪せないこと自体が、魔法のように魅力的なものなんじゃないかしら。

 千草は、ズボンのポケットに移し替えていた金魚柄のハンカチを取り出して、しみじみと見つめた。

「小さいとき、叔母さんが教えてくれたよね。藍染めには、消炎と保温の効能があるって。血がついても洗えるから、色あせないから、包帯にできるんだね。よくわかってなかった」
「――大昔の文献にある使いかたやけんどね。いま、アトピー性皮膚炎への効能やなんかが話題になって、藍の薬効が徐々に見直されてはきとるけんど、ほんに怪我に直接使うたことは、あたしでも無いわよ」

 あさぎは懐かしそうにハンカチを見下ろしはしたものの、手は伸ばさなかった。爪に入りこんでいるかもしれない染め液を警戒したのかもしれなかった。

「ちーちゃんは、ほんに素直よねえ」

 ことばの意味合いほど、優しい響きはなかった。どこか痛みを覚えて、あさぎを見たが、彼女はもう、千草のほうは気にしていない。テーブルについた面々に薄手の布地を配り始めていた。
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