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第28話 さばの塩焼き
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ほんのりと冷たい風が路地を抜けていく。
その先にある癒庵(ゆあん)は、
夜になると静かに灯がともる“隠れ家”のような店だった。
店に入った瞬間に漂うのは、
炭火の香ばしい匂い。
今日はさばを焼くため、いつものガス台ではなく、
七輪に炭を起こしている。
佐伯は、さばの切り身を手にしていた。
まず塩を振り、酒を少しふりかけて下処理をする。
余分な水分を抜き、身を引き締める。
皮目に浅く切れ目を入れると、
包丁が皮を走る軽い音が鳴る。
「……魚も、人も……
下ごしらえが大事なんだよな」
佐伯は小さくつぶやいた。
さばの準備は、まるで人と向き合うための
“心の準備”にも思えた。
炭は赤く灯り、七輪からほのかな熱が上がっている。
網にさばを乗せると、
ジュッと勢いよく音がして、脂が落ちる。
ふわりと香ばしい匂いが店内に広がった。
その瞬間──
暖簾がかすかに揺れた。
「……こんばんは」
入ってきたのは30代半ばほどの男性。
コートの襟を立て、どこか重い空気をまとっている。
無理に作られた笑顔が、逆に痛々しい。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
男性──真島はカウンターに座り、
疲れたように肩を落とした。
「日本酒……お願いします」
酒が出されると、
真島はゆっくりと口に運び、息を吐いた。
「……大将。
俺……彼女に“距離を置きたい”って言われました」
唐突な告白。
しかし、その声は
“やっと言えた”という苦しさを帯びていた。
佐伯は相槌を打って、続きを待つ。
「彼女……すごく優しいんです。
一緒にいると落ち着くし……
ケンカなんてほとんどしなかった。
だから……
俺、うまくいってると思ってたんです」
真島は自嘲するように笑った。
「……でも、“うまくいってる”って思ってたの……
俺だけだったみたいで」
佐伯は手を止めずに、七輪の火を見守る。
火の揺れが、真島の心の揺れと重なるようだった。
「俺……本音が言えなかったんです。
本当は嫌なこともあったのに、
“平気だよ”って笑って誤魔化して……
言えば良かったことも、全部飲み込んで……」
七輪の上のさばが、パチッとはぜる。
皮が焼けていく音が、真島の言葉に合わせるように響く。
「彼女が望むなら……
俺も合わせなきゃいけないって思い込んでたんです。
嫌われるのが怖くて……
本音を“返す”勇気がなくて……」
真島は苦笑した。
「気づいたら……
俺の方が焦げてましたよ。心が」
その言葉に、
佐伯の胸がかすかに痛む。
(……美咲。
お前と向き合わなかった、
俺の心も……焦げてたんだろうな)
向き合うべき時に向き合えず、
返すべき時に返せず、
結局、取り返しのつかない形で
美咲とはすれ違ってしまった。
佐伯は七輪の前に立ち、
さばを見極める。
火に近い側がこんがりと焼けてきた。
表面は香ばしく、脂がじんわりと浮いている。
だが──
(返すのは、今だ)
タイミングが遅すぎても、早すぎてもいけない。
絶妙な瞬間に、さばを裏返す。
皮が気持ち良い音を立てて弾けた。
しばらくして、焼き上がったさばを皿に盛り、
大根おろしを添える。
「どうぞ」
真島の前に静かに置かれた。
「……あれ? 頼んでないけど……」
佐伯は軽く笑った。
「ええ。サービスです。」
真島が不思議そうに顔を上げると、
佐伯はゆっくり話し始めた。
「魚って……
“返さずに”一面だけ焼いてると、焦げるんです」
真島は息を呑む。
「向き合わないで放置すると……
どんどん黒くなっていく。
でも……
返すのが怖いと、誰だってそのままにしちゃう」
真島は視線を落とした。
「俺……まさにそれでした」
佐伯は続けた。
「でもね……
焦げた部分にも、理由がある。
“返せなかった時間”が積み重なって、
こうなっただけなんです」
真島の目がかすかに潤む。
「人も同じですよ。
本音を返さないでいると……
心が焦げます。
でも……焦げた部分も、
ちゃんと向き合えば味になる」
真島はさばを箸でつまみ、
そっと口に運んだ。
外はパリッと香ばしく、
中はふっくら。
さばの脂が口の中でじんわり広がる。
その瞬間──
涙が一粒、ぽとりと落ちた。
「……大将……
俺……向き合うのが怖かったんです。
嫌われるのが……
本音を言ったら壊れるんじゃないかって……」
声が震える。
「でも……
焦げてもいいんですね。
焦げたって、まだ返せば……
ちゃんと火が通るんですね……」
佐伯は静かに頷いた。
「はい。
返すのが遅くても……
向き合うことに意味があります」
会計を済ませた真島は、
出口で一度だけ振り返った。
「……俺、行ってみます。
ちゃんと返しに……彼女のところへ」
佐伯は温かい声で送り出す。
「いってらっしゃい。
焦げても、美味しいところは残りますよ」
真島はうなずき、
夜の冷たい空気の中へ消えていった。
店内にひとり残ると、
佐伯は七輪の残り火をじっと見つめた。
赤い火が、
寂しげでもあり、温かくもある。
「……美咲。
俺も……返すのが遅かったよな」
七輪の火が、まるで返事をするように揺れた。
その先にある癒庵(ゆあん)は、
夜になると静かに灯がともる“隠れ家”のような店だった。
店に入った瞬間に漂うのは、
炭火の香ばしい匂い。
今日はさばを焼くため、いつものガス台ではなく、
七輪に炭を起こしている。
佐伯は、さばの切り身を手にしていた。
まず塩を振り、酒を少しふりかけて下処理をする。
余分な水分を抜き、身を引き締める。
皮目に浅く切れ目を入れると、
包丁が皮を走る軽い音が鳴る。
「……魚も、人も……
下ごしらえが大事なんだよな」
佐伯は小さくつぶやいた。
さばの準備は、まるで人と向き合うための
“心の準備”にも思えた。
炭は赤く灯り、七輪からほのかな熱が上がっている。
網にさばを乗せると、
ジュッと勢いよく音がして、脂が落ちる。
ふわりと香ばしい匂いが店内に広がった。
その瞬間──
暖簾がかすかに揺れた。
「……こんばんは」
入ってきたのは30代半ばほどの男性。
コートの襟を立て、どこか重い空気をまとっている。
無理に作られた笑顔が、逆に痛々しい。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
男性──真島はカウンターに座り、
疲れたように肩を落とした。
「日本酒……お願いします」
酒が出されると、
真島はゆっくりと口に運び、息を吐いた。
「……大将。
俺……彼女に“距離を置きたい”って言われました」
唐突な告白。
しかし、その声は
“やっと言えた”という苦しさを帯びていた。
佐伯は相槌を打って、続きを待つ。
「彼女……すごく優しいんです。
一緒にいると落ち着くし……
ケンカなんてほとんどしなかった。
だから……
俺、うまくいってると思ってたんです」
真島は自嘲するように笑った。
「……でも、“うまくいってる”って思ってたの……
俺だけだったみたいで」
佐伯は手を止めずに、七輪の火を見守る。
火の揺れが、真島の心の揺れと重なるようだった。
「俺……本音が言えなかったんです。
本当は嫌なこともあったのに、
“平気だよ”って笑って誤魔化して……
言えば良かったことも、全部飲み込んで……」
七輪の上のさばが、パチッとはぜる。
皮が焼けていく音が、真島の言葉に合わせるように響く。
「彼女が望むなら……
俺も合わせなきゃいけないって思い込んでたんです。
嫌われるのが怖くて……
本音を“返す”勇気がなくて……」
真島は苦笑した。
「気づいたら……
俺の方が焦げてましたよ。心が」
その言葉に、
佐伯の胸がかすかに痛む。
(……美咲。
お前と向き合わなかった、
俺の心も……焦げてたんだろうな)
向き合うべき時に向き合えず、
返すべき時に返せず、
結局、取り返しのつかない形で
美咲とはすれ違ってしまった。
佐伯は七輪の前に立ち、
さばを見極める。
火に近い側がこんがりと焼けてきた。
表面は香ばしく、脂がじんわりと浮いている。
だが──
(返すのは、今だ)
タイミングが遅すぎても、早すぎてもいけない。
絶妙な瞬間に、さばを裏返す。
皮が気持ち良い音を立てて弾けた。
しばらくして、焼き上がったさばを皿に盛り、
大根おろしを添える。
「どうぞ」
真島の前に静かに置かれた。
「……あれ? 頼んでないけど……」
佐伯は軽く笑った。
「ええ。サービスです。」
真島が不思議そうに顔を上げると、
佐伯はゆっくり話し始めた。
「魚って……
“返さずに”一面だけ焼いてると、焦げるんです」
真島は息を呑む。
「向き合わないで放置すると……
どんどん黒くなっていく。
でも……
返すのが怖いと、誰だってそのままにしちゃう」
真島は視線を落とした。
「俺……まさにそれでした」
佐伯は続けた。
「でもね……
焦げた部分にも、理由がある。
“返せなかった時間”が積み重なって、
こうなっただけなんです」
真島の目がかすかに潤む。
「人も同じですよ。
本音を返さないでいると……
心が焦げます。
でも……焦げた部分も、
ちゃんと向き合えば味になる」
真島はさばを箸でつまみ、
そっと口に運んだ。
外はパリッと香ばしく、
中はふっくら。
さばの脂が口の中でじんわり広がる。
その瞬間──
涙が一粒、ぽとりと落ちた。
「……大将……
俺……向き合うのが怖かったんです。
嫌われるのが……
本音を言ったら壊れるんじゃないかって……」
声が震える。
「でも……
焦げてもいいんですね。
焦げたって、まだ返せば……
ちゃんと火が通るんですね……」
佐伯は静かに頷いた。
「はい。
返すのが遅くても……
向き合うことに意味があります」
会計を済ませた真島は、
出口で一度だけ振り返った。
「……俺、行ってみます。
ちゃんと返しに……彼女のところへ」
佐伯は温かい声で送り出す。
「いってらっしゃい。
焦げても、美味しいところは残りますよ」
真島はうなずき、
夜の冷たい空気の中へ消えていった。
店内にひとり残ると、
佐伯は七輪の残り火をじっと見つめた。
赤い火が、
寂しげでもあり、温かくもある。
「……美咲。
俺も……返すのが遅かったよな」
七輪の火が、まるで返事をするように揺れた。
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