『総理になった男』

KAORUwithAI

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第2部:壁 - 国会という名の怪物

第85話 官僚からの無視

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法案を再提出した翌朝、健人は議員会館のデスクに向かっていた。
 机の上には、分厚い資料とスケジュール表。そこには「厚労省ヒアリング」「財務省協議」「内閣官房意見聴取」と赤字で書かれている。

 真田がコーヒーを置きながら言った。
 「法案は受理されましたが、次は省庁との調整です。彼らが動いてくれなければ、議題にも上がりません」
 健人は頷き、手帳を開く。「まずは厚労省だな」

 メールを送った。
 件名:「地域小児医療支援法案に関する打ち合わせのお願い」
 しかし、数時間経っても返事はない。
 電話をかけても、秘書課の職員が機械的に答える。
 「担当者が本日不在でして」
 「いつ戻られるか分かりますか?」
 「確認して折り返します」
 ――そして、折り返しは来なかった。

 その沈黙に、健人は違和感を覚えた。
 単なる忙しさではない。“あえて返さない”という意志のような、冷たい空気。
 国会の壁は超えた。だが、その先にある霞が関の壁は、さらに高く厚かった。


 三日後。
 健人は意を決して、厚生労働省へ向かった。
 初めて訪れる霞が関。
 ガラス張りの庁舎の前で、スーツ姿の職員たちが慌ただしく出入りしている。
 「政治家が来ても誰も立ち止まらないんだな」
 田島がぼそりと呟いた。
 健人は少し苦笑し、「俺たちが来るのは“招かれざる客”かもな」と返した。

 受付で名刺を出す。
 「国会議員の坂本健人と申します。医療支援法案の件で担当課に伺いました」
 受付の女性は一瞬目を瞬かせ、平然と答えた。
 「アポイントはお取りでしょうか?」
 「いえ、急ぎの件で直接――」
 「では少々お待ちください」

 20分後。
 別の職員が現れ、「担当が出張中でして」と頭を下げた。
 そのまま名刺だけ渡し、会うこともできずに庁舎を後にした。

 冷たい風がビルの間を吹き抜けた。
 田島が苛立ったように呟く。
 「新人議員をなめてるのか? 国会議員が来てんだぞ!」
 健人は苦笑し、「怒鳴っても意味はない。彼らは“怒らせること”すら目的じゃないんだ」と言った。

 真田が歩きながら低い声で言う。
 「官僚は反対はしません。ただ、何もしない。それが一番効くんです」
 その言葉に、健人は胸の奥がざらついた。


 翌日も電話を入れたが、返答は同じだった。
 「担当者が会議中でして」
 「こちらから折り返します」
 ――それで終わり。

 一週間が過ぎた頃、ようやく厚労省の若手官僚から一通のメールが届いた。
 『非公式であれば、少しお話しできます。』

 健人は迷わず返信した。
 その夜、霞が関の近くの喫茶店。
 若い官僚が席に着くと、落ち着かない様子でコーヒーをかき混ぜていた。
 「正直に言います。上はこの件、動かす気がありません」
 健人は驚いて身を乗り出した。「なぜだ?」
 「大臣も理事も“リスクが大きい”と。前例がない法案は、ミスが出た時の責任を取る人がいないんです」
 「だから、放置する?」
 「そうです。否定もせず、進めもせず、時間だけを過ごす。霞が関の得意技ですよ」
 官僚は苦笑し、視線を落とした。

 その言葉が、健人の胸を深く突き刺した。


 翌週、厚労省から書類が返送された。
 内容は「様式の不備」――ほんの表記上の指摘だった。
 それでも手続きは最初からやり直しになる。

 真田が眉をひそめた。
 「体裁の問題というより、“時間を潰す口実”ですね」
 健人は頷きながら、机に肘をついた。
 「理事会の壁を越えても、官僚の壁で止まる。これが日本の政治の現実か」

 夕方、財務省にも意見聴取を申し込んだが、返ってきた答えはさらに冷たかった。
 「現状の予算編成上、対応は困難です」
 つまり――“やる気はない”のだ。


 その夜、議員会館の自室。
 外は静まり返り、時計の針が小さく音を刻む。
 田島が椅子にもたれて言った。
 「官僚って、政治家の上に立ってるような顔してるな」
 真田が淡々と答える。
 「実際、制度上は彼らが政策の実務を握っています。政治家がどんな理想を語っても、動かすのは彼らの“手”なんです」

 健人はしばらく沈黙し、ノートを開いた。
 ページの隅に小さく書き込む。
 ――政治が壁なら、官僚は迷路。

 諦める気はなかった。
 無視されても、回り道をすればいい。
 正面から押しても開かないなら、横から、下から、誰も見ていない隙間からでも通してみせる。


 数日後。
 SNSで「健人議員の法案がまた止められている」との投稿が拡散し、市民のコメントが次々と寄せられた。
 《あきらめないでほしい》《子どもの命を政治で救ってください》《厚労省は何をしてる?》
 小さな波紋が広がっていくのを見て、健人はようやく微笑んだ。

 「国会が黙っても、市民は黙ってないな」
 「官僚は世論が怖いですからね」
 真田がそう言って、少しだけ表情を緩めた。

 健人は立ち上がり、夜の窓から霞が関のビル群を見下ろした。
 ガラスの光が星のようにまたたく。
 そこに無数のデスクと、冷たい沈黙がある。

 「静かな敵ほど、厄介だな」
 誰に向かうでもなく、呟いた。


 翌朝、議員会館の廊下で同僚議員が肩をすくめながら言った。
 「官僚に嫌われると仕事が回らなくなるぞ、坂本くん」
 健人は笑って返した。
 「好かれるために政治をやってるわけじゃありません」
 その一言に、相手の笑みが引きつった。

 議員室に戻ると、机の上には真田が置いた新しい資料。
 「国会図書館で見つけました。過去にも似た法案があります。参考になるはずです」
 健人は資料を手に取り、「ありがとう」と小さく呟いた。

 ページの隅に書かれた文字が目に入った。
 “国民の声を、行政が聞かない国は、やがて声を失う。”
 誰が書いたのかも分からない言葉だったが、健人の胸に深く響いた。


 夜。
 議員会館の灯りが次々と消える中、健人の部屋だけがまだ明るかった。
 窓の外には国会議事堂、そしてその背後に霞が関の影が見える。

 健人は深呼吸し、静かにノートを閉じた。
 「官僚が黙るなら、俺が喋る。
  行政が止まるなら、市民と一緒に押し出す」

 誰にも聞こえない独り言だったが、言葉には確かな力が宿っていた。
 机の上に置かれた法案資料をもう一度開き、ペンを走らせる。
 修正でも、再提出でもいい。
 ――動かし続けることが、政治の仕事だ。

 そして健人は小さく笑った。
 「無視は、敗北の証じゃない。注目され始めた証拠だ」



“政治の敵は、反対ではない。
 沈黙と無視こそが、最も冷たい拒絶だ。
 だからこそ、俺は声を出し続ける。”
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