『総理になった男』

KAORUwithAI

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第4部:政権奪取 - 総理就任

第171話 投票日、重い一票

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 その朝、坂本健人は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
 窓の外は曇天で、白く濁った空が東京の街を覆っている。晴れでも雨でもない、どこか判断を保留されたような空だった。

 ベッドに腰掛けたまま、しばらく動けずにいる。
 今日が何の日かを、頭が理解するよりも先に、体が知っていた。

 ――総裁選、投票日。

 スマートフォンを手に取ると、通知はすでに百件を超えていた。
 応援、激励、不安、期待、批判、罵倒。
 すべてが混ざり合った、国民の感情の奔流。

 だが健人は、画面を一度だけ見て、そっと通知を切った。

「今日は……聞きすぎないほうがいいな」

 誰に言うでもなく呟き、立ち上がる。
 スーツに袖を通し、ネクタイを締める。その動作は、国会議員になった当初よりもずっと落ち着いていた。

 議員会館へ向かう車の中、街の風景が流れていく。
 あの街角で、かつて誰も足を止めなかった演説をしていたことを、ふと思い出した。

 国会に入ったばかりの頃。
 議事録の読み方もわからず、発言の順番ももらえず、あくびをされ、笑われ、無視された日々。

 ――あの頃の自分が、今日の自分を見たら、どう思うだろう。

 議員会館の廊下は、いつもより静かだった。
 すれ違う議員たちも、必要以上に言葉を交わさない。視線だけが、慎重に交錯する。

「おはよう、健人」

 田島が声をかけてきた。
 今日はいつもの軽口もない。タメ口のまま、だが表情は真剣だった。

「いよいよだな」
「ああ……」

 短い返事。
 それ以上、言葉はいらなかった。

 真田は少し後ろから歩いてきて、淡々と今日の流れを説明する。

「投票は午後一時開始。開票は非公開ですが、結果は夕方には出ます」
「……読めますか?」
「正直に言います。読めません」

 その一言が、妙に重かった。
 希望も絶望も含まない、事実だけの言葉。

 投票会場へ向かう途中、健人は足を止めかける。
 胸の奥で、何かがざわついていた。

 ――本当に、自分でいいのか。

 新人議員。
 政権運営の経験もない。
 総理を務めたことも、党を率いたこともない。

 だが同時に、頭の中に浮かぶ光景があった。

 子ども食堂で、空の皿を前に笑っていた子ども。
 SNS越しに届いた、「あなたの言葉で初めて政治を見ました」というメッセージ。
 街頭で、小さく頷いてくれた、名も知らぬ誰か。

 会場の入口には、対立候補の陣営が固まっていた。
 歴戦の政治家たち。かつて大臣を務め、党を支えてきた重鎮たち。

 その中を、健人は一人で歩く。

 受付を済ませ、投票用紙を受け取る。
 手のひらに載ったその紙は、驚くほど軽かった。

「……これだけか」

 だが、その軽さが逆に異様だった。
 この一枚で、日本の進む方向が決まる。

 紙の重さと、背負う現実の重さが、まるで釣り合っていない。

 健人自身も、総裁選挙の投票権を持つ一人として、記入台の前に立つ。
 ペンを握った瞬間、手が止まった。

 勝ちたいか、と問われれば、答えは簡単だ。
 だが、それ以上に――

「……逃げたくないだけだな」

 勝つための一票じゃない。
 責任を引き受けるための一票だ。

 健人は、静かに名前を書いた。
 誰の名前かは、もう言葉にする必要もない。

 投票箱に、紙を落とす。

 カタン、という乾いた音が、やけに大きく響いた。

 その音を聞いた瞬間、健人は悟った。

 ――もう、後戻りはできない。

 投票を終え、会場を出る。
 廊下の先に、議場が見えた。

 かつて「透明」だった場所。
 誰も自分を見ていなかった場所。

 だが今は違う。
 見られている。良くも悪くも。

 田島が横に並び、小さく言った。

「なあ、健人」
「ん?」
「結果がどうでも……俺は、今日ここに立ってるお前を誇りに思うぞ」

 健人は、少しだけ笑った。

「……ありがとう」

 真田は少し離れた場所で、静かに頷いている。
 言葉はないが、それで十分だった。

 開票結果を待つ時間。
 健人は椅子に座り、目を閉じた。

 勝つか、負けるか。
 それはもう、彼の手を離れている。

 だが一つだけ、確かなことがあった。

 この一票は、
 権力を求めた一票ではない。

 声を背負うと決めた一票だ。

 その重さを、健人は、確かに受け止めていた。


”一票は、軽い。
紙切れ一枚、数秒で書ける。

だがその一票は、
無数の人生を背負い、
未来を引き受ける覚悟の重さを持つ。

逃げないと決めた者だけが、
この重さを、真正面から受け止められる“
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