『総理になった男』

KAORUwithAI

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第4部:政権奪取 - 総理就任

第172話 一票差の勝利

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 投票が終わった――その事実だけが、部屋の空気を重く支配していた。

 国民革新党本部の一角に用意された控室。広くもなく、かといって狭すぎるわけでもないその部屋は、妙に音を吸い込む。壁に掛けられた時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえていた。

 坂本は、ソファに腰を下ろしたまま、
背筋を伸ばしていた。緊張している――そう自覚していないわけではない。だが、手は不思議と震えていなかった。これ以上どうなろうと、やるべきことはすべてやった。その確信だけが、彼を静かに支えていた。

 向かいの椅子では田島が落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返している。

「……遅くねえか?」

 何度目か分からない言葉を、また口にする。

「集計には時間がかかります。票が割れていますから」

 真田は壁際に立ったまま、腕を組み、淡々と答えた。表情は崩れていないが、その視線は一点――腕時計に注がれている。

 廊下の向こうから、かすかな笑い声が聞こえた。対立候補陣営の議員たちだろう。どこか余裕のある、勝利を疑っていない声色だった。

 田島が舌打ちをする。

「なんであいつら、あんなに余裕なんだよ」

「それが普通なんです」

 真田は視線を上げずに言った。

「過去の例を見れば、今回の結果は“順当”です。彼らからすれば、坂本さんがここまで来たこと自体が異常なんですよ」

 健人は何も言わず、窓の外を見つめていた。夕暮れが迫る東京の空。その向こうに、国会議事堂の屋根が見える。

 ――ここまで来た。

 無所属で当選し、国会で無視され、笑われ、法案を握り潰され、それでも声を上げ続けた。国民の支持が膨らみ、与党に入り、賛否と混乱の渦中で、今ここにいる。

 それでも――結果は、まだ分からない。

 その時だった。

 健人のスマートフォンが、短く震えた。

 画面に表示された名前を見て、全員の空気が一変する。

「……城戸幹事長だ」

 健人は一呼吸置き、電話に出た。

「はい。坂本です」

 受話口の向こうから聞こえてきた城戸の声は、低く、そしていつになく慎重だった。

『結果が出た』

 その一言で、胸の奥が強く締めつけられる。

『……一票差だ』

 一瞬、健人は言葉の意味を理解できなかった。

 一票差。

 それが、勝ちなのか、負けなのか。

 沈黙が続く。城戸は、あえて間を置いたのだろう。健人に、その重みを受け止めさせるために。

『君が勝った。坂本健人が、総裁選に勝利した』

 田島が息を呑む音がした。

 真田はゆっくりと目を閉じ、深く息を吐いた。

 健人は、言葉を失ったまま、椅子に座り直すことすらできず、ただ膝に手を置いた。

「……一票」

 それだけが、口からこぼれ落ちた。

 勝ったという実感は、なかった。歓喜も、達成感もない。あるのは、背中にずしりとのしかかる圧倒的な重さだけだった。

 たった一票。

 だが、その一票は、誰かの迷いであり、覚悟であり、「この国を任せてもいい」と決断した、確かな意思だった。

『おめでとう、とは言わない』

 城戸が続ける。

『これは始まりだ。君は今から、党と国の両方を背負うことになる』

「……はい」

 それだけは、はっきりと答えられた。

 電話が切れると、部屋に静寂が戻る。

 田島が、震える声で言った。

「……勝った、んだよな」

「ええ」

 真田は静かに頷いた。

「歴史的な結果です。一票差で総裁が決まるなど、前例がほとんどありません」

 健人は立ち上がり、ゆっくりと窓際へ歩いた。

 遠くで、党本部がざわつき始める気配がする。記者たちが動き出し、議員たちが電話を取り、夜が騒がしくなる。

 だが、健人の世界は、まだ静かだった。

「……俺は」

 振り返らずに、健人は言った。

「勝ったって気が、しない」

 田島が何か言いかけたが、真田が静かに制した。

「それでいいんです」

 真田の声は、穏やかだった。

「“勝った”と感じた瞬間に、人は慢心します。坂本さんが今感じているのは、責任です。それこそが、総裁にふさわしい感覚です」

 健人は、窓に映る自分の姿を見つめた。

 ――一票差。

 それは、圧勝ではない。国民の全幅の信任でもない。だが、確かに選ばれたという事実だった。

「……引き受けるしかないな」

 ぽつりと、そう呟く。

 田島が、力強く頷いた。

「当たり前だろ。ここまで来て、逃げる
坂本健人じゃねえ」

 真田もまた、静かに言う。

「この一票差は、警告でもあります。期待と不安、その両方を背負えという」

 健人は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 ――一票は、数字じゃない。

 一票は、声だ。

 届いた声を、預かった。

 その事実だけが、胸の奥に重く、しかし確かに残っていた。

 やがて、廊下のざわめきがはっきりと聞こえてくる。

 扉の向こうには、拍手と混乱と、疑念と期待が渦巻いているだろう。

 坂本健人は、背筋を伸ばした。

 勝者としてではない。

 引き受ける人間として。

 そうして、静かに扉へ向かった。

 ――歴史は、たった一票で動いた。

 だがその一票の重みを、誰よりも理解しているのは、
 今、この瞬間の坂本健人自身だった。


“一票は、数字じゃない。
一票は、迷いであり、覚悟であり、
「この国を任せてもいい」という
誰かの、震えるほど重い決断だ。

その一票差に立った時、
勝者である前に、
俺は――
引き受ける人間になった”
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