Schwarzrose -囚われの黒い薔薇-

蒼桜月薔薇

文字の大きさ
8 / 14
序章 堕ちた赤い月

08話◆力なき者

しおりを挟む
「ちっ……逃げやがって……」

 青年は腹を押さえて虚空を見上げるが、ルシファーの痕跡が完全に消えるとその場に崩れるように座って壁に背を預けた。
 そして、隣にいる華夜に気付いてじろりと眺める。

 怯えた視線を返す少女は昼間見た時とは別人のようだった。
 いたって普通の人間であり、絶世の美女というわけでも驚嘆するほどの力を持っているわけでもない。

「……趣味が悪いな」

 刻印へと目を向けると、五芒星の中央に黒薔薇を据えた魔方陣へと形が変わっていた。
 これで仮契約から本契約へと移行されたわけだ。

「悪魔の花嫁か」

 本来、契約というのは人間が悪魔を呼び出し、望みを叶えてもらう見返りに魂を差し出す。
 だが婚約となると前提となる条件がまったく異なった。

 悪魔に伴侶として選ばれた者には拒否権などなく、自らの不運を嘆きながら受け入れるしかない。
 一度刻み込まれた刻印は当事者らの意思ではけして破棄することは敵わず、仮に悪魔が死んだとしてもその無効化はできないのだ。
 
 強いて言うのであれば、魔族は天界の匂いを心底忌み嫌っている。
 天界で神に仕える者に慰みをを頂戴する事が出来れば、契約を回避出来る可能性はある。
 しかし高潔で純潔を尊ぶな彼らがそんな救済を与える可能性などゼロだ。

 悪魔が正室(或いは側室)に人間をやたらと選ぶのにはとある理由がある。
 それは永久的に飢えなくて済むからである。
 悪魔に変わるとはいえもとは人間、その体を流れる血も魂が宿った体もすべて馳走となる。

 悪魔へと変異すれば余程のことがない限り死ぬことはないし、回復力も高い。
 つまり元人間は、悪魔にとって退屈と飢えを凌ぐのに都合がいい極上の贄でもあるというわけだ。

「私を殺すの?」
「……殺されたいのか?」

 小動物のような大きな目がこちらをじっと見つめる。
 青年は問いかけてきた少女の瞳の奥を探った。
 返答はなかったが、きっとそれを望んでいるのだろう。
 この少女がそう思うのも無理もない。

 ルシファーが直接手を下したというあの事件のことは青年の耳にも届いていた。
 あれほど派手かつ凄惨な殺し方をするなど、どんなイカれた魔族かと思っていたが、まさか魔界の支配者であったとは驚きだ。
 あのお綺麗な顔からは想像できない狂乱ぶりである。

 目の前にいるのが、その生き残りの少女だったとは露にも思わなかったが。

「退魔一族の娘か……。何の因果なんだかな、お前のように薄弱な人間が生まれ落ちたのは」

 同情するでも嘲るでもなく、青年は冷静に思ったままを告げる。
 それは他のどんな言葉よりも胸に突き刺さった。

「言っとくが、オレに殺されるとお前は天国にも地獄にも行けない。オレの糧となって消滅するだけだ。まあ、あれだけの輝きを持つ魂なんだ。どんな味がするのかオレも興味がある」

 薄笑いを浮かべながら、伸ばした手で華夜の頬を撫でる。
 青褪めた肌が花が咲いたように己の血液で彩られ、その背徳的な美しさに意図せずして愉悦の笑みが溢れた。
 すると頼りなく揺らいでいた表情に微かな憤りが宿る。

「私はあなたの食糧にはならないわ。気安く触れないで」

 拒絶の言葉と共に手が払われる。
 少女に触れられた手は火傷でも負ったかのように赤く染まり痛みを発した。

(へぇ……神の加護を受けてるオレまで撥ね付けるか)

 ルシファーが今まで手を出せなかった理由はどうやらそれらしい。
 この病院自体は大して守りの力は強いとはいえない。
 礎となって守りの力を強固なものにしていたのは彼女だ。

 今宵はその力が逆転する夜──。
 魔の月が『絆』の力を増幅させ、ルシファーと華夜を隔てる結界を緩めたのだ。
 ルシファーはずっとこの時を狙っていたのだろう。
 その貴重な逢瀬の時間を台無しにしてしてやったと思うと胸がスッとした。

「まあ、さっきの恩もあるしな。死にたいって言うなら手を貸してやらないでもない。お前みたいにお綺麗な魂なら神様が拾い上げてくれるだろうよ」

 正直なところ、この少女がどうなろうとまったく興味はない。
 だが、あのペテン師の憎悪に染まった顔を拝めるのであれば、これほどに愉快なことはないだろう。

「他意がある人からの厚意は受け取らないわ。それに私はまだ死ぬわけにはいかないの」
「へえ……どうする気だ? 贄は主人には逆らえない。どう足掻こうが、お前にルシファーは殺せないぜ」

 青年の言葉を受けて華夜は目を伏せる。
 この身に刻まれた呪縛はルシファーに危害を与えることをけして許さず、逃れることすら敵わない。
 何もかも奪われた少女にとって、あまりに残酷な現実だった。

「それでも私は生きていかないと、一族のために戦わないといけないの。命を賭けてまで私を守ろうとしてくれた一族の死を無駄にすることなんて出来ないから」

 それは建前や自己陶酔ではなく、一人生き残ってしまった自分への罪悪感による言葉だった。
 閉ざされた目からこぼれ落ちた一粒の涙は、彼女の絶望と悲しみを推し量るに十分だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...