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序章 堕ちた赤い月
08話◆力なき者
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「ちっ……逃げやがって……」
青年は腹を押さえて虚空を見上げるが、ルシファーの痕跡が完全に消えるとその場に崩れるように座って壁に背を預けた。
そして、隣にいる華夜に気付いてじろりと眺める。
怯えた視線を返す少女は昼間見た時とは別人のようだった。
いたって普通の人間であり、絶世の美女というわけでも驚嘆するほどの力を持っているわけでもない。
「……趣味が悪いな」
刻印へと目を向けると、五芒星の中央に黒薔薇を据えた魔方陣へと形が変わっていた。
これで仮契約から本契約へと移行されたわけだ。
「悪魔の花嫁か」
本来、契約というのは人間が悪魔を呼び出し、望みを叶えてもらう見返りに魂を差し出す。
だが婚約となると前提となる条件がまったく異なった。
悪魔に伴侶として選ばれた者には拒否権などなく、自らの不運を嘆きながら受け入れるしかない。
一度刻み込まれた刻印は当事者らの意思ではけして破棄することは敵わず、仮に悪魔が死んだとしてもその無効化はできないのだ。
強いて言うのであれば、魔族は天界の匂いを心底忌み嫌っている。
天界で神に仕える者に慰みをを頂戴する事が出来れば、契約を回避出来る可能性はある。
しかし高潔で純潔を尊ぶな彼らがそんな救済を与える可能性などゼロだ。
悪魔が正室(或いは側室)に人間をやたらと選ぶのにはとある理由がある。
それは永久的に飢えなくて済むからである。
悪魔に変わるとはいえもとは人間、その体を流れる血も魂が宿った体もすべて馳走となる。
悪魔へと変異すれば余程のことがない限り死ぬことはないし、回復力も高い。
つまり元人間は、悪魔にとって退屈と飢えを凌ぐのに都合がいい極上の贄でもあるというわけだ。
「私を殺すの?」
「……殺されたいのか?」
小動物のような大きな目がこちらをじっと見つめる。
青年は問いかけてきた少女の瞳の奥を探った。
返答はなかったが、きっとそれを望んでいるのだろう。
この少女がそう思うのも無理もない。
ルシファーが直接手を下したというあの事件のことは青年の耳にも届いていた。
あれほど派手かつ凄惨な殺し方をするなど、どんなイカれた魔族かと思っていたが、まさか魔界の支配者であったとは驚きだ。
あのお綺麗な顔からは想像できない狂乱ぶりである。
目の前にいるのが、その生き残りの少女だったとは露にも思わなかったが。
「退魔一族の娘か……。何の因果なんだかな、お前のように薄弱な人間が生まれ落ちたのは」
同情するでも嘲るでもなく、青年は冷静に思ったままを告げる。
それは他のどんな言葉よりも胸に突き刺さった。
「言っとくが、オレに殺されるとお前は天国にも地獄にも行けない。オレの糧となって消滅するだけだ。まあ、あれだけの輝きを持つ魂なんだ。どんな味がするのかオレも興味がある」
薄笑いを浮かべながら、伸ばした手で華夜の頬を撫でる。
青褪めた肌が花が咲いたように己の血液で彩られ、その背徳的な美しさに意図せずして愉悦の笑みが溢れた。
すると頼りなく揺らいでいた表情に微かな憤りが宿る。
「私はあなたの食糧にはならないわ。気安く触れないで」
拒絶の言葉と共に手が払われる。
少女に触れられた手は火傷でも負ったかのように赤く染まり痛みを発した。
(へぇ……神の加護を受けてるオレまで撥ね付けるか)
ルシファーが今まで手を出せなかった理由はどうやらそれらしい。
この病院自体は大して守りの力は強いとはいえない。
礎となって守りの力を強固なものにしていたのは彼女だ。
今宵はその力が逆転する夜──。
魔の月が『絆』の力を増幅させ、ルシファーと華夜を隔てる結界を緩めたのだ。
ルシファーはずっとこの時を狙っていたのだろう。
その貴重な逢瀬の時間を台無しにしてしてやったと思うと胸がスッとした。
「まあ、さっきの恩もあるしな。死にたいって言うなら手を貸してやらないでもない。お前みたいにお綺麗な魂なら神様が拾い上げてくれるだろうよ」
正直なところ、この少女がどうなろうとまったく興味はない。
だが、あのペテン師の憎悪に染まった顔を拝めるのであれば、これほどに愉快なことはないだろう。
「他意がある人からの厚意は受け取らないわ。それに私はまだ死ぬわけにはいかないの」
「へえ……どうする気だ? 贄は主人には逆らえない。どう足掻こうが、お前にルシファーは殺せないぜ」
青年の言葉を受けて華夜は目を伏せる。
この身に刻まれた呪縛はルシファーに危害を与えることをけして許さず、逃れることすら敵わない。
何もかも奪われた少女にとって、あまりに残酷な現実だった。
「それでも私は生きていかないと、一族のために戦わないといけないの。命を賭けてまで私を守ろうとしてくれた一族の死を無駄にすることなんて出来ないから」
それは建前や自己陶酔ではなく、一人生き残ってしまった自分への罪悪感による言葉だった。
閉ざされた目からこぼれ落ちた一粒の涙は、彼女の絶望と悲しみを推し量るに十分だった。
青年は腹を押さえて虚空を見上げるが、ルシファーの痕跡が完全に消えるとその場に崩れるように座って壁に背を預けた。
そして、隣にいる華夜に気付いてじろりと眺める。
怯えた視線を返す少女は昼間見た時とは別人のようだった。
いたって普通の人間であり、絶世の美女というわけでも驚嘆するほどの力を持っているわけでもない。
「……趣味が悪いな」
刻印へと目を向けると、五芒星の中央に黒薔薇を据えた魔方陣へと形が変わっていた。
これで仮契約から本契約へと移行されたわけだ。
「悪魔の花嫁か」
本来、契約というのは人間が悪魔を呼び出し、望みを叶えてもらう見返りに魂を差し出す。
だが婚約となると前提となる条件がまったく異なった。
悪魔に伴侶として選ばれた者には拒否権などなく、自らの不運を嘆きながら受け入れるしかない。
一度刻み込まれた刻印は当事者らの意思ではけして破棄することは敵わず、仮に悪魔が死んだとしてもその無効化はできないのだ。
強いて言うのであれば、魔族は天界の匂いを心底忌み嫌っている。
天界で神に仕える者に慰みをを頂戴する事が出来れば、契約を回避出来る可能性はある。
しかし高潔で純潔を尊ぶな彼らがそんな救済を与える可能性などゼロだ。
悪魔が正室(或いは側室)に人間をやたらと選ぶのにはとある理由がある。
それは永久的に飢えなくて済むからである。
悪魔に変わるとはいえもとは人間、その体を流れる血も魂が宿った体もすべて馳走となる。
悪魔へと変異すれば余程のことがない限り死ぬことはないし、回復力も高い。
つまり元人間は、悪魔にとって退屈と飢えを凌ぐのに都合がいい極上の贄でもあるというわけだ。
「私を殺すの?」
「……殺されたいのか?」
小動物のような大きな目がこちらをじっと見つめる。
青年は問いかけてきた少女の瞳の奥を探った。
返答はなかったが、きっとそれを望んでいるのだろう。
この少女がそう思うのも無理もない。
ルシファーが直接手を下したというあの事件のことは青年の耳にも届いていた。
あれほど派手かつ凄惨な殺し方をするなど、どんなイカれた魔族かと思っていたが、まさか魔界の支配者であったとは驚きだ。
あのお綺麗な顔からは想像できない狂乱ぶりである。
目の前にいるのが、その生き残りの少女だったとは露にも思わなかったが。
「退魔一族の娘か……。何の因果なんだかな、お前のように薄弱な人間が生まれ落ちたのは」
同情するでも嘲るでもなく、青年は冷静に思ったままを告げる。
それは他のどんな言葉よりも胸に突き刺さった。
「言っとくが、オレに殺されるとお前は天国にも地獄にも行けない。オレの糧となって消滅するだけだ。まあ、あれだけの輝きを持つ魂なんだ。どんな味がするのかオレも興味がある」
薄笑いを浮かべながら、伸ばした手で華夜の頬を撫でる。
青褪めた肌が花が咲いたように己の血液で彩られ、その背徳的な美しさに意図せずして愉悦の笑みが溢れた。
すると頼りなく揺らいでいた表情に微かな憤りが宿る。
「私はあなたの食糧にはならないわ。気安く触れないで」
拒絶の言葉と共に手が払われる。
少女に触れられた手は火傷でも負ったかのように赤く染まり痛みを発した。
(へぇ……神の加護を受けてるオレまで撥ね付けるか)
ルシファーが今まで手を出せなかった理由はどうやらそれらしい。
この病院自体は大して守りの力は強いとはいえない。
礎となって守りの力を強固なものにしていたのは彼女だ。
今宵はその力が逆転する夜──。
魔の月が『絆』の力を増幅させ、ルシファーと華夜を隔てる結界を緩めたのだ。
ルシファーはずっとこの時を狙っていたのだろう。
その貴重な逢瀬の時間を台無しにしてしてやったと思うと胸がスッとした。
「まあ、さっきの恩もあるしな。死にたいって言うなら手を貸してやらないでもない。お前みたいにお綺麗な魂なら神様が拾い上げてくれるだろうよ」
正直なところ、この少女がどうなろうとまったく興味はない。
だが、あのペテン師の憎悪に染まった顔を拝めるのであれば、これほどに愉快なことはないだろう。
「他意がある人からの厚意は受け取らないわ。それに私はまだ死ぬわけにはいかないの」
「へえ……どうする気だ? 贄は主人には逆らえない。どう足掻こうが、お前にルシファーは殺せないぜ」
青年の言葉を受けて華夜は目を伏せる。
この身に刻まれた呪縛はルシファーに危害を与えることをけして許さず、逃れることすら敵わない。
何もかも奪われた少女にとって、あまりに残酷な現実だった。
「それでも私は生きていかないと、一族のために戦わないといけないの。命を賭けてまで私を守ろうとしてくれた一族の死を無駄にすることなんて出来ないから」
それは建前や自己陶酔ではなく、一人生き残ってしまった自分への罪悪感による言葉だった。
閉ざされた目からこぼれ落ちた一粒の涙は、彼女の絶望と悲しみを推し量るに十分だった。
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