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朝……。
部屋のカーテンの合間から差し込む光に少し目を瞬かせながら……。
藤川美月は混乱しきった頭の中を整理しようと懸命だった。
(ええ~と、いったいどうしてこんなことに……? 何も覚えてない……)
見知らぬ部屋のベッドの上で、男性に背中からしっかりと抱きしめられている。身体に回された腕はたくましいけれど、とても優しく抱かれていて苦しくもない。
感じるのは心地良い暖かさだけだった。
(この男の人……。何度見ても見間違いじゃないよね……)
美月は目が覚めてから何度もその男性の顔をちらちらと見てはいたけれど、いまだに現実が受け入れられない。
(信じられないけど……。やっぱり現実?)
そんなとき。
「さっきから何をやってるんだ?」
低くていい声が耳元で響いて、ぞくっとする。
美月は観念して、そーっと肩越しに見上げて声の主の顔をはっきりと目に入れた。
「おはよう。やっとまともに顔を見たな」
彼―― 寺沢覚の、いつものような涼やかな眼差しが目に入る。
その端正な顔立ちは、こんな異常事態でも全く動じる気配を見せない。
「ん? どうした」
「て……寺沢課長……。やっぱり……」
震える声が美月の口から漏れる。
こんな風に男性と朝を迎える光景なんて、ドラマや漫画では何度も見てきた。けれどいざ自分の身に起こってみると、そのパニックぶりは想像以上にすさまじい。
落ち着け落ち着け、と美月が目を伏せて何回も心の中で唱え始めていると、クスリという笑い声が聞こえてきた。
「昨夜のことを覚えていないのか? 君が俺にしがみついてきて離さなかったのに」
彼はすっと身体を起こすと、片手を美月の肩にかけてくるりと身体を仰向けにさせた。そしてすぐさま美月の身体をまたぐようにして膝立ちになる。
「えっ?」
彼の突然の行動に驚いて、美月は目を丸くしてしまう。
彼は、いくつかシャツのボタンを外して胸元を見せながら、美月をじっと見下ろしている。普段のスーツ姿とはまた違う男の色気が漂っていて、何とも魅力に溢れている。
見下ろしてくる瞳は、さっきまでの涼しげな眼差しとも全く違う、鋭く射貫くような、野性味すら備えた瞳だった。こんな目で見据えられたら、ドキドキして目を逸らすこともできない。
こんな彼の様子を目の当たりにして、美月の胸がドキンと踊るようにはねた。
今はベッドの上で彼に抑えこまれている状態なのに、身体を動かすことも、目を逸らすこともできない。とてもではないけれどそんな気持ちにもなれない。
「か、課長……。あの……」
「君が悪い。一晩もお預けさせたんだからね」
そうつぶやいた彼の顔が迫ってくる。両の頬が大きな手で包まれ、唇が重ねられた。
(え……。キ、キス……? うそぉ……)
驚いて見張った瞳は、広くて暖かい胸に包まれて繰り返し落とされるキスに酔わされて次第にとろりと潤んでいく。
(あ……あのバーで彼と鉢合わせして、それで……)
今の事態を何とか理解しようという冷静な考えは、彼から与えられる熱とそれに応えて火照っていく自分の身体の熱とで、かき消されていってしまいそうだった。
それはある土曜日の夜のこと。
少し薄暗い照明の下、店内では静かなジャズのBGMが流れている。
温もりが感じられる木造の調度と店内のしゃれた雰囲気のおかげか、このカクテルバー『ルミエール』は女性客だけでも入りやすい店構えになっているようだ。
さほど広くない店内では、女性グループの客もカクテルを楽しそうに飲んでいる。
しかしそんな店内の様子とは裏腹に、美月はカウンター席に座りながら身体をカチコチに堅くしていた。
目の前に出されたオレンジ・ブロッサムのカクテルに口もつけられず、まるで針のムシロのような気分を味わっている。
(よりによってこんな日に彼と会うなんて……。今一番会いたくない人なのに……)
美月は隣に座る彼――寺沢覚の顔を横目でちらりと見て、心の中で叫んでいた。
心穏やかではない美月とは対照的に、彼は涼しい顔をしながらマティーニのグラスを傾けていた。
「藤川君」
「はっ、はいっ……」
突然名前を呼ばれて驚き、美月は大きく肩を跳ね上げた。
「君のその格好……。今日は結婚式だったのか?」
「……」
「いや、違うな……。結婚式というより……。お見合いか何かだったのか?」
涼しげな流し目に探るような表情を込めながら、彼は鋭い指摘をしてきた。
ギクリとして、美月の肩がまた跳ね上がる。
(ああ……。何か言われたら結婚式だったって言い訳しようと思ってたのに……。やっぱりこの人の目はごまかせない……)
美月は自分の着ている服を見下ろして観念した。
結婚式というには似つかわしくない、白に近いベージュ色の上品なデザインのワンピース。きれいにセットした髪。普段とは全く違うこんな格好をしていれば、鋭い寺沢課長のことだ。何かあると気づかないはずがないのだった。
彼は一年ほど前から美月の勤務する浜崎商事の総務課の課長となり直属の上司になった。社内ではエリートコースといわれるアメリカ支社勤務を経た異動だった。
社員の中でも飛び抜けて有能な彼は、社長のお気に入りでもあり、三十二歳という年齢ながら既に重役や社長にまでも上り詰めるだろうと社内で噂されている。
そして有能なことを鼻に掛けず人柄が良く、俳優のように整った顔立ちに涼しげな目、少し癖毛の短い黒髪、すらりとした長身、という容姿で、しかも未だ独身だった。そんな彼は、上司や部下からの信頼も厚く、クールなイケメン課長として女子社員からも絶大な人気を得ているのだった。
美月は異動以来、何度も彼を直接サポートする仕事を任せられていた。一緒に外出したり、二人だけで夜遅くまで残業したこともある。
だから美月は、彼がただクールなだけではなく、残業のときに美月の体調や食事の心配もするような優しさも備えた人であることを良く知っている。
そんな彼に、美月も憧れている一人なのだった。
けれど美月は、頭の中であれこれと余計なことを考えすぎる性格が災いしてか、男性相手に積極的な行動ができない所があった。しかも自分でも情けなくなるほど運が悪く、タイミングの悪さで相手を逃すこともしばしばだった。
そのため二十八歳になった今までも恋愛にはあまり思い出がない。
だから他の女子社員たちのように、彼の目の前ではっきりと好意を口にしたり、行動に出たりすることもできなかった。
彼はいつも彼女たちのアプローチを軽く受け流すだけだったので、自分が何を言っても同じかもしれない。そう思っていた。
他の女子社員よりも彼に近い位置にいるのに何もできない。社内で大人気のエリートサラリーマンと平凡なOLという、激しすぎる落差も身にしみる。
そんな思いを抱えながら日々を過ごし、現在に至っていた。
「……おっしゃる通りです……。今日、お見合いをしてきました」
大きなため息をつきながら、美月は白状した。
「お見合いの後なのに一人でこんな所に来ているのか? 相手の男はどうした?」
彼の容赦ない追及が続く。
正直、放っておいて欲しいと思うけれど、ここまで問われたら言わないわけにはいかない。
「……ちょっと嫌な思いをしてしまって……。一人になりたかったんです」
(とほほ……。彼にこんなことを白状する羽目になるなんて。なんて間が悪いの、私って……)
美月は、いくらヤケになっていたとはいえ、伯母の話に乗ってしまったことを心から後悔した。
「美月ちゃん、今度は銀行に勤めるエリートサラリーマンがお相手なのよ! 相手は美月ちゃんと同じ二十八歳でかなりのイケメンよ。どう?」
伯母がイチ押しだと言いながらお見合い相手の写真を見せたのは、一週間ほど前のことだった。
美月は郊外にある実家を出て、会社のある都心に近い場所のアパートで一人暮らしをしている。そんな美月を心配して、近くに住む母の姉が色々と世話を焼いてくれるのは有り難いのだが……。
「女の幸せは結婚よ!」というのがポリシーの伯母は、これまで何度もお見合い話を持ちかけてきた。
そのたびに断っていたのだけれど、今回は美月に思うところがあり、珍しくその話を受ける気になった。
そして今風に、本人同士が会って食事をするという、くだけた感じのお見合いの席に臨んだのが、今日の昼間のことだったのだが……。
「美月さんのような大人しい控えめな女性ならば、僕の結婚相手にふさわしいです」
「会社では僕達のような高学歴のエリートに目の色を変える、慎みのない女性が多くてね。社内恋愛をする気にもなれなかったのですよ」
こんな話ばかり口にする男を、美月は冷めた目で見ていた。
(最悪……。やっぱりお見合いなんてやめておけばよかった……)
会社にほど近い場所にあるこの有名ホテルのラウンジは、開放感のある造りと雰囲気の良さが売り物だったが、そんなものは何の慰めにもならなかった。
お見合い相手の彼は自分の学歴や仕事の自慢をするばかり。しかも事務職の女性を馬鹿にするような物言いをするので、それが癪に障って仕方がない。
(たぶん、女性のことを基本的に馬鹿にしている人なのね……。寺沢課長とは大違いだわ……)
そう思わずにはいられなかった。
(彼はとても有能で仕事にも厳しいけれど、女性を見下したりしない。男性としても上司としても尊敬できる人なのに、どうしてこの人は……)
彼はまだ懸命に自慢話を繰り広げるが、もうその中味など頭の中に入らない。思い浮かべてしまうのは寺沢課長のことばかり……。
その後、このホテルのレストランで一緒に食事をしたけれど、止まない自慢話と女性を見下す発言に呆れてしまい、美月のいらだちは最高潮に達する。
「ここのバーに行きましょう。あなたのお話をもっと聞かせて下さい」
「すみませんが今日はこれで失礼します」
食事の後の誘いもさっさと断り、美月はホテルを飛び出した。
もしかしたら新しい出会いに心がときめくかもしれない。そんな淡い期待をもってお見合いに臨んだけれど、人生そんな甘くはないと思い知ってしまった。
とぼとぼと夜の街をさまよい歩いていると、後悔とむしゃくしゃする気持ちが高じてきてたまらない。
(バカみたい……。変に期待して、おしゃれにも気合いを入れたりして……)
気がつくと、ちょうど会社のビルに近い場所まで来ていた。会社の周辺はオフィス街だけれど、少し裏通りに入れば仕事帰りの客をターゲットにした飲み屋やバーなどが建ち並んでいる。
(こんなやりきれない気分のままアパートに帰ったら、果てしなく落ち込んじゃいそう……。やだな……)
こんなときに一人寂しく部屋にいるのはとても辛い。そう思っていると、以前から気になっていたカクテルバーの看板が目に入る。
小ぶりなビルの一階に入っているそのカクテルバー『ルミエール』は、数ヶ月前にオープンした店だった。女性でもお気軽にどうぞ、という宣伝文句や、店構えの様子から、前からずっと気になっていた。
(よし! ここに入ろう! 今のまま帰ったら、明日までこの気分が尾を引きそうだもん。今日は土曜日だし、会社の人も来ていないよね)
そう意を決して店のドアを開けて中に入った。すると、まだ少し早い時間だからか客はそう多くは入っていなかったのだが……。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中にいた店長らしい男性が声をかける。
すると、カウンター席に座っていた男性客もふと振り返って美月を見た。
(えっっっっ!)
その男性客は……よりによって寺沢課長その人だった。
美月は全身が固まったようになって、しばしその場に立ち尽くした……。
「なるほどね……。確かにそういう偏った考えの男は、君には不満だろうね。君は理不尽なことには納得できない性格だからね……」
寺沢課長は納得したように言った。
美月は、相手の男性を寺沢課長と比べてばかりいたということをうまく隠して、ひととおりのことを話した。
彼からクールな横目でじっと見られて、美月は思わずぽっと頬を赤く染めた。
(そんな…私のことを見てて、よく知っているようなことを言われたら、余計な希望を持っちゃいますよ、課長……。叶わない希望だと思っていても……)
美月はそう思いながら、半分ほど残っていたオレンジ・ブロッサムのショート・グラスにやっと手を伸ばし、口をつけた。
甘く口当たりが良く、ほどよい位のアルコールが喉に染みいってくる。
最初に感じていた緊張感は、彼に事情を話したことで少し和らいでいるようだった。
「君が一人でカクテルバーに入るとは、ちょっと意外だったな。若い女性はグループで店に来るものだと思っていたから」
「あー、課長! それは女性に対する偏見ではないですか? いいじゃないですか、一人でカクテルを飲んでも」
「……それもそうだ。すまなかった」
寺沢課長は、ちょっとおどけたような表情を見せて、ふと微笑んだ。
美月はほろ酔い気分を味わいながら、彼とこんなにもくだけた様子で話せるようになった自分に驚いていた。
(こうして美味しいカクテルを飲んでいるから…かな?)
普段、一緒の仕事をしているときは、ミスをしないか、彼の足を引っ張らないか、と緊張しながら彼の隣にいる事が多かった。
しかもさっきまでは、あまりの気まずさに全身を堅くして緊張するばかりだった。
でも今は、カクテルのアルコールと、彼と秘密を共有できたような嬉しさとが相まってか、だいぶ緊張が和らいでいるようだった。
(嘘みたい……。課長と二人でこんなに楽しい時間を過ごせているなんて……)
心からそう思えてならない。
「覚。もう一杯、何か飲む?」
カウンターの中にいる店長が声を掛けてきた。寺沢課長と同年代だろうか。顎に少しヒゲをはやした、とても親しみのある笑顔を浮かべる男性だった。
「そうだな……。もう一杯、マティーニをもらうよ」
彼も親しげな笑顔を浮かべてそう応えた。
「課長、店長とはお友達なんですか?」
「ああ。彼は大学時代の友人でね。彼がこの店をオーナーに任されてオープンして以来、よく来るようになったんだ」
ここが彼の行きつけの店だったとは。
そのせいだろうか。彼は、美月がオフィスでは普段あまり見ることがなかった、くだけた表情や、笑顔も見せている。
美月はそんな彼を見るたびに、心がくすぐられそうな思いを感じてしまう。時間が過ぎるごとに新しい魅力を感じて、好きだという気持ちが高まっていくようだった。
(行きつけのお店にいるせいだけじゃなくて、私と一緒にお酒を飲んで話しているのも楽しんでくれていれば嬉しいんだけどな………)
美月はまたちらりと彼の顔を横目で見た。
すると彼も横目で美月を見てきた。考えていることが分かってしまったのかと、美月は少し戸惑って目を泳がせた。
「君は……カクテルが好きなのか? 今までこうして一緒に飲む機会がなかったから、よく知らなかったが」
そんな風に聞かれて、嬉しい気分が昂じていく。
「亡くなった父がホテルのバーのバーテンだったんです。だから小さい頃から父が家で練習で作っていた色とりどりのカクテルを見るのが好きでした」
「なるほどね……」
美月は二杯目のカクテルグラスをゆらした。白色でこの店のオリジナルカクテルだという。少し甘めで口当たりがいい。
じっとグラスを見ていたら、小さい頃のことを思い出した。
父がにこやかに笑いながら、軽快にシェイカーを振っている。
グラスに注ぎ込まれるカクテルがどんな色か、どんな風に出てくるのか、美月は楽しみに胸を躍らせながらいつも見守っている。
出来上がって注がれるカクテルは、期待を裏切ることなく、キラキラ輝いていて綺麗な色に彩られていた。
それはとても懐かしい思い出だった……。
「父は私に、大人になったら一緒にカクテルを楽しもうと言っていたんですが…。父は私が大学に入ってすぐに亡くなって、その夢は叶いませんでした」
「そうか。それは残念だったね」
「はい……。でも父が言ってました。カクテルは人の人生のように十人十色。だから人に色々なことを教えてくれたり、助けてくれたりする。ここぞという時に背中を押してくれることもあるんだぞ、って」
「へえ……」
「その父の言葉を覚えていたからか、私、仕事で落ち込んだりむしゃくしゃした時に、カクテルを飲んで気持ちをリセットしてから家に帰ることがあるんです。そうすると嫌な思いが後に引かずに済むような気がして……」
美月はちらりと寺沢課長の顔を見た。
「こんな私……おかしいですか?」
その言葉を聞いて、彼はふと微笑んだ。
「いいや。むしろ、君らしくていいんじゃないか。自分に正直で」
「そ、そうですか? ありがとうございます」
「君がカクテル好きなら、もっと早くこの店に誘っていればよかったね……」
美月は、そんな彼の物言いに、心が弾むのを抑えられなかった。
向けられる親しげな微笑みに、部下への単なる感謝以上の気持ちが込められていると感じてしまう。
「異動してきて以来、いつも一生懸命に仕事のサポートをしてくれてありがとう。ずっと感謝していたよ」
「そっ、そんな。私なんて、いつも課長の足を引っ張っているような気がして……」
「そんなことはないよ。まあちょっと早とちりな所はあるけれどね」
「うっっ」
やはりそう思われていたことを知って、美月は言葉に詰まる。
「でもそんなことは気にしなくていい。いつも助かっているからね。ああ、そうだ」
彼は可笑しそうに笑いながら、手を上げて店長を呼んだ。
「恭一。例のカクテルを、彼女の分も頼むよ」
「了解」
店長の名前なのだろう。彼は親しげに名前を呼んで新たにカクテルをオーダーした。
しばらくして、店長がショートグラスに綺麗なピンク色のカクテルを注いで出してくれた。とても親しみやすい、優しげな笑顔を向けられる。
「これは今度メニューに加える予定の、女性向けのカクテルです。覚にアイディアを出してもらったり、味見もしてもらったのですが、もしよろしければ感想を聞かせてもらえませんか?」
「は、はい!」
出されたカクテルを口に含む。赤ワインをベースにしたフルーティーな味は、さっき飲んだカクテルよりも甘く口当たりが良い、確かに女性向けのカクテルらしい。
アルコール度数はさほど強くないけれど、甘く優しく女性の喉を潤しながら酔わしていく。そんな印象のある、魅力に溢れた味だった。
ちらりと横を見ると、寺沢課長が嬉しそうに微笑んで美月を見つめていた。
ぽっと頬が熱くなる。たぶんこれは今飲んだカクテルだけのせいじゃない。
(このカクテル、今の課長の印象とどこかかぶっちゃうな……。魅力的で、もっと自分を潤して酔わせて欲しい、なんて思っちゃう……)
美月はまたグラスを傾けて残ったカクテルを味わう。
彼と過ごすひとときを少しでも長く味わいたい。そんな思いを込めながら。
「まったく……。カクテルは好きだが酒には弱いとは……。君は本当にバーテンの娘なのか?」
「すみま……せん……。いつもは飲んでも一杯か二杯までにして……いるんですが……。五杯も…飲んじゃいました……。気持ちよくって……」
美月は、ゆらゆらと心地良い揺れを身体で感じながら、呻いていた。彼の呆れたような声が耳に痛い。
寺沢課長と楽しく話をしていたら、ついついカクテルを飲み過ぎてしまった。元々あまり酒に強いほうではない美月は、酔ってフラフラになってしまったのだった。
心配した彼は、店を出ると、タクシーが拾える所まで行くからと言って美月を背負って歩き出したのだった。
夜のネオンがちらちらと目に入る中、夜の街を進んでいく。
その様子を端から見ると、長身な男性の背中にちょこんと女性の身体が乗せられている、そんな感じだろうか。
普段の美月なら、恥ずかしいやら申し訳ないやらで落ち着いて背に収まっていることもできない。そもそも背負われることすら断っている。
でも今はお酒のせいでそんな気持ちは麻痺していたのかもしれない、素直に彼の背に収まっていた。
「ほら。家まで送っていくから、ちゃんと案内するんだぞ」
「は…い……」
美月は呻きながらも、何とか彼の言葉に応えた。
スーツ越しに、彼の体温が美月の肌に伝わってくる。彼の背中はとても温かく居心地がよくてたまらなかった。こんな人肌の暖かさはしばらく忘れていたような気がした。
今だけはこの心地よさを味わっていたい。どさくさ紛れでもいいから……。それが今の正直な気持ちだった。
(彼が他の女の人のものになっても、今だけは…。この背中は私のものだもの……)
そんな切ない思いを抱きながら、背中に右の頬をぴたりとくつけ、美月はそっと目を閉じた。
心地良い揺れと酔いと暖かい体温は、次第に美月の眠気を誘ってきた。彼が歩みを進める度に、睡魔はじわじわと浸食を強めていく。
そんな中で……。
「ちょっと訊いていいか?」
彼のはっきりとした声が聞こえてきた。はっとして意識をつかみ取り、頭を起こす。
「はい……」
「お見合いの返事は……どうするんだ?」
背中越しで、しかも身体がうまく動かせない状態なので、彼がどんな表情で言っているのかわからない。
「どうして…そんなこと……。まあいいです。どうせ断るつもりですから……」
「そうか」
「でも……伯母さんは…、今回だめでもまだいくらでも紹介するからって……意気揚々としてて……。でも……」
一瞬、眠気が強くなってぐらりと頭が揺れ、また彼の背に頬をくつけてしまう。
「こら。寝るな。家がわからなくなるだろう」
少し焦り気味な彼の声が美月の耳に届いてくる。
(だいぶ眠くなってきた……。でももうすぐ彼と離れなくちゃいけない……)
彼ともっと一緒にいたいのに。夢のような時間がもうすぐ終わってしまう。完全に眠り込んでしまったら、それでもう終わり。
そんな焦った思いは、眠りの淵に引きずり込まれそうな美月の心を、懸命に現実に引き留めようとしていた。
そして心の底に秘めていた言葉すら、引き出してしまう。
「私が好きなのはね……。あなたなんですよ。課長…」
美月は頬を彼の背に当てたままで、ごく小さい声で呟いた。
繁華街の喧噪の中、こんなに小さな声では彼の耳には声が届かないだろう。そう思いながらも、口に出さずにはいられなかった。
たとえ彼が聞いてくれていなくてもかまわない。今を逃したら、自分一人の時に言葉をこっそり口にすることすらなくなるだろう。なぜかそう思えてならなかった。
すると、満足して睡魔に抵抗する理由がなくなってきたのか……。眠気が一気に強くなってきた。
美月の意識が段々と遠くなっていく。
「……それなら我慢することもなかったな……」
美月が完全に眠ってしまった様子を背で感じ取った彼は、ふと口に笑いを浮かべながら、ポツリとそう呟いた。
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部屋のカーテンの合間から差し込む光に少し目を瞬かせながら……。
藤川美月は混乱しきった頭の中を整理しようと懸命だった。
(ええ~と、いったいどうしてこんなことに……? 何も覚えてない……)
見知らぬ部屋のベッドの上で、男性に背中からしっかりと抱きしめられている。身体に回された腕はたくましいけれど、とても優しく抱かれていて苦しくもない。
感じるのは心地良い暖かさだけだった。
(この男の人……。何度見ても見間違いじゃないよね……)
美月は目が覚めてから何度もその男性の顔をちらちらと見てはいたけれど、いまだに現実が受け入れられない。
(信じられないけど……。やっぱり現実?)
そんなとき。
「さっきから何をやってるんだ?」
低くていい声が耳元で響いて、ぞくっとする。
美月は観念して、そーっと肩越しに見上げて声の主の顔をはっきりと目に入れた。
「おはよう。やっとまともに顔を見たな」
彼―― 寺沢覚の、いつものような涼やかな眼差しが目に入る。
その端正な顔立ちは、こんな異常事態でも全く動じる気配を見せない。
「ん? どうした」
「て……寺沢課長……。やっぱり……」
震える声が美月の口から漏れる。
こんな風に男性と朝を迎える光景なんて、ドラマや漫画では何度も見てきた。けれどいざ自分の身に起こってみると、そのパニックぶりは想像以上にすさまじい。
落ち着け落ち着け、と美月が目を伏せて何回も心の中で唱え始めていると、クスリという笑い声が聞こえてきた。
「昨夜のことを覚えていないのか? 君が俺にしがみついてきて離さなかったのに」
彼はすっと身体を起こすと、片手を美月の肩にかけてくるりと身体を仰向けにさせた。そしてすぐさま美月の身体をまたぐようにして膝立ちになる。
「えっ?」
彼の突然の行動に驚いて、美月は目を丸くしてしまう。
彼は、いくつかシャツのボタンを外して胸元を見せながら、美月をじっと見下ろしている。普段のスーツ姿とはまた違う男の色気が漂っていて、何とも魅力に溢れている。
見下ろしてくる瞳は、さっきまでの涼しげな眼差しとも全く違う、鋭く射貫くような、野性味すら備えた瞳だった。こんな目で見据えられたら、ドキドキして目を逸らすこともできない。
こんな彼の様子を目の当たりにして、美月の胸がドキンと踊るようにはねた。
今はベッドの上で彼に抑えこまれている状態なのに、身体を動かすことも、目を逸らすこともできない。とてもではないけれどそんな気持ちにもなれない。
「か、課長……。あの……」
「君が悪い。一晩もお預けさせたんだからね」
そうつぶやいた彼の顔が迫ってくる。両の頬が大きな手で包まれ、唇が重ねられた。
(え……。キ、キス……? うそぉ……)
驚いて見張った瞳は、広くて暖かい胸に包まれて繰り返し落とされるキスに酔わされて次第にとろりと潤んでいく。
(あ……あのバーで彼と鉢合わせして、それで……)
今の事態を何とか理解しようという冷静な考えは、彼から与えられる熱とそれに応えて火照っていく自分の身体の熱とで、かき消されていってしまいそうだった。
それはある土曜日の夜のこと。
少し薄暗い照明の下、店内では静かなジャズのBGMが流れている。
温もりが感じられる木造の調度と店内のしゃれた雰囲気のおかげか、このカクテルバー『ルミエール』は女性客だけでも入りやすい店構えになっているようだ。
さほど広くない店内では、女性グループの客もカクテルを楽しそうに飲んでいる。
しかしそんな店内の様子とは裏腹に、美月はカウンター席に座りながら身体をカチコチに堅くしていた。
目の前に出されたオレンジ・ブロッサムのカクテルに口もつけられず、まるで針のムシロのような気分を味わっている。
(よりによってこんな日に彼と会うなんて……。今一番会いたくない人なのに……)
美月は隣に座る彼――寺沢覚の顔を横目でちらりと見て、心の中で叫んでいた。
心穏やかではない美月とは対照的に、彼は涼しい顔をしながらマティーニのグラスを傾けていた。
「藤川君」
「はっ、はいっ……」
突然名前を呼ばれて驚き、美月は大きく肩を跳ね上げた。
「君のその格好……。今日は結婚式だったのか?」
「……」
「いや、違うな……。結婚式というより……。お見合いか何かだったのか?」
涼しげな流し目に探るような表情を込めながら、彼は鋭い指摘をしてきた。
ギクリとして、美月の肩がまた跳ね上がる。
(ああ……。何か言われたら結婚式だったって言い訳しようと思ってたのに……。やっぱりこの人の目はごまかせない……)
美月は自分の着ている服を見下ろして観念した。
結婚式というには似つかわしくない、白に近いベージュ色の上品なデザインのワンピース。きれいにセットした髪。普段とは全く違うこんな格好をしていれば、鋭い寺沢課長のことだ。何かあると気づかないはずがないのだった。
彼は一年ほど前から美月の勤務する浜崎商事の総務課の課長となり直属の上司になった。社内ではエリートコースといわれるアメリカ支社勤務を経た異動だった。
社員の中でも飛び抜けて有能な彼は、社長のお気に入りでもあり、三十二歳という年齢ながら既に重役や社長にまでも上り詰めるだろうと社内で噂されている。
そして有能なことを鼻に掛けず人柄が良く、俳優のように整った顔立ちに涼しげな目、少し癖毛の短い黒髪、すらりとした長身、という容姿で、しかも未だ独身だった。そんな彼は、上司や部下からの信頼も厚く、クールなイケメン課長として女子社員からも絶大な人気を得ているのだった。
美月は異動以来、何度も彼を直接サポートする仕事を任せられていた。一緒に外出したり、二人だけで夜遅くまで残業したこともある。
だから美月は、彼がただクールなだけではなく、残業のときに美月の体調や食事の心配もするような優しさも備えた人であることを良く知っている。
そんな彼に、美月も憧れている一人なのだった。
けれど美月は、頭の中であれこれと余計なことを考えすぎる性格が災いしてか、男性相手に積極的な行動ができない所があった。しかも自分でも情けなくなるほど運が悪く、タイミングの悪さで相手を逃すこともしばしばだった。
そのため二十八歳になった今までも恋愛にはあまり思い出がない。
だから他の女子社員たちのように、彼の目の前ではっきりと好意を口にしたり、行動に出たりすることもできなかった。
彼はいつも彼女たちのアプローチを軽く受け流すだけだったので、自分が何を言っても同じかもしれない。そう思っていた。
他の女子社員よりも彼に近い位置にいるのに何もできない。社内で大人気のエリートサラリーマンと平凡なOLという、激しすぎる落差も身にしみる。
そんな思いを抱えながら日々を過ごし、現在に至っていた。
「……おっしゃる通りです……。今日、お見合いをしてきました」
大きなため息をつきながら、美月は白状した。
「お見合いの後なのに一人でこんな所に来ているのか? 相手の男はどうした?」
彼の容赦ない追及が続く。
正直、放っておいて欲しいと思うけれど、ここまで問われたら言わないわけにはいかない。
「……ちょっと嫌な思いをしてしまって……。一人になりたかったんです」
(とほほ……。彼にこんなことを白状する羽目になるなんて。なんて間が悪いの、私って……)
美月は、いくらヤケになっていたとはいえ、伯母の話に乗ってしまったことを心から後悔した。
「美月ちゃん、今度は銀行に勤めるエリートサラリーマンがお相手なのよ! 相手は美月ちゃんと同じ二十八歳でかなりのイケメンよ。どう?」
伯母がイチ押しだと言いながらお見合い相手の写真を見せたのは、一週間ほど前のことだった。
美月は郊外にある実家を出て、会社のある都心に近い場所のアパートで一人暮らしをしている。そんな美月を心配して、近くに住む母の姉が色々と世話を焼いてくれるのは有り難いのだが……。
「女の幸せは結婚よ!」というのがポリシーの伯母は、これまで何度もお見合い話を持ちかけてきた。
そのたびに断っていたのだけれど、今回は美月に思うところがあり、珍しくその話を受ける気になった。
そして今風に、本人同士が会って食事をするという、くだけた感じのお見合いの席に臨んだのが、今日の昼間のことだったのだが……。
「美月さんのような大人しい控えめな女性ならば、僕の結婚相手にふさわしいです」
「会社では僕達のような高学歴のエリートに目の色を変える、慎みのない女性が多くてね。社内恋愛をする気にもなれなかったのですよ」
こんな話ばかり口にする男を、美月は冷めた目で見ていた。
(最悪……。やっぱりお見合いなんてやめておけばよかった……)
会社にほど近い場所にあるこの有名ホテルのラウンジは、開放感のある造りと雰囲気の良さが売り物だったが、そんなものは何の慰めにもならなかった。
お見合い相手の彼は自分の学歴や仕事の自慢をするばかり。しかも事務職の女性を馬鹿にするような物言いをするので、それが癪に障って仕方がない。
(たぶん、女性のことを基本的に馬鹿にしている人なのね……。寺沢課長とは大違いだわ……)
そう思わずにはいられなかった。
(彼はとても有能で仕事にも厳しいけれど、女性を見下したりしない。男性としても上司としても尊敬できる人なのに、どうしてこの人は……)
彼はまだ懸命に自慢話を繰り広げるが、もうその中味など頭の中に入らない。思い浮かべてしまうのは寺沢課長のことばかり……。
その後、このホテルのレストランで一緒に食事をしたけれど、止まない自慢話と女性を見下す発言に呆れてしまい、美月のいらだちは最高潮に達する。
「ここのバーに行きましょう。あなたのお話をもっと聞かせて下さい」
「すみませんが今日はこれで失礼します」
食事の後の誘いもさっさと断り、美月はホテルを飛び出した。
もしかしたら新しい出会いに心がときめくかもしれない。そんな淡い期待をもってお見合いに臨んだけれど、人生そんな甘くはないと思い知ってしまった。
とぼとぼと夜の街をさまよい歩いていると、後悔とむしゃくしゃする気持ちが高じてきてたまらない。
(バカみたい……。変に期待して、おしゃれにも気合いを入れたりして……)
気がつくと、ちょうど会社のビルに近い場所まで来ていた。会社の周辺はオフィス街だけれど、少し裏通りに入れば仕事帰りの客をターゲットにした飲み屋やバーなどが建ち並んでいる。
(こんなやりきれない気分のままアパートに帰ったら、果てしなく落ち込んじゃいそう……。やだな……)
こんなときに一人寂しく部屋にいるのはとても辛い。そう思っていると、以前から気になっていたカクテルバーの看板が目に入る。
小ぶりなビルの一階に入っているそのカクテルバー『ルミエール』は、数ヶ月前にオープンした店だった。女性でもお気軽にどうぞ、という宣伝文句や、店構えの様子から、前からずっと気になっていた。
(よし! ここに入ろう! 今のまま帰ったら、明日までこの気分が尾を引きそうだもん。今日は土曜日だし、会社の人も来ていないよね)
そう意を決して店のドアを開けて中に入った。すると、まだ少し早い時間だからか客はそう多くは入っていなかったのだが……。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中にいた店長らしい男性が声をかける。
すると、カウンター席に座っていた男性客もふと振り返って美月を見た。
(えっっっっ!)
その男性客は……よりによって寺沢課長その人だった。
美月は全身が固まったようになって、しばしその場に立ち尽くした……。
「なるほどね……。確かにそういう偏った考えの男は、君には不満だろうね。君は理不尽なことには納得できない性格だからね……」
寺沢課長は納得したように言った。
美月は、相手の男性を寺沢課長と比べてばかりいたということをうまく隠して、ひととおりのことを話した。
彼からクールな横目でじっと見られて、美月は思わずぽっと頬を赤く染めた。
(そんな…私のことを見てて、よく知っているようなことを言われたら、余計な希望を持っちゃいますよ、課長……。叶わない希望だと思っていても……)
美月はそう思いながら、半分ほど残っていたオレンジ・ブロッサムのショート・グラスにやっと手を伸ばし、口をつけた。
甘く口当たりが良く、ほどよい位のアルコールが喉に染みいってくる。
最初に感じていた緊張感は、彼に事情を話したことで少し和らいでいるようだった。
「君が一人でカクテルバーに入るとは、ちょっと意外だったな。若い女性はグループで店に来るものだと思っていたから」
「あー、課長! それは女性に対する偏見ではないですか? いいじゃないですか、一人でカクテルを飲んでも」
「……それもそうだ。すまなかった」
寺沢課長は、ちょっとおどけたような表情を見せて、ふと微笑んだ。
美月はほろ酔い気分を味わいながら、彼とこんなにもくだけた様子で話せるようになった自分に驚いていた。
(こうして美味しいカクテルを飲んでいるから…かな?)
普段、一緒の仕事をしているときは、ミスをしないか、彼の足を引っ張らないか、と緊張しながら彼の隣にいる事が多かった。
しかもさっきまでは、あまりの気まずさに全身を堅くして緊張するばかりだった。
でも今は、カクテルのアルコールと、彼と秘密を共有できたような嬉しさとが相まってか、だいぶ緊張が和らいでいるようだった。
(嘘みたい……。課長と二人でこんなに楽しい時間を過ごせているなんて……)
心からそう思えてならない。
「覚。もう一杯、何か飲む?」
カウンターの中にいる店長が声を掛けてきた。寺沢課長と同年代だろうか。顎に少しヒゲをはやした、とても親しみのある笑顔を浮かべる男性だった。
「そうだな……。もう一杯、マティーニをもらうよ」
彼も親しげな笑顔を浮かべてそう応えた。
「課長、店長とはお友達なんですか?」
「ああ。彼は大学時代の友人でね。彼がこの店をオーナーに任されてオープンして以来、よく来るようになったんだ」
ここが彼の行きつけの店だったとは。
そのせいだろうか。彼は、美月がオフィスでは普段あまり見ることがなかった、くだけた表情や、笑顔も見せている。
美月はそんな彼を見るたびに、心がくすぐられそうな思いを感じてしまう。時間が過ぎるごとに新しい魅力を感じて、好きだという気持ちが高まっていくようだった。
(行きつけのお店にいるせいだけじゃなくて、私と一緒にお酒を飲んで話しているのも楽しんでくれていれば嬉しいんだけどな………)
美月はまたちらりと彼の顔を横目で見た。
すると彼も横目で美月を見てきた。考えていることが分かってしまったのかと、美月は少し戸惑って目を泳がせた。
「君は……カクテルが好きなのか? 今までこうして一緒に飲む機会がなかったから、よく知らなかったが」
そんな風に聞かれて、嬉しい気分が昂じていく。
「亡くなった父がホテルのバーのバーテンだったんです。だから小さい頃から父が家で練習で作っていた色とりどりのカクテルを見るのが好きでした」
「なるほどね……」
美月は二杯目のカクテルグラスをゆらした。白色でこの店のオリジナルカクテルだという。少し甘めで口当たりがいい。
じっとグラスを見ていたら、小さい頃のことを思い出した。
父がにこやかに笑いながら、軽快にシェイカーを振っている。
グラスに注ぎ込まれるカクテルがどんな色か、どんな風に出てくるのか、美月は楽しみに胸を躍らせながらいつも見守っている。
出来上がって注がれるカクテルは、期待を裏切ることなく、キラキラ輝いていて綺麗な色に彩られていた。
それはとても懐かしい思い出だった……。
「父は私に、大人になったら一緒にカクテルを楽しもうと言っていたんですが…。父は私が大学に入ってすぐに亡くなって、その夢は叶いませんでした」
「そうか。それは残念だったね」
「はい……。でも父が言ってました。カクテルは人の人生のように十人十色。だから人に色々なことを教えてくれたり、助けてくれたりする。ここぞという時に背中を押してくれることもあるんだぞ、って」
「へえ……」
「その父の言葉を覚えていたからか、私、仕事で落ち込んだりむしゃくしゃした時に、カクテルを飲んで気持ちをリセットしてから家に帰ることがあるんです。そうすると嫌な思いが後に引かずに済むような気がして……」
美月はちらりと寺沢課長の顔を見た。
「こんな私……おかしいですか?」
その言葉を聞いて、彼はふと微笑んだ。
「いいや。むしろ、君らしくていいんじゃないか。自分に正直で」
「そ、そうですか? ありがとうございます」
「君がカクテル好きなら、もっと早くこの店に誘っていればよかったね……」
美月は、そんな彼の物言いに、心が弾むのを抑えられなかった。
向けられる親しげな微笑みに、部下への単なる感謝以上の気持ちが込められていると感じてしまう。
「異動してきて以来、いつも一生懸命に仕事のサポートをしてくれてありがとう。ずっと感謝していたよ」
「そっ、そんな。私なんて、いつも課長の足を引っ張っているような気がして……」
「そんなことはないよ。まあちょっと早とちりな所はあるけれどね」
「うっっ」
やはりそう思われていたことを知って、美月は言葉に詰まる。
「でもそんなことは気にしなくていい。いつも助かっているからね。ああ、そうだ」
彼は可笑しそうに笑いながら、手を上げて店長を呼んだ。
「恭一。例のカクテルを、彼女の分も頼むよ」
「了解」
店長の名前なのだろう。彼は親しげに名前を呼んで新たにカクテルをオーダーした。
しばらくして、店長がショートグラスに綺麗なピンク色のカクテルを注いで出してくれた。とても親しみやすい、優しげな笑顔を向けられる。
「これは今度メニューに加える予定の、女性向けのカクテルです。覚にアイディアを出してもらったり、味見もしてもらったのですが、もしよろしければ感想を聞かせてもらえませんか?」
「は、はい!」
出されたカクテルを口に含む。赤ワインをベースにしたフルーティーな味は、さっき飲んだカクテルよりも甘く口当たりが良い、確かに女性向けのカクテルらしい。
アルコール度数はさほど強くないけれど、甘く優しく女性の喉を潤しながら酔わしていく。そんな印象のある、魅力に溢れた味だった。
ちらりと横を見ると、寺沢課長が嬉しそうに微笑んで美月を見つめていた。
ぽっと頬が熱くなる。たぶんこれは今飲んだカクテルだけのせいじゃない。
(このカクテル、今の課長の印象とどこかかぶっちゃうな……。魅力的で、もっと自分を潤して酔わせて欲しい、なんて思っちゃう……)
美月はまたグラスを傾けて残ったカクテルを味わう。
彼と過ごすひとときを少しでも長く味わいたい。そんな思いを込めながら。
「まったく……。カクテルは好きだが酒には弱いとは……。君は本当にバーテンの娘なのか?」
「すみま……せん……。いつもは飲んでも一杯か二杯までにして……いるんですが……。五杯も…飲んじゃいました……。気持ちよくって……」
美月は、ゆらゆらと心地良い揺れを身体で感じながら、呻いていた。彼の呆れたような声が耳に痛い。
寺沢課長と楽しく話をしていたら、ついついカクテルを飲み過ぎてしまった。元々あまり酒に強いほうではない美月は、酔ってフラフラになってしまったのだった。
心配した彼は、店を出ると、タクシーが拾える所まで行くからと言って美月を背負って歩き出したのだった。
夜のネオンがちらちらと目に入る中、夜の街を進んでいく。
その様子を端から見ると、長身な男性の背中にちょこんと女性の身体が乗せられている、そんな感じだろうか。
普段の美月なら、恥ずかしいやら申し訳ないやらで落ち着いて背に収まっていることもできない。そもそも背負われることすら断っている。
でも今はお酒のせいでそんな気持ちは麻痺していたのかもしれない、素直に彼の背に収まっていた。
「ほら。家まで送っていくから、ちゃんと案内するんだぞ」
「は…い……」
美月は呻きながらも、何とか彼の言葉に応えた。
スーツ越しに、彼の体温が美月の肌に伝わってくる。彼の背中はとても温かく居心地がよくてたまらなかった。こんな人肌の暖かさはしばらく忘れていたような気がした。
今だけはこの心地よさを味わっていたい。どさくさ紛れでもいいから……。それが今の正直な気持ちだった。
(彼が他の女の人のものになっても、今だけは…。この背中は私のものだもの……)
そんな切ない思いを抱きながら、背中に右の頬をぴたりとくつけ、美月はそっと目を閉じた。
心地良い揺れと酔いと暖かい体温は、次第に美月の眠気を誘ってきた。彼が歩みを進める度に、睡魔はじわじわと浸食を強めていく。
そんな中で……。
「ちょっと訊いていいか?」
彼のはっきりとした声が聞こえてきた。はっとして意識をつかみ取り、頭を起こす。
「はい……」
「お見合いの返事は……どうするんだ?」
背中越しで、しかも身体がうまく動かせない状態なので、彼がどんな表情で言っているのかわからない。
「どうして…そんなこと……。まあいいです。どうせ断るつもりですから……」
「そうか」
「でも……伯母さんは…、今回だめでもまだいくらでも紹介するからって……意気揚々としてて……。でも……」
一瞬、眠気が強くなってぐらりと頭が揺れ、また彼の背に頬をくつけてしまう。
「こら。寝るな。家がわからなくなるだろう」
少し焦り気味な彼の声が美月の耳に届いてくる。
(だいぶ眠くなってきた……。でももうすぐ彼と離れなくちゃいけない……)
彼ともっと一緒にいたいのに。夢のような時間がもうすぐ終わってしまう。完全に眠り込んでしまったら、それでもう終わり。
そんな焦った思いは、眠りの淵に引きずり込まれそうな美月の心を、懸命に現実に引き留めようとしていた。
そして心の底に秘めていた言葉すら、引き出してしまう。
「私が好きなのはね……。あなたなんですよ。課長…」
美月は頬を彼の背に当てたままで、ごく小さい声で呟いた。
繁華街の喧噪の中、こんなに小さな声では彼の耳には声が届かないだろう。そう思いながらも、口に出さずにはいられなかった。
たとえ彼が聞いてくれていなくてもかまわない。今を逃したら、自分一人の時に言葉をこっそり口にすることすらなくなるだろう。なぜかそう思えてならなかった。
すると、満足して睡魔に抵抗する理由がなくなってきたのか……。眠気が一気に強くなってきた。
美月の意識が段々と遠くなっていく。
「……それなら我慢することもなかったな……」
美月が完全に眠ってしまった様子を背で感じ取った彼は、ふと口に笑いを浮かべながら、ポツリとそう呟いた。
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