微睡む時はキミの中

今野綾

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 湯浅《ゆあさ》真琴《まこと》はワンルームしかない自分の部屋でスーツ姿のまま、いびきをかき始めた男を嫌悪の眼差しで見つめてから、ため息を一つ吐いた。

 一つだけしかないベッドに、堂々と転がって眠る男は、記憶が確かなら一週間ちょっと前に自分から別れを切り出してきたはずなのに、今日ひょっこり真琴のウィークリーマンションに顔を出した。

「終電逃しちゃってさ。泊めて」

 そう言ってずかずか上がり込んで込み、勝手に冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取りだすと、ごくごく一本飲み干した。

 そして、あっという間にベッドに崩れ落ちて大いびきだ。


 ドアを開けなければ良かった。

 鍵なんて開けるべきじゃなかったのに、忘れ物か何かを取りに来たのだと思って、開けてしまった。


 この男は境界線が曖昧で、真琴が築く壁もあっという間に突破するような人だった。


「湯浅さん、真琴って言うんだ? かっこいいね。美人なのに名前までかっこいいと近寄りがたいから……まこちゃんって呼ぶ」


 新入社員研修で、誰とも仲良くなれずに居た真琴にそう話しかけてきたのを今でもはっきり覚えている。

 人好きしそうな笑顔のどこにでもいる普通の男、それが小野寺陽太だった。
 とにかく社交的で、明るいのだけが取り柄みたいな陽太は、真琴がどんなに冷たくあしらおうとグイグイ近づいてきて、最終的に彼氏と言う座に居座った。

 まあ、冷たくあしらったと言うのは真琴以外の人物の思うところで、真琴はそういうつもりは全くなかったのだけど。


 真琴はやや人付き合いと言うものが苦手で、表と裏の顔を使い分けると言うことが出来なかった。

 表面上はうまく付き合っていこうとか、そういううわべ的なことが苦手なので、愛想笑いもできなければ、曖昧な社交辞令の返事を返すこともできない。

「湯浅さん、飲みにいかない?」

「行く理由がないので」

 これがダメなのだと言うことをさすがに最近は学んできたが、それでも「行きたいです! でも今日は都合が悪いので、また是非誘ってください」などと言う返事はできないまま。

「湯浅真琴? ああ、あの美人だか何だか知らないけど、お高く止まってる奴だろ? 俺アイツ嫌い」

 などと言われていることを聞いたこともあるし、

「湯浅さん? 媚びない姿勢立派だよね。私らフツーの女はあんな風に言ったら、直ぐ男性社員に相手にされなくなっちゃうもん」

 と、言われているのも聞いたことがある。

 容姿は関係ないのに、大人びた顔立ちは冷たくて、整った造形は嫌味なんだとか……、そんな事言われたって困る、生まれてきたのがこの顔だったんだもん。


 そんな時、陽太は決まって真琴に笑顔を向けて言った。

「気にすんなって、俺はお前の事わかってるから。な?」


 分かってくれているなんて、理解を示されたことが嬉しくて、そしてグイグイと追い込まれるように付き合いだして、三年。

 酔っぱらって陽太が別れを切り出すまで、真琴は陽太の本心を知らなかった。

「仕事ができるからって見下して」

 そもそも、陽太が年下の社員とやたら仲良くしているから……ホテル街を歩いていく姿を見てしまったから、聞いてみたら、返って来た答えがそれだった。

「いいよ、別れよう。俺、あの子と付き合うわ」

 そう言ったのは陽太だったのに、なぜか今、真琴のベッドで当然のように寝ている。

 もちろん、ただ寝に来たのだろうけど、なぜ私のベッドを明け渡さなければならないのかと言う怒りがふつふつとわいてきていた。


 十一月だ、布団がなければ寒くて眠れないのに。


 このままじゃ、きっと終電を乗り過ごすたびに陽太は当たり前のようにやって来て、泊まっていくだろう。

 そういう男だもの。

 境界線が曖昧な人だから。


 真琴は、ぐっと唇に力を入れてスマホを取り上げ、不動産会社のホームページにアクセスした。


 *****
「まじ、ドタキャンすまん」

 歩《あゆむ》は体の大きい高遠《たかとう》が小さくなって本当に悪そうに謝って来るのを「いいから」と、制する。

 それでも高遠の方は気が済まないらしく「ルームシェアの相手は俺が絶対探して見せるから」と、デニムのパンツからスマホを引っ張りだして、フローリングに正座のまま、そこに熱心に文字を打ち込んでいく。

 歩は白地に赤い細い線が入ったソファーに胡坐を掻いたまま、ため息を吐きながら向かいの壁に掛けてあるテレビに視線を戻した。

「条件は一緒でいいから」

 一所懸命な高遠に言うと、高遠は下を向いたまま頷いたのが分かった。


 本当は今日、この高遠がこの部屋に引っ越してくるはずだった。

 狭いが互いにプライベートな空間を確保できる、2LDK。

 六畳が二部屋に、十一畳のリビングダイニング。

 風呂トイレは別々になっているし、駅からは十分と言う立地だ。

 東京と言うには少し都心から離れているが、それでも電車なら乗り換え一回で済む。

「俺もここ住みたい! 部屋一部屋余ってるんでしょ? ルームシェアしようぜ」

 そう言ったのは遊びに来た高遠だった。

 それもありかと思った歩が承諾したのに、今日になって高遠は引っ越して来られなくなったと言い出した。


「彼女がなんでうちに来ないで男友達選ぶんだってさ……めっちゃ怒られた」

 体はデカいし、ややいかつい顔をしているのに、高遠は彼女に頭が上がらない。

 それは随分前から知っていたし、それならそれで別に構わないのに、高遠は「家賃高いだろ? 俺が一週間以内に相手探してやるからな」と謎の使命感に燃えて、そして今現在スマホで格闘しているところだ。

「歩ってさ、イケメンじゃん? だから嫌なんだと」

 高遠は俯いたまま話し出す。

「は?」

「ああ、別に俺たちがどうにかなるって意味じゃなくて、歩目当ての女が押しかけてきたら、あんた食っちゃうでしょって。
 それに、女連れ込み禁止、彼女もダメって条件が怪しいってさ。
『そんな事言って私を部屋に入れなくして、歩のおこぼれ貰うんでしょ』って怒っててさ」

 歩はテレビに映るスノーボードの大会の様子を眺めて返事を返さなかった。

「あいつだって始めは歩目当てだった癖にな」

「……知らねぇよ」

 歩が面倒臭そうに言うと、そうなんだって。と、言ってから顔を上げた。


「逆に女の方がいいんじゃね? シェアする相手」
 歩が横目で視線を送ると、高遠の真面目な顔に行き当たった。

「なんでだよ」

「女避け」

「要らねぇから、そう言うの」

 マジか。なんて、言いながらまた熱心にスマホを操っていく。


「空いてる部屋、ほら貸す部屋さ、写真撮って載せるよ? 問題ないよな」

 立ち上がった高遠に「良いけど、きれい好きな人にして。俺、きたねぇのやだから」と、歩が言う。

「顔もキレイな方が良いよな」

「男にしろよ。顔とかどうでもいい」


 はいよ。と、高遠の軽すぎる返事を気にしつつ、歩はテレビ画面に意識を戻した。

 ルームシェア事態は寮生活をしていたから、問題ではない。

 寮みたいに、互いに干渉し合わなかったら、家賃も浮くし、悪くないと思っていた。


 ただ、それを高遠に仕切らせるのがやや心配なだけで。


 アイツ、抜けてるからな。

 悪い奴じゃないけど。


 写真を撮りに隣の隣の部屋に行っただけの高遠が、なかなか帰ってこないのが気になって、どうもテレビに集中出来ずにいた。


 暫くして、スマホを弄りながら高遠がリビングに戻ってきた。

 廊下からリビングに入ってすぐは壁になっていて、左側の白壁にスノーボードの板が三枚飾られていた。

 それに高遠ががさっと体をぶつけるから、歩が振り返って睨んだ。

 くっきりした二重の、切れ長な目は明らかに怒っている。


 モデル並のスッキリした顔立ち、顔も小さい。

 高遠は一日でもいいから、歩になって遊び呆けたいと密かに思っていた。

 睨んだ顔は狼みたいだけど、普段は白い狐のようだから。

 とにかく、イケメン。

 身長が170ギリギリしかないのはむしろ完璧じゃなくていい感じ。


「壊すなよな」

「おぉ……でっけぇ目で睨むなよ。惚れちまうだろ」

 睨んだまま眉根が不機嫌に寄って、高遠が慌てて「冗談だよ、歩くん?」と、いかつい顔に可愛い笑顔で言う。

「よし、登録出来たぜ。何ヵ所かの仲介サイトに載せておいた」

 あっそう。歩は興味無さそうにまた顔を戻した。


「面倒なことは俺がやるから、決まったら連絡する」

「ああ」

「じゃ、俺帰るわ」

「じゃあな」

 高遠は帰り際に壁に飾られたスノーボードの板の角度を直して出ていった。


 静寂が戻り、テレビのスイッチを切った歩がソファーに寝転がった。

 十五階建の最上階だから、車のクラクションやエンジン音は然程聞こえない。

 そのまま、ゆっくり目を閉じていく。

 *****

 なかなかこれという物件が見つけられないので、真琴は探し方を変えてみた。

 今流行りのシェアハウスなんてどうだろうか。
 一時的に住むのでも構わない。
 とにかく、この部屋から出ていきたい。

 ルームシェアを希望する人達のサイトに行き着いて、条件を打ち込んで、ふるいにかけていく。

 駅から近い、東京、家賃は十万以下、部屋は共同は嫌だな、一部屋ちゃんと自分のスペースを確保したい。

 今は家具つきの賃貸だから、はっきり言って家財道具が皆無だ。

 冷蔵庫も電子レンジもベッドやテレビに至るまで、備え付けなので、ルームシェアでそう言った物を貸して貰えるなら願ったりかなったり。


 あっ! これいい……。

 真琴は一つの物件に行き着いた。

 六畳の部屋を貸してくれて、リビングダイニングキッチンは共有。

 六畳の個人スペース以外は家具が揃っていて、共有可。

 条件は同性でキレイ好きか。


 家主の性別がそのページには見当たらないが、名前は載っていた。

『北川 歩 23歳』

 家賃は八万でいいらしい。

 真琴はかなりの好条件に、連絡用フォームに書き込みを始める。

 更新日時を見ると、出たばかりの物件だから、まだ空いている可能性があるし、出来れば空いていて欲しいと焦っていた。

 イビキを聞きながら、逸る気持ちで自分の事を書き込んでいく。

 こちらの情報は相手にしか開示されないメール方式。


『湯浅真琴 26歳。
 株式会社アース 開発室、勤続四年。
 キレイ好きです。』

 ここまで書いて手を止める。

 企業は誰でも耳にしたことがあるような有名アパレルで、これだけでアピール度は高いと思うが、書き込みを続ける。

『訳あって家具つき賃貸を出なければなりません。
 そちらも大至急シェアする相手を探しているようなので、こちらも明日にでも部屋を引き払う手続きを開始します。

 家賃は前払いにて、即金可能。
 家具等お借りしますので、始めの月のみ一万円プラスしてお支払致します。』

 読み返して、真琴は我ながら必死だと思って眉を潜めた。


 でも、通勤時間は今より掛かるけれど、駅から近いのが良い。

 一度だけ降りたことのあるこの書かれている最寄り駅は、住宅街にあるので駅前にスーパーやドラッグストアーがあるし、明るい雰囲気だったはずだ。

 たまに見掛ける如何わしいお店ばかりが並ぶような駅とは違って、ファミリー層を意識して、健全な佇まいだった。


 残業してから帰るとき、駅が近いのは嬉しい。

 それが不安を感じないような安心できる道程ならば、ホッとする。

 送って直ぐに返事が来て、あまりの早さにスマホを持ったまま猫のようにビクッと身をこわばらせた。


 スマホをタッチして返事を確認。

『明日の夜八時に部屋に来て下さい。
 身分証(会社の身分証と、免許証等の顔写真入りのものを最低二つ)持参の上、顔合わせでどうでしょうか?
 お金は基本振り込みなので、明日は用意しなくて結構です』

 書いてある内容を確認し、明日の仕事の事を頭で思い描いてから返答する。


『身分証明書ですね。
 持参いたします。
 申し訳ありませんが、そちらも身分証明書を見せていただけますでしょうか。
 明日の午後八時ですね。
 覗わせていただきます』


 あまりにスムーズに事が進みすぎて少々拍子抜けするが、ルームシェアなんてこんなものなのかもしれないし……。

 とにかく、陽太が当たり前のように部屋に来て、ホテル代わりに使うことが我慢ならない。

 がむしゃらに仕事だけをこなしてきたから、この部屋は眠るだけだったし思い入れはない。


 真琴はさっそく引っ越し業者の選別に入る。

 独り身だし家具がないのだから、一番小さな引っ越しパックでよさそうで、そうなると案外すぐに手配できそうなのが分かり次は……と引っ越しに向けて用意を進めていった。

 指先が冷たくて、時々指に息を吹きかける。

 どうせ今夜は眠れそうもない。

 エアコンがフル稼働してひっきりなしにウィングを揺らしている。


 *****

 真琴は六本木ヒルズを出て電車に飛び乗った。

 約束の時間には間に合うはず。

 電車が混んでいるのはいつものことだし、乗り換えてしまうと混雑は少し解消されて座ることが出来た。

 温かすぎる車内から窓の外へと視線を向ける。

 馴染みのない街の風景、夜の闇に浮かぶ家々の明かり。

 それらがすいすいと通り過ぎていく。


 これからもしかすると、この風景を毎日見るのかもしれない。

 陽太も景色も、なんて潔く去っていくのだろう。


 左腕にした腕時計をスーツのジャケットをめくって確認した。


 この時間なら、駅前で何か手土産を購入できる。

 でも、それはやりすぎ?

 媚びているみたい?

 部屋にあげて貰うかもしれないのだから、それくらいは当たり前?

 悩みあぐねて、軽く束ねた髪を解き開放した。

 座ったまま髪を少し弄っていたら、向かいの男性と目があってしまい、少しだけ気まずい。

 襟足をさすりながら視線のやり場に困って、視線を外したら、目があったビジネスマンが舌打ちをしたのが聞こえた気がした。


 私が悪いの?

 真琴はため息交じりの深呼吸。

 はにかんで見せるとか出来れば少し違うのかもしれないけど。


 真琴は気が利かないことは重々承知しているから、やはり手土産は持参しようと決めた。

 用意しておいて、断られるならそれはそれでいいし、用意してなくて気の利かない奴だと思われるよりいい。

 そんな風に思われても構わないと入社したての自分だったら思っていただろうけど、今は少し違う。

 無用な争いや、無駄な悪意は抱かれないほうが話は進めやすい。

 それでも、やっと気づかいは人並みになったと言えるのかどうか自分でも自信はないのだけど。


 スマホで、今から降りる駅の周辺にあるお菓子屋さんを検索しだす。

 駅に中に洋菓子屋さんが入っているのを見つけた。

 名前も知れた洋菓子屋さんでこの店で買っていくことにした。


 女の子なら甘いものがいいのかな?

 焼き菓子なら持つから、マドレーヌとかそう言ったものを買っていこう。


 揺られること三十分、乗り換えも含めれば四十分で会社から着くことになる。

 通勤時間が短いとは言えないけれど、駅の近くで利便性も良さそうだから、悪くない。

 少し行けば点在する小さな林なんかがあることも知っている。

 マンションやアパートばかりではなく、半分以上が一軒家だ。


 降り立つ客たちに混ざり駅のホームに出て、すぐ横の階段を上がって行く。

 時間帯を考えても、程よい人の流れだ。

 押し合うほどいないけれど、閑散としているのは好きじゃない。

 終電で帰ってきても、全く人がいないと言うことはないだろうと思うと、そういうこともプラスに感じる。


 高いヒール付きのグレージュパンプスで階段を上っていくと、改札を抜けて、直ぐに駅ビルがある。

 もちろん明るく、買い物客の姿もある。

 うん、悪くない。


 スマホでここの一階にマドレーヌが売っていると書いてあったから、駅ビルに入ってすぐのところにあったエスカレーターに乗った。 


 目当てのマドレーヌを購入して、スマホの地図アプリを確かめながら、書いてあった住所に向けて歩いていく。

 記憶していた通り、ドラックストアー、美容室、ネイルサロン、カフェや洋食屋などの店が立ち並んでいて、とても雰囲気がいい。

 匂いも洋食屋さんからだろうか、デミグラスソースの香りが漂っているし、繁華街によくある生ゴミがすえた臭いもしない。

 街灯も途絶えることなく続いているし、歩いている人は多い。

 そして十分と書いてあったが五分とちょっとで目印のコンビニの横にそのマンションを見つけた。

 夜なので合っているかどうかわからないが濃いグレーの鉄筋コンクリート造りで、スタイリッシュな印象だ。


 がさがさと小さな紙袋を持ち換えて、再びスマホを確認し、部屋番号を呟く。

 やや緊張しながら、真琴は顎を引いて、風を切ってその建物の入り口へと入って行った。

 小さなエレベーターに乗り込むと、十五階のボタンを押した。

 するすると音もなく上がって行くそれは、指定された階につくとウィンと小さく鳴いて止まった。

 そして開かれた扉から通路に出た。

 冷えた空気がスッと体を包んで去っていく。

 首を縮めて番号だけ入った表札を見ながら進んで行った。

 コツコツとヒールがアスファルトを叩く音。


 真琴はすんなりいきますようにと祈りつつ、この幸運を掴めますようにと願っていた。

 そして部屋番号の前に立つと、誰も居ないことをいいことに大きく息を吸い込んで、吐き出した。

 白い息がふわっと出たがそれはすぐに消えた。


 腕時計を覗いて、約束の十分前であることを確認し、人差し指を突き出してインターホンを押す。

 扉の向こうで小さく音楽が鳴ったのと聞いて、シャキッと立ちなおして先ほど持ち上げたスーツの袖を撫でて直してみたりする。


 ここがダメでも他を探せばいい。

 でも、ここはとても条件的にあっている。

 だから、お願い。


 祈りながら、玄関のドアが開くのを待った。

 ガチャっと鍵が開いたのを耳にし、ちょっと俯いていた顔をくいっと持ち上げた。


「誰?」

 そう言いながら扉から顔を出したのは、意外にも若い男で真琴は言葉が一瞬出てこない。

 それでもすぐに我に返り「えっと、こちらは北川歩《きたがわあゆみ》さんの部屋ではなかったですか?」と問い返す。

 その男は整った無表情な顔をそのままに「歩《あゆむ》だけど。北川あゆむ」と言う。


 これは……もしかして……

 真琴は言葉を失った。


「あんた、もしかして湯浅真琴?」

「あ、そうです。同性がいいって書いてあったのは分かっていますが、てっきり名前を見て女性だとばかり」


 男はやや不満げな顔をしてから、身体を引いて「とりあえず入って」と真琴に入るように促した。

 真琴はその若い男の風貌を見て、そこに入ることに躊躇した。

 髪は金髪みたいな色だし、耳にはリングのピアスをしている。

 機嫌もよくなさそうだけれど、そこは変に愛想がいいよりはいいか……。


「寒いからさ、入って。マジで」

 歩がもう一度言うので、真琴は頷いて中へと入って行った。



 若い見ず知らずの男性の家に入っていくのは不安だった。

 でも、あまりに相手が自分に興味なさそうにするから、大丈夫かもしれないとパンプスを脱いで家に上がった。

「失礼します」

 一応礼儀として口にした真琴に歩が振り返って、こっちにと一声かけて、さらに廊下を進んでその先にあるドアを開ける。


 温かい空気に迎い入れられるようにリビングに入って行った。

 さすが広いと書いてあっただけあって、入ってすぐの壁の向こう側にはキッチンカウンターがあり、さらにちょっと進むと右側にはソファーセットが置いてあり、それでも全体的に余裕を感じられた。


「あー、カウンター座って」

 カウンターの向こうには普通の椅子にしては背が高いスツール。

 座るところは木製、支柱は黒の金属でできている。


 言われたまま、とにかく足元にバッグと紙袋を置いて、真琴は座る。

「マコトって男だと思ってた」

 カウンターに入った歩が腕を組んで、真琴を上から下へと品定めしてから言う。

「俺、偏見とかないけど、あんた正真正銘の女でしょ?」


 真琴はちょっと面食らって「女です」と答えると、歩は人差し指を揺らして「ルームシェアのやり取り見せて」と指示するから、真琴はスーツのポケットに入れておいたスマホを取り出した。

 スマホを取り出しながら「このメールの人ってあなたじゃないの?」と聞いてみると「友達」短く答えてスマホを受け取った。

 歩は出された画面を黙って見つめると、指で操作しながら確認していき、それをすぐに真琴に返す。


「あんたさ、なんで性別書いてないのに確認しないんだよ」

「だって名前を見たら女の子だと思って」

 本当は真琴にだって迷いはあった。

 曖昧な名前だし、女の子じゃない可能性は頭の片隅で考えなくもなかった。

 でも、そんな脳内の警告より、あまりの条件の良さに、ついつい警告を無視してしまったと言うのが実情だった。


「まあ、あんただけを責めるのは違うけど。高遠のアホが一番悪い」

 歩が真琴だけを責めなかったのは少しだけ救われた気持ちになった。


「とりあえず、身分証明見せて。二種類持って来てるんだろ?」

「あなたのも見たい」

「ああ……」

 歩は素足のままペタペタとフローリングを歩いて違う部屋へと行ってしまった。


 それにしても、家主が若いくせに調度品が豪華。

 親と一緒に住んでいたとかいう感じなのかな。


 座ったまま斜め後ろを見ると、コーヒーメーカーが置いてある棚があるし、それはカフェで見るような本格的なものだった。


 それより、身分証明書を見せ合う意味ってある?

 私が女であるか確認したい?

 そりゃ、女にしてはちょっと背が高いけど……


 かちゃっと扉があいた音がして、再び歩が戻って来た。

 そして、持っていた免許証をカウンターの上へ置く。


 ちゃんと名前も記されているし、顔写真も載っていた。

 それに、まだ二十三歳。

 若そうだと思ったけど、思ったよりは……まだいいかな。


「そっちのも」

 歩の出した免許証に気がとられて止まっていた手を慌てて動かして、バックを漁り、約束通り社員証と、ペーパードライバーだからこんな時にしか役に立たない免許証をそろえて並べた。

 歩は手に取って両方を確認すると、それらをカウンターに戻した。


「で? あんた、どうしたい? 俺は男だし、あんたは女。俺はルールさえしっかり守ってくれたらいいけど」

「ルール?」

 あっさり断られるかと思っていただけに、嬉しい。

 嬉しいけど、ルール?

「綺麗好きではあるけど」

 真琴が言うと「それは、最低限の条件」と、冷めた口調で言い返された。


「男は連れ込まないとか、そう言うこと」

「男なんていません」

 陽太の寝顔が浮かんで、即刻却下するかのように否定すると、歩は冷静に「別にどっちでもいいし」と言い放つ。


「とにかく、人を連れ込まない。友人だろうがなんだろうが、自分ちで気を使うとかイヤだから。あんただってヤだろ?」


 確かに。

 くつろぎたいのに知らない人がいたら嫌だと思い、ぎこちなく頷いた。

 頷いた真琴を見つめて「そう言う生活する上でのルール」と歩は言う。


 真琴はふと思い立ってバッグを漁り、スケジュール帳を出した。

「メモるから、言って。妥協できないルールがあったら困るし、忘れて嫌な思いをするのも嫌だから」

「住人以外は立ち入り禁止。互いに干渉しない。光熱費は俺が持つし、家主なんだから、主導権は俺」

 ボールペンで書き込んでいた手を止めた。

「きっちり折半でいい。だから、私も対等にして」

「ムリ」

「ズルい、どうして?」

 年下の癖に偉そうな歩に不満げな顔で言うと、歩も不機嫌な表情になった。


「あんたさ、金を払えば何でも対等な訳じゃないんだよ。それに、対等対等とか言ってるとまとまる話もまとまらなかったりする。だから、パワーバランスはある程度は決めるべき」

「私が女だからって……」

「は? 女を出すなよ。んなこと言ってねぇし。あんたが男でも俺はおんなじことを言うから。嫌なら他当たんなよ」

 グッと言葉に詰まると、歩が未だ並べて置いてある社員証を見下ろした。


「あんた、仕事できんだろ? なら、わかるだろ。全員横並びじゃ、何にも決まらねぇんだよ。最終的な判断を下す人間がいなけりゃ、まともに回らねぇだろ」


 年下で、チャラい癖に弁が立つ。

 チラッと歩のピアスを見たら、気がつかれたらしい。


「見た目で判断すんなよな。年齢も関係ない。俺はあんたが美人だろうがエリートキャリアウーマンだろうが、気にしねぇから」

 ちょっと癪に障るが、言っている事は正しい。


「あんたを見つけ出した高遠って男が、ここに住みたいって話から変な流れでルームシェアすることになっただけで、俺は別にどっちでも構わない。ルームシェアするならお互いに干渉しない、何か決めなきゃいけなくなって、話が平行線になったら俺の意見を採用」

 挑むような視線は無駄に整った容姿でされると、やたら絵になるなんて、めったにないことだけど思考がよく分からない方向に流れた。

 それくらい歩はイケメンで、冷たく尖った目をしている。


「わかった……わかりました」

「あ、そう。んじゃ、部屋見せる」


 真琴はあっさりした歩の態度に、なぜか自分の姿が重なった。

 ちょっと似ている?

 ぶっきらぼうだけど根に持たなそうなのも、愛想良くしないところなんかも。


 確かにちょっとイラッとするな、この感じ。

 なるほど。

 会社の人達も、私にこんな風に感じているのかも。


 なんて思いながら、イスから下りて、既に動き始めた歩の背に着いていく。
 *****
 真琴は仕事をしながら昨日のことを思い返していた。

 六畳しかない部屋ではあるが、大きなクローゼットや窓もあって部屋は申し分なく、ベッドを購入すればすぐに生活できそうだった。

 持参した手土産は……いらないとすげなく断られて、でも買ったのだからとやや無理やり手渡したら、渋い顔をして受け取ってくれた歩を思い出していた。

 建前とか、社交辞令がよくわからない真琴にとって、前ならそうですかと持って帰ったところだけど、世の中はそうじゃないことを知って、強引に置いて来たというのが真相なのだが……それが正解なのか分らなくてモヤモヤしていた。


 昨日の感じだと、歩は真琴に全く興味がなさそうだった。

 ある意味……珍しい。

 男は基本、真琴に興味を示して、そのあと大抵嫌うのに。


「湯浅さん、会議」

 通りすがりに声を掛けていった男性社員に「今行きます」と返事をしたが、もうその人は去っていた。


 一緒に組みだしたときは結構親切だったのに、何回か食事の誘いを断ったら、態度は一変した。

 やりにくくて仕方ない。

 ま、必要なことはちゃんと話してくれるし、仕事に支障がないからいいのだけど。


 斜めに流した前髪を手で整えながら席を立つ。

 もうすぐ大事なプレゼンがある。

 こんなところで仲間割れしている場合じゃない。


 早めにベッドを注文し、引っ越しの業者も雇おう。

 やれることはとにかく片付けてしまいたい。

 そう言う質《たち》だから。


 オフィスの通路に出ると抱えた資料を持ち替えながら考える。


 今夜中に引っ越しの業者、ベッドの注文、帰りに不動産会社がやっている時間なら寄って解約手続き。

 忙しくしていれば、陽太の理不尽な態度も、歩の尊大さも気にならなくなる。

 それに、やるべきことをこなすのは好き。


 すれ違う同じ部署の女の子、互いに小さく会釈。

 真琴には話しかけてくることはほぼない。

 例えば、休憩所で飲み物片手に他のメンツと真琴の悪口で盛り上がっても、実際に話しかけてくるような勇者は居なかった。


 それでも、いい。

 そんな風に思ってきた。

 陽太も居たし、仕事をしに来ているのだから……と。


『仕事が出来るからって見下して』陽太がこぼした本音。

 見下しているつもりなんてないのに。

 でも、みんな似たり寄ったり、そんなふうに思っているのだろうと思うとキリリと胃が痛む。

 一生懸命、自分がやれる最大限の事をしてきたと言う自負がある。

 ただ、周りを蹴落としたことはなくても、気遣ったことはなかったかもしれない。


 真琴はマスカラでくいっと上がった睫毛を下ろす。

 気遣いってどうしたらいいのだろう。

 そう思うとまたキリキリ胃が痛んだ。

 *****
 歩は送られてきたラインに目を通して、それを閉じた。

 土曜日に引っ越してきたいと言っている。

 それは構わない。

 ただ、自分に腹を立てていた。

 女と同居なんて面倒くさい。

 見せられた高遠のメールのやり取りを見て、少し同情してしまったのだ。


 スマホをポケットにしまうと、オーダーを受けた酒を作っていく。

 薄暗いバーの厨房で、ドライジンとオレンジジュースでオレンジブロッサムを作り、その次にカンパリソーダを作る。

 グラスの底を綺麗に布巾で拭って、オレンジ色のカクテルと赤いカクテルをトレーに乗せた。


 断ったのに無理矢理洋菓子を置いていかれた。

 自分の意見を通すことに慣れていそうで、正直げんなりした。

 対等に居たいと主張していたし、この先が思いやられる。


 足首近くまであるカフェエプロン姿でカウンター席とテーブル席が二セットあるだけのフロアに出た。

 壁は煉瓦造り、流れるのはジャズ、出すのは具材をしっかり店で作ったらタコスやポテトと言った具合で、食事を兼ねてゆっくり飲みたいという人が多く来る。

 自ずと客層は二十代半ば以上といった感じだ。


 すいすい歩いて客のもとへ行き「お待たせしました」と持ってきたカクテルを置いた。

 空のグラスをトレーに載せ引き上げようとカウンター横を通りがかると、店長の鈴木に呼び止められた。

 四十代にしては若く見える、蓄えられたあごひげもオールバックの髪も、肌まで黒い男で、同性からしても渋くていい声の持ち主だ。


「さっきのあれ、女性客に会計時に渡したら喜ばれたぞ。有名なマドレーヌだってさ」

「そう……」

「いいのか? 配っちまって」

 歩は肩を上げ、構わないというリアクションをして、厨房に戻ろうとした。

「彼女にあげりゃあいいのに。なんだっけ、あの子」

 鈴木の話に乗るつもりのない歩はそれを無視して厨房に入ろうとするから、鈴木が慌てる。


「待て待て、カウンターにタコスを二人前。あと生ハムのサラダにピクルス」

「ピクルスの種類は?」

「パプリカ」

「はいよ」


 歩は今度こそ厨房に消えた。

 鈴木は困ったように首の後ろを擦りながら、カウンターに座る客のもとに戻る。

 すると、スーツ姿の女が二人で待ち構えていたように鈴木に話しかける。


「なんで、あのイケメン表に出さないの?」

「愛想ないからね。俺みたいにニコニコ出来ない」

 すると二人はクスクス笑って「愛想なくてもいいじゃない、顔がよければ」なんて言う。


 鈴木は、俺の価値が下がるだろとは口にしないで、そう? とにこやかに答えた。

 クスクス笑っていた二人連れの片方が、でも……と、首を傾げる。


「なんか、どこかでみたような気がするなぁ」

 手元にあったグラスを磨き始めていた鈴木が、グラスの水滴を見つけながら「どこかって?」と、問うとその客は、うーんと唸る。

「そうやって、繋がり持とうとしてる?」

 と、唸っていた女より年嵩のいった連れの客に茶化されて、その女は「違いますよ!」と慌てて突っ込んだ。

 鈴木も微かに笑って「みんな言うんだよ。『さっきの人見たことあるぅ、もう一度見て確認したいから呼んで?』って」と、あたかも逆ナンだと決めつけて言うと、その客は「違いますから! 本当に見た気がしたの」と、薄暗い照明でも分かるほど頬が染まる。

「照れてる! 可愛いとこ、あるね」

 なんて突っ込まれて、小さく拗ねて言った相手の手を叩いたりしていた。


 鈴木はグラスをキュッキュと鳴らして拭き上げ、置いた。

「まぁ、通ってきてよ。アイツほとんど入ってるし。色々頼んでくれたら近づけるかもよ」

 しれっと言うと「商売上手だなぁ。みんなに言ってるでしょ? マスター」なんて返されるから、まあねと呟いてまた笑う。

 *****

 引っ越しの土曜日は肌寒い曇天だった。

 スキニーデニムにハラコのローヒールパンプスを合わせたオフスタイルで、真琴は電車に乗り込んだ。

 引っ越し業者に荷物を託し、部屋のチェックを管理会社にしてもらい、鍵を返すと、その足で歩のマンションへと向かう。


 休日の電車は平日よりゆとりがあって、なんだかのんびりした空気が流れている。

 家族連れ、カップル、友人同士、それぞれが平日とは違う顔をしているから、きっと和やかなのだろうと思ったりした。


 これから毎日使う予定の駅を降りると、お昼時だったので一人でオムライスを駅ビルで食べた。

 そしてついでに、駅地下にあるデリカに寄って、夕飯のあれこれも購入した。

 何人分かと聞かれた時に歩の顔が浮かんだが、それこそ要らぬお世話だろうと思い直し、二人前と答えた。

 夜と翌日の朝分で、一人で二人前。

 真琴はいつもそう言う買い方をする。

 次にパン屋にも足を運んで、食パンを買い込んだ。

 買った袋を下げて、数日ぶりに歩の元へ。


 連絡事項はラインでやり取りするが、本当に必要な事だけ。

 はっきり言って、さっきのデリカの店員との方が話しているくらいだ。


 不安は感じつつ、でも新しい生活には少しだけワクワクする。

 今日も駅を出るとデミグラスソースの香りが漂ってきて、失敗したと思う。

 どうせなら、この匂いの元の洋食屋に入れば良かった。

 でも、もし居つくことが出来れば、いつでもチャンスがあると気を取り直して、表通りから一本入った路地にあるその洋食屋を見ながら歩いていった。


 ショートコートの襟を立て、スヌードを巻き付けた状態でもまだ寒い。

 良い香りを運んでくる風は冷たくて、太陽の光が恋しかった。


 スタスタと歩いていくと、やはり五分程で歩のマンションについた。

 曇天でも黒光りするマンションに入っていく。


 雨が降っても駅から近いし、六本木の駅についてしまえば地上に出なくていい。

 雨の日の濡れたパンプスは最悪だし、泥はねしてしまったらストッキングを履き替えなければならなかった。

 そう言う事からも解放されると思うと、曇天でも鼻唄が出そうなほど気持ちが上がる。


 するするエレベーターで上がると直ぐに十五階へ。

 がさがさと袋を鳴らしながら歩いていく。

 そして、部屋の前に立ってインターホンを押す。

 前回も聞いたメロディーが扉越しに漏れ聞こえて、それに耳を傾けて待つ。

 直ぐにカチャリと鍵があき、扉が開いた。

「えっと、今日からお世話になります」

 真琴が頭を下げると「後で銀行口座伝えるから」と、歩は本当にすげなく返す。

 もう少し何かないの! と言いたいところだけど、真琴は社会人生活で少し礼儀を身につけただけで、大差がない気がしたので「よろしく」と、短く言って終わらせた。


 歩の視線は沢山あるデリカの袋に注がれた。

 そして、真琴を見る。

「俺の分とか要らないから」

「買ってません」

「あっそう。キッチンは自由に。冷蔵庫は右半分が俺」

 互いに何と言うかトゲがあるような言い方で、先が思いやられる。


 ついでに、と言いながら入って直ぐの所の扉を開く。

 いわゆる靴箱、しかもすでに靴は右半分に寄っている。

「ここも、私は左側ね」

「そう」

 ティンバーランドのブーツ、ナイキのシューズ、とにかくカジュアルな靴ばかり。

 スーツとか着ないんだろうなぁと思い、この髪色このピアス、着るわけないと自らの考えを肯定する。


 木製の扉を閉めた歩がリビングに向けて歩き始めたので、真琴も靴を脱いで後を追った。

 つるんとしたフローリングの床に、今日も歩は裸足のままだ。


「足、寒くない?」

 見ている方が寒いんだけど……真琴は歩の背中に問う。

「寒くないから裸足なんで」

 聞かなきゃ良かったと後悔するような返事しか来ない。

「掃除は機械でやってるから、不要。まぁ、水回りは使ったら各自掃除で」

「わかった」

「ゴミは一週間交代で」

「はい」

 歩は矢継ぎ早に言うから、覚えておけるか不安に感じながら、着いていく。


 リビングダイニングキッチンだから、入り口は一つ。

 入って左側にあるキッチンにはいると、歩はカウンターの一つについている取っ手を引く。

「食洗機。洗剤はこれ。洗い物溜められる嫌だから、少量でも回して」

「エコじゃない」

「じゃあ、少量の時は手洗いでやれば?」

「そうする」

 互いに不機嫌な顔つきでカウンターを出る。


「食器類も好きに」

「お気に入りマグとかは自分の使いたい」

 真琴が主張すると、うんざりしたようなため息を漏らし、カウンターの上の棚を開けて「ここずらして自分でスペース作れよ」と、投げやりだ。

「ため息はひどい」

「あるもの使えばいいだろ。めんどくせー」

「あなただって、私の食器使いたくないでしょ?」

「使わねぇな、確かに」


 なんか、こうイラッとする。

 不親切じゃないけど、親切とは言い難い。


「あっちのコーヒーの類いも好きに飲んでいいから。エアコンとかテレビとか、俺がいなくても使えばいい。『自分のをわざわざ使いたいなら』付け替えて」

「つかわさせて頂きます」

 わざと嫌味を言ってくるから、ツンと顔をあげて言い返した。

「お好きに?」


 興味なさそうに言って、ジャージ生地のしかしファスナーのやたらついた、きっと有名メーカーのズボンのポケットを歩はまさぐる。

 そして、キーを取り出すと真琴に突き出す。

「無くしたら報告」

「もちろん、するわよ」

「真琴は抜けてそうだから、首にでもつけとけば?」


 歩のそれに面食らって動きが止まった。

 抜けてそうだからとか、首につけろと言うことにではなく、名前で呼ばれたことにだ。


「なに?」

 余りに驚いている真琴に、歩が怪訝そうな顔をして見せた。

「……だって、あなたと私はまだ会ったの二回目でしょ?」

「だから?」

「真琴って……」


 歩はまばたきを一つだけして「湯浅」と言った。

「いいわよ、真琴で……」

 急に名字で呼ばれても、後の祭りと言うか、今さらな感じがしてモゴモゴと言った。

「なら、いちいち引っ掛かるなよ」

 歩は眉間にくっきり皺を寄せて言った。


 真琴は心の隅で、そもそも人付き合いが苦手なのに、ルームシェアに申し込むなんて無謀だったのではないかと、不安を抱き始めていた。

 上手く行くのだろうか……暗澹《あんたん》たる気持ちのまま、渡された鍵を握りしめた。


 引っ越し業者は予定通り午後五時に荷物を届けにやって来た。

 テーブル、服、少しばかりの食器類、布団など、家具がないので直ぐに引き上げていった。


 チラッと顔を出した歩が「畳生活だったわけ?」と、ベッドが無いことに気づいて言った。

「ベッドも備え付けのを使ってたの。明日届く予定」

「ふーん、俺そろそろ出掛けるから、あんたソファーで寝たらいい」

「あんたよりまだ真琴がいい」

 歩はいちいちうるせぇとボソッと言って、自分の部屋に引き返そうとする。


「ああ、あの……ありがとう」

 真琴が慌てて礼を言うと、顔だけ振り返って「どういたしまして」と冷たく言って部屋に入っていった。


 ちょっと失敗したな。

 せっかく気遣ってくれたのに、あのタイミングでならお礼だけの方が良かったはず。

 呼ばれ方なんてどうでもいいじゃない。

 バカだな、私。


 項垂れながら、真琴も部屋に戻って荷ほどきを開始した。

 カーテンのサイズは前の部屋ので問題なく使える。

 少し背伸びをしながら、白地に黒のユリの花があしらわれたお気に入りのカーテンを吊るしていく。

 陽太はこの柄が真琴らしいと絶賛していた。

 ハッキリしていて、格好いいと。


 ……そのうち、時間を見つけて新しいカーテンを買おうと心に誓った。

   
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