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凍える夜
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始まってしまえば、案外なんてことない。
拍子抜けするほど、ルームシェア生活は順調だった。
理由は一つ。
生活時間が全く違うのだ。
歩は真夜中に家に帰ってくる。
そこからお風呂に入り、食事を作り、真琴が起きてくる時間には自室に入っていることが多い。
多少は生活音が聞こえてはくるけれど、次第に慣れて、歩の立てる音に反応して起きることはなくなった。
夜は真琴と入れ違いで出ていくから、きっと夜の仕事をしているであろうことは想像に容易い。
まさか、ホスト?
それはないか。
あの愛想の無さだもの。
いやでも、あれだけの顔だから……などと勝手に考えたりするけれど、話すこともないし、詮索はしないと言うのがルール、聞くことはないまま。
壁一枚隔てた空間に居るはずの歩。
時々ーーそう休みの日とか、顔を合わせた時に何か話してみたい気持ちはなくはないけれど、なんせ人付き合いが苦手だから、何を話していいのかサッパリ分からない。
仕事はどう? は、ルール違反。
今日は寒いね。は、だから? って返されそう。
本当はちょっとだけ近寄りたい。
だって、私には仕事はどうかと尋ねてくれる人も、今日は寒いねと、他愛もないことを言ってくれる人も居ないから。
デリカテッセンの袋からパックをキッチンのカウンターに出していく。
毎日同じ店では流石に飽きるし、少々気恥ずかしさもあって、駅ビルのデリカテッセン、スーパーのお惣菜、コンビニのお惣菜をローテーションで回していた。
このデリカテッセンはロールキャベツが美味しくて、あとはサラダの種類が豊富なのが良い。
今日はキャベツと桜えびのマリネを選んできた。
袋から出したロールキャベツを一人前深い皿に移し変えると、電子レンジに入れてスイッチをオン。
電子レンジに頑張ってもらっている間に部屋に行って、裏ボアのついたフワフワのルームウェアに着替えてくる。
再びキッチンに戻ろうとしたら、隣の部屋のドアが開き、歩が出てきた。
「あ、居たの」
「俺んちなんで」
「あ……いや、ただ驚いただけで」
責めたように聞こえたのだろうか?
ほんの少し気落ちしていたら、歩きかけていた歩が振り返る。
「わかってるよ。夕飯食うんだろ?」
その『わかってるよ』はなかなかの威力だった。
わかってくれてるのか、良かった。
次は気を付けようと、真琴は頭の中で今の場面をもう一度やり直す。
扉が開くでしょ……そうしたら、ただいま。かな。
二人はどうやら同じ目的地、キッチンへと向かっていた。
狭いながらもコンロは三つあるし、真琴が住んでいたマンスリーマンションの小さなキッチンとは大違い。
なんせあちらはコンロは一つ、冷蔵庫もはめ込み式のホテルなんかにある極小タイプのものだった。
真琴は歩がああ見えて、料理をするタイプだと知っていた。
なんせ、同じ冷蔵庫を使っている。
覗けば意識しなくても"右半分"に食材が入っていたり、たまに鍋ごと入っているのが見えてしまう。
「料理するんだよね? ちょっと待ってて、直ぐ終わらせる」
後ろを歩いていた真琴が言うと「んじゃ、よろしく」と、素直に歩が道を譲って横に避けた。
歩の横を通り抜けて電子レンジから湯気の上がるロールキャベツを取り出し、置場所に困って迷った挙げ句冷蔵庫が定位置になった食パンを取り出す。
そして、箸を出してーーなどと忙しなく準備をしていると、壁に寄り掛かって腕組みで様子を眺めていた歩が一言。
「焦る必要ないから」
「あ、うん」
「あんたさ……真琴は俺に気を使いすぎじゃね?」
「うん……ごめん」
「謝るなよ」
わかっている。
真琴自身も、歩に対して他には見せないような気遣いをしていることを。
原因は一言で言えば陽太。
言われた言葉が真琴の中にじわじわ浸透していき、不安にさせる。
気遣いが出来ないことは自覚している。
でも、あんなに近くに居たのに、陽太に見下していると思われていたなんて……。
何が悪かったのか、思い当たる節がないのが、余計に真琴をへこませる。
変わりたい。
もっと他人の気持ちがわかるようになりたいと、切に思うようになっていた。
「関係ないけどさ」
ある程度準備が終わったのを察して、歩がキッチンに入ってきた。
「うん」
入れ替わりでキッチンを出ながら真琴が返事をした。
「もしかして料理、出来ない?」
歩の一言に真琴の顔は一気に火照った。
料理だけは、本当に何故か出来なくて、人付き合い云々より、恥ずかしいことだと思っていた。
仕事も勉強も、なんでも努力次第でなんとかなるが、料理だけはどうしてか出来ず、真琴の一番触れられて欲しくない点だった。
「ああ、やっぱり。別に赤くなるようなことじゃなくね? 苦手なことだってあるだろ」
歩は大したことではないと言いたげで、真琴は生きてきてひた隠してきた欠点をそんな簡単に片付けられて、なんと返していいか口が無駄にパクパク動いていた。
「昨日作った野菜スープあるけど、真琴も飲む?」
歩は冷蔵庫から鍋を取り出してコンロに置き、温め始めた。
その提案はあまりに意外だった。
冷たいばかりの歩が、急にそんな提案。
「聞いてる?」
「あ、うん。貰っていいなら食べたい」
真琴の返事を聞くと、歩はカウンター上の棚を開けてスープカップを二つ取り出した。
真琴は所有なげにそわそわしてから、やっとカウンターのスツールに腰かけた。
目の前には、ロールキャベツとサラダとパン。
こういう時は……
「ロールキャベツ半分食べる?」
真琴が言うと、歩が良い香りを振り撒いているロールキャベツに視線を投げた。
「一個しかないのに?」
「ああ、じゃあ冷蔵庫にもう一個あるから、それを」
「明日食うんじゃねぇの?」
「明日また違うの買えば良いし」
歩は二人共同の冷蔵庫を開けて、デリカの袋を取り出して、中のパックを出すと電子レンジにセットした。
「どうも」
そう言いながら、温まった野菜たっぷりのスープをよそい、真琴の前に置いた。
「ありがとう……」
「食ってろよ。温かいうちに」
うん。呟いて美味しそうなそれを見下ろしていた。
「作る手間省けた」
歩も真琴の隣のスツールに座って、ロールキャベツをナイフとフォークで切っていく。
真琴は耳を貸しながら野菜スープをスプーンで掬う。
人参、じゃがいも、玉ねぎ、ベーコン、キャベツとわかる範囲だけでも数種類の具材が見える。
それにふうっと一息吹き掛けてから、ゆっくり口に運んだ。
野菜が柔らかく甘くて、ブラックペッパーの辛味と合っていてお店で食べるような物と遜色ない出来だった。
それは美味しくもあり、心底羨ましくもあった。
「美味しいね、身体ポカポカする」
「生姜入れたから」
「そうなの? 感じない」
歩も自分用のスープを引き寄せて口に含み、時間をかけて飲み干して「確かに結構入れたけど感じないな」と感想を言った。
そして、ロールキャベツも口に入れ、やはりしっかり噛んでから飲み込んだ。
「美味しい?」
真琴が不安そうに問うと、歩は大きな目を一瞬楽しそうに細めた。
笑った?
初めて笑った顔見たかも。
「買ってきた物を旨いか聞くなよ、自分が作ったみたいに」
「でもほら、味覚って人それぞれだし」
まあな。と、答えたけれど、歩は美味しいかどうかは言わなかった。
でも、しっかり食べていたし、同じスープを美味しいと感じるのだからと、真琴はやはり静かに食事を進めていく。
「真琴、料理やる気あるなら、やってみたら良い。やらなきゃ出来るようになるわけないし」
食事を終えた歩は食洗機に几帳面に皿を並べていく。
真琴も使ったものを、歩に一枚ずつ手渡して入れてもらっていた。
「何度も挑戦して、最終的に諦めたの。レシピを見てもそれ通りに作れないし……」
真琴の頬がまた染まる。
洗剤を入れて食洗機を閉じた歩が、スイッチを押してから顔を上げた。
「真琴にやる気があるなら、俺が作ってる時に顔出したらいい」
「それって……教えてくれるって事?」
「年下の男に教わるのが嫌じゃなければな」
「やる!」
「食い付きすぎ」
くいっと真琴を見つめた瞳が、瞼に一瞬隠れて再び姿を現した。
「あんた、案外可愛いのな」
捨て台詞を吐いて、風呂入るからと、歩は再び頬に熱を帯びた真琴をキッチンに置いていった。
……可愛い。
そんな事、陽太にも言われたことないのに。
でも、良かった。
ムカつくとか、可愛くないとか、偉そうなとか、陰口で聞き慣れた言葉より、ずっといい。
歩はよく分からないけど、悪い人じゃなさそう。
会社ではついつい自分にも他人にも厳しくなり気味だから、せめて家では……。
*****
再来年に行われるサッカーの国際大会で使われるユニフォームのプレゼン。
前予想を覆され、真琴のチームは競合他社に負けた。
新素材は好評だった、誰もが勝利を疑わなかったのに、まさかの敗退だった。
一年しっかり準備をしてきたのが、水の泡となってしまった。
帰社する道すがら、チームの誰一人、口を開く事がなく、まるで葬式に参列した人達のようだった。
それがまた重苦しく、しかし普段から雑談するタイプじゃない真琴には、メンバーになんと話しかけていいのかも分からない。
真琴にとって、初めてチームリーダーに抜擢された大仕事。
誰よりも責任を感じ、悔しさと無念さで、油断すると涙が滲んでしまいそうで、歯をくいしばって真っ直ぐ前を見据えて歩いていく。
行き交う人達は何故かとても幸せなそうに見えて、それが眩しく、真琴はなぜかやたらと惨めな気持ちになり、意識して何も見ないようにしていた。
肌寒いビル風に煽られる中、メンバー数人を引き連れて、六本木の高層ビルに行きよりも重く感じる資料の紙袋を持って入っていった。
一緒にやってきたメンバーに、フロアにて解散を伝え、真琴だけ会議室で上司に報告事項を伝達し、やっとその最悪な一日は終わろうとしていた。
十五歳程年上の女性上司は渋い顔をしていたが、こう言うものは必ず勝者と敗者が居るものだからと真琴の肩を叩き、労ってくれた。
本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、頭を下げる。
「くよくよしている時間はないのよ。仕事は途切れることなんてないの」
ヘビースモーカーであることで有名なその人は、女性にしてはやや低めの声で真琴を諭す。
「はい」
「次はあなたは来期の冬モデルの宣伝の方に回って貰うわね」
紺色のノーカラースーツを着こなしたその人はスケジュール帳を捲りながら話していく。
「次はリーダーとは行かないけど、プロジェクトの規模としては同等以上。気を引き締めて取り組んでください」
「はい」
返事をした真琴にその人は視線を向けて、老眼鏡であろう眼鏡をスッと外した。
「あなたでも気落ちすることがあるのね」
やや苦笑してそんな事を言うので、真琴は気力を奮い起こして出来る限りシャキッとして見えるように背筋伸ばした。
するとその人はますます苦笑いを浮かべた。
「気落ちするのが当たり前。あなた、ちょっと弱いところ隠しすぎなのよ。時には落ち込んでたっていい。いつもじゃ困るけど、今回は落ち込んで当然でしょ?」
落ち込んで当然と言われるほど期待を掛けられていたプロジェクトだった。
途中までは確かに手応えがあったはずなのに。
考え始めると悔しさから頬が緊張して力む。
「まあ、チームは解散。みんな明日からは銘々違う仕事に打ち込んで貰うから。チームのメンバーには既に明日からの仕事の割り振りはメールしてもらってあるわ」
「わかりました。本当に申し訳ありませんでした」
気持ちが揺れないようにと頑張ったら、やたらと心の入ってない一本調子の謝罪になってしまった。
それでも女性上司は「今夜はお酒でも飲んで寝ちゃいなさい」と言って、話を終えた。
会議室を出るとデスクに戻る前に自動販売機のある、休憩所に寄っていくことにした。
ふと、磨きあげられたガラスから東京の夜景が目に入り、そのまま映り込んだ自分の疲れた顔が見えてきつく目を閉じた。
そして、誰も通路に居ないことを確認すると、両掌で頬をパチンパチンと叩いてみた。
しっかりしないと。
みんな辛いんだから、私が不幸を背負い込んだ顔をしていたらダメだ。
私の力不足が招いた結果なのだから。
自動販売機が二台並んだ喫煙所を兼ねた休憩所。
喫煙者ではない真琴は滅多にここには近寄らなかった。
六畳程のスペースに自動販売機二台、灰皿、長椅子があり、気持ちを和ませる為なのか、観葉植物の鉢も角に置かれている。
黄緑色の葉をつけたそれもさぞ息苦しいだろうと気の毒に思う。
扉を引けば直ぐに煙草特有の香りと、目をシバシバさせる煙さ。
そして、先ほどまで同じチームの部下だった男性が二人で煙草を吸っていた。
間が悪い……。
今日はもう会いたくなかった。
咄嗟に思ったが、このまま出ていく方が不自然なので「お疲れ様です」とだけ言って、背を向け自動販売機で品定めをしようとした。
「いいですね、リーダーだったのに責任も問われず瀬戸さんチームに栄転で」
真琴は顔はそのまま前を向かせ、明らかに攻撃的な言葉に一瞬視線が上向いて、唇を引き結んだ。
「瀬戸さんの元で一から学び直せと言うことでしょ」
良かった、普通に返せて。と、思った矢先、更に畳み掛けるように棘のある言葉が投げられた。
「負けても余裕ですか。湯浅さん以外のメンバーは悔しいと思いますよ?
美人で仕事がある程度出来ると目を引きますもんね、そりゃ次も良いところに……」
「顔の造形がなにか仕事に関係するの? そう言う物言いはあなたにとって不利益にしかならないと思いますけど」
真琴はつい理不尽な責め立てに振り返って、反論する。
そこへ、コンコンと壁板を叩く音がした。
一斉に三人分の視線を浴びて、ガラス越しに瀬戸が覗いて手を振っていた。
縁のない眼鏡をかけた優しげな男、それでいて仕事は恐ろしく出来るのが瀬戸と言う人間だった。
真琴と違い場を和ませるウィットにとんだ会話術、嫌味のない高級スーツに、コロコロ変える眼鏡は女性で言うピアスみたいな感覚なのか。
真琴より二つ年上なだけなのに、力を見込まれ他社から引き抜かれてきた有能な男。
「打ち上げにしちゃ、随分こじんまりだな」
瀬戸は部屋に入るなりそんな事を言って、真琴の横に立ち、勝手に自販機のボタンを押した。
「俺にも奢って、湯浅さん」
「打ち上げじゃありませんから」
「じゃあ、"大好きな瀬戸さん"にコーヒーをプレゼントして」
「大好き……」
戸惑う真琴に、先ほどまで尖った物言いをしていた男性社員が「湯浅さん、瀬戸さん狙いか」と茶化した。
振り返った瀬戸はその人に笑って「バカだな、狙ってんのは俺だ。だから俺が居ないところであんまり苛めるなよ? 慰めて落とすんだからさ」と、おどけてみせた。
真琴が持っていたスマホを指差してから、自販機の電子マネーリーダーにその指を持っていく。
瀬戸は本気でコーヒーをねだっているようだった。
真琴は自動販売機にスマホをかざし、瀬戸がボタンを押したブラックのコーヒーがガシャンと音を上げて落ちた。
瀬戸は嬉しそうに「どうも」と、言って缶を拾い上げる。
真琴も自分用に一応お茶のボタンを押して、それを買った。
「じゃあ、私はこれで」
真琴は飲み物を買うと言う目的を果たして、小さく頭を下げると出ていった。
出ていくと直ぐに先ほどまで真琴を攻撃していた男が立ち上がる。
「瀬戸さん、あんなんがいいんですか? 美人だけが取り柄じゃないですか」
瀬戸は笑って「仕事も出来るだろ」と返す。
ツレの方のもう一人も「きっちりし過ぎていて、ちょっとやりにくいですよ」と、隣の男に同調した。
瀬戸は買って貰った缶コーヒーを見下ろし、プルタブを立てる。
「仕事は仕事」
「慰めて落とすんじゃないんですか?」
すかさず入ったツッコミに目尻に柔らかいシワを寄せて、それはそれ。と、瀬戸は笑った。
*****
家に帰りついて、あっと自分の手元を見た。
夕飯をすっかり失念してして、何も買わずに家に来てしまった。
このマンションを出れば直ぐ隣にコンビニがある。
真琴を自分の足元を見下ろして、パンツスーツから覗く白のパンプスを見つめた。
パンプスを履いて歩きたくない。
人と会いたくない、機械的に話すコンビニの店員とすら会話をしたくない。
ノロノロと片方ずつパンプスを脱ぐと、置いてあった自分用のスリッパを履かずにそのまま廊下を突き進む。
足取りは重く、頭の中はプレゼンでのやりとり、休憩所で言われた言葉、尖った視線、プレゼンで戦った相手チームの和やかな笑顔……。
精一杯やったつもりだった。
持っていた通勤用の大きなバッグを自分の部屋に放り投げて、真っ直ぐキッチンへと向かった。
誰もいない部屋は灯りが点いておらず、開けっぱなしのカーテンから月明かりが届いていて、それをたよりに冷蔵庫へ。
そして開いてみて、ため息。
食パンの隣に缶チューハイと言うお粗末さ。
料理はしないし、食べる分は必要量だけ買ってくるから、もちろん何にも入っている訳がない。
私みたい。
要領よく生きようと余分なものを排除してきたら、いざとなると何もなくて途方にくれる。
迷ったけれど缶チューハイを手にした。
酔って寝てしまった方が良いと言われたのだし、それがいいと思った。
コートを着たまま缶チューハイ片手にベランダに出た。
部屋も寒いが、ベランダは更に寒い。
薄いストッキング越しから伝わってくる、敷かれたコンクリートの痛いほどの冷たさ。
こんな時、電話をする相手も居ない。
学生時代の数少ない友人は、社会人になった辺りから連絡は途絶えていた。
私だって悔しいのに……。
皆が悔しい事だってわかっているのに。
そんな風に考え出すと鼻の奥がツーンとして、パッと上向いて涙が込み上げてくるのを阻止した。
空気は冷たく、上向いたまま吐いた息で、月がほんの一瞬ぼやけた。
コンクリートの上にある足も、缶を掴んだままの指先も、鼻の先だって寒い。
でも、一番凍えて痛いのは体の内、心だと認めていた。
あんな別れ方をしたのに、陽太の顔が浮かんでしまうほど、寂しくて寒々しい気分だった。
歩は玄関に脱がれているパンプスを見下ろして、いつになく乱れた脱ぎ方をされたそれから視線を上げ、首を伸ばし廊下を見た。
リビングの灯りが点いていないし、真琴の部屋からうっすら漏れる光がないことも気にしながら、靴を脱ぐ。
中に入って廊下を歩きながら、脱衣場からも灯りは漏れ出ていないことを見つつ、リビングの扉を開けた。
灯りを点けようと手を伸ばした時、窓の外でうごめく白い物体が目に留まった。
真琴。
あいつ、寒いのにベランダに居るのか?
酔狂な事だと電気を点けようとして、再び手が止まる。
真琴の肩が揺れている気がした。
そう、まるで泣いているかのように。
歩は灯りを点けないまま、フローリングの床を真っ直ぐ突っ切ってベランダに向かった。
肘を欄干に付けてがくっと項垂れた真琴は何故か素足だった。
いや、ストッキングは履いているのだろうが、ベランダに置いてある外履き用のサンダルは窓際に置かれたまま。
月夜に浮かぶベージュのコート姿の真琴はいつもよりかなり小さく感じる。
スーっと擦れる音を上げながら窓ガラスを歩が開けると、真琴は猫のようにビクッと体を飛び上がらせて、振り返った。
月明かりを背に受けて顔がはっきり見えない。
「あんた、バカなの? くそ寒い中、足」
「あ、うん……」
「酔ってんの?」
缶チューハイを手に持ってるのを見つけて歩が言うと、また真琴が驚いた顔をして、自分の手元を見下ろして「あ……、忘れてた」と、僅かに声を震わせた。
「何やってんだよ」
歩が言うと「別に……月を見ていただけ」と、最後の方は聞き取れないほどか細く答えた。
「……泣きながら?」
「泣いてない」
真琴の顔を歩が顔の角度を変えてまじまじ観察し、最終的に手元の缶に視線が止まる。
手を伸ばし真琴の手からそれを何も言わずに取った。
「中に入りな」
そう言いながら真琴の腕を引いて、自分の胸に引き寄せた。
真琴は意表をつかれ、あっさり歩の胸に顔を埋める形になった。
「ちょ……」
思いの外強い力で引き寄せられて驚き言葉が出なかった。
「ハグ。温かいと落ち着くから」
確かに温かい。
人の温もりは冷えきった体をみるみる温めていく。
歩は温かく、じっとしていると優しい鼓動を感じることができた。
トクントクンと柔らかく包み込む規則正しい囁き。
どんな言葉より、こんな簡単な行為が力をくれるのだと初めて知った。
「泣けば?」
身長がさほど変わらない歩が耳の程近い場所で言う。
確かに、先ほどまでは泣きたかった。
けれど真琴は首を振る。
「ううん、落ち着いた。ハグっていいね」
「そ」
「うん」
歩が最後にぎゅっと力を籠めて抱き締めて、そっと解放した。
「ハグって気持ちが落ち着くから」
歩が一本下がって真琴を見つめる。
「だね、ありがとう」
歩は表情を崩すことなく肩をあげて、身を翻し窓ガラスを閉めた。
「風呂はいれば? 素足でベランダに出るなよ」
真琴は足下を見下ろした。
「脱げば足は汚くないよ」
ストッキングの事を言うと、歩が片方の眉をくいっと上げた。
「俺の前で脱ぐなよな」
二人の目が合う。
「歩くと床が汚れるよ?」
「わかってるならベランダにそのままでるな」
動くなよと言い残して歩はリビングを出ていく。
人肌で包まれただけなのに、驚くべきほど元気を貰った。
一人じゃないなんて、言葉にすると陳腐だけど、そんな風に感じた。
歩が行き掛けにカウンターに置いていった缶チューハイ。
それを見たらぐうっとお腹が鳴った。
現金な体に苦笑しながら、缶チューハイはやめて食パンを食べようと思った。
ちゃんと食べて元気になりたい。
気持ちが前に向く。
歩は程なくして真琴のスリッパを持って戻ってきた。
犬のように"待て"と言われて真琴はその場から動かず待っていて、歩は口元がゆるっと動いた。
笑いを堪えてスリッパを真琴に突き出した。
「ベランダに出るときはサンダルを履く。これはルールだから、メモって」
真琴はスリッパをすんなり受け取ったが、少し間を置いて言う。
「これ履いたらさ、スリッパが汚れるじゃない」
「だから?」
だから……と、繰り返して真琴は言い、諦めたようにスリッパを床に置いて足を入れた。
「今夜はスリッパなしになるなぁ」
真琴が呟けば「自業自得だろ」と、歩がいつも通り素っ気なく返す。
でも、キッチンカウンターに向かいながら「風呂のスイッチ入れておいたから入ってこい」と、決して優しくない言い方で、気遣いを見せてくれるから、真琴はまた体の中がホワッと温かくなった。
「ありがとう」
なんの引っ掛かりもなく礼を言える。
歩が相手なら。
それに、素直になれる。
私たちは単なる同居人。
でも、居心地は良くて、温かい。
歩の態度はあんなに冷たいのにと、真琴は一人密かに笑いながら部屋へとルームウェアを取りに向かった。
キッチンに入りため息を一つ吐いた歩が、缶チューハイを取り上げ冷蔵庫を開けた。
真琴側のスペースは見事に何も入っておらず、唯一食パンの袋だけが片隅によっていた。
冷蔵庫を開けたままキッチンを見渡し、ゴミ箱を確認してから、缶チューハイと食パンを交換した。
どう考えても真琴は夕飯をとっていない。
しかも、食べるとしたらこの食パンのみ。
歩は自分の所から卵と牛乳を出して、冷蔵庫をパタンと閉めた。
ボールを取り出し、そこに卵、牛乳、ちょっと多めの砂糖を入れたらかき混ぜ、真琴の食パンを浸す。
そして、再び冷蔵庫を開けて自分の所に入っている鳥の胸肉、ジャガイモ、人参を出して、手際よく料理を始めた。
やっと温まり出した部屋、キッチンは更にコンロの熱でやや温かい。
それに、バジルの入った塩をかけたチキンの芳ばしい香り。
電子レンジで手早く加熱したジャガイモと人参も、肉と同じフライパンで焼いていく。
合間をぬってちぎったレタスと作りおきのクルトンを混ぜて、ミニトマトを乗せる。
黙々と料理を作っていると遠くでドライヤーの音がし出した。
真琴がそろそろキッチンに来るだろうと見越して、フライパンにバターを落とし、フレンチトーストを焼き始める。
匂いに釣られ真琴は迷うことなく真っ直ぐキッチンに向かった。
家に帰り着いた時にはあんなに鬱《ふさ》いでいたのに、今はお腹が空いて何の匂いなのか気になっている。
お風呂でも、言われた辛辣な言葉を思い出さないわけではなかったけれど、遠くで聞こえる料理の音に耳を傾けると、なぜか落ち着いた。
友達でもなければ、ましてや恋人でもないのにね。
ただの同居人なのに、歩がそこに居るだけで嫌なことを考えずに済む。
別に応援してくれてるわけでもないけど、歩の存在が元気をくれる。
不思議。
「ああ、来たか。あんたのパン、フレンチトーストにしといた」
キッチンに顔を出した真琴に歩がフライパン片手に言って、中身を皿にあけた。
湯気があがる美味しそうなカスタード色のパン。
「え! 私、食べていいの?」
「真琴んだろ。八枚切りの食パン」
「そうだけど……、他に材料いるんでしょ?」
情けないことに、一体何を使えば食パンがフレンチトーストに変化するのか、具体的な事はわからないけれど。
「肉とかサラダも食うなら、皿出して」
材料の話は流されたけど、真琴は嬉しい提案に飛び付いて、さっさと棚から二人分の取り分ける皿をだした。
二人で並んでカウンターのスツールに腰掛ける。
目の前に並んだ料理に真琴は気持ちが踊っていた。
「お金払う」
材料費代を払わなきゃと思って言うと、歩が鶏肉の香味焼きを真琴の皿にポンっと雑に置く。
「いちいち気にしなくていいから。たまに真琴も俺の分の夕飯……は、買ってこなくていいや」
「え、買ってこいって流れじゃない? 今のは」
「夕飯一緒に食うかわかんねぇし、食い物の好みだって合うかわかんねぇだろ」
真琴はフォークで鶏肉を刺し、口に運んでパクっと頬張った。
モグモグ噛んで、ごくりと喉を通すと言う。
美味しい。
ただただ美味しい。
「歩の作ったものは美味しい。味覚近いんじゃない?」
ね? と、隣の歩に笑いかけると「俺の腕がいいだけだろ」と、すげなくかわされた。
フレンチトーストをナイフとフォークで切り分け、口に入れるとやっぱり美味しい。
甘くてしっとり。
「ちなみに俺はフレンチトースト苦手」
せっかく甘くてふわっと柔らかいそれで幸福感を味わっていたのに……。
「苦手なのに作るのね」
「真琴が好きそうだからな」
「なぜ、わかるの?」
「手土産のチョイス。普段買ってるものなんかで」
確かに、甘いものが好きでついついチョコレートプリンとか、エクレアとか、シュークリームを買ってきて冷蔵庫にしまっている。
「んで、なんかあった?」
歩はサラダを取り分けながら唐突に切り出す。
肉を喉に詰まらせそうになった真琴は目を剥いて、無理矢理それを喉の奥へ通した。
「まぁ、会社でね……私、人付き合いって本当にダメだから」
「んなの、仕事が出来れば問題ないだろ」
事も無げに言う歩は何もわかってないと思った。
人望は仕事のスキルのうちだ。
あるとないとでは、大違い。
「あんた仕事頑張ってるじゃん」
「え……」
「よく、仕事の資料あっちにやりっぱになってるから」
あっちとはリビングのソファーセットの事だ。
ホットカーペットが敷かれたそこで、寝るまで仕事に関するあれこれをするお気に入りの場所だった。
広いカフェテーブル、温かいカーペット、高機能なエアコン。
歩は夜に家を空けるから、その場所で遠慮なく過ごしていた。
「ダメだった?」
「なにが」
「あそこで仕事したりすること」
真琴の部屋には足元を温めるものがないから、リビングで仕事をしたいけれど、恐る恐る聞いてみた。
「いや、共有スペースは使っていいって言ったし、構わない。資料なんかも朝片付けて行くから許す」
ちょっと偉そうだけど……でも、良かったと真琴は微笑んで頷いた。
「あんた融通効かなそうだし、抜けてそうだもんな」
そう言って最後に残っていた肉を口に放り込むと、歩はゆっくりとそれを噛んでいく。
「痛いこと言う」
その通り過ぎて、他に言い返す事もできない。
だから、ちょっぴり拗ねて立ち上がり、食器を重ね始めた。
「事実だから」
そう言って歩も立ち上がる。
そして、自分の使った食器を重ねてから真琴の方へ押しやった。
「『歩が作ってくれたから食器くらいは』はい、言ってみ?」
大きな目で真琴の顔を見つめる。
「片付けさせていただきます」
真琴が歩の言葉を継ぐと、歩が一つ揺れるように頷いた。
「言われなくても言えるようになれば尚よし」
「偉そうに」
「偉いんで、俺は。弱った真琴に甘いフレンチトースト作ってやったりな」
「確かに、偉い」
素直に真琴が認めたのを見て、ふっと笑いを漏らして、よろしくなとソファーの方へと歩み出した。
「あ、待って。色々ありがとう……」
真琴が言うと歩が振り返る。
「会社でも、そうやって言えればなんか変わるんじゃね?」
それはアドバイスなのか嫌味なのか。
真琴にはまだわからない。
まだ、歩との関係は始まったばかり。
少しずつ距離が離れていく歩の背中を暫く見つめていた。
拍子抜けするほど、ルームシェア生活は順調だった。
理由は一つ。
生活時間が全く違うのだ。
歩は真夜中に家に帰ってくる。
そこからお風呂に入り、食事を作り、真琴が起きてくる時間には自室に入っていることが多い。
多少は生活音が聞こえてはくるけれど、次第に慣れて、歩の立てる音に反応して起きることはなくなった。
夜は真琴と入れ違いで出ていくから、きっと夜の仕事をしているであろうことは想像に容易い。
まさか、ホスト?
それはないか。
あの愛想の無さだもの。
いやでも、あれだけの顔だから……などと勝手に考えたりするけれど、話すこともないし、詮索はしないと言うのがルール、聞くことはないまま。
壁一枚隔てた空間に居るはずの歩。
時々ーーそう休みの日とか、顔を合わせた時に何か話してみたい気持ちはなくはないけれど、なんせ人付き合いが苦手だから、何を話していいのかサッパリ分からない。
仕事はどう? は、ルール違反。
今日は寒いね。は、だから? って返されそう。
本当はちょっとだけ近寄りたい。
だって、私には仕事はどうかと尋ねてくれる人も、今日は寒いねと、他愛もないことを言ってくれる人も居ないから。
デリカテッセンの袋からパックをキッチンのカウンターに出していく。
毎日同じ店では流石に飽きるし、少々気恥ずかしさもあって、駅ビルのデリカテッセン、スーパーのお惣菜、コンビニのお惣菜をローテーションで回していた。
このデリカテッセンはロールキャベツが美味しくて、あとはサラダの種類が豊富なのが良い。
今日はキャベツと桜えびのマリネを選んできた。
袋から出したロールキャベツを一人前深い皿に移し変えると、電子レンジに入れてスイッチをオン。
電子レンジに頑張ってもらっている間に部屋に行って、裏ボアのついたフワフワのルームウェアに着替えてくる。
再びキッチンに戻ろうとしたら、隣の部屋のドアが開き、歩が出てきた。
「あ、居たの」
「俺んちなんで」
「あ……いや、ただ驚いただけで」
責めたように聞こえたのだろうか?
ほんの少し気落ちしていたら、歩きかけていた歩が振り返る。
「わかってるよ。夕飯食うんだろ?」
その『わかってるよ』はなかなかの威力だった。
わかってくれてるのか、良かった。
次は気を付けようと、真琴は頭の中で今の場面をもう一度やり直す。
扉が開くでしょ……そうしたら、ただいま。かな。
二人はどうやら同じ目的地、キッチンへと向かっていた。
狭いながらもコンロは三つあるし、真琴が住んでいたマンスリーマンションの小さなキッチンとは大違い。
なんせあちらはコンロは一つ、冷蔵庫もはめ込み式のホテルなんかにある極小タイプのものだった。
真琴は歩がああ見えて、料理をするタイプだと知っていた。
なんせ、同じ冷蔵庫を使っている。
覗けば意識しなくても"右半分"に食材が入っていたり、たまに鍋ごと入っているのが見えてしまう。
「料理するんだよね? ちょっと待ってて、直ぐ終わらせる」
後ろを歩いていた真琴が言うと「んじゃ、よろしく」と、素直に歩が道を譲って横に避けた。
歩の横を通り抜けて電子レンジから湯気の上がるロールキャベツを取り出し、置場所に困って迷った挙げ句冷蔵庫が定位置になった食パンを取り出す。
そして、箸を出してーーなどと忙しなく準備をしていると、壁に寄り掛かって腕組みで様子を眺めていた歩が一言。
「焦る必要ないから」
「あ、うん」
「あんたさ……真琴は俺に気を使いすぎじゃね?」
「うん……ごめん」
「謝るなよ」
わかっている。
真琴自身も、歩に対して他には見せないような気遣いをしていることを。
原因は一言で言えば陽太。
言われた言葉が真琴の中にじわじわ浸透していき、不安にさせる。
気遣いが出来ないことは自覚している。
でも、あんなに近くに居たのに、陽太に見下していると思われていたなんて……。
何が悪かったのか、思い当たる節がないのが、余計に真琴をへこませる。
変わりたい。
もっと他人の気持ちがわかるようになりたいと、切に思うようになっていた。
「関係ないけどさ」
ある程度準備が終わったのを察して、歩がキッチンに入ってきた。
「うん」
入れ替わりでキッチンを出ながら真琴が返事をした。
「もしかして料理、出来ない?」
歩の一言に真琴の顔は一気に火照った。
料理だけは、本当に何故か出来なくて、人付き合い云々より、恥ずかしいことだと思っていた。
仕事も勉強も、なんでも努力次第でなんとかなるが、料理だけはどうしてか出来ず、真琴の一番触れられて欲しくない点だった。
「ああ、やっぱり。別に赤くなるようなことじゃなくね? 苦手なことだってあるだろ」
歩は大したことではないと言いたげで、真琴は生きてきてひた隠してきた欠点をそんな簡単に片付けられて、なんと返していいか口が無駄にパクパク動いていた。
「昨日作った野菜スープあるけど、真琴も飲む?」
歩は冷蔵庫から鍋を取り出してコンロに置き、温め始めた。
その提案はあまりに意外だった。
冷たいばかりの歩が、急にそんな提案。
「聞いてる?」
「あ、うん。貰っていいなら食べたい」
真琴の返事を聞くと、歩はカウンター上の棚を開けてスープカップを二つ取り出した。
真琴は所有なげにそわそわしてから、やっとカウンターのスツールに腰かけた。
目の前には、ロールキャベツとサラダとパン。
こういう時は……
「ロールキャベツ半分食べる?」
真琴が言うと、歩が良い香りを振り撒いているロールキャベツに視線を投げた。
「一個しかないのに?」
「ああ、じゃあ冷蔵庫にもう一個あるから、それを」
「明日食うんじゃねぇの?」
「明日また違うの買えば良いし」
歩は二人共同の冷蔵庫を開けて、デリカの袋を取り出して、中のパックを出すと電子レンジにセットした。
「どうも」
そう言いながら、温まった野菜たっぷりのスープをよそい、真琴の前に置いた。
「ありがとう……」
「食ってろよ。温かいうちに」
うん。呟いて美味しそうなそれを見下ろしていた。
「作る手間省けた」
歩も真琴の隣のスツールに座って、ロールキャベツをナイフとフォークで切っていく。
真琴は耳を貸しながら野菜スープをスプーンで掬う。
人参、じゃがいも、玉ねぎ、ベーコン、キャベツとわかる範囲だけでも数種類の具材が見える。
それにふうっと一息吹き掛けてから、ゆっくり口に運んだ。
野菜が柔らかく甘くて、ブラックペッパーの辛味と合っていてお店で食べるような物と遜色ない出来だった。
それは美味しくもあり、心底羨ましくもあった。
「美味しいね、身体ポカポカする」
「生姜入れたから」
「そうなの? 感じない」
歩も自分用のスープを引き寄せて口に含み、時間をかけて飲み干して「確かに結構入れたけど感じないな」と感想を言った。
そして、ロールキャベツも口に入れ、やはりしっかり噛んでから飲み込んだ。
「美味しい?」
真琴が不安そうに問うと、歩は大きな目を一瞬楽しそうに細めた。
笑った?
初めて笑った顔見たかも。
「買ってきた物を旨いか聞くなよ、自分が作ったみたいに」
「でもほら、味覚って人それぞれだし」
まあな。と、答えたけれど、歩は美味しいかどうかは言わなかった。
でも、しっかり食べていたし、同じスープを美味しいと感じるのだからと、真琴はやはり静かに食事を進めていく。
「真琴、料理やる気あるなら、やってみたら良い。やらなきゃ出来るようになるわけないし」
食事を終えた歩は食洗機に几帳面に皿を並べていく。
真琴も使ったものを、歩に一枚ずつ手渡して入れてもらっていた。
「何度も挑戦して、最終的に諦めたの。レシピを見てもそれ通りに作れないし……」
真琴の頬がまた染まる。
洗剤を入れて食洗機を閉じた歩が、スイッチを押してから顔を上げた。
「真琴にやる気があるなら、俺が作ってる時に顔出したらいい」
「それって……教えてくれるって事?」
「年下の男に教わるのが嫌じゃなければな」
「やる!」
「食い付きすぎ」
くいっと真琴を見つめた瞳が、瞼に一瞬隠れて再び姿を現した。
「あんた、案外可愛いのな」
捨て台詞を吐いて、風呂入るからと、歩は再び頬に熱を帯びた真琴をキッチンに置いていった。
……可愛い。
そんな事、陽太にも言われたことないのに。
でも、良かった。
ムカつくとか、可愛くないとか、偉そうなとか、陰口で聞き慣れた言葉より、ずっといい。
歩はよく分からないけど、悪い人じゃなさそう。
会社ではついつい自分にも他人にも厳しくなり気味だから、せめて家では……。
*****
再来年に行われるサッカーの国際大会で使われるユニフォームのプレゼン。
前予想を覆され、真琴のチームは競合他社に負けた。
新素材は好評だった、誰もが勝利を疑わなかったのに、まさかの敗退だった。
一年しっかり準備をしてきたのが、水の泡となってしまった。
帰社する道すがら、チームの誰一人、口を開く事がなく、まるで葬式に参列した人達のようだった。
それがまた重苦しく、しかし普段から雑談するタイプじゃない真琴には、メンバーになんと話しかけていいのかも分からない。
真琴にとって、初めてチームリーダーに抜擢された大仕事。
誰よりも責任を感じ、悔しさと無念さで、油断すると涙が滲んでしまいそうで、歯をくいしばって真っ直ぐ前を見据えて歩いていく。
行き交う人達は何故かとても幸せなそうに見えて、それが眩しく、真琴はなぜかやたらと惨めな気持ちになり、意識して何も見ないようにしていた。
肌寒いビル風に煽られる中、メンバー数人を引き連れて、六本木の高層ビルに行きよりも重く感じる資料の紙袋を持って入っていった。
一緒にやってきたメンバーに、フロアにて解散を伝え、真琴だけ会議室で上司に報告事項を伝達し、やっとその最悪な一日は終わろうとしていた。
十五歳程年上の女性上司は渋い顔をしていたが、こう言うものは必ず勝者と敗者が居るものだからと真琴の肩を叩き、労ってくれた。
本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、頭を下げる。
「くよくよしている時間はないのよ。仕事は途切れることなんてないの」
ヘビースモーカーであることで有名なその人は、女性にしてはやや低めの声で真琴を諭す。
「はい」
「次はあなたは来期の冬モデルの宣伝の方に回って貰うわね」
紺色のノーカラースーツを着こなしたその人はスケジュール帳を捲りながら話していく。
「次はリーダーとは行かないけど、プロジェクトの規模としては同等以上。気を引き締めて取り組んでください」
「はい」
返事をした真琴にその人は視線を向けて、老眼鏡であろう眼鏡をスッと外した。
「あなたでも気落ちすることがあるのね」
やや苦笑してそんな事を言うので、真琴は気力を奮い起こして出来る限りシャキッとして見えるように背筋伸ばした。
するとその人はますます苦笑いを浮かべた。
「気落ちするのが当たり前。あなた、ちょっと弱いところ隠しすぎなのよ。時には落ち込んでたっていい。いつもじゃ困るけど、今回は落ち込んで当然でしょ?」
落ち込んで当然と言われるほど期待を掛けられていたプロジェクトだった。
途中までは確かに手応えがあったはずなのに。
考え始めると悔しさから頬が緊張して力む。
「まあ、チームは解散。みんな明日からは銘々違う仕事に打ち込んで貰うから。チームのメンバーには既に明日からの仕事の割り振りはメールしてもらってあるわ」
「わかりました。本当に申し訳ありませんでした」
気持ちが揺れないようにと頑張ったら、やたらと心の入ってない一本調子の謝罪になってしまった。
それでも女性上司は「今夜はお酒でも飲んで寝ちゃいなさい」と言って、話を終えた。
会議室を出るとデスクに戻る前に自動販売機のある、休憩所に寄っていくことにした。
ふと、磨きあげられたガラスから東京の夜景が目に入り、そのまま映り込んだ自分の疲れた顔が見えてきつく目を閉じた。
そして、誰も通路に居ないことを確認すると、両掌で頬をパチンパチンと叩いてみた。
しっかりしないと。
みんな辛いんだから、私が不幸を背負い込んだ顔をしていたらダメだ。
私の力不足が招いた結果なのだから。
自動販売機が二台並んだ喫煙所を兼ねた休憩所。
喫煙者ではない真琴は滅多にここには近寄らなかった。
六畳程のスペースに自動販売機二台、灰皿、長椅子があり、気持ちを和ませる為なのか、観葉植物の鉢も角に置かれている。
黄緑色の葉をつけたそれもさぞ息苦しいだろうと気の毒に思う。
扉を引けば直ぐに煙草特有の香りと、目をシバシバさせる煙さ。
そして、先ほどまで同じチームの部下だった男性が二人で煙草を吸っていた。
間が悪い……。
今日はもう会いたくなかった。
咄嗟に思ったが、このまま出ていく方が不自然なので「お疲れ様です」とだけ言って、背を向け自動販売機で品定めをしようとした。
「いいですね、リーダーだったのに責任も問われず瀬戸さんチームに栄転で」
真琴は顔はそのまま前を向かせ、明らかに攻撃的な言葉に一瞬視線が上向いて、唇を引き結んだ。
「瀬戸さんの元で一から学び直せと言うことでしょ」
良かった、普通に返せて。と、思った矢先、更に畳み掛けるように棘のある言葉が投げられた。
「負けても余裕ですか。湯浅さん以外のメンバーは悔しいと思いますよ?
美人で仕事がある程度出来ると目を引きますもんね、そりゃ次も良いところに……」
「顔の造形がなにか仕事に関係するの? そう言う物言いはあなたにとって不利益にしかならないと思いますけど」
真琴はつい理不尽な責め立てに振り返って、反論する。
そこへ、コンコンと壁板を叩く音がした。
一斉に三人分の視線を浴びて、ガラス越しに瀬戸が覗いて手を振っていた。
縁のない眼鏡をかけた優しげな男、それでいて仕事は恐ろしく出来るのが瀬戸と言う人間だった。
真琴と違い場を和ませるウィットにとんだ会話術、嫌味のない高級スーツに、コロコロ変える眼鏡は女性で言うピアスみたいな感覚なのか。
真琴より二つ年上なだけなのに、力を見込まれ他社から引き抜かれてきた有能な男。
「打ち上げにしちゃ、随分こじんまりだな」
瀬戸は部屋に入るなりそんな事を言って、真琴の横に立ち、勝手に自販機のボタンを押した。
「俺にも奢って、湯浅さん」
「打ち上げじゃありませんから」
「じゃあ、"大好きな瀬戸さん"にコーヒーをプレゼントして」
「大好き……」
戸惑う真琴に、先ほどまで尖った物言いをしていた男性社員が「湯浅さん、瀬戸さん狙いか」と茶化した。
振り返った瀬戸はその人に笑って「バカだな、狙ってんのは俺だ。だから俺が居ないところであんまり苛めるなよ? 慰めて落とすんだからさ」と、おどけてみせた。
真琴が持っていたスマホを指差してから、自販機の電子マネーリーダーにその指を持っていく。
瀬戸は本気でコーヒーをねだっているようだった。
真琴は自動販売機にスマホをかざし、瀬戸がボタンを押したブラックのコーヒーがガシャンと音を上げて落ちた。
瀬戸は嬉しそうに「どうも」と、言って缶を拾い上げる。
真琴も自分用に一応お茶のボタンを押して、それを買った。
「じゃあ、私はこれで」
真琴は飲み物を買うと言う目的を果たして、小さく頭を下げると出ていった。
出ていくと直ぐに先ほどまで真琴を攻撃していた男が立ち上がる。
「瀬戸さん、あんなんがいいんですか? 美人だけが取り柄じゃないですか」
瀬戸は笑って「仕事も出来るだろ」と返す。
ツレの方のもう一人も「きっちりし過ぎていて、ちょっとやりにくいですよ」と、隣の男に同調した。
瀬戸は買って貰った缶コーヒーを見下ろし、プルタブを立てる。
「仕事は仕事」
「慰めて落とすんじゃないんですか?」
すかさず入ったツッコミに目尻に柔らかいシワを寄せて、それはそれ。と、瀬戸は笑った。
*****
家に帰りついて、あっと自分の手元を見た。
夕飯をすっかり失念してして、何も買わずに家に来てしまった。
このマンションを出れば直ぐ隣にコンビニがある。
真琴を自分の足元を見下ろして、パンツスーツから覗く白のパンプスを見つめた。
パンプスを履いて歩きたくない。
人と会いたくない、機械的に話すコンビニの店員とすら会話をしたくない。
ノロノロと片方ずつパンプスを脱ぐと、置いてあった自分用のスリッパを履かずにそのまま廊下を突き進む。
足取りは重く、頭の中はプレゼンでのやりとり、休憩所で言われた言葉、尖った視線、プレゼンで戦った相手チームの和やかな笑顔……。
精一杯やったつもりだった。
持っていた通勤用の大きなバッグを自分の部屋に放り投げて、真っ直ぐキッチンへと向かった。
誰もいない部屋は灯りが点いておらず、開けっぱなしのカーテンから月明かりが届いていて、それをたよりに冷蔵庫へ。
そして開いてみて、ため息。
食パンの隣に缶チューハイと言うお粗末さ。
料理はしないし、食べる分は必要量だけ買ってくるから、もちろん何にも入っている訳がない。
私みたい。
要領よく生きようと余分なものを排除してきたら、いざとなると何もなくて途方にくれる。
迷ったけれど缶チューハイを手にした。
酔って寝てしまった方が良いと言われたのだし、それがいいと思った。
コートを着たまま缶チューハイ片手にベランダに出た。
部屋も寒いが、ベランダは更に寒い。
薄いストッキング越しから伝わってくる、敷かれたコンクリートの痛いほどの冷たさ。
こんな時、電話をする相手も居ない。
学生時代の数少ない友人は、社会人になった辺りから連絡は途絶えていた。
私だって悔しいのに……。
皆が悔しい事だってわかっているのに。
そんな風に考え出すと鼻の奥がツーンとして、パッと上向いて涙が込み上げてくるのを阻止した。
空気は冷たく、上向いたまま吐いた息で、月がほんの一瞬ぼやけた。
コンクリートの上にある足も、缶を掴んだままの指先も、鼻の先だって寒い。
でも、一番凍えて痛いのは体の内、心だと認めていた。
あんな別れ方をしたのに、陽太の顔が浮かんでしまうほど、寂しくて寒々しい気分だった。
歩は玄関に脱がれているパンプスを見下ろして、いつになく乱れた脱ぎ方をされたそれから視線を上げ、首を伸ばし廊下を見た。
リビングの灯りが点いていないし、真琴の部屋からうっすら漏れる光がないことも気にしながら、靴を脱ぐ。
中に入って廊下を歩きながら、脱衣場からも灯りは漏れ出ていないことを見つつ、リビングの扉を開けた。
灯りを点けようと手を伸ばした時、窓の外でうごめく白い物体が目に留まった。
真琴。
あいつ、寒いのにベランダに居るのか?
酔狂な事だと電気を点けようとして、再び手が止まる。
真琴の肩が揺れている気がした。
そう、まるで泣いているかのように。
歩は灯りを点けないまま、フローリングの床を真っ直ぐ突っ切ってベランダに向かった。
肘を欄干に付けてがくっと項垂れた真琴は何故か素足だった。
いや、ストッキングは履いているのだろうが、ベランダに置いてある外履き用のサンダルは窓際に置かれたまま。
月夜に浮かぶベージュのコート姿の真琴はいつもよりかなり小さく感じる。
スーっと擦れる音を上げながら窓ガラスを歩が開けると、真琴は猫のようにビクッと体を飛び上がらせて、振り返った。
月明かりを背に受けて顔がはっきり見えない。
「あんた、バカなの? くそ寒い中、足」
「あ、うん……」
「酔ってんの?」
缶チューハイを手に持ってるのを見つけて歩が言うと、また真琴が驚いた顔をして、自分の手元を見下ろして「あ……、忘れてた」と、僅かに声を震わせた。
「何やってんだよ」
歩が言うと「別に……月を見ていただけ」と、最後の方は聞き取れないほどか細く答えた。
「……泣きながら?」
「泣いてない」
真琴の顔を歩が顔の角度を変えてまじまじ観察し、最終的に手元の缶に視線が止まる。
手を伸ばし真琴の手からそれを何も言わずに取った。
「中に入りな」
そう言いながら真琴の腕を引いて、自分の胸に引き寄せた。
真琴は意表をつかれ、あっさり歩の胸に顔を埋める形になった。
「ちょ……」
思いの外強い力で引き寄せられて驚き言葉が出なかった。
「ハグ。温かいと落ち着くから」
確かに温かい。
人の温もりは冷えきった体をみるみる温めていく。
歩は温かく、じっとしていると優しい鼓動を感じることができた。
トクントクンと柔らかく包み込む規則正しい囁き。
どんな言葉より、こんな簡単な行為が力をくれるのだと初めて知った。
「泣けば?」
身長がさほど変わらない歩が耳の程近い場所で言う。
確かに、先ほどまでは泣きたかった。
けれど真琴は首を振る。
「ううん、落ち着いた。ハグっていいね」
「そ」
「うん」
歩が最後にぎゅっと力を籠めて抱き締めて、そっと解放した。
「ハグって気持ちが落ち着くから」
歩が一本下がって真琴を見つめる。
「だね、ありがとう」
歩は表情を崩すことなく肩をあげて、身を翻し窓ガラスを閉めた。
「風呂はいれば? 素足でベランダに出るなよ」
真琴は足下を見下ろした。
「脱げば足は汚くないよ」
ストッキングの事を言うと、歩が片方の眉をくいっと上げた。
「俺の前で脱ぐなよな」
二人の目が合う。
「歩くと床が汚れるよ?」
「わかってるならベランダにそのままでるな」
動くなよと言い残して歩はリビングを出ていく。
人肌で包まれただけなのに、驚くべきほど元気を貰った。
一人じゃないなんて、言葉にすると陳腐だけど、そんな風に感じた。
歩が行き掛けにカウンターに置いていった缶チューハイ。
それを見たらぐうっとお腹が鳴った。
現金な体に苦笑しながら、缶チューハイはやめて食パンを食べようと思った。
ちゃんと食べて元気になりたい。
気持ちが前に向く。
歩は程なくして真琴のスリッパを持って戻ってきた。
犬のように"待て"と言われて真琴はその場から動かず待っていて、歩は口元がゆるっと動いた。
笑いを堪えてスリッパを真琴に突き出した。
「ベランダに出るときはサンダルを履く。これはルールだから、メモって」
真琴はスリッパをすんなり受け取ったが、少し間を置いて言う。
「これ履いたらさ、スリッパが汚れるじゃない」
「だから?」
だから……と、繰り返して真琴は言い、諦めたようにスリッパを床に置いて足を入れた。
「今夜はスリッパなしになるなぁ」
真琴が呟けば「自業自得だろ」と、歩がいつも通り素っ気なく返す。
でも、キッチンカウンターに向かいながら「風呂のスイッチ入れておいたから入ってこい」と、決して優しくない言い方で、気遣いを見せてくれるから、真琴はまた体の中がホワッと温かくなった。
「ありがとう」
なんの引っ掛かりもなく礼を言える。
歩が相手なら。
それに、素直になれる。
私たちは単なる同居人。
でも、居心地は良くて、温かい。
歩の態度はあんなに冷たいのにと、真琴は一人密かに笑いながら部屋へとルームウェアを取りに向かった。
キッチンに入りため息を一つ吐いた歩が、缶チューハイを取り上げ冷蔵庫を開けた。
真琴側のスペースは見事に何も入っておらず、唯一食パンの袋だけが片隅によっていた。
冷蔵庫を開けたままキッチンを見渡し、ゴミ箱を確認してから、缶チューハイと食パンを交換した。
どう考えても真琴は夕飯をとっていない。
しかも、食べるとしたらこの食パンのみ。
歩は自分の所から卵と牛乳を出して、冷蔵庫をパタンと閉めた。
ボールを取り出し、そこに卵、牛乳、ちょっと多めの砂糖を入れたらかき混ぜ、真琴の食パンを浸す。
そして、再び冷蔵庫を開けて自分の所に入っている鳥の胸肉、ジャガイモ、人参を出して、手際よく料理を始めた。
やっと温まり出した部屋、キッチンは更にコンロの熱でやや温かい。
それに、バジルの入った塩をかけたチキンの芳ばしい香り。
電子レンジで手早く加熱したジャガイモと人参も、肉と同じフライパンで焼いていく。
合間をぬってちぎったレタスと作りおきのクルトンを混ぜて、ミニトマトを乗せる。
黙々と料理を作っていると遠くでドライヤーの音がし出した。
真琴がそろそろキッチンに来るだろうと見越して、フライパンにバターを落とし、フレンチトーストを焼き始める。
匂いに釣られ真琴は迷うことなく真っ直ぐキッチンに向かった。
家に帰り着いた時にはあんなに鬱《ふさ》いでいたのに、今はお腹が空いて何の匂いなのか気になっている。
お風呂でも、言われた辛辣な言葉を思い出さないわけではなかったけれど、遠くで聞こえる料理の音に耳を傾けると、なぜか落ち着いた。
友達でもなければ、ましてや恋人でもないのにね。
ただの同居人なのに、歩がそこに居るだけで嫌なことを考えずに済む。
別に応援してくれてるわけでもないけど、歩の存在が元気をくれる。
不思議。
「ああ、来たか。あんたのパン、フレンチトーストにしといた」
キッチンに顔を出した真琴に歩がフライパン片手に言って、中身を皿にあけた。
湯気があがる美味しそうなカスタード色のパン。
「え! 私、食べていいの?」
「真琴んだろ。八枚切りの食パン」
「そうだけど……、他に材料いるんでしょ?」
情けないことに、一体何を使えば食パンがフレンチトーストに変化するのか、具体的な事はわからないけれど。
「肉とかサラダも食うなら、皿出して」
材料の話は流されたけど、真琴は嬉しい提案に飛び付いて、さっさと棚から二人分の取り分ける皿をだした。
二人で並んでカウンターのスツールに腰掛ける。
目の前に並んだ料理に真琴は気持ちが踊っていた。
「お金払う」
材料費代を払わなきゃと思って言うと、歩が鶏肉の香味焼きを真琴の皿にポンっと雑に置く。
「いちいち気にしなくていいから。たまに真琴も俺の分の夕飯……は、買ってこなくていいや」
「え、買ってこいって流れじゃない? 今のは」
「夕飯一緒に食うかわかんねぇし、食い物の好みだって合うかわかんねぇだろ」
真琴はフォークで鶏肉を刺し、口に運んでパクっと頬張った。
モグモグ噛んで、ごくりと喉を通すと言う。
美味しい。
ただただ美味しい。
「歩の作ったものは美味しい。味覚近いんじゃない?」
ね? と、隣の歩に笑いかけると「俺の腕がいいだけだろ」と、すげなくかわされた。
フレンチトーストをナイフとフォークで切り分け、口に入れるとやっぱり美味しい。
甘くてしっとり。
「ちなみに俺はフレンチトースト苦手」
せっかく甘くてふわっと柔らかいそれで幸福感を味わっていたのに……。
「苦手なのに作るのね」
「真琴が好きそうだからな」
「なぜ、わかるの?」
「手土産のチョイス。普段買ってるものなんかで」
確かに、甘いものが好きでついついチョコレートプリンとか、エクレアとか、シュークリームを買ってきて冷蔵庫にしまっている。
「んで、なんかあった?」
歩はサラダを取り分けながら唐突に切り出す。
肉を喉に詰まらせそうになった真琴は目を剥いて、無理矢理それを喉の奥へ通した。
「まぁ、会社でね……私、人付き合いって本当にダメだから」
「んなの、仕事が出来れば問題ないだろ」
事も無げに言う歩は何もわかってないと思った。
人望は仕事のスキルのうちだ。
あるとないとでは、大違い。
「あんた仕事頑張ってるじゃん」
「え……」
「よく、仕事の資料あっちにやりっぱになってるから」
あっちとはリビングのソファーセットの事だ。
ホットカーペットが敷かれたそこで、寝るまで仕事に関するあれこれをするお気に入りの場所だった。
広いカフェテーブル、温かいカーペット、高機能なエアコン。
歩は夜に家を空けるから、その場所で遠慮なく過ごしていた。
「ダメだった?」
「なにが」
「あそこで仕事したりすること」
真琴の部屋には足元を温めるものがないから、リビングで仕事をしたいけれど、恐る恐る聞いてみた。
「いや、共有スペースは使っていいって言ったし、構わない。資料なんかも朝片付けて行くから許す」
ちょっと偉そうだけど……でも、良かったと真琴は微笑んで頷いた。
「あんた融通効かなそうだし、抜けてそうだもんな」
そう言って最後に残っていた肉を口に放り込むと、歩はゆっくりとそれを噛んでいく。
「痛いこと言う」
その通り過ぎて、他に言い返す事もできない。
だから、ちょっぴり拗ねて立ち上がり、食器を重ね始めた。
「事実だから」
そう言って歩も立ち上がる。
そして、自分の使った食器を重ねてから真琴の方へ押しやった。
「『歩が作ってくれたから食器くらいは』はい、言ってみ?」
大きな目で真琴の顔を見つめる。
「片付けさせていただきます」
真琴が歩の言葉を継ぐと、歩が一つ揺れるように頷いた。
「言われなくても言えるようになれば尚よし」
「偉そうに」
「偉いんで、俺は。弱った真琴に甘いフレンチトースト作ってやったりな」
「確かに、偉い」
素直に真琴が認めたのを見て、ふっと笑いを漏らして、よろしくなとソファーの方へと歩み出した。
「あ、待って。色々ありがとう……」
真琴が言うと歩が振り返る。
「会社でも、そうやって言えればなんか変わるんじゃね?」
それはアドバイスなのか嫌味なのか。
真琴にはまだわからない。
まだ、歩との関係は始まったばかり。
少しずつ距離が離れていく歩の背中を暫く見つめていた。
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二人の恋の行方は……
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