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知りたい
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年末、二人はすれ違いのまま、ほとんど顔を合わせなかった。
あの日のハグは勇気をくれた。
ただそれだけのこと。
あの日のフレンチトーストは元気をくれた。
ただそれだけ。
歩はあれから優しくなったとか、親しげになったとか、全くないのが歩らしいと言うか、初めの素っ気ないイメージは変わらず、あっさり年が明けた。
耳を傾けると隣の部屋で物音がしたり、キッチンからいい香りがしたり……料理を教えてくれると言っていたから出ていきたいけれど、ちょっと気後れ。
自分で作ってみたフレンチトースト。
ネットで調べて作ったのに、なぜか思い描いた形とは程遠い“なにか“が出来上がった。
だから、作り方を教えて貰いたくて、切らすことなく食パンを購入したりして、でも会えずに肩透かしの日々。
仕事の方も変化はあまりなかった。
相変わらず同僚達とは距離を感じる。
あの凍えるような日、歩のハグにこのままなら全て上手くいくような錯覚を抱いたのに、生きるってなかなかに難しい。
「あ、今日休みだったの?」
だから、残業を終えて帰って来たら、薄暗いリビングにテレビから出た光が我が物顔で主張する中、のんびりしている歩を見て、小さく驚いた。
会うことすら久しぶり。
「まあ」
テレビから視線を外すことなく歩が答える。
「夕飯食べちゃった?」
「とっくにな」
「だよね」
時計は午後十一時を廻っている。
歩の答えは至極当たり前だった。
「なんか用事?」
せっかく歩が聞いてくれたのに「何も」なんて言ってしまう自分に、真琴は自己嫌悪する。
「んで、フレンチトースト上手くできた?」
歩は真琴に背を向けたまま、真琴の顔色を一気に変えさせると言う離れ業をやってみせた。
「……なぜ、それを」
絶句からの赤面。
歩に問い返すと、歩が振り返りながら「冷蔵庫に浸してあるパンが入ってりゃ」とまで言って、真琴の顔を見て止まる。
「赤くなりすぎ。失敗か」
「な、なんで、失敗したと思うの」
口ごもりながら繕ったところで「赤くなる理由がないだろ、他に」と、言われる始末。
「教えてやるのに」
呆れた感じで言い放った時、テレビ画面から歓声が上がり、歩はくるっと体をそちらに向けてしまった。
「だって、歩はいつ居るのかわかんないし」
「聞きゃいいじゃん」
「私、仕事してて聞くタイミングわかんないし」
「俺もしてるけどな、仕事」
テレビでやっているスノーボードの演技にやや前傾姿勢だった歩が、また振り返った。
「会社勤めしか仕事じゃないと思うんだ?」
「そんな訳じゃないけど……」
そんなつもりも、なかったし。
歩は見ていたテレビをリモコンで消すと、吸い込まれるように画面が暗くなる。
そして立ち上がった。
持っていたリモコンを軽く上に投げると、それはくるんと一回転して再び歩の手の中へと落ちていく。
キャッチしたリモコンをぽいっとソファーに投げ捨てて、横目で真琴を見た。
「飯食えば? 仕事でさぞ疲れてるんだろうし」
「別に会社勤めだけが仕事だなんて思ってないから」
「本心ってポロっと出るよな」
「勝手に意味をつけないで。そう言うつもりはないんだから」
不機嫌そうな──と言っても、いつもこんな雰囲気だけど──歩がぐっと苦虫を潰したような顔をして眉根を寄せた。
「“傷付いた“みたいな顔すんの卑怯」
真琴も眉頭がくいっと寄った。
「勝手に表情読まないで。そんな風に思ってないし」
「じゃあ、どんな風に思ったんだか言ってみろよ」
歩に挑むように言われると、胃の辺りがキリリと痛む。
そんなこと、わからない。
わからないけど、歩と喧嘩なんかしたくない。
「あー、やめやめ。寝るわ」
歩は重くなった空気にうんざりしたのか、話を一方的に打ち切って、さっさとその場を後にした。
去っていく背中に、真琴は後悔の波に襲われて、シーンと静まり返ったリビングで動き出せずにいた。
そんな事があった数日後、日曜で仕事がなかった真琴に昼頃起きてきた歩が、部屋の扉をノックした。
コンコンと叩かれた音に始めは気のせいかと、座ったまま顔を上げただけの真琴だったが、またコンコンコンコンと倍になったノックに「今あける」と立ち上がった。
長い髪を無造作にだんごに纏めていたので、それを解きながらドアに駆け寄った。
「昼飯の材料買いに行くけど、真琴も行くか?」
ドアが開く前に歩が要件を扉越しに言う。
真琴の部屋には出る前に自分の姿をチェック出来るように等身大のミラーが置いてある。
その姿見に自分の酷い姿が映り込んでいて、中の酷い有り様の自分と互いにしかめっ面をしてみせた。
下ろした髪は乱れているし、化粧はしておらず、着ているセーターは毛玉が出来ている。
休みだし、外に出る予定がなかったから、とにかく手に取ったものを着ただけの、気の抜けた格好をしていた。
「聞いてんの?」
ドアの向こうで歩が言うから、鏡の前でぎゅっと目をつむった。
「出掛けない予定だったから、見た目が……」
「ああ、んじゃ一人で行くわ」
待っていてくれたら……化粧をして、着替えるなんて、流石に言いにくい。
せっかく誘ってくれたのに、真琴がしゅんとしていると、歩がもう一言。
「寸胴にお湯沸かしといて、二人分のパスタ作るから」
「あ、うん」
作ってくれるんだ……と、瞑っていた瞼を開き、顔が自然と喜びから緩む。
「……この前、悪かったな」
歩がそんな事を言うから、手が勝手にドアノブを掴んでいて、ドアを一気に開けていた。
ドアに背を向けかけた歩が視線だけで振り返る。
「私こそ、あんまり考えずに……」
「バカだな、あれは俺が悪いんだよ。飯作ってやるから、湯を沸かしとけよ? 三十分位で戻るから」
何焦ってんだよと目の端で笑うと、歩は買い物に出掛けていった。
いつも付けている柑橘系のオードトワレの香りだけ残して。
嬉しくて俯くと、セーターが視界に入って、直ぐに部屋に引き返しクローゼットを開けた。
毛玉の出来たセーターを脱いで、最近購入したウールのニットにデニムと言う装いに変える。
それが済むと髪を解かしてポニーテールにまとめ、ちょっと悩んで薄くルージュを引く。
五分くらいで整えた姿を鏡に映して、まぁまぁの出来映えに小さく後悔。
待っていてもらえば良かった。
五分くらいなら待ってくれただろうに。
それでも気を取り直してキッチンへ行き、寸胴を見つけ出し、たっぷりの水を汲み、お湯を沸かし始める。
手持ち無沙汰でふと窓に目をやれば、昼近くだと言うのに、未だレースのカーテンが引かれていた。
歩は薄暗いのが好きだから。
でも今日はスッキリと晴れ上がっている。
せっかくだからと、陽の光を入れるために一気にカーテンを開けた。
目が眩むような明るさに、瞼を瞬時に閉じて、そっと開けていく。
向かいにもビル、空は建物に遮られて横長に広がっている。
くるりと回転してキッチンを見てみたが、お湯を沸かすと言うミッション以外、何も出来ない自分が虚しい。
せめて、野菜があればサラダを作るくらい出来たのに……。
たぶん。
考えても料理に関してはさっぱり何にも浮かばないので、部屋を見渡してみたがやはりやることは浮かばない。
例えば仕事なら、空き時間にどんどんやれることを見つけてこなしていくのに。
その“やれること“がなくて、おろおろするばかり。
キッチンに行って冷蔵庫を覗いてみて、いつもと変わらぬ見事なまでの簡素な中身。
陽太とは外で会うことが多かったし、料理の事で頭を悩ませずに済んでいた。
陽太は料理が作れたりしたのだろうか?
そんな事も知らなかったりする。
四年も付き合ったのに。
困ったなぁ。
寒いなか食材を買いに行って貰っているのに、何も出来ない。
帰って来て歩が料理を作り始めても、やれることはきっとない。
右往左往するとはこんな時に使うのだと思った。
リビングでやれることはないか探し、キッチンに戻り探し、バスルームまでいって探したけれど、ちょっと棚を拭いたりするくらいで、何もない。
歩が駅で買い物をし帰ってくると、真琴は悪戯が見つかった子供のようにあたふたと玄関に飛び出てきた。
「お湯、沸いてる!」
何故か真っ先に報告するから、歩はああと短く返事をした。
靴を脱ぎキッチンに向かおうとすると、子供のように真琴が歩の後についてくる。
「んー。何か言いたいこととかあるのか?」
足を止めて聞く歩に、真琴ははっと息を飲んで首を振った。
「待ってる間に何かしたかったんだけど、食材とかないし、じゃあ部屋の掃除と思っても綺麗だし……」
真琴は黙っていれば見事な程目鼻立ちが整った女だ。
会社に行くときのスーツを身にまとい背筋が伸びた感じは、清々しいほど近寄りがたいオーラを放っていて、笑えるほど。
しかし、家で見る通常モードの真琴は、どこか自信が無さそうで、小さな子供のように落ち着きがなかったりする。
「料理出来ないのも、だから食材がないのも知っているし、期待してないから」
そんな風に口にしてから、歩は指の間接を口に当てて考え、言い直す。
「期待してないっつうか、出来ないことを受け入れてる? まぁ、なんでもいいけど……俺はあんたが出来ないことを無理強いするつもりはないから」
直ぐに傷付く真琴に、歩は言い方を変えてみたりして、自分らしくないと滑稽に思えて、予定通りキッチンに向かった。
「私、パスタ茹でてもいい?」
後をついて歩く真琴の提案に「んじゃ、よろしく」と、受け入れた。
パスタのソースは作れなくても、パスタを茹でることは誰でも出来るはずだから。
何て言ったって、パスタの袋に丁寧に書いてある訳だし。
歩は買ってきたパスタを買い物袋から引っ張り出して、真琴に手渡した。
そして自分は袋の中身を調理台に並べ、手を洗う。
フレッシュトマト、しめじ、小松菜、ベーコンのパスタにする予定だ。
食材を切って、塩コショウとニンニクオリーブ油で炒め、最後にコンソメを足して少しだけ煮込む。
簡単なのにバランスが良い。
黙って包丁とまな板を取り出して、野菜を切り始めた時だった。
チラッと視界に入った真琴の手にパスタが握られていたまではいい。
それをぽとっと小振りの寸胴に落としたのも、普通。
しかし、パスタはなぜか広がらない。
本来なら手元から離れた時点で花開くように広がるはずなのに。
「ちょ、お前まさか……そのまま入れた?」
歩がキッチンの引き出しを引っ張って、トングを出すと、すかさず束のままのパスタを引き上げた。
結束用の紙を付けたままのパスタが、へにゃりと二人の目の前に現れる。
右手でトングを掴んだまま、歩がパスタに付いた紙を外して、またそれを煮えたぎる湯に投入し、もう一束上げて、一個目より苦戦しながら紙を外した。
「ごめん……知らなくて」
しょげ返る真琴に、ついにプッと吹き出した。
「どんだけ知らねぇんだよ」
ますます小さくなる真琴を見て「ばぁか、怒ってないし、面白い奴って思っただけだよ」と、肩を揺らしながら言う。
「本当にごめん」
「別にいいから、見てて」
歩はコンロについているタイマーを押して時間をセットした。
「タイマーついてるからセットすんだろ? そしたら手が空くから、真琴はそこのトマトを洗う」
「うん」
「もしかしたら硬いところが出来るかもしれないから、一分多めに茹でるか」
「うん」
歩はロスした時間を取り戻す為、手早く野菜を切り始める。
横で神妙な顔つきてトマトを洗う真琴。
「俺、料理得意だから」
「うん?」
「大丈夫だから、不味くはならない」
たぶん。と、心で付け足す。
茹ですぎたパスタを食った所で、死ぬこともないし。
二人は肩を並べて黙ってキッチンに立つ。
ちょっと狭いけど、悪くない。
歩は真剣にフライパンの中身を見つめ続ける真琴が面白いと、また小さく肩を揺らした。
*****
見渡す限り白一色の世界だった。
白しかない世界は余りに眩しくて、目を開けている事が困難で、それなのに目を閉じることが出来ない。
体は重りを体内に取り込んでしまったようにずっしりとしているのに、何故か浮遊している感覚。
一筋の光が真っ白な世界に射し込んでいる。
そこに行きたいと思う反面、行きたくないと強く思う。
激しい対極した意志が攻めぎ合い、汗が吹き出してくるのを感じた。
寒くて、苦しくて、痛い。
ああ、そうか死ぬのか……。
もがき苦しむ自分を見下ろし、そんな風に思った時、凍えそうな体をそっと暖かな空気が撫でていく。
「……歩、歩? 起きて」
知らない人に呼び掛けられている。
「歩……うなされてるけど、大丈夫?」
次に聞こえた言葉に引っ張られるように意識が覚醒し出す。
ああ、真琴か。
真琴?
そうだった。
なかなか上げられない瞼をやっと上げると、そこはカーテン越しに朝日が射し込むリビングの天井だった。
そして、心配そうに覗き込む真琴と、その手にはタオルがあり、そっと歩の額を拭っていた。
「起きた? スゴい汗を掻いてたから、濡れタオルで拭いたんだけど、要らなかったらごめん」
だからか、暖かい空気が体を撫でるのは、あの夢を見るようになってから初めての事だった。
濡れタオルは温かく寝転がったまま、そのタオルを受け取った。
ソファーに寝転がってテレビを見たまま寝ていたらしい。
「ありがと」
言いながら見上げれば、しっかりメイクをほどこした真琴が心配そうに見下ろしていた。
「仕事だろ? 行けよ」
真琴はスーツ姿でソファーの端には真琴のコートが置いてあるのが見えた。
「いつもかなり早めに出社しているから、時間は余裕があるの。お水持ってくる?」
「いや、悪い夢を見ていただけだから、本当に大丈夫」
肘をついてから歩が体を起こすと、真琴も置いてあったコートを手に取った。
「シャワー浴びるから」
「うん。じゃあ……行く」
まだ心配そうな表情の真琴に歩は頷いてから、受け取ったタオルを広げ、顔をそこに落とした。
真琴が通勤用の重そうなバッグを持ち上げる微かな音を聞き、そのあと歩き去る音がし、玄関の扉が開かれた音を聞くまでじっとしていた。
ため息をひとつ。
煌々とつけたままのテレビから軽快な音楽が流れてくる。
湿ったタオルの温かさ。
一時期、毎晩のようにうなされた夢を久しぶりに見た。
原因はわかっている。
手を伸ばしテレビのリモコンを掴むと、スイッチをオフにした。
軽快な音楽がバッサリ切られて部屋は静寂さを取り戻す。
真琴は一人でサンドイッチを片手にパソコン画面を見つめていた。
昼時、半数は外へ、残りは真琴のようにデスクで銘々昼食をとっている。
真琴の参加しているプロジェクトは既に稼働していた為、どちらかと言うと手伝い要員に近い扱いだった。
だから、自分から積極的に意見を言うことよりも、穴がないかフォローする役割に回っている。
でもな……と、進行状況を眺めながら、気にかかっていることがあった。
前より機能を上げた寒冷期用の高機能Tシャツ。
自分の熱を逃がさないが、汗は吸い取り外に逃がす。
元々の機能をパワーアップさせ、同業者の類似品より一本飛び出た存在にしたいのだ。
それをアピールするのが目的なのだが、プロモーションがどうも弱い気がする。
元々、真琴の会社で作ったそれが爆発的なヒットを飛ばし、後から追随する形で他社が競って似たような機能の素材を開発してきた。
簡単に言えば絶対王者だったはずが、回りがどんどん追い付いてきて、影が薄くなってしまったのだ。
だから、パワーアップした商品で王者に返り咲きたい。
「なんだ湯浅さん、一人でサンドイッチ? 誘ってくれたら、飯くらい奢るのに」
背後から声を掛けてきた人物は振り返えらずともわかる。
大体、そんな風に真琴に親しげに声を掛ける人物は瀬戸くらいしか居ないのだから。
「一人がいいんです」
「また、そういうことを。あ、資料見てるんだ」
瀬戸が前屈みになって画面を覗くから、顔が真琴の横に並ぶ。
そういう無駄に近い距離感が、なんとも居心地が悪い。
「このレジェンド、スゴい人だけどさ……」
瀬戸はプロモーションに起用した、ウィンタースポーツのレジェンド、ノルディック複合で何度もオリンピックに出場している人物を指して言う。
「レジェンドってちょっと今回のイメージと違うよな。上からの押しで、決まったけど」
「出来れば返り咲きをイメージできる人の方が良いですね。長く居続けるのも、もちろんスゴい事ですし、悪くはありませんが」
「だよなぁ。湯浅さんもそう思うか。しかし、適材が見つからないし……」
瀬戸のぼやきに真琴も頷く。
「ってことで、今夜あたり夕飯行かない?」
瀬戸がそんなことを言うから真琴は座ったまま、半分振り返って瀬戸を見上げる。
「理由がわかりません」
柔らかなウェーブかかかった髪をふわっと揺らして瀬戸が笑う。
「“理由“ね」
そこで、瀬戸のデジタル式の腕時計がピピっと小さく鳴った。
すかさず手をやり、瀬戸は時計のタイマーを止める。
「時間切れ。俺これからちょっと外回りだから、この話はまた」
真琴はやや戸惑いながら一つ頷く。
この話も何も、プロモーションの話なら皆でするべきだし、夕飯を一緒に食べに行く理由はないのだから、また何を話すのだろう。
そんな風に思っていたら瀬戸が持っていたペットボトルの紅茶を置いた。
まだ封を切っていないそれは、真琴が最近気に入っている物だった。
ほんのり甘くて、ベリーの香りがする。
「午後もこれで頑張れよ」
瀬戸はそう言うと、去ろうとする。
「あ、これ!」
「あげるよ、飲んで」
「でも」
「俺、メンバーには結構飲み物渡してるんだよ。知らなかった? 安いもんじゃん? 百円ちょっとでがんばってくれるなら」
そうなの?
真琴は瀬戸がそう言うことをしているのを見たことがない。
「根回し、根回し。奢られて悪い気しないだろ?」
首を傾げながら頷く真琴を置いて、瀬戸は仕事へ向かった。
ポンと置かれたペットボトル。
こういうことが簡単に出来ないから、真琴のチームはまとまらなかったのか。
取り残されたのはペットボトルだけではなく、苦い疑問と言うオマケ付きだった。
残業を早めに切り上げ帰路についた。
真琴は暫く座ることが出来ずにつり革に掴まったまま、電車に揺られていた。
寒い時期の車内は暖房が効きすぎていて、頬が暑さで火照りだす。
掌にもうっすら汗を掻き始めていた。
そう言えば、今朝の歩は気の毒なほど魘《うな》されていた。
額に浮かんだ汗は大粒で、見ているそばから流れ落ちていった。
まるで涙のように。
魘されていたと言っても声はあげず、苦痛に歪んだ表情と食い縛っているような口元をしていただけ。
それがまた、苦痛に堪えているようで胸を締め付ける光景だった。
真琴はあの時、起こすのを躊躇した。
魘されているのだから起こした方が良いと思ったのだが、寝ているのを邪魔するのはいかがなものかと迷ったのだ。
結局、見ていられずに濡れタオルをつくってきて、額に浮かんだ汗を拭ったら、歩の瞼が痙攣したようになり、やがて目覚めたのだけど……。
いつも、クールな歩の辛そうな寝顔。
歩は優しい。
出会った頃は思いもしなかったが、心は優しい人だと思う。
そう、私が知っていることってそれだけ。
なぜ魘されていたのかもわからない。
魘されている歩を見て、どうしたらいいのかもわからない。
車窓から臨める夜景が、どんどんと流れていく。
人の熱気で窓には結露が浮かんでいた。
聞いてみたらいいのだろうか?
あんなときはどうしたらいいのか。
いやでも……魘されるくらいの何かがあるなら、掘り起こされたくないかも。
そもそも、リビングの温度はかなり高かった。
だから、ただ暑さで変な夢を見ただけかもしれない。
腕が疲れてきて、つり革を持つ手を変えた。
混んでいる車内であまり人にぶつからないように配慮しながら。
もっと、知りたいな。
自然とそんな風に思う。
陽太みたいにどんどん自分を出してアピールするような人じゃないと、親しい間柄になることもなかった。
歩はたまたま同じ場所に住むようになっただけだから、真琴が自分から知る努力をしないと、相手を知りようがない。
今までなら「じゃあいいか、距離があっても」と簡単に片付けてしまっていただろう。
でも、歩の事は知りたい。
きっといい人だもん。
元気付けるためにハグしてくれるような人だから。
揺れる電車に身を委ねながら、気持ちを再確認していく。
帰宅した時、既に家はもぬけの殻だった。
普通に仕事に行ったのだと安心したような、いつも通りの歩の姿を、一目見たかったような。
ただ魘されていただけなのだから、心配し過ぎだったと思いながら、真琴はいつもと変わらず買ってきたもので夕飯を済ませた。
そしてお風呂に浸かってから自分の部屋へ。
モスグリーンでまとめた部屋は、いち早く春がやってきたような温かい雰囲気。
洒落た家具などはないが、ベッドカバーや壁に掛けた抽象画、カーペットまで優しい若葉色にしている。
部屋は癒しの空間だから。
陽太と付き合っている頃も、部屋に招き入れるのは避けたかった。
けれど陽太はそう言う真琴の気持ちを知ってか知らずか、いつもグイグイ部屋へと入り込んでくる人間だった。
仕事の資料を持ってベッドの前に立ち、布団を捲ってベッドに入る。
上半身はベッドの横の壁にもたれさせ、下半身だけ布団を被せた。
あんなに自分の住まいに人が居ることが嫌だったのに、陽太のお陰でルームシェアと言う未知なる世界に足を踏み入れ、今はしっかりそれに馴染んでしまっている。
帰った時、部屋が温かいと嬉しくて、そして薄暗いリビングでテレビを見ている歩が居ると、さらに温かく感じる。
不思議と嫌ではない。
陽太すら来てほしくなかったはずなのに、居ることが当たり前な現状を脳が受け入れているのだろうか。
眠くなるまで資料に目を通し、瞼が重くなったのを機にそれをベッドの下に置いて、布団に潜った。
なんとなく顔を見たかったけど、歩が仕事に行っているなら朝まで戻らない。
真琴はうつらうつらと微睡みながら、歩が帰ってこないか耳を澄ませ、いつしか眠りに落ちていた。
そしていつもと変わらぬ朝が来て、スマホのアラームが鳴った。
手探りでスマホがあるであろう枕元を漁り、掴まえたスマホを片目で見つめてアラームを切った。
ムクッと身体を起こして、暫く座ったままぼーっとすると、やっと体が起き出して動けるようになる。
歯磨き、洗顔、相変わらずトーストとコーヒーだけの朝食といつものルーティーンをこなしていく。
髪をとかして、片側の低い位置に纏めて、ほんの少し後れ毛を出す。
化粧も手慣れたもので、化粧下地を塗って、リキッドファンデーションの次にパウダーファンデーション。
アイラインは茶色で少しだけ表情を柔らかく見せるようにしているが、効果はあまりなさそうだ。
チークも薄く、マスカラはするけれど敢えてビューラーは使わない。
無駄な気はするけれど、持って生まれた顔立ちが冷たく見えるらしいので、引き締まって見えるようなかっちりしたメイクはしないようにしていた。
準備を終えてスーツ姿の自分をチェックしていたら、玄関の鍵が開くガチャと言う音を耳にした。
釣られる用に玄関に顔を出したのは、未だに魘されていた歩の苦しそうな表情が脳裏から離れなかったせいだと思う。
いや、ただ反射的に歩を迎えに出たのかもしれない。
半分も開かれていないドア。
掛けられている手。
そして、珍しく話し声。
「アユってばぁ!」
「うるせぇな、帰れよ」
若そうな女性の甘えたようなトーンで批難する声と、気だるそうな歩の口調。
「なんで? 中にあげてよ」
「お前、マジで帰れよ」
揉めているような会話の後、一気に大きく開かれたドア。
立ち尽くす真琴、向かい合う歩とその後ろに若い女の子。
一瞬、全員の時が止まる。
真琴は歩の腕を掴む女の子の手にきゅっと力が加わるのを見た。
しかし、いち早く立ち直った歩が女の子の手から腕を強引に引き抜き、後ろ手でドアを閉めた。
くりっと可愛らしい顔つきをしたその子の不満そうな表情がドアの向こう側へと消えていった。
靴を脱ぎながら「悪い……」と呟いた歩からは珍しくアルコールの匂いがした。
「うん……あ、いや、別に」
歩が何に謝っているのかわからない真琴は言葉選びに戸惑っていたが、そんな真琴の横を歩が少し覚束ない足取りで部屋に入って行く。
「大丈夫?」
手を貸そうかと声をかけたが、歩は壁に手をつきながらうつむき加減で廊下を進んでいく。
「いいから、仕事にいけよ」
ボソッと呟いた口調もかなり重い。
「うん……」
真琴の返事が届いたのかどうか、真琴にはわからない。
歩はそれっきり振り返りもせずにリビングに姿を消してしまったから。
昨日に引き続き、後ろ髪を引かれる思いで出社した。
玄関を出たとき、さっきの女の子と鉢合わせをしたら、何か言うべきなのかとちょっとだけ悩んだが、既にあの子は姿を消していて杞憂に終わる。
悩み損だと思うのに、言おうとした言葉が真琴の中でいつまでも渦巻いていた。
『私達はただの同居人だから。ルームシェアしているだけです』
正確な言葉なはずなのに、なぜかそれに小さな引っ掛かりを感じる。
なぜ?
私達は友人ではないでしょ?
食事を作って貰ったり、ハグしてくれたり、歩の優しさに意味を持たせたくなるけれど。
それだって、ルームメイトだからと言えばそれまでだ。
言い訳のような自己紹介をする必要はあるの?
そもそも、さっきの子は歩のなんなんだろう。
彼女? 友達? 仕事仲間?
パンプスが叩き出す軽快なリズムがゆっくりに変わる。
彼女。
だとしたら、お似合いかもしれない。
真琴みたいに歩に並ぶとほぼ同じ背丈って感じではなかったし、若いし……。
何故か歩の優しいハグを思い出して、ちょっとだけ胸が疼いた。
浮かんだのは敗北感と羨望。
あの腕を独占できるなんて、羨ましい。
そこまで思って、頬がカッと熱くなって、慌ててゆっくりになっていた歩調を速めた。
隣を歩いていた中年男性がチラリと真琴を見たのを感じる。
急にスピードを上げたからぎょっとしたに違いない。
恋人でもなんでもないのに、独占欲なんて……。
自分の感情に戸惑いながら恥じていた。
私達は単なる同居人なのに。
繰り返すのは自覚を促す為みたいでますます困惑し恥ずかしくなる。
どうかしている。
素っ気ない歩がちょっと優しかったってだけでほだされるなんて……本当にどうかしている。
乗る予定の電車の時刻まで、まだ余裕があったのに真琴は小走りをし出す。
早く冷静さを取り戻したくて、悠長に歩いているなんて出来なかった。
あの日のハグは勇気をくれた。
ただそれだけのこと。
あの日のフレンチトーストは元気をくれた。
ただそれだけ。
歩はあれから優しくなったとか、親しげになったとか、全くないのが歩らしいと言うか、初めの素っ気ないイメージは変わらず、あっさり年が明けた。
耳を傾けると隣の部屋で物音がしたり、キッチンからいい香りがしたり……料理を教えてくれると言っていたから出ていきたいけれど、ちょっと気後れ。
自分で作ってみたフレンチトースト。
ネットで調べて作ったのに、なぜか思い描いた形とは程遠い“なにか“が出来上がった。
だから、作り方を教えて貰いたくて、切らすことなく食パンを購入したりして、でも会えずに肩透かしの日々。
仕事の方も変化はあまりなかった。
相変わらず同僚達とは距離を感じる。
あの凍えるような日、歩のハグにこのままなら全て上手くいくような錯覚を抱いたのに、生きるってなかなかに難しい。
「あ、今日休みだったの?」
だから、残業を終えて帰って来たら、薄暗いリビングにテレビから出た光が我が物顔で主張する中、のんびりしている歩を見て、小さく驚いた。
会うことすら久しぶり。
「まあ」
テレビから視線を外すことなく歩が答える。
「夕飯食べちゃった?」
「とっくにな」
「だよね」
時計は午後十一時を廻っている。
歩の答えは至極当たり前だった。
「なんか用事?」
せっかく歩が聞いてくれたのに「何も」なんて言ってしまう自分に、真琴は自己嫌悪する。
「んで、フレンチトースト上手くできた?」
歩は真琴に背を向けたまま、真琴の顔色を一気に変えさせると言う離れ業をやってみせた。
「……なぜ、それを」
絶句からの赤面。
歩に問い返すと、歩が振り返りながら「冷蔵庫に浸してあるパンが入ってりゃ」とまで言って、真琴の顔を見て止まる。
「赤くなりすぎ。失敗か」
「な、なんで、失敗したと思うの」
口ごもりながら繕ったところで「赤くなる理由がないだろ、他に」と、言われる始末。
「教えてやるのに」
呆れた感じで言い放った時、テレビ画面から歓声が上がり、歩はくるっと体をそちらに向けてしまった。
「だって、歩はいつ居るのかわかんないし」
「聞きゃいいじゃん」
「私、仕事してて聞くタイミングわかんないし」
「俺もしてるけどな、仕事」
テレビでやっているスノーボードの演技にやや前傾姿勢だった歩が、また振り返った。
「会社勤めしか仕事じゃないと思うんだ?」
「そんな訳じゃないけど……」
そんなつもりも、なかったし。
歩は見ていたテレビをリモコンで消すと、吸い込まれるように画面が暗くなる。
そして立ち上がった。
持っていたリモコンを軽く上に投げると、それはくるんと一回転して再び歩の手の中へと落ちていく。
キャッチしたリモコンをぽいっとソファーに投げ捨てて、横目で真琴を見た。
「飯食えば? 仕事でさぞ疲れてるんだろうし」
「別に会社勤めだけが仕事だなんて思ってないから」
「本心ってポロっと出るよな」
「勝手に意味をつけないで。そう言うつもりはないんだから」
不機嫌そうな──と言っても、いつもこんな雰囲気だけど──歩がぐっと苦虫を潰したような顔をして眉根を寄せた。
「“傷付いた“みたいな顔すんの卑怯」
真琴も眉頭がくいっと寄った。
「勝手に表情読まないで。そんな風に思ってないし」
「じゃあ、どんな風に思ったんだか言ってみろよ」
歩に挑むように言われると、胃の辺りがキリリと痛む。
そんなこと、わからない。
わからないけど、歩と喧嘩なんかしたくない。
「あー、やめやめ。寝るわ」
歩は重くなった空気にうんざりしたのか、話を一方的に打ち切って、さっさとその場を後にした。
去っていく背中に、真琴は後悔の波に襲われて、シーンと静まり返ったリビングで動き出せずにいた。
そんな事があった数日後、日曜で仕事がなかった真琴に昼頃起きてきた歩が、部屋の扉をノックした。
コンコンと叩かれた音に始めは気のせいかと、座ったまま顔を上げただけの真琴だったが、またコンコンコンコンと倍になったノックに「今あける」と立ち上がった。
長い髪を無造作にだんごに纏めていたので、それを解きながらドアに駆け寄った。
「昼飯の材料買いに行くけど、真琴も行くか?」
ドアが開く前に歩が要件を扉越しに言う。
真琴の部屋には出る前に自分の姿をチェック出来るように等身大のミラーが置いてある。
その姿見に自分の酷い姿が映り込んでいて、中の酷い有り様の自分と互いにしかめっ面をしてみせた。
下ろした髪は乱れているし、化粧はしておらず、着ているセーターは毛玉が出来ている。
休みだし、外に出る予定がなかったから、とにかく手に取ったものを着ただけの、気の抜けた格好をしていた。
「聞いてんの?」
ドアの向こうで歩が言うから、鏡の前でぎゅっと目をつむった。
「出掛けない予定だったから、見た目が……」
「ああ、んじゃ一人で行くわ」
待っていてくれたら……化粧をして、着替えるなんて、流石に言いにくい。
せっかく誘ってくれたのに、真琴がしゅんとしていると、歩がもう一言。
「寸胴にお湯沸かしといて、二人分のパスタ作るから」
「あ、うん」
作ってくれるんだ……と、瞑っていた瞼を開き、顔が自然と喜びから緩む。
「……この前、悪かったな」
歩がそんな事を言うから、手が勝手にドアノブを掴んでいて、ドアを一気に開けていた。
ドアに背を向けかけた歩が視線だけで振り返る。
「私こそ、あんまり考えずに……」
「バカだな、あれは俺が悪いんだよ。飯作ってやるから、湯を沸かしとけよ? 三十分位で戻るから」
何焦ってんだよと目の端で笑うと、歩は買い物に出掛けていった。
いつも付けている柑橘系のオードトワレの香りだけ残して。
嬉しくて俯くと、セーターが視界に入って、直ぐに部屋に引き返しクローゼットを開けた。
毛玉の出来たセーターを脱いで、最近購入したウールのニットにデニムと言う装いに変える。
それが済むと髪を解かしてポニーテールにまとめ、ちょっと悩んで薄くルージュを引く。
五分くらいで整えた姿を鏡に映して、まぁまぁの出来映えに小さく後悔。
待っていてもらえば良かった。
五分くらいなら待ってくれただろうに。
それでも気を取り直してキッチンへ行き、寸胴を見つけ出し、たっぷりの水を汲み、お湯を沸かし始める。
手持ち無沙汰でふと窓に目をやれば、昼近くだと言うのに、未だレースのカーテンが引かれていた。
歩は薄暗いのが好きだから。
でも今日はスッキリと晴れ上がっている。
せっかくだからと、陽の光を入れるために一気にカーテンを開けた。
目が眩むような明るさに、瞼を瞬時に閉じて、そっと開けていく。
向かいにもビル、空は建物に遮られて横長に広がっている。
くるりと回転してキッチンを見てみたが、お湯を沸かすと言うミッション以外、何も出来ない自分が虚しい。
せめて、野菜があればサラダを作るくらい出来たのに……。
たぶん。
考えても料理に関してはさっぱり何にも浮かばないので、部屋を見渡してみたがやはりやることは浮かばない。
例えば仕事なら、空き時間にどんどんやれることを見つけてこなしていくのに。
その“やれること“がなくて、おろおろするばかり。
キッチンに行って冷蔵庫を覗いてみて、いつもと変わらぬ見事なまでの簡素な中身。
陽太とは外で会うことが多かったし、料理の事で頭を悩ませずに済んでいた。
陽太は料理が作れたりしたのだろうか?
そんな事も知らなかったりする。
四年も付き合ったのに。
困ったなぁ。
寒いなか食材を買いに行って貰っているのに、何も出来ない。
帰って来て歩が料理を作り始めても、やれることはきっとない。
右往左往するとはこんな時に使うのだと思った。
リビングでやれることはないか探し、キッチンに戻り探し、バスルームまでいって探したけれど、ちょっと棚を拭いたりするくらいで、何もない。
歩が駅で買い物をし帰ってくると、真琴は悪戯が見つかった子供のようにあたふたと玄関に飛び出てきた。
「お湯、沸いてる!」
何故か真っ先に報告するから、歩はああと短く返事をした。
靴を脱ぎキッチンに向かおうとすると、子供のように真琴が歩の後についてくる。
「んー。何か言いたいこととかあるのか?」
足を止めて聞く歩に、真琴ははっと息を飲んで首を振った。
「待ってる間に何かしたかったんだけど、食材とかないし、じゃあ部屋の掃除と思っても綺麗だし……」
真琴は黙っていれば見事な程目鼻立ちが整った女だ。
会社に行くときのスーツを身にまとい背筋が伸びた感じは、清々しいほど近寄りがたいオーラを放っていて、笑えるほど。
しかし、家で見る通常モードの真琴は、どこか自信が無さそうで、小さな子供のように落ち着きがなかったりする。
「料理出来ないのも、だから食材がないのも知っているし、期待してないから」
そんな風に口にしてから、歩は指の間接を口に当てて考え、言い直す。
「期待してないっつうか、出来ないことを受け入れてる? まぁ、なんでもいいけど……俺はあんたが出来ないことを無理強いするつもりはないから」
直ぐに傷付く真琴に、歩は言い方を変えてみたりして、自分らしくないと滑稽に思えて、予定通りキッチンに向かった。
「私、パスタ茹でてもいい?」
後をついて歩く真琴の提案に「んじゃ、よろしく」と、受け入れた。
パスタのソースは作れなくても、パスタを茹でることは誰でも出来るはずだから。
何て言ったって、パスタの袋に丁寧に書いてある訳だし。
歩は買ってきたパスタを買い物袋から引っ張り出して、真琴に手渡した。
そして自分は袋の中身を調理台に並べ、手を洗う。
フレッシュトマト、しめじ、小松菜、ベーコンのパスタにする予定だ。
食材を切って、塩コショウとニンニクオリーブ油で炒め、最後にコンソメを足して少しだけ煮込む。
簡単なのにバランスが良い。
黙って包丁とまな板を取り出して、野菜を切り始めた時だった。
チラッと視界に入った真琴の手にパスタが握られていたまではいい。
それをぽとっと小振りの寸胴に落としたのも、普通。
しかし、パスタはなぜか広がらない。
本来なら手元から離れた時点で花開くように広がるはずなのに。
「ちょ、お前まさか……そのまま入れた?」
歩がキッチンの引き出しを引っ張って、トングを出すと、すかさず束のままのパスタを引き上げた。
結束用の紙を付けたままのパスタが、へにゃりと二人の目の前に現れる。
右手でトングを掴んだまま、歩がパスタに付いた紙を外して、またそれを煮えたぎる湯に投入し、もう一束上げて、一個目より苦戦しながら紙を外した。
「ごめん……知らなくて」
しょげ返る真琴に、ついにプッと吹き出した。
「どんだけ知らねぇんだよ」
ますます小さくなる真琴を見て「ばぁか、怒ってないし、面白い奴って思っただけだよ」と、肩を揺らしながら言う。
「本当にごめん」
「別にいいから、見てて」
歩はコンロについているタイマーを押して時間をセットした。
「タイマーついてるからセットすんだろ? そしたら手が空くから、真琴はそこのトマトを洗う」
「うん」
「もしかしたら硬いところが出来るかもしれないから、一分多めに茹でるか」
「うん」
歩はロスした時間を取り戻す為、手早く野菜を切り始める。
横で神妙な顔つきてトマトを洗う真琴。
「俺、料理得意だから」
「うん?」
「大丈夫だから、不味くはならない」
たぶん。と、心で付け足す。
茹ですぎたパスタを食った所で、死ぬこともないし。
二人は肩を並べて黙ってキッチンに立つ。
ちょっと狭いけど、悪くない。
歩は真剣にフライパンの中身を見つめ続ける真琴が面白いと、また小さく肩を揺らした。
*****
見渡す限り白一色の世界だった。
白しかない世界は余りに眩しくて、目を開けている事が困難で、それなのに目を閉じることが出来ない。
体は重りを体内に取り込んでしまったようにずっしりとしているのに、何故か浮遊している感覚。
一筋の光が真っ白な世界に射し込んでいる。
そこに行きたいと思う反面、行きたくないと強く思う。
激しい対極した意志が攻めぎ合い、汗が吹き出してくるのを感じた。
寒くて、苦しくて、痛い。
ああ、そうか死ぬのか……。
もがき苦しむ自分を見下ろし、そんな風に思った時、凍えそうな体をそっと暖かな空気が撫でていく。
「……歩、歩? 起きて」
知らない人に呼び掛けられている。
「歩……うなされてるけど、大丈夫?」
次に聞こえた言葉に引っ張られるように意識が覚醒し出す。
ああ、真琴か。
真琴?
そうだった。
なかなか上げられない瞼をやっと上げると、そこはカーテン越しに朝日が射し込むリビングの天井だった。
そして、心配そうに覗き込む真琴と、その手にはタオルがあり、そっと歩の額を拭っていた。
「起きた? スゴい汗を掻いてたから、濡れタオルで拭いたんだけど、要らなかったらごめん」
だからか、暖かい空気が体を撫でるのは、あの夢を見るようになってから初めての事だった。
濡れタオルは温かく寝転がったまま、そのタオルを受け取った。
ソファーに寝転がってテレビを見たまま寝ていたらしい。
「ありがと」
言いながら見上げれば、しっかりメイクをほどこした真琴が心配そうに見下ろしていた。
「仕事だろ? 行けよ」
真琴はスーツ姿でソファーの端には真琴のコートが置いてあるのが見えた。
「いつもかなり早めに出社しているから、時間は余裕があるの。お水持ってくる?」
「いや、悪い夢を見ていただけだから、本当に大丈夫」
肘をついてから歩が体を起こすと、真琴も置いてあったコートを手に取った。
「シャワー浴びるから」
「うん。じゃあ……行く」
まだ心配そうな表情の真琴に歩は頷いてから、受け取ったタオルを広げ、顔をそこに落とした。
真琴が通勤用の重そうなバッグを持ち上げる微かな音を聞き、そのあと歩き去る音がし、玄関の扉が開かれた音を聞くまでじっとしていた。
ため息をひとつ。
煌々とつけたままのテレビから軽快な音楽が流れてくる。
湿ったタオルの温かさ。
一時期、毎晩のようにうなされた夢を久しぶりに見た。
原因はわかっている。
手を伸ばしテレビのリモコンを掴むと、スイッチをオフにした。
軽快な音楽がバッサリ切られて部屋は静寂さを取り戻す。
真琴は一人でサンドイッチを片手にパソコン画面を見つめていた。
昼時、半数は外へ、残りは真琴のようにデスクで銘々昼食をとっている。
真琴の参加しているプロジェクトは既に稼働していた為、どちらかと言うと手伝い要員に近い扱いだった。
だから、自分から積極的に意見を言うことよりも、穴がないかフォローする役割に回っている。
でもな……と、進行状況を眺めながら、気にかかっていることがあった。
前より機能を上げた寒冷期用の高機能Tシャツ。
自分の熱を逃がさないが、汗は吸い取り外に逃がす。
元々の機能をパワーアップさせ、同業者の類似品より一本飛び出た存在にしたいのだ。
それをアピールするのが目的なのだが、プロモーションがどうも弱い気がする。
元々、真琴の会社で作ったそれが爆発的なヒットを飛ばし、後から追随する形で他社が競って似たような機能の素材を開発してきた。
簡単に言えば絶対王者だったはずが、回りがどんどん追い付いてきて、影が薄くなってしまったのだ。
だから、パワーアップした商品で王者に返り咲きたい。
「なんだ湯浅さん、一人でサンドイッチ? 誘ってくれたら、飯くらい奢るのに」
背後から声を掛けてきた人物は振り返えらずともわかる。
大体、そんな風に真琴に親しげに声を掛ける人物は瀬戸くらいしか居ないのだから。
「一人がいいんです」
「また、そういうことを。あ、資料見てるんだ」
瀬戸が前屈みになって画面を覗くから、顔が真琴の横に並ぶ。
そういう無駄に近い距離感が、なんとも居心地が悪い。
「このレジェンド、スゴい人だけどさ……」
瀬戸はプロモーションに起用した、ウィンタースポーツのレジェンド、ノルディック複合で何度もオリンピックに出場している人物を指して言う。
「レジェンドってちょっと今回のイメージと違うよな。上からの押しで、決まったけど」
「出来れば返り咲きをイメージできる人の方が良いですね。長く居続けるのも、もちろんスゴい事ですし、悪くはありませんが」
「だよなぁ。湯浅さんもそう思うか。しかし、適材が見つからないし……」
瀬戸のぼやきに真琴も頷く。
「ってことで、今夜あたり夕飯行かない?」
瀬戸がそんなことを言うから真琴は座ったまま、半分振り返って瀬戸を見上げる。
「理由がわかりません」
柔らかなウェーブかかかった髪をふわっと揺らして瀬戸が笑う。
「“理由“ね」
そこで、瀬戸のデジタル式の腕時計がピピっと小さく鳴った。
すかさず手をやり、瀬戸は時計のタイマーを止める。
「時間切れ。俺これからちょっと外回りだから、この話はまた」
真琴はやや戸惑いながら一つ頷く。
この話も何も、プロモーションの話なら皆でするべきだし、夕飯を一緒に食べに行く理由はないのだから、また何を話すのだろう。
そんな風に思っていたら瀬戸が持っていたペットボトルの紅茶を置いた。
まだ封を切っていないそれは、真琴が最近気に入っている物だった。
ほんのり甘くて、ベリーの香りがする。
「午後もこれで頑張れよ」
瀬戸はそう言うと、去ろうとする。
「あ、これ!」
「あげるよ、飲んで」
「でも」
「俺、メンバーには結構飲み物渡してるんだよ。知らなかった? 安いもんじゃん? 百円ちょっとでがんばってくれるなら」
そうなの?
真琴は瀬戸がそう言うことをしているのを見たことがない。
「根回し、根回し。奢られて悪い気しないだろ?」
首を傾げながら頷く真琴を置いて、瀬戸は仕事へ向かった。
ポンと置かれたペットボトル。
こういうことが簡単に出来ないから、真琴のチームはまとまらなかったのか。
取り残されたのはペットボトルだけではなく、苦い疑問と言うオマケ付きだった。
残業を早めに切り上げ帰路についた。
真琴は暫く座ることが出来ずにつり革に掴まったまま、電車に揺られていた。
寒い時期の車内は暖房が効きすぎていて、頬が暑さで火照りだす。
掌にもうっすら汗を掻き始めていた。
そう言えば、今朝の歩は気の毒なほど魘《うな》されていた。
額に浮かんだ汗は大粒で、見ているそばから流れ落ちていった。
まるで涙のように。
魘されていたと言っても声はあげず、苦痛に歪んだ表情と食い縛っているような口元をしていただけ。
それがまた、苦痛に堪えているようで胸を締め付ける光景だった。
真琴はあの時、起こすのを躊躇した。
魘されているのだから起こした方が良いと思ったのだが、寝ているのを邪魔するのはいかがなものかと迷ったのだ。
結局、見ていられずに濡れタオルをつくってきて、額に浮かんだ汗を拭ったら、歩の瞼が痙攣したようになり、やがて目覚めたのだけど……。
いつも、クールな歩の辛そうな寝顔。
歩は優しい。
出会った頃は思いもしなかったが、心は優しい人だと思う。
そう、私が知っていることってそれだけ。
なぜ魘されていたのかもわからない。
魘されている歩を見て、どうしたらいいのかもわからない。
車窓から臨める夜景が、どんどんと流れていく。
人の熱気で窓には結露が浮かんでいた。
聞いてみたらいいのだろうか?
あんなときはどうしたらいいのか。
いやでも……魘されるくらいの何かがあるなら、掘り起こされたくないかも。
そもそも、リビングの温度はかなり高かった。
だから、ただ暑さで変な夢を見ただけかもしれない。
腕が疲れてきて、つり革を持つ手を変えた。
混んでいる車内であまり人にぶつからないように配慮しながら。
もっと、知りたいな。
自然とそんな風に思う。
陽太みたいにどんどん自分を出してアピールするような人じゃないと、親しい間柄になることもなかった。
歩はたまたま同じ場所に住むようになっただけだから、真琴が自分から知る努力をしないと、相手を知りようがない。
今までなら「じゃあいいか、距離があっても」と簡単に片付けてしまっていただろう。
でも、歩の事は知りたい。
きっといい人だもん。
元気付けるためにハグしてくれるような人だから。
揺れる電車に身を委ねながら、気持ちを再確認していく。
帰宅した時、既に家はもぬけの殻だった。
普通に仕事に行ったのだと安心したような、いつも通りの歩の姿を、一目見たかったような。
ただ魘されていただけなのだから、心配し過ぎだったと思いながら、真琴はいつもと変わらず買ってきたもので夕飯を済ませた。
そしてお風呂に浸かってから自分の部屋へ。
モスグリーンでまとめた部屋は、いち早く春がやってきたような温かい雰囲気。
洒落た家具などはないが、ベッドカバーや壁に掛けた抽象画、カーペットまで優しい若葉色にしている。
部屋は癒しの空間だから。
陽太と付き合っている頃も、部屋に招き入れるのは避けたかった。
けれど陽太はそう言う真琴の気持ちを知ってか知らずか、いつもグイグイ部屋へと入り込んでくる人間だった。
仕事の資料を持ってベッドの前に立ち、布団を捲ってベッドに入る。
上半身はベッドの横の壁にもたれさせ、下半身だけ布団を被せた。
あんなに自分の住まいに人が居ることが嫌だったのに、陽太のお陰でルームシェアと言う未知なる世界に足を踏み入れ、今はしっかりそれに馴染んでしまっている。
帰った時、部屋が温かいと嬉しくて、そして薄暗いリビングでテレビを見ている歩が居ると、さらに温かく感じる。
不思議と嫌ではない。
陽太すら来てほしくなかったはずなのに、居ることが当たり前な現状を脳が受け入れているのだろうか。
眠くなるまで資料に目を通し、瞼が重くなったのを機にそれをベッドの下に置いて、布団に潜った。
なんとなく顔を見たかったけど、歩が仕事に行っているなら朝まで戻らない。
真琴はうつらうつらと微睡みながら、歩が帰ってこないか耳を澄ませ、いつしか眠りに落ちていた。
そしていつもと変わらぬ朝が来て、スマホのアラームが鳴った。
手探りでスマホがあるであろう枕元を漁り、掴まえたスマホを片目で見つめてアラームを切った。
ムクッと身体を起こして、暫く座ったままぼーっとすると、やっと体が起き出して動けるようになる。
歯磨き、洗顔、相変わらずトーストとコーヒーだけの朝食といつものルーティーンをこなしていく。
髪をとかして、片側の低い位置に纏めて、ほんの少し後れ毛を出す。
化粧も手慣れたもので、化粧下地を塗って、リキッドファンデーションの次にパウダーファンデーション。
アイラインは茶色で少しだけ表情を柔らかく見せるようにしているが、効果はあまりなさそうだ。
チークも薄く、マスカラはするけれど敢えてビューラーは使わない。
無駄な気はするけれど、持って生まれた顔立ちが冷たく見えるらしいので、引き締まって見えるようなかっちりしたメイクはしないようにしていた。
準備を終えてスーツ姿の自分をチェックしていたら、玄関の鍵が開くガチャと言う音を耳にした。
釣られる用に玄関に顔を出したのは、未だに魘されていた歩の苦しそうな表情が脳裏から離れなかったせいだと思う。
いや、ただ反射的に歩を迎えに出たのかもしれない。
半分も開かれていないドア。
掛けられている手。
そして、珍しく話し声。
「アユってばぁ!」
「うるせぇな、帰れよ」
若そうな女性の甘えたようなトーンで批難する声と、気だるそうな歩の口調。
「なんで? 中にあげてよ」
「お前、マジで帰れよ」
揉めているような会話の後、一気に大きく開かれたドア。
立ち尽くす真琴、向かい合う歩とその後ろに若い女の子。
一瞬、全員の時が止まる。
真琴は歩の腕を掴む女の子の手にきゅっと力が加わるのを見た。
しかし、いち早く立ち直った歩が女の子の手から腕を強引に引き抜き、後ろ手でドアを閉めた。
くりっと可愛らしい顔つきをしたその子の不満そうな表情がドアの向こう側へと消えていった。
靴を脱ぎながら「悪い……」と呟いた歩からは珍しくアルコールの匂いがした。
「うん……あ、いや、別に」
歩が何に謝っているのかわからない真琴は言葉選びに戸惑っていたが、そんな真琴の横を歩が少し覚束ない足取りで部屋に入って行く。
「大丈夫?」
手を貸そうかと声をかけたが、歩は壁に手をつきながらうつむき加減で廊下を進んでいく。
「いいから、仕事にいけよ」
ボソッと呟いた口調もかなり重い。
「うん……」
真琴の返事が届いたのかどうか、真琴にはわからない。
歩はそれっきり振り返りもせずにリビングに姿を消してしまったから。
昨日に引き続き、後ろ髪を引かれる思いで出社した。
玄関を出たとき、さっきの女の子と鉢合わせをしたら、何か言うべきなのかとちょっとだけ悩んだが、既にあの子は姿を消していて杞憂に終わる。
悩み損だと思うのに、言おうとした言葉が真琴の中でいつまでも渦巻いていた。
『私達はただの同居人だから。ルームシェアしているだけです』
正確な言葉なはずなのに、なぜかそれに小さな引っ掛かりを感じる。
なぜ?
私達は友人ではないでしょ?
食事を作って貰ったり、ハグしてくれたり、歩の優しさに意味を持たせたくなるけれど。
それだって、ルームメイトだからと言えばそれまでだ。
言い訳のような自己紹介をする必要はあるの?
そもそも、さっきの子は歩のなんなんだろう。
彼女? 友達? 仕事仲間?
パンプスが叩き出す軽快なリズムがゆっくりに変わる。
彼女。
だとしたら、お似合いかもしれない。
真琴みたいに歩に並ぶとほぼ同じ背丈って感じではなかったし、若いし……。
何故か歩の優しいハグを思い出して、ちょっとだけ胸が疼いた。
浮かんだのは敗北感と羨望。
あの腕を独占できるなんて、羨ましい。
そこまで思って、頬がカッと熱くなって、慌ててゆっくりになっていた歩調を速めた。
隣を歩いていた中年男性がチラリと真琴を見たのを感じる。
急にスピードを上げたからぎょっとしたに違いない。
恋人でもなんでもないのに、独占欲なんて……。
自分の感情に戸惑いながら恥じていた。
私達は単なる同居人なのに。
繰り返すのは自覚を促す為みたいでますます困惑し恥ずかしくなる。
どうかしている。
素っ気ない歩がちょっと優しかったってだけでほだされるなんて……本当にどうかしている。
乗る予定の電車の時刻まで、まだ余裕があったのに真琴は小走りをし出す。
早く冷静さを取り戻したくて、悠長に歩いているなんて出来なかった。
応援ありがとうございます!
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