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04
漆黒の水面
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07
「“さんご丸”こちら陸自輸送ヘリ。そちらを目視で確認した」
依然として雨が降りしきる沖縄列島の海上。Ch-47Jのパイロットが無線でフェリーに呼びかけるが、既に応答はない。電気系統が停止して無線も使えなくなっているらしい。
巨大な海洋生物の襲撃を受けたと救難を求める通信が“さんご丸”から入り、諏訪部を指揮官とする救出部隊が編成された。石城島から攻撃ヘリ2機を伴ってCh-47Jを飛ばして5分。たどり着いた遭難現場は既に阿鼻叫喚の様相を呈していた。
「やばいぞ。ばかでかいワニみたいなやつらが何頭もいる」
コ・パイロットの言葉を聞くまでもなく、ヘリの窓から海をのぞき込んでいる諏訪部たち陸自の隊員たちにも状況は見えていた。一見するとクジラかと見まがうような大きさの生き物が“さんご丸”に群がっている。だが、その剣呑さはクジラの比ではなかった。時折水面に浮上して“さんご丸”に体当たりを食らわせて揺さぶるその姿は、さながら魚になり損なったワニのようだった。巨大なくさび形の顎には、無数のノコギリのような歯が並んでいる。
ティロサウルス。白亜紀に生息した海洋爬虫類で、全長15メートル以上。体重20トンにもなる。獰猛な捕食者であり、モササウルスと並んで恐らく当時の海の頂点捕食者であったであろう。
化石から推定される性質として、動くものならなんでもえさとみなして噛みついたであろうとされている。巨大なアンモナイトに執拗に何度も噛みついた化石が1つならず発見されているのだ。
「だがまさか、船まで襲うとはな」
諏訪部の口を突いてそんな言葉が出る。現代に置いても、警告も発することなく、相手かまわず攻撃する生き物は存在する。毒蛇の一部がそうだ。だが、全く初見であるはずの人間の乗った船を襲って捕食しようとするとは予想できなかったのだ。
ともあれ、実際“さんご丸”はティロサウルスの体当たりや揺さぶりに引っ切りなしにさらされ沈みかけている。甲板から投げ出された生存者は無慈悲に巨大な口にとらえられ餌食になっていく。
「攻撃ヘリ。予定通りです。やつらを追い払って下さい」
『了解だ。いくらでかくて獰猛でも、こいつにはかなわんさ』
『高度10メートルまで降下。救出作戦を支援する。行くぞ』
随行する2機のAH-64Dのパイロットが無線に答え、高度を下げると、ティロサウルスの群れに向けて攻撃を開始する。
曳光弾を含んだ30ミリチェーンガンの銃撃が容赦なく海面に撃ち込まれる。諏訪部はティロサウルスが蜘蛛の子を散らすように逃げ去ることを期待していたが、その期待は裏切られることになる。元々銃弾は水面に着弾すると急速にエネルギーを失うことに加えて、全長15メートルの巨体には30ミリでは威力が充分ではないらしい。
少しは応えたようだが、ティロサウルスたちが船から離れる様子はない。
『ちっ。やむを得ん。ロケット弾を使うぞ』
『了解。船に当てるなよ』
攻撃はロケット弾に切り替えられ、海面の下を泳ぐ巨大な影に向かって光の尾を引いた攻撃が打ち込まれる。
諏訪部はできれば対潜装備を備えた海自のヘリの支援を受けたかったが、通信障害が続く中では難しい上に、沖縄本島は暴風雨がひどく、海自もヘリを飛ばせる状態ではなかったのだ。
「くそっ、これじゃ安全かどうかわからんな」
「やむを得ません。救難活動に入ります。高度下げて!」
Ch-47Jのパイロットは恐怖を感じながらも、諏訪部の意見を容れて高度を下げていく。今だ雨脚が弱まらないのに加えて、もしあんなでかいトカゲの化け物に噛みつかれるようなことがあれば、頑丈さと信頼性に定評があるこのCH-47Jをしても危ないかも知れない。
だが一方で、下に助けを求めている人たちがいることもまた事実だった。自衛隊員である身には、彼らを見捨てるという選択肢はない。
「位置はここでいい!ゆっくり高度を落として下さい!」
カーゴドアから下の様子を見ていた諏訪部は、ヘッドセットに向けて指示を出していく。助けを求める人たちの顔が見えるほど高度が下がった時、突然黒い影が船の脇に急速に浮上してくるのが見えた。
「やばい!上昇!上昇だ!」
諏訪部の怒鳴り声に、パイロットが慌てて高度を上げる。
カーゴドアの端にいた諏訪部と子安は確かに見た。巨大な口がそれこそ視界いっぱいに拡がり、このヘリをとらえようとするのを。ヘリを惜しくもとらえ損なったティロサウルスは、盛大に海面にダイブし、大きな水しぶきを立てた。
パイロットの反応が0.5秒遅かったらカーゴドアか車輪に噛みつかていたかもしれない。いきなり20トンもの重さのものにぶら下がられたら、ヘリは確実に墜落だ。ヘリに乗っている全員が背中に冷たいものが走るのを感じた。
「くそっ!なんてやつだ!」
諏訪部はティロサウルスのすさまじさに恐怖と同時に感動さえ覚えていた。ホエールウォッチングでクジラやシャチがブリーチングをするところは見たことがあるし、イリエワニが水面から大きくジャンプして鳥を捕らえる動画をネットで見たこともある。だが、全長15メートルのティロサウルスが、軽く10メートルも垂直にジャンプをしてみせた光景は圧巻のひと言に尽きた。
「やばい。隊長。どうするんです?これじゃ救助ができませんよ!」
「やむを得ん。ホイストを使った回収作業は危険だ。高度はこのままで俺が下に降りる」
さらりとそう返答した諏訪部に、子安はたじろいだ。
うちの隊長はよほど勇敢なのか、それとも馬鹿なのか?つい今し方ばかでかいオオトカゲの巨大な口に食いつかれかけたばかりじゃないか?
喰われるリスクを承知で下に降りようという使命感と勇気に感服する一方で、やはりどこかいかれているんじゃないかという印象を、子安は諏訪部に対して抱かざるを得なかった。
救助作戦は当初の予定を変更して行われることになる。
改めて攻撃ヘリ2機がチェーンガンとロケット弾で海面を攻撃して露払いとする。その上で、Ch-47Jは高度20メートルを保って“さんご丸”の上でホバリングを行い、ホイストではなくロープによる救助作戦を実行することとなった。
雨風の中でホバリングを続けるのは難しいが、パイロットは訓練の成果を見せるときと勇んでいた。時々機体が風に煽られるが、Ch-47Jのホバリングに危なげはない。
「荷物は全部捨ててください!全員乗るためです!ほら捨てて!」
リペリングで“さんご丸”の甲板上に降下した諏訪部は、生存者たちに荷物を全て破棄するように大声で指示する。生存者の数が正確に把握できないのだ。荷物を持ったままでは全員乗れない可能性がある。荷物を捨てることを渋るものもいたが、荷物を持ったままでは載せられないと怒鳴られれば最終的には従う以外になかった。
「よし、身体に巻いて、しっかりつかんで!」
Ch-47Jのカーゴドアから下ろされてくる砂袋のついたロープを生存者の身体に巻き付け、引き上げさせるのが諏訪部の仕事だった。砂袋がついているとはいえ、20メートルの高さからではうまいこと真下に下ろすのは難しくなる。甲板の上でロープを受け取り、生存者たちの身体に巻いて引き上げさせる。その役のためには誰かが甲板の上に降下せざるを得なかったのだ。
「よし!上げろ!」
『了解!』
諏訪部の無線の指示に応じて、ヘリの中の陸自隊員たちがロープを引っ張る。さながらカツオの一本釣りのごとく、次々と生存者たちがヘリに引き上げられていく。いささか乱暴なやり方だが、効率は良かった。
諏訪部はこのまま生存者全員を連れて帰ることを心に決めていた。
08
「こちらユリカモメ!30ミリが切れた!ロケット弾もだ!」
『くそ、こっちも弾切れだ』
あと少しで生存者の救助が終わるというところで、攻撃ヘリ2機の機銃弾とロケット弾が尽きてしまう。ヘルファイア対戦車ミサイルは目標をロックオンしなければ発射できないから、水面に向けて適当に撃てるものではない。つまり、威嚇射撃を行うことが不可能になったことを意味した。
あと少し、あと少しなのに。
AH-64Dのパイロットは歯がみするしかなかった。
「よし!なんとか間に合いそうだ。あなた方で最後だ!急いで!だから荷物はだめだって!」
「冗談じゃない!トランク1つくらいどうにかなるだろう!?」
“さんご丸”甲板に残っているのは諏訪部を含めて3人。船長と30代後半と思しい柄の悪そうな男だけだ。さっさと引き上げてもらって撤収と行きたいときに問題が発生していた。男が荷物を捨てることに納得しないのだ。
「だめですよ!捨てて下さい!」
「なんでだよ!まだ余裕ありそうじゃないか!」
諏訪部は荷物を捨てることに例外を認める気はなかった。少しでもヘリを軽くするべきだし、1人例外を認めれば他の生存者が騒ぐことは目に見えているからだ。誰かをひいきにしたりうかつに例外を認める事は、反感を買うことにつながる。最悪、この先住民たちが自衛隊の指示に従わなくなる危険がある。
「頼むよ!大事なものなんだ!これがなけりゃ明日からどうやって…」
男は言葉を最後まで言うことができなかった。ティロサウルスの1頭が甲板に乗り上げて来たからだ。“さんご丸”は大きく傾く。諏訪部は反射的に傍らにいた船長の腕を掴み、ヘリから伸びているロープで自分の身体を支えた。
「うわああああああああーーーーーーーっ!」
一方で何も捕まるものがないどころか、この期に及んでも荷物を後生大事に握りしめている男の身体を固定するものはなにもなかった。悲鳴を上げながら甲板を滑っていく。その先には大きく開いたティロサウルスの口があり、男はパチンコ玉さながら巨大な口に捕らえられ一呑みにされた。
「なんてこった!くそ!船長、脱出です。ロープを身体に巻いて!」
「いや、私にそんな資格はないよ…。こうなることは予測できたはずなのに…愚かにも船を出した。やつらに喰われるべきは彼じゃなく私だったんだ…」
船長の表情と声はすっかり生きる気力をなくしている様子だった。諏訪部はやるせないものを感じていた。この仕事をしていればいくらでも遭遇する状況だ。地震や台風などの災害で大切なものを失って自暴自棄になってしまうことは、人間であればある意味で当然の反応ではある。
だが、自衛隊員として、たとえ希望を失った人間といえど守るべき国民に変わりはない。見捨てるという選択はなかった。
「しっかりして下さい!あなたには後ほど話を聞く必要がある!みんなを脱出させるためにも死なれちゃ困るんです!」
諏訪部は船長に強引にロープを巻き付け、“引き上げろ”という合図の意味で2回引いた。同時に自分のカラビナに結わえ付けてあるロープも引いて引き上げてもらう。
その時だった。さっきとは反対側からティロサウルスの1頭が乗り上げて来て、船体を再び傾かせた。
「!」
一瞬前まで諏訪部の脚があった場所で、ティロサウルスの巨大な顎ががちんとかみ合わせられる。
その瞬間、諏訪部はティロサウルスともろに目が合っていた。
“獲物を喰いそびれた”
水中に適応した結果なのか、爬虫類というよりはクジラのそれに近く見える目がそう言っているような気がした。
“イスラ・ヌブラル”でユタラプトルに遭遇したとき、人生でこれ以上怖いことはないだろうと思ったのは間違いだったようだ。本当に恐怖すると人間本当に頭の中が真っ白になるらしい。思考がホワイトアウトして、周りの状況がスローモーションのようにゆっくり流れて行く。
巨大な顎と鋭くてごつい歯を持つ全長15メートルのオオトカゲ。あれに比べればユタラプトルはまだ可愛く思える。
今この瞬間にもティロサウルスがジャンプして自分と船長に食いつこうとするかも知れない。諏訪部は一秒でも早くヘリに引き上げてもらえることを必死で祈った。
ヘリのキャビンの中は、絶望と思考停止が支配していた。
ティロサウルスに家族や友人を食い殺された者もいる。恐怖で何も考えられず、ただがちがちと歯を鳴らす者もいる。
海で起きたことがどれだけ怖ろしかったか、空気だけでわかるほどだった。
「ちょっと隊長さん!あの人はどうなったの!?最後まで残ってた男!」
他の生存者たちと同じように、恐怖で思考停止していた諏訪部は、ヒステリックな声に我に返る。声の方を振り返ると、水商売風の軽薄そうな女が不機嫌そうな表情を浮かべていた。
あの柄の悪そうな男の女か妻だろうとなんとなく察しがついた。
「申し訳ありません。助けることができませんでした」
諏訪部の返答に、女の表情が驚愕と怒りの入り交じったものになる。
「なんで助けられなかったのよ!あんたたち自衛隊でしょ!」
“自業自得だ”という言葉を諏訪部はかろうじて呑み込む。それだけは国民を守る自衛隊員として言ってはいけない。
「彼が荷物を捨てろという指示に従わずにごねたんです。押し問答してる間にやつらが襲ってきた。一瞬のことでした」
船長がフォローを容れるが、それは女のヒステリーに油を注いだだけだった。
「荷物1つくらい認めたって良かったじゃない!?あんたが荷物を捨てさせるのにこだわったからあの人が喰われたってことじゃないの!それでも自衛隊なの!?」
諏訪部はなにも言い返さなかった。自衛隊員として、そして個人的な経験からも、ヒステリーを起こしている人間には何を言っても無駄だとわかっているからだ。
「おい、いい加減にしろよ!あんたも彼に助けられたんだろ。失礼じゃないか!」
だが、わめき続ける女を見かねたようで、まだ10代と思しい男が口を挟む。それが良くない兆候の合図だった。
「そうだ!荷物より命だろ!へたすりゃみんなが危険だったんだぞ!」
「俺たちだって荷物捨てたんだ!荷物にこだわって喰われたなら自己責任だろ!」
キャビンの中の生存者たちが口々に女を罵倒し始める。
災害に合って大事な者を失ったり怖い思いをしたなら運が悪かったと思うしかない。だが、1人の人間のくだらない欲や意地のために出なくてもいい被害が出るところだったというのは腹に据えかねるものがあったのだ。
一方で女の方も完全にヒステリーを起こしているらしく、口汚く言い返す。
「やめなさい!こんなことで言い争ってる場合じゃない!」
諏訪部は怒鳴りあいに負けない大声で制止する。命の恩人の言うことならと思ったのか、言い争っていても仕方ないと考えたのか、キャビンの中は一瞬で静かになる。
まずい兆候だ。諏訪部はそう思わずにはいられない。災害が起きると人は不安や恐怖から殺気立つことも多いが、それが被災者同士の軋轢になるのは最悪の事態だ。
島から脱出するめどさえついていないのに、避難民たちが互いにトラブルを抱えた状態ではうまくいくものもうまくいかない。
どうしたものか。
諏訪部はベンチシートに身体を預けて頭を抱えた。
09
“さんご丸”の沈没と19名の犠牲が出た事実は、さらに重い絶望と恐怖になって石城島の島民と自衛隊員たちにのし掛かる。
不安定な天候を考えると空からの脱出は危険だが、海には船を沈めるだけの攻撃力と獰猛さを持った生物が手ぐすね引いている。かといって島に留まっていれば恐竜の脅威にさらされ続けることになる。極めつけに、タイムスリップの揺り戻しが起こる可能性は極めて高い。このまま揺り戻しが起こればどんな事態になるか予想もつかない。
八方ふさがりの状況の中、陸自混成部隊司令部では脱出の方法が模索されていた。
「残った島民と我々の合計が324名。
仮に装備を放棄して脱出するにしても、空輸では難しいですね」
「この島でヘリが降りられる場所というとこの小学校のグランドだけだが、チヌーク1機が着陸するのがやっとのスペースしかない。
ピストン輸送じゃ時間がかかりすぎるし、この天候じゃ上空を旋回して待機するのも危険だ。複数のヘリを同時に寄越してもらうのは無理と思った方がいい」
「かと言って海にはでかくて獰猛なオオトカゲどもがうようよいる。さりとて、やつらの攻撃が通用しない大型艦では島に乗り付けることは不可能か…」
司令部に沈黙が流れる。石城島周辺は浅瀬や岩礁が多く、基本的に大型の船は避けて通る。大型船が入ることを想定しないから波止場は小さく防波機能も高くない。
大型の護衛艦を島に廻してもらい、陸付けして脱出することは不可能と言うことになる。そもそも、護衛艦の足では揺り戻しが起きるのに間に合うかどうかが問題だった。
「諏訪部二尉。ティロサウルスだが、泳ぐ速度はどのくらいだった?」
今までひと言も口を聞かなかった諏訪部は、隊長の池田の言葉に我に返る。
「瞬間的にはかなりのものでした。60キロ以上出てたかも知れません」
「瞬発力は海面にジャンプできるほど高いわけだしな。では、長い時間速く泳ぎ続けることは可能だと思うかね?」
「カジキやシャチのように長い時間高速を維持できるかどうかとなると…」
諏訪部は言いよどむ。モササウルス類は、収斂進化の結果現代の鯨類に極めて似通った身体の構造をしていたことが最近の研究で判明している。だが、爬虫類である以上はほ乳類ほどの体温維持機能はない可能性が高い。それに、鯨ほどマッチョな筋肉の塊であったわけでもない。瞬発力は間違いなく現代の鯨なみだが、長時間速く泳ぎ続けることが可能とは思えなかった。
ともあれ、希望的観測は危険だとも諏訪部は思う。フェリーを送り出したとき、いくらモササウルス類が巨大で獰猛であったとしても、船を襲うほど凶暴ではないだろうとなんとなく思っていた。そして、その希望的観測が最悪の結果を招いてしまったところだ。
「例え60キロで泳げるとしても、長時間スピードを維持できないと仮定すれば策はある」
池田は自信に満ちた笑みを浮かべてそう言う。
その頼もしさに、重苦しかった司令部の空気が少しだけ、ほんの少しだけ明るくなった。
「はいコーヒー」
「ありがとう」
臨時のティールームとして開放された小学校の応接室。諏訪部は桑島のいれてくれたコーヒーに口をつける。インスタントだが味はまずまずだ。
「大変でしたね。全長15メートルの獰猛なオオトカゲなんて、私なんか聞いただけで怖くなってきちゃう」
「ああ、まるっきりパニック映画だった。自分の目で見てなけりゃ、CGかぬいぐるみにしか思えなかったろうな。本当に頭蓋骨だけで180センチもあるんだから」
正直なところ諏訪部はあまり人と話がしたい気分ではなかったが、桑島が自分を気遣ってくれているのだと感じて返事をする。
「その、私は二尉はご立派だと思います。あの天候の中でヘリで飛び立って、遭難した多くの人を救出なさったんですから」
桑島は精一杯の笑顔を浮かべて言うが、諏訪部の表情は硬いままだった。
「あの時、船長に銃を突きつけて出港をやめさせる権限は自分にはなかった。ティロサウルスがまさか船を襲うほど凶暴だとは予想もつかなかった。
でも、彼らを送り出してしまった事実に変わりはない」
諏訪部はそう応じながら、救助した者たちの表情を思い出す。恐怖と絶望で神経が飽和してしまったかのような表情を皆浮かべていた。PTSDの兆候が現れ始めている者もいるらしい。
船長は責任を感じて憔悴しきっていて、自衛隊員が食事を勧めても手をつけようとしないらしい。
「もし未来を知ることができたり、時間を巻き戻すことができたりしたら、人間は誰も努力しなくなって滅んでしまうだろう。それはわかる。
でも、時間を巻き戻すことができたらどんなにいいかと思うことはあるよ。今がそれだ」
諏訪部は愚痴っぽくなっているのを承知で言葉を続ける。試験にどんな問題が出るかわからないからこそ人間勉強するわけだし、誰かを口説いても付き合ってもらえるかわからないからこそ人間は自分を磨く。
結果が最初からわかっていたり、失敗しても時間を巻き戻してやり直せるとなれば、誰だって楽な方向に逃げてしまうだろう。みんなが努力せず楽な方向に逃げるようになれば、待っているのは滅亡だけだろう。
それはわかる。だが、理屈ではないのだ。後悔というものは。あの時こうしていればという感情は。
「一昨年、母方の祖母が亡くなったんです。軽い風邪がいつの間にかひどいことになってて」
桑島は優しい声で語り始める。
「母も私も、体調が悪いなら医者に行くように勧めたんですけど、大したことはないからって。元々医者嫌いでしたから。
で、翌朝起こしに行ったら冷たくなってて」
桑島はいったん言葉を切り、コーヒーに口をつける。
「あの時もっと強く説得していれば。今でもそう思わない日はありません。もう年だったし、軽い風邪だからと甘く見ちゃいけないことはわかってたはずなのにって」
そう言った桑島の表情は、慈母観音のそれだった。こんな顔もするんだ。諏訪部はそんなことを思っていた。
「だから、できたら時間を巻き戻したいって思うのは人間として自然なことだと思いますよ」
諏訪部には桑島の気遣いが嬉しかった。こんな時だが、いや、こんな時だからこそというべきか。
ティロサウルスの顎から多くの人間を救えなかった事実に変わりはない。それはこの先一生背負っていかなければならない事実だろう。だが、少しだが気が楽になったのだ。
今まで時間を巻き戻したいという考え方は軟弱で、敗北した者のそれだとどこかで思っていた。それだけに、負の思考のスパイラルに陥っている自分が嫌になっていた。
“時間を巻き戻したいって思うのは人間として自然なこと”と言う言葉が、今の諏訪部にはなによりの救いだった。
よく見ればけっこういい女じゃないか。デートの約束を申し入れてみるか?
諏訪部がそんなことを考えたとき、校内アナウンスが響く。
『自衛隊員は全員警戒態勢!幹部は速やかに司令部へ!』
諏訪部はソファーを蹴って立ち上がる。窓の外を見て、説明されるまでもなく状況を理解した。草食恐竜の群れが、トリケラトプスとエドモントサウルスがこちらに向かってこようとしていたのだ。
「“さんご丸”こちら陸自輸送ヘリ。そちらを目視で確認した」
依然として雨が降りしきる沖縄列島の海上。Ch-47Jのパイロットが無線でフェリーに呼びかけるが、既に応答はない。電気系統が停止して無線も使えなくなっているらしい。
巨大な海洋生物の襲撃を受けたと救難を求める通信が“さんご丸”から入り、諏訪部を指揮官とする救出部隊が編成された。石城島から攻撃ヘリ2機を伴ってCh-47Jを飛ばして5分。たどり着いた遭難現場は既に阿鼻叫喚の様相を呈していた。
「やばいぞ。ばかでかいワニみたいなやつらが何頭もいる」
コ・パイロットの言葉を聞くまでもなく、ヘリの窓から海をのぞき込んでいる諏訪部たち陸自の隊員たちにも状況は見えていた。一見するとクジラかと見まがうような大きさの生き物が“さんご丸”に群がっている。だが、その剣呑さはクジラの比ではなかった。時折水面に浮上して“さんご丸”に体当たりを食らわせて揺さぶるその姿は、さながら魚になり損なったワニのようだった。巨大なくさび形の顎には、無数のノコギリのような歯が並んでいる。
ティロサウルス。白亜紀に生息した海洋爬虫類で、全長15メートル以上。体重20トンにもなる。獰猛な捕食者であり、モササウルスと並んで恐らく当時の海の頂点捕食者であったであろう。
化石から推定される性質として、動くものならなんでもえさとみなして噛みついたであろうとされている。巨大なアンモナイトに執拗に何度も噛みついた化石が1つならず発見されているのだ。
「だがまさか、船まで襲うとはな」
諏訪部の口を突いてそんな言葉が出る。現代に置いても、警告も発することなく、相手かまわず攻撃する生き物は存在する。毒蛇の一部がそうだ。だが、全く初見であるはずの人間の乗った船を襲って捕食しようとするとは予想できなかったのだ。
ともあれ、実際“さんご丸”はティロサウルスの体当たりや揺さぶりに引っ切りなしにさらされ沈みかけている。甲板から投げ出された生存者は無慈悲に巨大な口にとらえられ餌食になっていく。
「攻撃ヘリ。予定通りです。やつらを追い払って下さい」
『了解だ。いくらでかくて獰猛でも、こいつにはかなわんさ』
『高度10メートルまで降下。救出作戦を支援する。行くぞ』
随行する2機のAH-64Dのパイロットが無線に答え、高度を下げると、ティロサウルスの群れに向けて攻撃を開始する。
曳光弾を含んだ30ミリチェーンガンの銃撃が容赦なく海面に撃ち込まれる。諏訪部はティロサウルスが蜘蛛の子を散らすように逃げ去ることを期待していたが、その期待は裏切られることになる。元々銃弾は水面に着弾すると急速にエネルギーを失うことに加えて、全長15メートルの巨体には30ミリでは威力が充分ではないらしい。
少しは応えたようだが、ティロサウルスたちが船から離れる様子はない。
『ちっ。やむを得ん。ロケット弾を使うぞ』
『了解。船に当てるなよ』
攻撃はロケット弾に切り替えられ、海面の下を泳ぐ巨大な影に向かって光の尾を引いた攻撃が打ち込まれる。
諏訪部はできれば対潜装備を備えた海自のヘリの支援を受けたかったが、通信障害が続く中では難しい上に、沖縄本島は暴風雨がひどく、海自もヘリを飛ばせる状態ではなかったのだ。
「くそっ、これじゃ安全かどうかわからんな」
「やむを得ません。救難活動に入ります。高度下げて!」
Ch-47Jのパイロットは恐怖を感じながらも、諏訪部の意見を容れて高度を下げていく。今だ雨脚が弱まらないのに加えて、もしあんなでかいトカゲの化け物に噛みつかれるようなことがあれば、頑丈さと信頼性に定評があるこのCH-47Jをしても危ないかも知れない。
だが一方で、下に助けを求めている人たちがいることもまた事実だった。自衛隊員である身には、彼らを見捨てるという選択肢はない。
「位置はここでいい!ゆっくり高度を落として下さい!」
カーゴドアから下の様子を見ていた諏訪部は、ヘッドセットに向けて指示を出していく。助けを求める人たちの顔が見えるほど高度が下がった時、突然黒い影が船の脇に急速に浮上してくるのが見えた。
「やばい!上昇!上昇だ!」
諏訪部の怒鳴り声に、パイロットが慌てて高度を上げる。
カーゴドアの端にいた諏訪部と子安は確かに見た。巨大な口がそれこそ視界いっぱいに拡がり、このヘリをとらえようとするのを。ヘリを惜しくもとらえ損なったティロサウルスは、盛大に海面にダイブし、大きな水しぶきを立てた。
パイロットの反応が0.5秒遅かったらカーゴドアか車輪に噛みつかていたかもしれない。いきなり20トンもの重さのものにぶら下がられたら、ヘリは確実に墜落だ。ヘリに乗っている全員が背中に冷たいものが走るのを感じた。
「くそっ!なんてやつだ!」
諏訪部はティロサウルスのすさまじさに恐怖と同時に感動さえ覚えていた。ホエールウォッチングでクジラやシャチがブリーチングをするところは見たことがあるし、イリエワニが水面から大きくジャンプして鳥を捕らえる動画をネットで見たこともある。だが、全長15メートルのティロサウルスが、軽く10メートルも垂直にジャンプをしてみせた光景は圧巻のひと言に尽きた。
「やばい。隊長。どうするんです?これじゃ救助ができませんよ!」
「やむを得ん。ホイストを使った回収作業は危険だ。高度はこのままで俺が下に降りる」
さらりとそう返答した諏訪部に、子安はたじろいだ。
うちの隊長はよほど勇敢なのか、それとも馬鹿なのか?つい今し方ばかでかいオオトカゲの巨大な口に食いつかれかけたばかりじゃないか?
喰われるリスクを承知で下に降りようという使命感と勇気に感服する一方で、やはりどこかいかれているんじゃないかという印象を、子安は諏訪部に対して抱かざるを得なかった。
救助作戦は当初の予定を変更して行われることになる。
改めて攻撃ヘリ2機がチェーンガンとロケット弾で海面を攻撃して露払いとする。その上で、Ch-47Jは高度20メートルを保って“さんご丸”の上でホバリングを行い、ホイストではなくロープによる救助作戦を実行することとなった。
雨風の中でホバリングを続けるのは難しいが、パイロットは訓練の成果を見せるときと勇んでいた。時々機体が風に煽られるが、Ch-47Jのホバリングに危なげはない。
「荷物は全部捨ててください!全員乗るためです!ほら捨てて!」
リペリングで“さんご丸”の甲板上に降下した諏訪部は、生存者たちに荷物を全て破棄するように大声で指示する。生存者の数が正確に把握できないのだ。荷物を持ったままでは全員乗れない可能性がある。荷物を捨てることを渋るものもいたが、荷物を持ったままでは載せられないと怒鳴られれば最終的には従う以外になかった。
「よし、身体に巻いて、しっかりつかんで!」
Ch-47Jのカーゴドアから下ろされてくる砂袋のついたロープを生存者の身体に巻き付け、引き上げさせるのが諏訪部の仕事だった。砂袋がついているとはいえ、20メートルの高さからではうまいこと真下に下ろすのは難しくなる。甲板の上でロープを受け取り、生存者たちの身体に巻いて引き上げさせる。その役のためには誰かが甲板の上に降下せざるを得なかったのだ。
「よし!上げろ!」
『了解!』
諏訪部の無線の指示に応じて、ヘリの中の陸自隊員たちがロープを引っ張る。さながらカツオの一本釣りのごとく、次々と生存者たちがヘリに引き上げられていく。いささか乱暴なやり方だが、効率は良かった。
諏訪部はこのまま生存者全員を連れて帰ることを心に決めていた。
08
「こちらユリカモメ!30ミリが切れた!ロケット弾もだ!」
『くそ、こっちも弾切れだ』
あと少しで生存者の救助が終わるというところで、攻撃ヘリ2機の機銃弾とロケット弾が尽きてしまう。ヘルファイア対戦車ミサイルは目標をロックオンしなければ発射できないから、水面に向けて適当に撃てるものではない。つまり、威嚇射撃を行うことが不可能になったことを意味した。
あと少し、あと少しなのに。
AH-64Dのパイロットは歯がみするしかなかった。
「よし!なんとか間に合いそうだ。あなた方で最後だ!急いで!だから荷物はだめだって!」
「冗談じゃない!トランク1つくらいどうにかなるだろう!?」
“さんご丸”甲板に残っているのは諏訪部を含めて3人。船長と30代後半と思しい柄の悪そうな男だけだ。さっさと引き上げてもらって撤収と行きたいときに問題が発生していた。男が荷物を捨てることに納得しないのだ。
「だめですよ!捨てて下さい!」
「なんでだよ!まだ余裕ありそうじゃないか!」
諏訪部は荷物を捨てることに例外を認める気はなかった。少しでもヘリを軽くするべきだし、1人例外を認めれば他の生存者が騒ぐことは目に見えているからだ。誰かをひいきにしたりうかつに例外を認める事は、反感を買うことにつながる。最悪、この先住民たちが自衛隊の指示に従わなくなる危険がある。
「頼むよ!大事なものなんだ!これがなけりゃ明日からどうやって…」
男は言葉を最後まで言うことができなかった。ティロサウルスの1頭が甲板に乗り上げて来たからだ。“さんご丸”は大きく傾く。諏訪部は反射的に傍らにいた船長の腕を掴み、ヘリから伸びているロープで自分の身体を支えた。
「うわああああああああーーーーーーーっ!」
一方で何も捕まるものがないどころか、この期に及んでも荷物を後生大事に握りしめている男の身体を固定するものはなにもなかった。悲鳴を上げながら甲板を滑っていく。その先には大きく開いたティロサウルスの口があり、男はパチンコ玉さながら巨大な口に捕らえられ一呑みにされた。
「なんてこった!くそ!船長、脱出です。ロープを身体に巻いて!」
「いや、私にそんな資格はないよ…。こうなることは予測できたはずなのに…愚かにも船を出した。やつらに喰われるべきは彼じゃなく私だったんだ…」
船長の表情と声はすっかり生きる気力をなくしている様子だった。諏訪部はやるせないものを感じていた。この仕事をしていればいくらでも遭遇する状況だ。地震や台風などの災害で大切なものを失って自暴自棄になってしまうことは、人間であればある意味で当然の反応ではある。
だが、自衛隊員として、たとえ希望を失った人間といえど守るべき国民に変わりはない。見捨てるという選択はなかった。
「しっかりして下さい!あなたには後ほど話を聞く必要がある!みんなを脱出させるためにも死なれちゃ困るんです!」
諏訪部は船長に強引にロープを巻き付け、“引き上げろ”という合図の意味で2回引いた。同時に自分のカラビナに結わえ付けてあるロープも引いて引き上げてもらう。
その時だった。さっきとは反対側からティロサウルスの1頭が乗り上げて来て、船体を再び傾かせた。
「!」
一瞬前まで諏訪部の脚があった場所で、ティロサウルスの巨大な顎ががちんとかみ合わせられる。
その瞬間、諏訪部はティロサウルスともろに目が合っていた。
“獲物を喰いそびれた”
水中に適応した結果なのか、爬虫類というよりはクジラのそれに近く見える目がそう言っているような気がした。
“イスラ・ヌブラル”でユタラプトルに遭遇したとき、人生でこれ以上怖いことはないだろうと思ったのは間違いだったようだ。本当に恐怖すると人間本当に頭の中が真っ白になるらしい。思考がホワイトアウトして、周りの状況がスローモーションのようにゆっくり流れて行く。
巨大な顎と鋭くてごつい歯を持つ全長15メートルのオオトカゲ。あれに比べればユタラプトルはまだ可愛く思える。
今この瞬間にもティロサウルスがジャンプして自分と船長に食いつこうとするかも知れない。諏訪部は一秒でも早くヘリに引き上げてもらえることを必死で祈った。
ヘリのキャビンの中は、絶望と思考停止が支配していた。
ティロサウルスに家族や友人を食い殺された者もいる。恐怖で何も考えられず、ただがちがちと歯を鳴らす者もいる。
海で起きたことがどれだけ怖ろしかったか、空気だけでわかるほどだった。
「ちょっと隊長さん!あの人はどうなったの!?最後まで残ってた男!」
他の生存者たちと同じように、恐怖で思考停止していた諏訪部は、ヒステリックな声に我に返る。声の方を振り返ると、水商売風の軽薄そうな女が不機嫌そうな表情を浮かべていた。
あの柄の悪そうな男の女か妻だろうとなんとなく察しがついた。
「申し訳ありません。助けることができませんでした」
諏訪部の返答に、女の表情が驚愕と怒りの入り交じったものになる。
「なんで助けられなかったのよ!あんたたち自衛隊でしょ!」
“自業自得だ”という言葉を諏訪部はかろうじて呑み込む。それだけは国民を守る自衛隊員として言ってはいけない。
「彼が荷物を捨てろという指示に従わずにごねたんです。押し問答してる間にやつらが襲ってきた。一瞬のことでした」
船長がフォローを容れるが、それは女のヒステリーに油を注いだだけだった。
「荷物1つくらい認めたって良かったじゃない!?あんたが荷物を捨てさせるのにこだわったからあの人が喰われたってことじゃないの!それでも自衛隊なの!?」
諏訪部はなにも言い返さなかった。自衛隊員として、そして個人的な経験からも、ヒステリーを起こしている人間には何を言っても無駄だとわかっているからだ。
「おい、いい加減にしろよ!あんたも彼に助けられたんだろ。失礼じゃないか!」
だが、わめき続ける女を見かねたようで、まだ10代と思しい男が口を挟む。それが良くない兆候の合図だった。
「そうだ!荷物より命だろ!へたすりゃみんなが危険だったんだぞ!」
「俺たちだって荷物捨てたんだ!荷物にこだわって喰われたなら自己責任だろ!」
キャビンの中の生存者たちが口々に女を罵倒し始める。
災害に合って大事な者を失ったり怖い思いをしたなら運が悪かったと思うしかない。だが、1人の人間のくだらない欲や意地のために出なくてもいい被害が出るところだったというのは腹に据えかねるものがあったのだ。
一方で女の方も完全にヒステリーを起こしているらしく、口汚く言い返す。
「やめなさい!こんなことで言い争ってる場合じゃない!」
諏訪部は怒鳴りあいに負けない大声で制止する。命の恩人の言うことならと思ったのか、言い争っていても仕方ないと考えたのか、キャビンの中は一瞬で静かになる。
まずい兆候だ。諏訪部はそう思わずにはいられない。災害が起きると人は不安や恐怖から殺気立つことも多いが、それが被災者同士の軋轢になるのは最悪の事態だ。
島から脱出するめどさえついていないのに、避難民たちが互いにトラブルを抱えた状態ではうまくいくものもうまくいかない。
どうしたものか。
諏訪部はベンチシートに身体を預けて頭を抱えた。
09
“さんご丸”の沈没と19名の犠牲が出た事実は、さらに重い絶望と恐怖になって石城島の島民と自衛隊員たちにのし掛かる。
不安定な天候を考えると空からの脱出は危険だが、海には船を沈めるだけの攻撃力と獰猛さを持った生物が手ぐすね引いている。かといって島に留まっていれば恐竜の脅威にさらされ続けることになる。極めつけに、タイムスリップの揺り戻しが起こる可能性は極めて高い。このまま揺り戻しが起こればどんな事態になるか予想もつかない。
八方ふさがりの状況の中、陸自混成部隊司令部では脱出の方法が模索されていた。
「残った島民と我々の合計が324名。
仮に装備を放棄して脱出するにしても、空輸では難しいですね」
「この島でヘリが降りられる場所というとこの小学校のグランドだけだが、チヌーク1機が着陸するのがやっとのスペースしかない。
ピストン輸送じゃ時間がかかりすぎるし、この天候じゃ上空を旋回して待機するのも危険だ。複数のヘリを同時に寄越してもらうのは無理と思った方がいい」
「かと言って海にはでかくて獰猛なオオトカゲどもがうようよいる。さりとて、やつらの攻撃が通用しない大型艦では島に乗り付けることは不可能か…」
司令部に沈黙が流れる。石城島周辺は浅瀬や岩礁が多く、基本的に大型の船は避けて通る。大型船が入ることを想定しないから波止場は小さく防波機能も高くない。
大型の護衛艦を島に廻してもらい、陸付けして脱出することは不可能と言うことになる。そもそも、護衛艦の足では揺り戻しが起きるのに間に合うかどうかが問題だった。
「諏訪部二尉。ティロサウルスだが、泳ぐ速度はどのくらいだった?」
今までひと言も口を聞かなかった諏訪部は、隊長の池田の言葉に我に返る。
「瞬間的にはかなりのものでした。60キロ以上出てたかも知れません」
「瞬発力は海面にジャンプできるほど高いわけだしな。では、長い時間速く泳ぎ続けることは可能だと思うかね?」
「カジキやシャチのように長い時間高速を維持できるかどうかとなると…」
諏訪部は言いよどむ。モササウルス類は、収斂進化の結果現代の鯨類に極めて似通った身体の構造をしていたことが最近の研究で判明している。だが、爬虫類である以上はほ乳類ほどの体温維持機能はない可能性が高い。それに、鯨ほどマッチョな筋肉の塊であったわけでもない。瞬発力は間違いなく現代の鯨なみだが、長時間速く泳ぎ続けることが可能とは思えなかった。
ともあれ、希望的観測は危険だとも諏訪部は思う。フェリーを送り出したとき、いくらモササウルス類が巨大で獰猛であったとしても、船を襲うほど凶暴ではないだろうとなんとなく思っていた。そして、その希望的観測が最悪の結果を招いてしまったところだ。
「例え60キロで泳げるとしても、長時間スピードを維持できないと仮定すれば策はある」
池田は自信に満ちた笑みを浮かべてそう言う。
その頼もしさに、重苦しかった司令部の空気が少しだけ、ほんの少しだけ明るくなった。
「はいコーヒー」
「ありがとう」
臨時のティールームとして開放された小学校の応接室。諏訪部は桑島のいれてくれたコーヒーに口をつける。インスタントだが味はまずまずだ。
「大変でしたね。全長15メートルの獰猛なオオトカゲなんて、私なんか聞いただけで怖くなってきちゃう」
「ああ、まるっきりパニック映画だった。自分の目で見てなけりゃ、CGかぬいぐるみにしか思えなかったろうな。本当に頭蓋骨だけで180センチもあるんだから」
正直なところ諏訪部はあまり人と話がしたい気分ではなかったが、桑島が自分を気遣ってくれているのだと感じて返事をする。
「その、私は二尉はご立派だと思います。あの天候の中でヘリで飛び立って、遭難した多くの人を救出なさったんですから」
桑島は精一杯の笑顔を浮かべて言うが、諏訪部の表情は硬いままだった。
「あの時、船長に銃を突きつけて出港をやめさせる権限は自分にはなかった。ティロサウルスがまさか船を襲うほど凶暴だとは予想もつかなかった。
でも、彼らを送り出してしまった事実に変わりはない」
諏訪部はそう応じながら、救助した者たちの表情を思い出す。恐怖と絶望で神経が飽和してしまったかのような表情を皆浮かべていた。PTSDの兆候が現れ始めている者もいるらしい。
船長は責任を感じて憔悴しきっていて、自衛隊員が食事を勧めても手をつけようとしないらしい。
「もし未来を知ることができたり、時間を巻き戻すことができたりしたら、人間は誰も努力しなくなって滅んでしまうだろう。それはわかる。
でも、時間を巻き戻すことができたらどんなにいいかと思うことはあるよ。今がそれだ」
諏訪部は愚痴っぽくなっているのを承知で言葉を続ける。試験にどんな問題が出るかわからないからこそ人間勉強するわけだし、誰かを口説いても付き合ってもらえるかわからないからこそ人間は自分を磨く。
結果が最初からわかっていたり、失敗しても時間を巻き戻してやり直せるとなれば、誰だって楽な方向に逃げてしまうだろう。みんなが努力せず楽な方向に逃げるようになれば、待っているのは滅亡だけだろう。
それはわかる。だが、理屈ではないのだ。後悔というものは。あの時こうしていればという感情は。
「一昨年、母方の祖母が亡くなったんです。軽い風邪がいつの間にかひどいことになってて」
桑島は優しい声で語り始める。
「母も私も、体調が悪いなら医者に行くように勧めたんですけど、大したことはないからって。元々医者嫌いでしたから。
で、翌朝起こしに行ったら冷たくなってて」
桑島はいったん言葉を切り、コーヒーに口をつける。
「あの時もっと強く説得していれば。今でもそう思わない日はありません。もう年だったし、軽い風邪だからと甘く見ちゃいけないことはわかってたはずなのにって」
そう言った桑島の表情は、慈母観音のそれだった。こんな顔もするんだ。諏訪部はそんなことを思っていた。
「だから、できたら時間を巻き戻したいって思うのは人間として自然なことだと思いますよ」
諏訪部には桑島の気遣いが嬉しかった。こんな時だが、いや、こんな時だからこそというべきか。
ティロサウルスの顎から多くの人間を救えなかった事実に変わりはない。それはこの先一生背負っていかなければならない事実だろう。だが、少しだが気が楽になったのだ。
今まで時間を巻き戻したいという考え方は軟弱で、敗北した者のそれだとどこかで思っていた。それだけに、負の思考のスパイラルに陥っている自分が嫌になっていた。
“時間を巻き戻したいって思うのは人間として自然なこと”と言う言葉が、今の諏訪部にはなによりの救いだった。
よく見ればけっこういい女じゃないか。デートの約束を申し入れてみるか?
諏訪部がそんなことを考えたとき、校内アナウンスが響く。
『自衛隊員は全員警戒態勢!幹部は速やかに司令部へ!』
諏訪部はソファーを蹴って立ち上がる。窓の外を見て、説明されるまでもなく状況を理解した。草食恐竜の群れが、トリケラトプスとエドモントサウルスがこちらに向かってこようとしていたのだ。
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