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出会いの日

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01

 山名祥二が一色恵子と出会ったのは、昭和30年。
 吉田茂内閣が瓦解し、鳩山一郎政権が誕生した。
 世に言う55年体制が発足した年だった。

(どうせしばらく暇だ。久々に女でも買ってみるか)
 いつもより早めに仕事を切り上げた祥二は、そんなことを思いながら歓楽街をぶらぶらしていた。
 会社は相変わらず繁盛しているが、社長自らが処理しなければならない案件は多くない。
 政治活動は、どのみちしばらく雌伏だ。
 自分は旧吉田派の筆頭にして吉田学校の一番弟子だった、池田勇人の後援者だ。
 鳩山が圧倒的な人気をもって迎えられている今の情勢の中では、旧吉田派がうかつに動くことはやぶ蛇になりかねない。
 どうせ鳩山も、政権を運営していくうちに反発を買っていくことだろう。
 国民の全ての要求に応えるなど、どんな天才でも不可能だ。
 歴史上のどんな為政者も、必ず誰かしらから非難されることが不可避であったように。
 今は静観すべき。
 それが、池田とも相談して決めたことだった。

 久方ぶりに、赤線に足を踏み入れる。
 赤線とは、当時なかば公認の形で売春が行われていた地帯だ。
 戦前の内務省警察の時代から、当局は遊郭などの風俗営業が行われる地帯を、地図に赤線で囲んで表示していた。
 これが赤線の語源であるという。
 吉田内閣倒壊まで、池田を支援していた祥二は寝る暇もなかった。
 根回しやら引き留め工作やらで、とても女を買っている時間などなかったのだ。
(お、あれは…)
 祥二はふと、ひとつの店に目をとめる。
 旅館“瀬戸屋”とあった。
 特に目立つ店構えでもない。
 こぎれいで立地も悪くないが、あまたある売春宿のひとつに過ぎない。
 だが、妙に気になったのだ。
 自然と足が向き、のれんをくぐっていた。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ」
 落ち着いた雰囲気の中年の女が、三つ指をついて出迎える。
「予約してないんだけど、大丈夫で?」
「はい。すぐにご案内できますから」
 女がにこやかに言う。
 なじみになってくれるかも知れない客を追い返すなど、言語道断とばかりに。
 
 祥二はすぐに、布団が敷かれた座敷に通された。
 売春施設にもいろいろあるが、個人的には和風の旅館が好みだ。
「失礼します」
 妖艶で良く通る声がした。
「どうぞ」
 祥二の言葉に応じて、今夜のお相手が入って来る。
(わ…。すごい美人)
 それが素直な感想だった。
 暗いところで見ていることを割り引いても、とても美しいと思えたのだ。
 年格好は、自分と同じか少し上くらいだろうか。
 ややくせ毛気味だが長く美しい髪が目を引く。
 面長で小作りな顔は、眼がやや細めなのが色っぽく映る。
 肌は、驚くほど白く美しかった。
「恵子と申します。よろしくお願いします」
 三つ指をつく仕草も、優雅だが妙に色っぽかった。
「ああ、こちらこそよろしく。山名と言います」
 祥二も軽くおじぎを返す。
「まあ、まずはおひとつ」
「ありがとう。美人に次いでもらえて嬉しいです」
「まあ、お上手」
 実際、恵子に注いでもらった冷や酒は、驚くほどうまかった。
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