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00 序曲編

プロローグ

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01
 戦闘が起きている。
 いや、それは戦闘と呼んでいいものだろうか。
 のどかな風景の中に存在する小さな村を襲い、蹂躙していく者たち。その者たちは人の姿をしていなかった。
 肌は石灰のように白くなり、目は白濁して瞳がほとんど認められない。なにより、その顔は骨格自体が変形したとしか思えない鬼の形相を浮かべている。
 「助けてくれ!」「死にたくない!」応戦する地侍や農民たちは、抵抗空しく一方的になぶり殺しにされていく。
 村を襲った異形の者たち。“鬼”たちの太刀が閃くと、誰のものともわからない腕が地面に転がっていた。馴れない槍を構えて必死で抗う農民の男の首が、“鬼”の常識外の腕力によっていとも簡単に胴体から切り離される。
 「これは…一体…?」
 図らずも戦闘に巻き込まれることになった、陸上自衛隊偵察隊の指揮官である田宮知(たみやさとる)三等陸尉は、目の前の状況を現実と認識しながらも受け入れられずにいた。
 この“鬼”たちはなんなのだ?これはもう盗賊による略奪だとか、地域紛争だとかの範囲を飛び越えている。怪物たちによる一方的な殺戮だ。
 『三尉!やばいぞ!北側より敵の別働隊が接近中!』
 上空を警戒中のUH-60J輸送ヘリから最悪の知らせがもたらされる。このまま囲まれてしまえば脱出が不可能になる可能性がある。しかもこちらにはけが人もいるのだ。
 「2時方向に弓兵!みんな伏せろ!」
 通信担当の三宅三曹の言葉にぎょっとした隊員たちは慌てて頭を下げる。矢羽根の風切り音が死神が吹く笛のように聞こえる。
 「があっ!」
 弓矢程度では鉄帽やボディアーマーを抜くことはできなかった。が、いた場所が悪かった陸士長が左腕に矢を受けてしまう。
 最悪の事態はまだ終わらない。矢の攻撃を露払いとして、槍や太刀で武装した“鬼”たちが突撃してくる。
 考えるより先に身体が動いていた。田宮はタクティカルスリングで肩から釣っていた89式小銃の銃口を上げてセレクターを連射に合わせ、“鬼”たちに向けて引き金を引いていた。
 恐らく経験したことがないであろう攻撃に、“鬼”たちが怯み、足を止める。だが、驚いたことに“鬼”たちは人体急所に被弾して血を流しているにも関わらず倒れることがなかった。
 田宮は状況を見極める。こいつらに中途半端な攻撃は意味がない。やるならば徹底的にやる以外にない。生き残りたいならば。
 「全隊員、交戦を許可する」
 自分でも驚くほど鋭く冷たい声で、田宮は無線に命令を下していた。
 『しかし、三尉…』
 ヘリの機長がためらいの言葉を返す。
 自衛隊は創設以来戦死者もいなければ、戦闘で敵兵を殺したこともない。それを誇りとしてきたのだ。ためらわない方がおかしい。
 だが、田宮はそれに被せるように叫ぶ。
 「撃てええええええええっ!」
 華奢で線の細い田宮のものとは思えない怒鳴り声に、隊員たちも腹を括る。
 89式小銃や分隊支援火器が火を噴き、“鬼”たちに鉛玉を浴びせていく。
 「怯むな!撃ち続けろ!」
 「頭だ!頭を狙え!」
 最初はパニック気味だった隊員たちだが、こつを掴み始めると“鬼”たちに対して俄然有利になり始めた。“鬼”たちは痛みも恐怖も感じていないかのように、心臓に被弾しようが動き続けるし、下半身に被弾しても這いずって近づいてくる。
 だが、頭に銃弾を受ければさすがに動き続けることはできないらしい。そこに気づいた隊員たちは小銃のセレクターを3連射に合わせ、“鬼”たちの頭を確実に撃ち抜いていくやり方に切り替える。
 「くそ!やつら死ぬのが怖くないのか!?」
 「撃ち漏らすな!殲滅しろ!」
 “鬼”たちは急速に数を減らしていき、既に戦闘の行方は決しているにも関わらず、向かってくることをやめない。隊員たちもそれならばやむを得ないと、徹底して“鬼”たちを駆逐することを決める。
 陸自は射撃の精度に定評がある。89式小銃は5.56ミリの小銃としては破格の命中精度を誇るし、隊員1人1人もちょっとしたスナイパーなみの腕を持つまでに訓練される(予算や弾がないから命中精度で補っているのでは?という疑問は禁句だろう)。馴れてくると、腕に自信のある隊員たちはセレクターをセミオートに合わせて、ワンショットワンキルを行い始めることさえする。
 上空のUH-60Jも負けじとドアガンである50口径機関銃を“鬼”たちに向けて打ち始める。苦痛も恐怖も感じない鬼たちに威嚇効果は望めなかったが、それでも50口径の破壊力は充分に有用だった。“鬼”たちは耐久力そのものは人間と大して変わらないらしく、50口径が直撃すれば身体の一部が吹き飛ばされ、あるいは大きなドリルでえぐられたように破壊し尽くされた。
 大地は“鬼”たちの死体で埋め尽くされていく。
 「全部隊、射撃やめ!射撃やめ!」
 周囲に“鬼”の姿が見えなくなったところで、田宮は射撃の停止を命ずる。
 「周辺を警戒!敵が残っていないか調べろ!」
 田宮は訓練通りに隊員たちに安全確認を命じる。累々と横たわる“鬼”たちは例外なく頭を撃ち抜かれるか、重機関銃でばらばらの死体になっている。生きているとは思えないが、念のためだ。
 「あれ…?これはどういうことだ…?」
 小銃の銃口を慎重に向けながら“鬼”の遺骸を調べていた三宅三曹が目を丸くする。他の隊員も同じ反応だった。
 つい先ほどまで、およそ人とは思えない姿と形相を浮かべていた“鬼”が、何の変哲もない人間の姿に戻っているのだ。いかにも田舎の木訥な農民という風体の男の屍がそこにあるだけだった。
 「気をつけろ!まだ“やつ”がいるぞ!」
 きれいで良く通る女の声が警告する。隊員たちが振り向くと、この村を守っていた武士団の長である少女が立っていた。
 燃えるような赤い髪をポニーテールにした、輝くような美少女だ。平成の日本の基準ではとても軍人とは思えないが、兵たちを率いるセンスと知識とカリスマを持ち合わせているのは田宮たちにも見て取れた。
 そして、彼女の警告の意味を田宮はすぐに理解することになる。“鬼”の1人、多少身なりが良く、上等な鎧をまとった将らしい男がゆっくりと起き上がる。
 「くそ!なんだ!?」
 隊員たちは、何かの冗談かと思いたくなった。
 眉間に被弾して大量の血を流している男が立ち上がったと言うだけでもあり得ないことなのに、その男の身体がみるみる大きくなり、分厚い毛に覆われていくのだから。まるで高度にCG処理された映画を見ている気分だが、残念ながら彼らがいるのは映画館ではなく現実の戦場だった。
 「“邪気”に侵され、身も心も物の怪になり果てたもののなれの果てだ!」
 少女が忌々しげに言う。“なれの果て”という言葉に、あの異形の物の怪も元は人間であったことを忌まわしく思うニュアンスを感じた。
 物の怪は最終的には身の丈3メートルの筋骨逞しい狒々猿の姿になった。端的に表現するなら、民話や古い絵草紙にでも登場する猿神だろうか。
 「全隊員!距離を取れ!後退しつつ射撃だ!」
 田宮の命令を合図に、隊員たちは相互援助を行いつつ後退しながら射撃を開始する。だが、物の怪の前身を覆う剛毛は、5.56ミリでは力不足のようだった。
 「逃げろ!逃げるんだ!」
 悪いことに、逃げ遅れていた農民の母子を逃がそうとした桑田二曹は退避が遅れた。一斗缶ほどもある拳が振りかぶられ、桑田の胸を直撃する。
 「うわあああああああああーーーーっ!」
 ボディーアーマーと防弾プレートのお陰で致命傷を負うことは避けられたが、桑田は10メートルも飛ばされて田んぼの泥濘に落着した。
 「撃て撃て!撃ち続けろ!」
 射撃継続を命じる田宮は、焦っていた。そもそも頑強で巨大な身体を持つ狒々猿に、対人用に過ぎない小銃や分隊支援火器は効果が薄い。体毛のない場所にも明らかに着弾しているのに、全くダメージを受けている様子がない。だが不意に、体毛に覆われておらず、それでいて柔らかそうな場所が目に入る。
 「全員、やつののどを狙え!」
 なにか根拠があったわけではない。田宮の思いつきだったが、隊員たちは無駄弾を撃つよりはと田宮の指示通りのど元を狙って射撃する。
 そしてそれは間違いではなかった。今まで銃撃を風と受け流していた狒々猿がにわかに苦しみ始めたのだ。
 「カールグスタフ!HEAT弾をお見舞いしてやれ!」
 田宮の命令に応じて、84ミリ無反動砲に装甲貫通力の高い成形炸薬弾が装填され、狒々猿に向けて放たれる。砲弾は狒々猿の胸板にもろに命中する。当たり所によっては戦車の走行さえ貫通する成形炸薬弾には剛毛も頑丈な身体もものの役に立たず、狒々猿がついに膝をつく。
 「射撃続行!のど元に攻撃を集中!」
 動きが取れなくなった狒々猿ののど元に銃撃が集中する。銃弾が肉と血管をドリルのように粉砕し、大量の血が流れる。声帯を破壊されているために叫び声を上げることさえできない狒々猿は、やがて静かに倒れ伏し、動かなくなった。
 「なんてこった…」
 驚いたことに、いや、あまりにも想定外のことが一度に起きすぎてもう驚くのに疲れてさえいるが、狒々猿の身体が急速に小さくなり、人の姿に戻っていく。
 人の姿に戻った狒々猿を見た田宮は絶句する。それは明らかにまだ子供と言っていい風体をしていたからだ。まあ、江戸時代には元服は10代のうちに行われていたし、源頼朝がまだ子供と言える年齢で初陣を飾ったように、昔は15、6になれば大人扱いされるのは普通だった。
 だがこれはそう言う問題ではない。まだ若く可愛い顔をして、しかもそれなりの美男子と言っていい若武者があんな醜く危険な物の怪になってしまったとは。その事実に恐怖と嫌悪感を感じずにはいられなかった。
 「罪の意識も負い目も感じることはない。貴君らは正しい選択をし、勇敢に戦ったのだ。
 そして、邪気に呑まれてしまったものを救うことはできない。
 他に方法はなかったのだ」
 いつの間にか先ほどの赤い髪の美少女が傍らに立っていて、目の前の現実を受け入れきれない隊員たちの心を読んだかのように声をかけてくる。
 「そう言って頂けると幸いです。
 申し遅れました。自分は陸上自衛隊三等陸尉、田宮知であります」
 「りくじょうじえいたい?聞かぬ名ではあるが、民とわが兵たちを救ってくれて感謝する。
 私は尾張は織田家の当主、織田信長である」
 はい?赤い髪の少女の名乗りに、田宮以下隊員たちは耳を疑う。
 どうやら自分たちのいる場所が取りあえず21世紀ではない。それは理解していた。そして、周辺を偵察して得られた情報を照らし合わせた結果、恐らくはここは戦国時代の日本。それも想像がついた。
 だが、この美少女が織田信長?ドウイウコトナノ?
 田宮たちは互いに顔を見合わせるばかりだった。

02
 もう何もしたくない。とにかく休みたいと言うのが多くの人間の本音だったが、戦闘が終了したのなら次のことを考えなければならない。
 死人を埋葬して弔い、残った食料や生活必需品をかき集め、土足で踏み荒らされた家を掃除して、取りあえずの食い扶持とねぐらを確保する。
 負傷した仲間が世話になっていた恩もあったため、陸自の隊員たちも復旧作業に参加したために、なんとか日が暮れてしまう前に一応村は機能を回復していた。
 ささやかだが酒宴の用意ができたので一緒にどうかという誘いを、勤務中だからと丁重にお断りして、田宮たちもまた今後のことを考えていた。
 「やはり、あなた方を落としたのはあの狒々猿の物の怪ですか?」
 「ああ、間違いないだろう。一瞬のことだったんだ。
 あいつめ、高い木の上からものすごい跳躍力でジャンプして、俺たちの機体にしがみつきやがったんだ。
 そのままバランスを崩して墜落さ」
 村の外れの広場に張られたテントの中、田宮は偵察ヘリOH-1の機長である二尉から事情を聞いていた。
 日本が誇るテクノロジーの結晶であるはずのOH-1が何者かの襲撃を受けて墜落したという知らせを聞いたときは絶句した。だが、原因を突き止め、今後同じことが起きないように対処法を構築することができれば、不安はなくならないまでも、少しは気持ちを前向きに持つことができる。
 「しかし、お二人ともよく無事でしたね。あんな化け物に遭遇して」
 「運が良かったのさ。あの猿、こちらが墜落するとわかったら巻き添えを食わないように機体から離れたんだ。
 それに、この村の人たちは親切だったしな」
 運が良かったというのには激しく同感だな。田宮は思う。織田信長を名乗る少女から聞いたところによると、なにかがおかしいが、自分たちが今いる場所が戦国時代の日本であることは間違いないようだ。戦国大名同士はもちろん、ひどい場合になると村や里同士が親の敵のように憎み合い争っていてもおかしくはない。その点、この辺りは戦や“鬼”たちの災厄にさらされてはいても、土地は豊かだし、物流も盛んだ。それなりに景気は良く人びとの心も余裕があって穏やかだ。
 これが人心が荒れている土地柄だったら、OH-1の2人は見つかったとたんに殺され身ぐるみをはがれていた可能性だって有る。
 「夜が明けるのを待って応援を呼びましょう。OH-1はチヌークなら運べるはずだ。修理可能かどうかはともかく、残して行くわけにはいきませんからね。
 お2人も“しもきた”で精密検査を受けていただく必要があるでしょう」
 「わかってる。
 しかし、なんだか帰りにくいなあ」
 田宮は機長の言葉の意味をすぐに理解した。彼らの田んぼに墜落して食い扶持を台無しにした負い目。この村で世話になった恩義。それだけではないだろう。この土地で起きていること、そしてこの土地に住む人たちのことを知ってしまった今、帰還すると言うことは彼らを見捨てて逃げ帰るようで気分が悪いと言うことか。
 「まあ、お気持ちはわかりますが我々は自衛隊員です。
 今回こそあなた方と部隊を守るためという大義名分がありましたが、それもけりがついた。我々が戦いに介入する理由はない」
 田宮はあえて何も考えることをせず、建前論に終始する。
 石頭の若造幹部と非難されようと、それが自分の役目だ。
この村の人たちをなんとかしてやるということは、結局武力行使を伴う手段に出るということだ。しかも誰からも権限を与えられないまま。それは自衛隊員として許されることではなかった。
 「よし、みんな聞いての通りだ。夜が明けたら応援を呼んで帰還する」
 テントの中に重苦しい空気が流れ、曹士たちはなにか言いたそうにしている。みな頭ではわかっている。軍事介入をするということは誰かに味方して誰かの敵になること。つまり誰かを殺すことだ。命令なら殺すのも仕事だが、自分たちの勝手な判断で敵味方を選別して殺すことなど許されない。
 だが、その理屈に従ってここを引き上げると言うことは、村の人びとや侍たちを見捨てて逃げるということでもある。新たな“鬼”たちが襲ってきた時、彼らが殺戮されるのをやむなしとすることでもあった。彼らを守るだけの力を持ちながら。
 皆口に出しては言わないが、忸怩たるものを感じずにはいられないのだ。
 「田宮殿。少し2人で話せないだろうか?」
 気まずい空気を遮ったのは女の美しい声だった。振り向くと、テントの入口に信長が立っていた。戦闘の時とは違い、小袖に女袴というシンプルな服装をしている。印象としては大正時代の女学生というところだろうか。しかも、鎧を着ている時は気づかなかったが、胸回りはなかなか立派な物をお持ちだ。
 「ここはお任せ下さい。なにかあったらお呼びします」
 副隊長で古参の安西曹長が先回りするように田宮に声をかける。今後のことは気が進まなくとも話しておいた方がいいという具申が半分。いい女からのお誘いなんだから無下にしなさるなという世話焼きが半分というところか。
 「では曹長、しばらく頼みます。行きましょうか信長様」
 新米の士官は経験豊かな下士官の具申は聞いておくべき。そう考えた田宮は信長の誘いに応じることにする。歩哨は交替で立っているが、万一のことを考えて9ミリ拳銃だけは持っていくことにする。
 「勤務中と言うことだが、まあ固いことを言わず一杯だけつき合いなさいな」
 信長はテントから少し離れた岩の上に腰を下ろすと、朱塗りの杯に肩に担いでいたとくりから酒を注いでいく。田宮は下戸でこそないが、普段はあまり飲まない。ともあれ、せっかくのお誘いなのでいただくことにする。どぶろくの癖の強い酒精を覚悟していたが、意外にも酒は21世紀の日本酒とほとんど変わらないほどさっぱりして飲みやすかった。
 「いい酒ですね」
 「わかるか?この尾張の米から手間をかけて作った取って置きでな」
 田宮は酒の味を楽しみながら、さりげなく信長を観察する。長く燃えるような赤い髪が美しい美少女だ。前髪を切りそろえて、いわゆるぱっつんにしているのがなかなかあざとい。外見年齢は高校生か大学生くらいだろうか。21世紀ならアイドルといっても通用しそうなルックスだが、まとう雰囲気は戦いの中で生きてきた武士のものだ。おそらく、昨日まで実戦経験など皆無だった自分たちより場数も踏んでいるし、過酷な経験もしてきたのだろうと想像できる。
 (なんとかしてやれないだろうか?)田宮はそう思わずにはいられない。このまま自分たちが立ち去ってしまえば、このきれいで可愛い少女が“鬼”たちに無残に殺されることにもなりかねない。
 だが、そんな気持ちはすぐに押し殺す。“いかなる悪しき行いも初めは良かれと思って始められた”とはユリウス・カエサルの言葉だったか。善意ほどある意味で怖ろしいものはない。
 振り返れば、5.15事件、2.26事件といった忌まわしいテロやクーデター事件の当事者たちも、言ってしまえば善意に基づいて行動していた。“結果は手段を正当化する”“正義を行うためならどんな逸脱も許される”そう勘違いした者たちの善意はついにはエゴイズムと化し、多くの血を流し、果ては日本が戦争へと突き進んでいく直接の原因となってしまったのだ。
 個人の善意や義侠心で武力を私物化することは許されない。田宮は改めて心を引き締め直す。
 「田宮殿。私をよく見ていて欲しい。頼むから目を逸らしてくれるな」
 しばしの沈黙の後、杯の中身を飲み干した信長が口にしたのは意外な言葉だった。てっきり自衛隊にさらなる軍事支援を無心してくると思っていた田宮は困惑する。
 だが信長はかまわずに田宮の前に仁王立ちになると、驚いたことに服を脱いでいく。袴の帯をほどいてすとんと落としてしまい、小袖もためらいがちに肩から落としてしまう。
 「これは…?」
 予想外だが役得な展開に、信長から目が離せなくなっていた田宮だが、草履以外は生まれたままの姿になった信長を前にしてやっと彼女の意図を理解する。
 「わかるだろう。これが“邪気”だ」
 そう言った信長の美しい肌には、不気味な入れ墨が全身に走っていた。いや、それは入れ墨ではない。蛇とも植物の蔦ともつかない模様は、信じられないことに不気味な紫の光を放ち、あろうことか信長の肌の上を流動していた。まるで特撮もののCG処理でも見ているかのようだ。信長の肌の上に走る不気味な模様が蠢き、這い回っているのだ。
 「私もまもなく物の怪になる。
 理性をなくした醜い化け物になるくらいなら、お主の手にかかって死にたい」
 信長の息が次第に荒くなっていく。田宮にはわかった。信長が“邪気”に蝕まれた体と心を必死で理性で押さえ込んでいるのが。
 「これは鉄砲の類いだな?」と、信長は田宮のレッグホルスターに収まった9ミリ拳銃を田宮に握らせ、自分の胸に向けさせる。
 「ま…待ってくれ!どうして…」
 「わかるはずだ!私が物の怪になったら…始末するのは何倍も困難になるぞ…!」
 信長の声がいよいよ切迫したものになっていく。信長の肌に蠢く模様が活発化して、激しく流動し始めるのが見える。
 これはやばい。田宮は直感する。物の怪と化したものの驚異は田宮自身が身をもって知っている。
 「早く撃て!これ以上抑えきれないぞ!」
 「だめだ…!できない!」
 田宮は信長の手を振り払い、拳銃の銃口を下に向ける。理屈では信長が物の怪に変身する前に始末しておくべきというのはわかる。だが、どうしても引き金を引くことができなかった。
 “邪気”は信長の人格や行いには関係ない。いわば厄災だ。信長本人にはなんの責任もない。なんの咎もない信長をどうして撃つことができるだろう。まして、こんなにきれいでかわいい女の子を。
 信長の頬に一筋の涙が伝う。理性を失った怪物と化して、昨日まで仲間であった者たちを襲い始めてしまう無念の涙だろうと、田宮は漠然と感じた。
 「ううウウウ…!ヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアーーーーッ!」
 生き物が出せるものとは思えない怖ろしい咆吼を挙げて、信長の身体がみるみる変化していく。信長の目線が一瞬にしてはるか上に上がっていく。細かった身体はまるで女子プロレスラーのように逞しくなる。下半身はいつの間にか太く長い蛇のものに変わっていた。上半身も信長の髪と同じ燃えるような赤い鱗に覆われている。一方で、首筋から顔までが信長の面影をはっきりと残しているのが余計に異形さを引き立たせている。
 ラミア、いや、濡れ女か。下半身が蛇で、女の上半身を持つ妖怪や怪物の伝承は世界中にあるが、実物を見てみると妙なまとまりと美しさを感じさせる。だが、美しくとも異形で怖ろしげであることには変わりがなかった。
 特に田宮が恐怖を覚えたのがその目だった。怒り、恨み、憎しみ、嫉み。それこそあらゆる負の感情を詰め込んだような目。人間がここまで負の感情を持てるのだろうかと思えるほどのどす黒い視線はただただ怖ろしかった。
 「冗談ではない!」
 田宮は駆けだしていた。戦略的撤退でもなんでもない、ただの逃亡だった。ただ恐怖と信長を撃ちなくないという思いが、取りあえず逃げるという選択をさせたに過ぎなかった。
 「アアアアアアアーーッ!」
 「ぐはっ…!」
 だが、逃げることは叶わなかった。咆吼とともに目にもとまらぬ速度で振り回された信長のしっぽの先が田宮を強打したのだ。反射的に左手をかざして防がなければ、肋骨を粉砕されていたかも知れない。
 田宮は5メートルもはね飛ばされ、受け身も取れないまま木の幹に叩きつけられた。
 「くそっ…!」
 立ち上がって逃げなければ。頭ではそう思うのに、身体が反応しない。足に力を入れるどころか呼吸をすることさえままならない。信長がとどめを刺そうと近づいてくるのを感じるのに、何もできないのだ。
 「な…なんだ…?」
 まだ呼吸が落ち着いていない田宮は自分に何が起きているのか理解するのに時間がかかってしまう。得体の知れない圧迫感の正体が、信長のしっぽに身体を絡め取られているのだと気づいた時には既に遅かった。信長が田宮の腰と胸にしっかりとしっぽを巻き付け、すさまじい力で締め付け始めたからだ。
 「よせ…離せ…!」
 田宮は恐怖して暴れるが、どうにもならなかった。アナコンダでさえも人間を絞め殺すのに充分な力を持つ。今の信長の下半身の蛇の部分は、太い所では胴回り1メートルを超えそうだ。絞め殺されるどころか、全身の骨を砕かれてしまうかも知れない。
 「クオオオオオオオオオ…」
 「くそっ!くそおっ!」
 田宮は何とか自由になる右腕をばたつかせるが手詰まりだった。拳銃ははね飛ばされた時に落としてしまったし、無線のリモートマイクは信長のしっぽが巻き付いた場所にあって手が届かない。
 「!?」
 「?…!キャアアアアアアアアアアアアアーーーーーーーっ!」
それでも諦めるのはごめんだと必死でもがいた果てに、田宮は柔らかくてやたらふかふかしたものをつかんでしまう。同時に、黄色い悲鳴が周囲に響き渡る。
 そして、意外なことが起こった。田宮を骨ごと粉砕しようと締め付けていたしっぽの力が急に緩んだのだ。
 「タ…タミヤドノ…」
 低く不気味な声だが、信長が呼びかけてくる。その目をのぞき込んで田宮は確信する。どういうわけかは知らないが、信長が理性を取り戻したらしい。
 と同時に、自分が彼女の素晴らしい胸の膨らみを思い切り揉んでいることに気づいて慌てる。
 「あ…いやそのこれは…!とにかくごめん!」
 「マテ…!ハナスナ!」
 あわを食って手を離そうとする田宮を信長が制し、むしろ田宮の手に自分の手を重ねる。
 「なんだこれは…?」
 もう何を見ても驚かないつもりでいた田宮は、またしても目を疑うことになる。まるで砂が指の間からこぼれるように、まっ黒なガスとも影ともつかないなにかが、信長の胸をつかんだ手の指の間から吹き出していくのだ。
 田宮は直感する。これが“邪気”というやつか。なんだか良くわからないが、信長の身体からおぞましく邪悪なものが抜け出ていく。少年漫画で悪堕ちしていたキャラが呪いや洗脳を克服して正義に目覚めるようなものか。
 「モットツヨク…!オモイキリツカメエエエーーーーーーッ!」
 「わ…わかった!」
 信長の言葉に応じて、田宮は信長の膨らみをつかむ手に力を込める。痛くはないかと心配になったが、力を強めると“邪気”が抜ける速度が速まるのを感じる。今力を抜くわけにはいかない。
 いい揉み心地。役得役得。という邪な雑念を必死で頭から追い払っていたのは内緒だ。
 「アアアアアアアアアああああああああああああーーーーーーっ!」
 信長の引き裂くような悲鳴とともに、黒いほとばしりが終わり、まるで最初から何もなかったかのように周囲に拡散して消えていく。
 「信長様!」
 元の美しい少女の姿に戻り、糸の切れた人形のように倒れようとする信長を、田宮は手を伸ばして支える。
 その美しい身体は信じられないほど軽く柔らかく、そして冷たかった。

03
 「信長様!しっかり!目を開けて下さい!」
 田宮は必死で横たわる信長に呼びかけるが、反応はない。首筋に手を当てると脈は確かにある。だが、口元に手をかざしてみると呼吸していない。ショックで呼吸が止まってしまったのかも知れない。
 「安西曹長!こちら田宮。衛生員を寄越してくれ!
 戻って来い!ほら、戻って来い!」
 田宮は無線で応援を呼び、必死で人工呼吸をする。
 頼むから死んでくれるな。折角物の怪から元に戻れたのに、このままお陀仏なんて悲しいじゃないか。
 ここまで必死になったのは、田宮の人生で初めてだったかも知れない。そして、その必死さは報われることになる。
 「かはっ…!はあはあっ…!」
 信長が咳き込みながら息を吹き返したのだ。
 「信長様!大丈夫ですか!?俺がわかりますか?」
 「私は…どうしていたのだ…?“邪気”が消えている…。
 田宮殿、お主どんな術を使ったのだ…?」
 「どんな術と言われても…。とにかく良かった…」
 先ほどまでのおぞましい入れ墨のような模様がすっかり消えて、白い玉のような肌を取り戻した信長が、自分の身体をぺたぺたと触る。“邪気”が末期症状となり、物の怪と化してしまった自分が元の姿に戻れたのが信じられないようだ。
 ともあれ、困惑しているのは田宮も同じだった。取りあえず自分は死なずに済んだ。信長も、もうだめかと思ったが元の姿に戻れた。それはいい。だが、物の怪に変身してしまった信長の胸を揉んだら“邪気”が放出されて元に戻った。これはどう説明すればいいのだ?
 「あの…隊長…。お話中ですが…」
 後ろからかけられた声に、田宮は心臓が口から飛び出そうになる。振り向くと、安西曹長の他、看護師の牛島三曹、そして、ただならぬ気配を感じて武装して駆けつけてきた偵察隊の隊員たちが困惑と生暖かさの混じった視線を田宮に向けていた。
 「ええと、応援を寄越せと言うから来ましたが…」
 「傷病者はどこです?というか、お邪魔だったかな?」
 「あの…合意の上ですよね、隊長…?」
 隊員たちの視線に、田宮は改めて自分と信長の状況を顧みる。
 生まれたままの姿の女の子が横たわっているところに、自分が覆い被さっている。端的に表現するとそうなる。
 いや、裸なのは信長が“邪気”に取り憑かれたところを見せるためだ。覆い被さっていたのは人工呼吸のためなんですが。ついでに言えば、正気を失って物の怪と化した信長に、自分は危うく殺されかけたのだ。
 だが、この状況を正確に説明する言葉を、田宮はすぐには思いつかなかった。
 「あー…。その、皆の衆。誤解してくれるな。
 やましいところはないぞ」
 信長が身体を起こし、隊員たちに呼びかける。
 助かった。濡れ衣で性犯罪者になることは避けられそうだ。田宮はほっとする。が…。
 「田宮殿…いや知は私の婿となるのだからな」
 信長は、はにかんで頬を染めながらそんなことを言う。
 「なんだ、そういうことか」
 「おめでとうございます」
 「爆発して下さい」
 「え…ええ!?ちょ…!」
 信長の言うことにどういうわけか納得してしまう隊員たちに、田宮はあわを食う。
 「ふつつか者だが、よろしく頼むぞ。私の旦那様」
 自分の手を握りながら真剣な眼でそんなことをさらりと言う信長に、田宮は点を仰いだ。
 「これなんてエロゲ…?」

 何かがちょっと違う戦国時代の尾張に流れ着いた田宮ら自衛隊の物語は、まだ始まったばかりだった。
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