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05 北陸の軍神編
因縁の再会と心乱れ戸惑う戦乙女
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11
越中と越後の国境付近。
雪がちらつく中、上杉謙信は側近たちと少数の兵を連れて織田の陣へと向かっていた。
降伏の条件を話し合うために。
随行している直江兼続は、苦虫をかみつぶした顔が表にでないように苦労していた。
謙信が降伏を決意したときのことが頭から離れないのだ。他の者も同じ気持ちだった。
「上杉謙信殿、寒い中ご苦労である。織田信長だ」
織田の陣では、長い赤い髪が美しい少女が謙信たちを出迎える。派手なこしらえの鎧、自信に満ちた表情、全身に待とう貫禄。
直接面識はないが、なるほど、これが信長かと思える人物だった。
謙信たちは、本陣の中央にある建物に通される。
戦場で建てられる、いわゆる掘っ立て小屋であるのに、ずいぶん機能的かつ快適なことに驚く。
南蛮式のものらしい暖炉が炊かれ、意外なほど暖かい。
「織田信長公、上杉謙信でございます。貴家に多大なご迷惑をおかけしたにも関わらず、交渉の場を設けて下さり、感謝の極みです」
「まあ座ってくれ。
茶なりと振る舞おうぞ」
そう言って信長は気さくに上杉の一同に椅子を勧め、紅茶と菓子の用意をさせる。
(噂はあてにならないものだな)
謙信は思う。自らを第六天魔王などと称し、伝統や既存の権力をものともしない。容赦のない戦いぶりで、敵をことごとく滅する。
自分たちが聞いた織田信長の人物像は怖ろしい暴君という印象だった。
だが、こうして会って話してみると、なかなかに好感が持てる人物に思える。
陣中の信長お気に入りの洋風のテーブルに全員が着く。織田がわには、柴田勝家、前田利家、羽柴秀吉の他、陸自統括の木場一等陸佐も列席している。
上杉側は、謙信の他に景勝と兼継だ。
「本当にこの条件でよろしいのか?」
降伏の条件を記した書面に目を走らせた謙信は、その内容に驚く。
「ああ、悪いが、地下資源の“ろいやりてぃ”つまり採掘料は1割だ。賠償金代わりと思ってもらう。
それと、越中、能登からは手を引いてもらう」
謙信は再び書面を読み返す。だが、読み間違いではないようだ。そこに書かれているのは、驚くほど寛大な条件だった。
1 上杉家は信濃及び上野に対する侵略を謝罪する。
2 上杉家は、越中、能登に関する一切の領地、権益を放棄する。以後断りなく信濃、上野、越中、能登に兵を進めることはならない
3 上野、信濃から上杉に亡命した者たちに関しては、織田家の預かりとする。ただし、いずれ召し抱えることを約する。
4 上杉家は、織田家より越後、佐渡を安堵する書状を受け取るものとする。
5 越後、佐渡の地下資源の採掘に関して、織田家に採掘権が認められる。ただし、上杉家に対して収益の1割を採掘量として支払うものとする。
6 上杉謙信は隠居し、上杉景勝に家督を譲るものとする。
他にも細かい条件は着いていたが、おおむね以上のようなものだった。
所領安堵の形で織田に臣従し、謙信は隠居、越中と能登の権益や領地も剥奪というのはそれなりに苦い条件だ。
だが、関係者の処罰も求められないし、越後、佐渡は安堵、しかも、亡命者も安全は保証されるというのだから、敗者には破格の条件であることは間違いない。
なにより、ただで差し出すことになるだろうと思っていた地下資源に、減額されたとは言え採掘料まで払ってもらえるというのだから、嘘のようなおいしい話だった。
「人質なども出さなくていいとおっしゃる?」
「人質は、強いて言うならあなたがた全員だ。
考えても見ろ。裏切ったらどうなるか、あなたがたの方がよくご存じではないか?
裏切ったり逃げだそうとしたら、今度は春日山城ごと…」
信長は手で“ボンッ”と表現してみせる。
謙信以下、上杉の一同の表情が凍り付く。信長を怒らせない方が良さそうだと全員が認識する。
あの空飛ぶ柱が炸裂したらどうなるか。早々に死ねたものはまだ幸い。全身に金属の破片が食い込み、苦しみながら死ぬか、あるいは全身に火傷を負って苦しみながら生きるか。
男たちの肉便器として、慰み者になりながら生かされた方がまだましと思える悲惨な末路を想像してしまったのだ。
「承知致しました。
この条件で降伏を受け入れます。
今このときより、上杉家は織田家のために全力で働くことを約します」
謙信がそう言ってこうべを垂れる。兼継ら、上杉がわの列席者もそれにならう。
「うむ。越後の竜の力、存分にあてにさせてもらう」
信長は上機嫌に微笑んだ。
さて、陣の外では意外な再会が行われていた。
「げ、利家?」
「げ、とはなんだ!慶次郎、出奔してどこをほっつき歩いているかと思えば…」
堅苦しい雰囲気を嫌い、降伏の会議には列席せず外で馬番をしていた慶次郎は、おじである利家とばったり会ってしまっていたのだ。
慶次郎の遊女のように派手な衣装や化粧は遠くからでも目立つし、間違いようがない。
「ほっつき歩いてとは心外!上杉家で立派にやってますよーだ!」
「どうだか!上杉でもやらかしてそうなもんだ。
だいたいお前、松に変なこと教えたろう?人の女房になにしてくれてるんだ!」
「変なことはないでしょ!お松っちゃんは“早く旦那様に相応しい女になりたい”って、背伸びのしたいお年頃ですから。このお姉さんがいろいろ教えてあげただけで」
「松は実際まだ幼いんだ!
背伸びしたいお年頃だからって、ものには限度があるわ!」
利家の一喝に、さすがに慶次郎はまずったかという表情になる。
利家と松は年の差夫婦で、松が然るべき年齢になるまで男女の関係にはならないことを利家は決めている。
だが、お年頃で、まだ幼いなりに利家を男として思っている松にはそれが寂しいことでもあった。
そこにつけ込んで、慶次郎が“大人の女とは”“殿方はどうすれば喜ぶか”などとこじつけて松にあれやこれや教え込んでいたのだ。
まだあどけない妻が、幼いなりに精一杯自分を誘惑しようとする姿に、利家は愛欲と理性の間で板挟みになり、天国と地獄を同時に味わうはめになったのだ。
「はあ…。わかった。悪かった、さすがにやり過ぎだったよ。
でも、老婆心だけど、女の子ってびっくりするほど早く女に成長するんだよ?
いつまでも子供扱いしてっと、傷つけちゃうかもよお?」
慶次郎のその言葉を聞いて、利家は身につまされるものがあった。松が自分を本気で愛してくれていることはわかっているが、どうしても子供扱いしてしまう自覚があるから。
「ま、ご忠告はありがたく頂いておくよ。
で、慶次郎、何か用か?」
「ああ、ちょっとお花摘みをね。なんだかお手洗いらしいのが見当たらないけど、あんたがたの方じゃどうしてんの?」
慶次郎のその言葉を聞いて、利家の頭に会心の考えが閃く。
「ああ、こっちだ。
ここの便所はじえいたいの方式を取り入れていてな。最初は少し勝手が違うが、なれると快適だぞ」
利家は、自衛隊の施設科が設計し、製作した野外用の便所に慶次郎を案内する。
これは、小田原の織田総本部で採用されたものを、インフラフェチの施設科がさらに発展させたものだった。
外見としては、21世紀の工事現場などで見られる野外トイレを木造で再現したというところか。一応“厠”と書いてはあるが、こちらの感覚では一見して便所に見えなくても無理はない。
「使い方は内側の張り紙に書いてあるからな。
もし汚したところがあったら拭いておけよ」
そう言って、利家は慶次郎を洋式便所に案内する。
兵の数が多いため、ありふれた和式のくみ取り式便所も当然もあるのだが、あえてこちらに案内した。個室が開いていたのはもっけの幸い、と利家は思った。
ややあって…。
「ふわああああああああーーーーーーっ!?」
便所から慶次郎の黄色い素っ頓狂な悲鳴が響き渡ったのだった。
利家はぐっと拳を握る。狙い通り、好奇心がおもむくままに洗浄便座を使ったらしい。こちらの人間、特に女は、洗浄便座初体験の時はみなびっくりして、大げさに反応して大声を出してしまう。
今までされてきた悪戯のお返しだとばかりに利家はほくそ笑む。
それにしても、と利家は思う。便所は軍事において重要な要素だが、これだけ機能的で快適な便所を持ち運べるように設計するとは。自衛隊の技術と想像力には恐れ入るほかない。
自衛隊施設科が完成させたその野外用便所は洋式で、簡易的な給水タンクと浄化槽によって水洗式になっている。それだけならまだしも、簡易的な洗浄便座までついているのだった。
施設科が例によって予備のバッテリーやモーターなど、あり合わせの材料で完成させたものだが、驚くのはまだ早い。なんと、洗浄便座用の給水タンクはオイル焚きの弱火であぶられ、ぬるま湯を蓄えているのだ。これで寒い野外でも、洗浄便座の水の冷たさに震えることもない。
おかげで、慶次郎の積年のいたずらに対するお仕置きができた。
利家はいろいろな意味で、自衛隊施設科の技術力と頑張りに感謝するのだった。
12
織田と上杉の和睦の会議は滞りなく進み、文書に双方の署名がなされ、花押が描かれていく。
「そうだ、一応記録しておこうかな。
木場一佐。“かめら”をお借りできないか?」
「わかりました。
誰か、カメラを用意してくれ」
信長の求めに応じて木場が陣幕の外に呼びかける。
「はい、ただいま」
そう言って、カメラを持って入って来たのは田宮二尉だった。
「そなた…あの時の…」
「ああ、これは謙信様。またお会いできて光栄です」
謙信は、田宮の顔を見ると、胸がざわざわとして顔が赤くなっていくのを抑えられなかった。水行の時に出会い、“美しい”と露骨に褒められて急に恥ずかしくなったのを思いだしてしまったのだ。
「なんだ知、謙信殿と面識があるのか?」
信長が意外そうな顔をする。偵察に参加していたから、田宮が謙信の顔を知っているのは格別不思議ではない。が、謙信の方が田宮を知っているのは意外だった。
「まあその…偵察に出ている時にちょっと…」
(そこで気まずそうにならないでくれ。余計に恥ずかしくなってしまう…!)
謙信は、やましいことがあるわけでもないのに、さらに頬を赤く染めてしまう。
「わが妻よ。まさか、神様にまで手を出してたわけー?」
「種馬にも程があるでしょう…旦那様…」
秀吉が田宮に、にししとはにかみながら冗談めかして言う。勝家が白い頬を真っ赤に染める。
「ちょっ…!」
田宮が慌てる。その反応がまずかった。水行を邪魔して彼女のあられもない姿を見たのは確かに問題だ。が、ここで言葉に詰まってはさらにひどい誤解を招きかねない。
「どういうことだ?
謙信殿、まさかと思うが、わが夫があなたに狼藉を働いたのか?」
そう問いかけてくる信長は、一件切迫しているようだが、本気ではない。目が笑っている。
彼女の夫である田宮という男に信頼と愛情を置いているのがわかる。秀吉や勝家も同じようだ。田宮に愛してもらえるなら、彼を独占できないことなど些末なことなのだろう。
そして、謙信自身も、田宮はそれを可能にするくらいいい男だと思える。
「お間違いなきよう。
作戦中に水を汲みに来た田宮殿が、水行をしていた私とばったり会ってしまったのだ。
私は特に気にしていないのだが、田宮殿が邪魔をしたと気にしていたようでな」
信長が、謙信の言葉を聞いて“ふーん?”という顔になる。
なにか察するところがあるようだ。秀吉も勝家も同じらしい。だが、謙信はなにを察せられているのかがわからなかった。
「わが夫よ、本当か?」
「本当ですって!てか近いです!」
信長は田宮に顔を近づけ、目をのぞき込みながら問う。
もちろん本気で疑っているわけではないだろう。信長と田宮の間には、深い愛情と強い信頼関係がある。端で見ていてもそれは良くわかる。
ずくん…。
謙信は胸が激しく痛むのを感じた。
(なんだ…?この感覚は…?すごく痛い…そして切ない…)
謙信は、すぐに胸ではなく心が痛いのだと気づく。そして、その痛みの正体に気づいて愕然とする。
(私は…信長殿に嫉妬している…?他人のものを欲しいと思っている?
なんということ…)
「す…すまない…。
いつもの修養の刻限でな。景勝、兼継、後は任せる。
私は先に戻っている」
「お母さん…?」
「謙信様?」
自分でも正体のわからないものに突き動かされるまま、謙信はそれだけ言って織田の陣を後にして馬を走らせる。
「あの、ご無礼致しました。
我が君は、いつもはこのような礼を欠いた振る舞いをなさる人物ではないのですが…」
後に残された兼継が頭を下げる。
「いやいや、気にしてはいない。
今謙信殿に起きていることは、とても素敵なことであろうからな」
「ですねー」
「ええ」
「素敵なこと…ですか?」
信長、秀吉、勝家がそろって慈母観音のような優しい笑顔を浮かべた意味が、兼継にはわからなかった。
謙信とのつき合いは長いが、あそこまで余裕のない様子を見るのは初めてだった。
その原因を信長たちはわかっているというのか?
「もしかして…」
一方、景勝は謙信のただならぬ状態に察するところがあったが、にわかには信じられなかった。
自分の義母は、自らを神の化身と定めている。
それが…と思わずにはいられなかったのだ。
かくして、上杉は織田に下り、戦いは終結することとなる。
が、謙信の心境の変化がこの後一騒動を起こすことになるなど、このときはまだ誰も予想していなかったのである。
春日山城では、謙信が単衣一枚の姿で水行をしていた。
雪がちらつく中、井戸の水を何度もくみ上げ体にかぶる。
「落ち着け…わが心よ。平常心を保て…!」
どれだけ冷たい水をかぶり、念じ続けても、謙信の心は揺れ動き続けるばかりだった。
胸がざわざわとして、痛く切ない気持ちが一向に収まらない。
(なぜだ…なぜ信長殿たちに対する妬ましい気持ちが止まらない…?
田宮殿を欲しいと思う気持ちを止められない…?)
謙信は自分の中に初めて芽生えた気持ちに恐怖した。
自分は信長や秀吉や勝家に嫉妬した。
他人のものなのに、欲しいと思ってしまった。なぜ、あの男が彼女らではなく自分の隣にいないのか、それが悔しい、悲しい、と。
どれだけ理性で抑えようとしても、忌まわしい嫉妬の気持ちが後から後から溢れてくる。
自分がわからない。信じられない。抑えられない。
(私の心は乱れ、穢れてしまった…。
もう…この身に神を下ろすことはかなわない…)
謙信は思い詰めたまま、冷たい水に濡れた姿のまま1人途方にくれた。
そして、負の感情は悪い方向に連鎖していく。
こんな浅ましい自分を見られたくない。逃げ出したい。ここにいたくない。
潔癖で生真面目な謙信は、どんどん自分を追い込んでいってしまうのだった。
越中と越後の国境付近。
雪がちらつく中、上杉謙信は側近たちと少数の兵を連れて織田の陣へと向かっていた。
降伏の条件を話し合うために。
随行している直江兼続は、苦虫をかみつぶした顔が表にでないように苦労していた。
謙信が降伏を決意したときのことが頭から離れないのだ。他の者も同じ気持ちだった。
「上杉謙信殿、寒い中ご苦労である。織田信長だ」
織田の陣では、長い赤い髪が美しい少女が謙信たちを出迎える。派手なこしらえの鎧、自信に満ちた表情、全身に待とう貫禄。
直接面識はないが、なるほど、これが信長かと思える人物だった。
謙信たちは、本陣の中央にある建物に通される。
戦場で建てられる、いわゆる掘っ立て小屋であるのに、ずいぶん機能的かつ快適なことに驚く。
南蛮式のものらしい暖炉が炊かれ、意外なほど暖かい。
「織田信長公、上杉謙信でございます。貴家に多大なご迷惑をおかけしたにも関わらず、交渉の場を設けて下さり、感謝の極みです」
「まあ座ってくれ。
茶なりと振る舞おうぞ」
そう言って信長は気さくに上杉の一同に椅子を勧め、紅茶と菓子の用意をさせる。
(噂はあてにならないものだな)
謙信は思う。自らを第六天魔王などと称し、伝統や既存の権力をものともしない。容赦のない戦いぶりで、敵をことごとく滅する。
自分たちが聞いた織田信長の人物像は怖ろしい暴君という印象だった。
だが、こうして会って話してみると、なかなかに好感が持てる人物に思える。
陣中の信長お気に入りの洋風のテーブルに全員が着く。織田がわには、柴田勝家、前田利家、羽柴秀吉の他、陸自統括の木場一等陸佐も列席している。
上杉側は、謙信の他に景勝と兼継だ。
「本当にこの条件でよろしいのか?」
降伏の条件を記した書面に目を走らせた謙信は、その内容に驚く。
「ああ、悪いが、地下資源の“ろいやりてぃ”つまり採掘料は1割だ。賠償金代わりと思ってもらう。
それと、越中、能登からは手を引いてもらう」
謙信は再び書面を読み返す。だが、読み間違いではないようだ。そこに書かれているのは、驚くほど寛大な条件だった。
1 上杉家は信濃及び上野に対する侵略を謝罪する。
2 上杉家は、越中、能登に関する一切の領地、権益を放棄する。以後断りなく信濃、上野、越中、能登に兵を進めることはならない
3 上野、信濃から上杉に亡命した者たちに関しては、織田家の預かりとする。ただし、いずれ召し抱えることを約する。
4 上杉家は、織田家より越後、佐渡を安堵する書状を受け取るものとする。
5 越後、佐渡の地下資源の採掘に関して、織田家に採掘権が認められる。ただし、上杉家に対して収益の1割を採掘量として支払うものとする。
6 上杉謙信は隠居し、上杉景勝に家督を譲るものとする。
他にも細かい条件は着いていたが、おおむね以上のようなものだった。
所領安堵の形で織田に臣従し、謙信は隠居、越中と能登の権益や領地も剥奪というのはそれなりに苦い条件だ。
だが、関係者の処罰も求められないし、越後、佐渡は安堵、しかも、亡命者も安全は保証されるというのだから、敗者には破格の条件であることは間違いない。
なにより、ただで差し出すことになるだろうと思っていた地下資源に、減額されたとは言え採掘料まで払ってもらえるというのだから、嘘のようなおいしい話だった。
「人質なども出さなくていいとおっしゃる?」
「人質は、強いて言うならあなたがた全員だ。
考えても見ろ。裏切ったらどうなるか、あなたがたの方がよくご存じではないか?
裏切ったり逃げだそうとしたら、今度は春日山城ごと…」
信長は手で“ボンッ”と表現してみせる。
謙信以下、上杉の一同の表情が凍り付く。信長を怒らせない方が良さそうだと全員が認識する。
あの空飛ぶ柱が炸裂したらどうなるか。早々に死ねたものはまだ幸い。全身に金属の破片が食い込み、苦しみながら死ぬか、あるいは全身に火傷を負って苦しみながら生きるか。
男たちの肉便器として、慰み者になりながら生かされた方がまだましと思える悲惨な末路を想像してしまったのだ。
「承知致しました。
この条件で降伏を受け入れます。
今このときより、上杉家は織田家のために全力で働くことを約します」
謙信がそう言ってこうべを垂れる。兼継ら、上杉がわの列席者もそれにならう。
「うむ。越後の竜の力、存分にあてにさせてもらう」
信長は上機嫌に微笑んだ。
さて、陣の外では意外な再会が行われていた。
「げ、利家?」
「げ、とはなんだ!慶次郎、出奔してどこをほっつき歩いているかと思えば…」
堅苦しい雰囲気を嫌い、降伏の会議には列席せず外で馬番をしていた慶次郎は、おじである利家とばったり会ってしまっていたのだ。
慶次郎の遊女のように派手な衣装や化粧は遠くからでも目立つし、間違いようがない。
「ほっつき歩いてとは心外!上杉家で立派にやってますよーだ!」
「どうだか!上杉でもやらかしてそうなもんだ。
だいたいお前、松に変なこと教えたろう?人の女房になにしてくれてるんだ!」
「変なことはないでしょ!お松っちゃんは“早く旦那様に相応しい女になりたい”って、背伸びのしたいお年頃ですから。このお姉さんがいろいろ教えてあげただけで」
「松は実際まだ幼いんだ!
背伸びしたいお年頃だからって、ものには限度があるわ!」
利家の一喝に、さすがに慶次郎はまずったかという表情になる。
利家と松は年の差夫婦で、松が然るべき年齢になるまで男女の関係にはならないことを利家は決めている。
だが、お年頃で、まだ幼いなりに利家を男として思っている松にはそれが寂しいことでもあった。
そこにつけ込んで、慶次郎が“大人の女とは”“殿方はどうすれば喜ぶか”などとこじつけて松にあれやこれや教え込んでいたのだ。
まだあどけない妻が、幼いなりに精一杯自分を誘惑しようとする姿に、利家は愛欲と理性の間で板挟みになり、天国と地獄を同時に味わうはめになったのだ。
「はあ…。わかった。悪かった、さすがにやり過ぎだったよ。
でも、老婆心だけど、女の子ってびっくりするほど早く女に成長するんだよ?
いつまでも子供扱いしてっと、傷つけちゃうかもよお?」
慶次郎のその言葉を聞いて、利家は身につまされるものがあった。松が自分を本気で愛してくれていることはわかっているが、どうしても子供扱いしてしまう自覚があるから。
「ま、ご忠告はありがたく頂いておくよ。
で、慶次郎、何か用か?」
「ああ、ちょっとお花摘みをね。なんだかお手洗いらしいのが見当たらないけど、あんたがたの方じゃどうしてんの?」
慶次郎のその言葉を聞いて、利家の頭に会心の考えが閃く。
「ああ、こっちだ。
ここの便所はじえいたいの方式を取り入れていてな。最初は少し勝手が違うが、なれると快適だぞ」
利家は、自衛隊の施設科が設計し、製作した野外用の便所に慶次郎を案内する。
これは、小田原の織田総本部で採用されたものを、インフラフェチの施設科がさらに発展させたものだった。
外見としては、21世紀の工事現場などで見られる野外トイレを木造で再現したというところか。一応“厠”と書いてはあるが、こちらの感覚では一見して便所に見えなくても無理はない。
「使い方は内側の張り紙に書いてあるからな。
もし汚したところがあったら拭いておけよ」
そう言って、利家は慶次郎を洋式便所に案内する。
兵の数が多いため、ありふれた和式のくみ取り式便所も当然もあるのだが、あえてこちらに案内した。個室が開いていたのはもっけの幸い、と利家は思った。
ややあって…。
「ふわああああああああーーーーーーっ!?」
便所から慶次郎の黄色い素っ頓狂な悲鳴が響き渡ったのだった。
利家はぐっと拳を握る。狙い通り、好奇心がおもむくままに洗浄便座を使ったらしい。こちらの人間、特に女は、洗浄便座初体験の時はみなびっくりして、大げさに反応して大声を出してしまう。
今までされてきた悪戯のお返しだとばかりに利家はほくそ笑む。
それにしても、と利家は思う。便所は軍事において重要な要素だが、これだけ機能的で快適な便所を持ち運べるように設計するとは。自衛隊の技術と想像力には恐れ入るほかない。
自衛隊施設科が完成させたその野外用便所は洋式で、簡易的な給水タンクと浄化槽によって水洗式になっている。それだけならまだしも、簡易的な洗浄便座までついているのだった。
施設科が例によって予備のバッテリーやモーターなど、あり合わせの材料で完成させたものだが、驚くのはまだ早い。なんと、洗浄便座用の給水タンクはオイル焚きの弱火であぶられ、ぬるま湯を蓄えているのだ。これで寒い野外でも、洗浄便座の水の冷たさに震えることもない。
おかげで、慶次郎の積年のいたずらに対するお仕置きができた。
利家はいろいろな意味で、自衛隊施設科の技術力と頑張りに感謝するのだった。
12
織田と上杉の和睦の会議は滞りなく進み、文書に双方の署名がなされ、花押が描かれていく。
「そうだ、一応記録しておこうかな。
木場一佐。“かめら”をお借りできないか?」
「わかりました。
誰か、カメラを用意してくれ」
信長の求めに応じて木場が陣幕の外に呼びかける。
「はい、ただいま」
そう言って、カメラを持って入って来たのは田宮二尉だった。
「そなた…あの時の…」
「ああ、これは謙信様。またお会いできて光栄です」
謙信は、田宮の顔を見ると、胸がざわざわとして顔が赤くなっていくのを抑えられなかった。水行の時に出会い、“美しい”と露骨に褒められて急に恥ずかしくなったのを思いだしてしまったのだ。
「なんだ知、謙信殿と面識があるのか?」
信長が意外そうな顔をする。偵察に参加していたから、田宮が謙信の顔を知っているのは格別不思議ではない。が、謙信の方が田宮を知っているのは意外だった。
「まあその…偵察に出ている時にちょっと…」
(そこで気まずそうにならないでくれ。余計に恥ずかしくなってしまう…!)
謙信は、やましいことがあるわけでもないのに、さらに頬を赤く染めてしまう。
「わが妻よ。まさか、神様にまで手を出してたわけー?」
「種馬にも程があるでしょう…旦那様…」
秀吉が田宮に、にししとはにかみながら冗談めかして言う。勝家が白い頬を真っ赤に染める。
「ちょっ…!」
田宮が慌てる。その反応がまずかった。水行を邪魔して彼女のあられもない姿を見たのは確かに問題だ。が、ここで言葉に詰まってはさらにひどい誤解を招きかねない。
「どういうことだ?
謙信殿、まさかと思うが、わが夫があなたに狼藉を働いたのか?」
そう問いかけてくる信長は、一件切迫しているようだが、本気ではない。目が笑っている。
彼女の夫である田宮という男に信頼と愛情を置いているのがわかる。秀吉や勝家も同じようだ。田宮に愛してもらえるなら、彼を独占できないことなど些末なことなのだろう。
そして、謙信自身も、田宮はそれを可能にするくらいいい男だと思える。
「お間違いなきよう。
作戦中に水を汲みに来た田宮殿が、水行をしていた私とばったり会ってしまったのだ。
私は特に気にしていないのだが、田宮殿が邪魔をしたと気にしていたようでな」
信長が、謙信の言葉を聞いて“ふーん?”という顔になる。
なにか察するところがあるようだ。秀吉も勝家も同じらしい。だが、謙信はなにを察せられているのかがわからなかった。
「わが夫よ、本当か?」
「本当ですって!てか近いです!」
信長は田宮に顔を近づけ、目をのぞき込みながら問う。
もちろん本気で疑っているわけではないだろう。信長と田宮の間には、深い愛情と強い信頼関係がある。端で見ていてもそれは良くわかる。
ずくん…。
謙信は胸が激しく痛むのを感じた。
(なんだ…?この感覚は…?すごく痛い…そして切ない…)
謙信は、すぐに胸ではなく心が痛いのだと気づく。そして、その痛みの正体に気づいて愕然とする。
(私は…信長殿に嫉妬している…?他人のものを欲しいと思っている?
なんということ…)
「す…すまない…。
いつもの修養の刻限でな。景勝、兼継、後は任せる。
私は先に戻っている」
「お母さん…?」
「謙信様?」
自分でも正体のわからないものに突き動かされるまま、謙信はそれだけ言って織田の陣を後にして馬を走らせる。
「あの、ご無礼致しました。
我が君は、いつもはこのような礼を欠いた振る舞いをなさる人物ではないのですが…」
後に残された兼継が頭を下げる。
「いやいや、気にしてはいない。
今謙信殿に起きていることは、とても素敵なことであろうからな」
「ですねー」
「ええ」
「素敵なこと…ですか?」
信長、秀吉、勝家がそろって慈母観音のような優しい笑顔を浮かべた意味が、兼継にはわからなかった。
謙信とのつき合いは長いが、あそこまで余裕のない様子を見るのは初めてだった。
その原因を信長たちはわかっているというのか?
「もしかして…」
一方、景勝は謙信のただならぬ状態に察するところがあったが、にわかには信じられなかった。
自分の義母は、自らを神の化身と定めている。
それが…と思わずにはいられなかったのだ。
かくして、上杉は織田に下り、戦いは終結することとなる。
が、謙信の心境の変化がこの後一騒動を起こすことになるなど、このときはまだ誰も予想していなかったのである。
春日山城では、謙信が単衣一枚の姿で水行をしていた。
雪がちらつく中、井戸の水を何度もくみ上げ体にかぶる。
「落ち着け…わが心よ。平常心を保て…!」
どれだけ冷たい水をかぶり、念じ続けても、謙信の心は揺れ動き続けるばかりだった。
胸がざわざわとして、痛く切ない気持ちが一向に収まらない。
(なぜだ…なぜ信長殿たちに対する妬ましい気持ちが止まらない…?
田宮殿を欲しいと思う気持ちを止められない…?)
謙信は自分の中に初めて芽生えた気持ちに恐怖した。
自分は信長や秀吉や勝家に嫉妬した。
他人のものなのに、欲しいと思ってしまった。なぜ、あの男が彼女らではなく自分の隣にいないのか、それが悔しい、悲しい、と。
どれだけ理性で抑えようとしても、忌まわしい嫉妬の気持ちが後から後から溢れてくる。
自分がわからない。信じられない。抑えられない。
(私の心は乱れ、穢れてしまった…。
もう…この身に神を下ろすことはかなわない…)
謙信は思い詰めたまま、冷たい水に濡れた姿のまま1人途方にくれた。
そして、負の感情は悪い方向に連鎖していく。
こんな浅ましい自分を見られたくない。逃げ出したい。ここにいたくない。
潔癖で生真面目な謙信は、どんどん自分を追い込んでいってしまうのだった。
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