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05 北陸の軍神編

恋わずらう君主の出奔と、雪の中の龍神

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 『こちらハチクマ。司令部へ定時連絡。
 現在高城山上空。
 対象いまだ発見できず』
 UH-60JAの機長が、越中に置かれた自衛隊司令部に対して定時報告を入れる。
 「やはり、簡単には見つからないか。
 せめて赤外線で見つけられればいいが…」
 キャビンに収まる田宮は、捜索対象を見つけることの困難さに舌打ちする。
 ドアが開け放たれているヘリの機内は、風に吹かれてどうにも寒かった。ただでさえ北陸の冬は厳しいのに、高度800メートルで吹き付ける風はまるで冷たい刃のようにさえ思えた。
 ついでに、昨日降った雪で下界は一面白化粧だ。
 捜索対象が無事だといいが…。
 そんなことを思わずにはいられなかった。

 その日、春日山城は騒然となった。
 主である上杉謙信が、置き手紙を残して出奔してしまったのだ。
 出奔とは要するに家出のことだ。
 家臣が主君に見切りを付けて出奔してしまうというのはあり得る話だ。
 が、隠居する予定とは言え、一つの大名家の当主が家を捨てて出奔など本来ならあり得ないことだった。
 家臣たちはパニック状態だった。
 景勝が後継者に決まっているとは言え、越後にはまだまだ謙信の威光と指導力が必要なのだ。いや、今謙信がいなくなれば、越後は再び分裂してしまうかも知れなかった。

 謙信が出奔したという知らせは、春日山城に駐留していた自衛隊の防衛駐在官によって、越中の自衛隊駐屯地と、織田の陣にももたらされる。
 当然のように、織田勢と自衛隊も騒然となる。
 隠居を要求しておいてなんだが、謙信のカリスマ性はしばらく利用させてもらうことになるだろう。
 資源の採掘にしても、現地の住人たちが言うことを聞かなければどうにもならないからだ。
 なにより、謙信という要なしでは、上杉家に降伏の際の約定を守らせることができるかどうかさえ疑問だった。
 「知、お前が捜索に行け」
 「は?俺がですか?」
 自衛隊の食堂で朝食のパンとコーヒー(甲信でとれた麦で作ったパンと、南蛮人から買い入れたマニラ産のコーヒー)を楽しんでいた田宮の元に、信長が直々におもむいて命令したのだ。
 「いいから行け!謙信殿を連れ戻せるのはおそらくお前だけだ!」
 「男として責任取らないとね-」
 「謙信様も、本当はきっと探して欲しいと思っているぞ」
 信長だけでなく、横に控えている秀吉と勝家も、生暖かい笑みを田宮に向けながらさっさと行けと急かす。
 田宮はほとんど問答無用で送り出され、UH-60JAを借用して謙信の捜索におもむいたのだった。
 (しかし、俺謙信様になにかしたか?どうもよくわからない)
 水行を邪魔したことはきちんと謝ったつもりだし、謙信も気にしないといっていた。田宮は、自分が謙信を連れ戻す役目を拝命した理由がわからないのだった。
 もちろん謙信には個人的に好感を持っているし、こんな寒い中で凍えているかも知れないと思えば、喜んで捜索に向かうつもりではいたが。

 謙信の手がかりは意外に早く見つかった。
 越後と信濃の国境の上空に滞空していた飛行船型UAVのカメラが、辛うじて謙信の姿をとらえていたのだ。
 謙信が向かった方角はかなり詳細につかめた。が、山林の中に入られてしまうとさすがに上空からはとらえることができない。
 ヘリを飛ばして赤外線で探索する以外にはないのだった。
 田宮は春日山城にヘリを乗り付けて事情を聞き、道案内をするからと強引に乗り込んできた兼継、景勝、慶次郎を乗せて、謙信が向かった方角へと飛び立ったのだった。

 「ちっ!見失った。
 今の今まではっきりと写ってたんだが」
 ヘリのコ・パイロットがセンサーのスクリーンを見ながら舌打ちする。下に拡がる木立の影に、人間と思しい赤外線反応があったのだが、ロストしてしまったのだ。
 田宮は考える。低温の中では赤外線反応を見つけやすいが、ごまかす方法がないではない。
 動きを止めて、上着で体を覆えば周りの木立や岩肌と見分けがつかなくなることもある。
 まあ、このお天気の中で動きを止めたらさぞ寒いことだろうが。
 「俺が下りて捜索します!高度を下げて下さい!」
 「わかった。気をつけてな!」
 ヘリが高度を下げてホバリングに入る。
 田宮はロープを股下に渡して結び、カラビナを取り付ける。カラビナにヘリの天井のフックからつるされたロープを結び、リペリングで地上に降下していく。
 地面に膝を突いて、周囲の様子をうかがう。うまく足跡を残さないように進んでいるが、明らかに人が通った痕跡がある。
 (幹部レンジャー課程で習ったことがこういう形で生きるとは)
 田宮は先人たちの教えに感謝した。
 岩や木の根の上にかすかだが足跡がある。所々、木の枝をほうきのように用いて足跡を消している痕跡がある。
 田宮は息を潜め、慎重に歩き出す。
 目的の人物はやがて見つかった。
 「謙信様!」
 田宮の呼びかけに振り向いた謙信は、まるで怖ろしいものでも見たような表情になる。
 そして、脱兎のごとく逃げ出す。
 「謙信様!お待ち下さい!」
 田宮は必死で追いかける。
 いかに謙信の身体能力が高く、雪道に馴れているとはいえ、田宮との距離は序序に縮まっていく。
 歩幅で田宮が有利であることに加えて、わらじとゴアテックスの高性能ブーツでは走破性に圧倒的な差があるのだ。
 「謙信様、話を聞いて下さい!」
 「来てはならん!」
 川に行き当たって足を止めた謙信は、引き裂くような声で叫ぶ。
 「謙信様、お願いですから話し合いましょう」
 「田宮…私は…私は…!」
 謙信が自分の体をかき抱いて、嗚咽を漏らし始める。
 田宮は努めて優しい笑顔を向けながら近づこうとする。が、そこで唐突に謙信が逃げ回っていた理由を察することになる。
 「謙信様…それはまさか“邪気”…?」
 黒い蛇のような、影ともガスともつかないものが謙信の体の表面に蠢いている。人の心が闇に呑まれた時に起こる厄災。
 “邪気”と呼ばれる厄介な怪現象だった。
 「謙信様…」
 田宮は切磋に謙信にかける言葉が見つからなかった。
 謙信があまりにも悲しげな表情をしていたから。一体、何が彼女にこんな悲しい顔をさせてしまったのか。それがわからなかったのだ。
 「あああああああアアアアアアアアアアアアアッ…!」
 この世のものとは思えない怖ろしい声とともに、謙信の体がCG画像さながら急激に大きくなっていく。
 女らしい細いからだがみるみる巨大な塊となっていき、やがて物の怪となってはっきりと形をなす。
 「なんてこった…」
 田宮には他に言葉がなかった。
 目の前にあったのは巨大な竜の姿だった。こうしてみるとまるっきり怪獣だ。頭蓋骨の全長だけで2メートル以上ある。全長は正面からははきとはしないが、50メートルもあるかも知れない。
 だが、一番目を引いたのは頭部の異形さだった。竜の頭頂部に謙信の面影を残す上半身がバストアップのように突き出ている。
 (あの美しかった謙信様が、なんて姿に…)
 田宮は素直にそう思わずにはいられなかった。
 「アアアアアアアアアアアア…」
 物の怪が頭をもたげ、こちらを見下ろす。

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 謙信の様子は、上空のUH-60JAからもはっきりと見えた。
 「謙信様が物の怪に…うそだ…うそだ…」
 「お母さん…」
 兼継と景勝が、驚愕と絶望のあまり思考停止している。
 神の化身を自称し、実際に神のような人物だった謙信が“邪気”に取り憑かれた事実が信じられずにいるのだ。
 2人とも、物の怪を見るのは初めてではない。
 だからわかる。ああなってしまった人間はもう戻ることはないと。
 「田宮ならなんとかする。やつにはその力がある」
 2人の絶望を察したかのように、ヘリのコ・パイロットが声をかけてくる。
 「もしかして噂は本当なのかい?
 “邪気”に取り憑かれて物の怪になった女を元に戻した男がいたってのは?」
 「ああ」
 慶次郎の問いに、機長が短く答える。
 今は、とにかく目の前の状況に集中しなければならない。
 ヘリは機首を竜の姿をした物の怪の方に向けた。

 来るか。だがどうする?
 田宮は物の怪と化した謙信を前にして、戦おうという気には全くなれなかった。どれだけ変わり果てても、目の前にいるのは謙信であることに変わりがない。
 だが、田宮はふと気づく。竜の頭に突き出た謙信の上半身、その顔が痛ましいほど悲しそうな表情を浮かべ、さめざめと泣いているのを。
 「なに…?」
 田宮は物の怪が取った意外な行動に切磋に反応ができなかった。
 物の怪と化した謙信は長い体を翻し、ものすごい速さで逃げ出したのだ。
 「くそ!」
 田宮は必死で追いかける。
 なんとなくわかる。謙信は逃げ出したいという思いに駆られている。追い付かなくてはならない。
 だが、どういう原理なのか竜の姿の謙信は地を滑るように木々の間を縫って進んでいく。まるでリニアモーターカーだ。
 『こちらハチクマ。ジャヴァウォック、どうなってる?』
 「こちらジャヴァウォック!見ての通りですよ!謙信様が“邪気”に取り憑かれたんです!追いかけてるところです!」
 田宮は走りながら必死で無線に応答する。
 幹部レンジャー課程のハイポート走と行軍訓練を思い出す。
 苦しい、限界だと思い始めてからが本番。
 そう教えられてきたし、そうあろうと努めてきたが、これはきつい。
 冷たい空気が容赦なく肺を冷やし、小銃が、ボディーアーマーが、鉄帽が、ブーツまでが鉛のように重く感じる。
 そうでなくとも、自分はもののけ姫の主人公の成年ではない。
 この道の悪いところで地を滑るように進む物の怪に追いつける道理がない。併走することさえ困難、とても物の怪の頭部にたどりつくことなどできそうにない。
 田宮は一か八かの策に出る。
 「ハチクマ、やつの正面に回り込んでくれ!
 ライトで視界を奪うんだ!」
 『ハチクマ了解!』
 竜の正面に回り込んだUH-60JAが前照灯を物の怪の顔に照らす。
 「グッ…!」
 急に強い光を受けた物の怪が思わず動きを止める。
 「よっしゃ!」
 田宮は全力をかけて走り、竜の首筋によじ登る。89式を背中に廻し、竜の鱗を足場に、竜の背びれに手をかけて、なんとか頭部に到達する。
 自分でも驚くほどの機動性と登坂力を発揮していた。今なら特戦群の入隊試験でも通れそうな気がする。
 「謙信様、失礼を!」
 田宮はそう言って、竜の頭部に突き出た謙信の上半身に後ろから抱きつき、素晴らしい胸の膨らみを両手でつかむ。
 「キャアアアアアアあああああああああああああーーーーーーーっ!」
 黄色い悲鳴が上がり、田宮の指の間からどす黒くおぞましいものが、ものすごい勢いで吹き出していく。
 まるで水道管の破裂かスプリンクラーのような勢いで、黒いガスのようなものが急速に放出され、拡散していく。
 そして、謙信の体がみるみる小さくなっていく。
 どれだけ時間が過ぎたろうか。気がつけば、田宮の腕の中には生まれたまま姿の謙信がいた。

 もともと美しく、神々しいとさえ思える女性だった。が、頬に残る涙の跡が、悲しみがさらに謙信を美しく見せているように見えた。
 こんなときに何を考えているのか。自分のスケベが時々忌まわしくなる。
 田宮は生まれたままの姿で意識を失っている謙信に、ポーチから取り出したレインパーカーを羽織らせながら、そんなことを考えていた。
 何が謙信をここまで追い込んでしまったのか。話を聞かなければならない。女性にとって、“邪気”に呑み込まれ物の怪と化してしまった事実は深刻な問題だ。ケアも必要になる。
 謙信を無事に連れ帰り、心の平穏を取り戻させなければ。
 田宮は決意を新たにしていた。

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