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06 鮮血の京都編
懸案事項の前進と月下の決断 あと進展妨害フラグは折れない
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15
京都郊外。
「安西政人二等陸尉に対し!敬礼!」
陸自統括の木場一等陸佐の号令で、整列している自衛隊員たちが一糸乱れぬ動作で敬礼する。
その日は、本能寺の変で戦死した安西二尉(二階級特進)の埋葬式だった。
本能寺の変で戦死した者たちの共同墓地がこの地に作られていた。だが、安西の埋葬式だけは自衛隊式で行うべきという意見が強かった。
結局、他の戦死者たちと一緒に法要するのを丁重にお断りして、日をずらして自衛隊式の葬儀を行うこととなったのだ。
隊員たちはみな整然としていたが、悲しい気持ちは同じだった。
安西は人望があったからなおのこと。
「みなさんよろしいか?
ただ悲しむだけでよいのです。
安西二尉という存在に縛られたらあきまへん。それでは生きているあなた方にとっても、これから旅立とうとする彼にとっても不幸なことなのです。
どうか、どなたさまもお心穏やかに。
かの人の死について、憎しみや恨み、わだかまりを持つことのなきように」
葬儀のために呼ばれた僧の言葉を、ある者は話半分に、あるものは感慨深く聞いていた。
(黄泉路は順調か、曹長?)
安西が殺されたことで、一時は復讐心に駆られていた田宮も、今はどうということはない。ただ、安西の冥福を祈るだけだった。
また一人の人物が死んで英雄になった。
人の死に縛られることは避けたいが、死に慣れることも達観することもしたくない。
ではどうすればいいのか?
その答えは、自衛隊員達の誰にもわからなかった。
その時はまだ。
安土城。
二階の南に面する食堂は、信長の好みによって洋風にまとめられている。
テーブルと椅子が置かれ、調度品も南蛮商人から買い受けたもの、あるいは自衛隊の協力で制作したものだ。
非常におしゃれで、一見しては日本の家屋とわからないほどだ。
平素であれば、信長はじめ織田家の者たちが和気あいあいと洋食をつついている光景が見られる。
だが、この日の食堂は緊張の糸が張りつめていた。
「みな、その…もう少し楽にしてはくれぬか?」
上座に座る、人当たりはいいが威厳に満ちた壮年の男性が苦笑交じりに言う。
正親町天皇である。
権威は衰えたとはいえ、天皇とテーブルを囲んでいるのである。しかも、本来なら天皇とは内裏からほとんど出てこない存在だ。
そのような人物が行幸され、一緒に食事をしている。緊張しない方がおかしい。
「防衛駐在官殿、どうかな?
私はなにか作法がおかしいところはないであろうか?」
「いえ、非常によろしいかと…。
さすがは帝。学習熱心な方とは伺っておりましたが、テーブルマナーを学んでおられるとは…」
突然話を振られた田宮は、言葉に詰まらないように注意しながら返答する。
実際、正親町天皇の洋食のテーブルマナーは完璧と言って良かった。
カモ肉のローストを一口サイズにうまく切って行く。ナイフとフォークは持ち替えない。スープはすすらない、など。
同席する織田家の武将や自衛隊員たちは、自分たちにこそマナーにもとるところがないか心配なほどだ。
安土城周辺では、信長と自衛隊の影響で洋食が広まっている。
それに合わせて、テーブルマナーも多くの人間に周知されている。
正親町天皇は知的好奇心の旺盛な人物だから、古いものばかりありがたがらずに、洋食もたしなんでみようと考えたのかも知れない。
だが、よもや、ひざを交えて話をしたいから、織田家の者たちや自衛隊の幹部と一緒に食事がしたいなどと、帝から直々に望まれるとは思いもよらなかったのだ。
「それでだ。右大臣殿。
考えて頂けただろうか?」
皆がカモ肉を食べ終えるのを待って、正親町天皇が話を切り出す。
「皇子様へのご譲位を急がれたいというお話なれど…。
謀反が発生し多くの血が京に流れた後です。縁起がよろしくないのではと。
さらに、ご譲位に際して費用と人手の多くをを持つはずだったのが、ご存じ足利公方と明智日向守です」
「彼女たちは貴君に謀反を起こした挙句に逃げてしまった…。
譲位のための予算の都合がつかぬか」
正親町天皇は嘆息する。
実際、本能寺の変は念願だった皇子への譲位がようやく実現すると喜んでいた矢先の出来事だったのだ。
天皇の譲位というのは想像もつかないほどに金も手間もかかる。
応仁の乱で京が荒れ果てて以降は、天皇は3代の間、譲位を行うことなく崩御している。荘園からの収入はとっくに途絶えていたし、譲位のための資金を融通してくれる有力な大名も現れなかったからだ。
そして、譲位を経済面から支援するはずだった義昭と光秀は、クーデターに失敗し逃亡してしまった。
「悪いことに、比叡山以外の寺や土倉などの金融業者も、公方に資金を融通していたことが発覚しました。
当分営業停止とせざるを得ないでしょう。
ご譲位のための資金を融通してくれる先がないのです」
信長はシンプルなデザインのグラスに注がれたアイスティーを飲み干しながら捕捉する。
義昭が煽動していた騒乱に資金を出していたのは比叡山だけではなかった。
畿内にある寺はもちろんのこと、堺や大津と言った都市部の金融業者までが資金提供をしていたことが発覚したのだ。
当然のように、刑事罰や営業停止などの措置を取る必要がある。資金の融通どころではないだろう。
それに、資金だけの問題ではない。
織田の後ろ盾で即位した帝を奉じれば、織田家の立場はより強固になる。
その一方で、新しい帝が織田の傀儡だと難癖を付ける者が出て来る可能性はある。
難しい問題なのだ。
だが、正親町天皇の決意は固いようだった。
「うむ。私もそこは理解しておる。
そこでだ。
右大臣殿。二条城を私に譲ってはもらえまいか?」
正親町天皇の言葉に、信長はもちろん、同席する全員が目を丸くする。
「二条城ですか?」
信長にとっては意外な話だった。
「うむ。足利公方が都落ちして空き家になっていると聞く。
誰か入る予定がなければ、二条城を仙洞の御所としたいのだ。
代金は分割にしてもらえれば必ず支払おう」
信長は考える顔になる。
仙洞の御所とは、上皇、つまり退位した天皇の住居だ。
実は、前述した譲位に金がかかる問題の中でも最大の懸案事項がこの仙洞の御所の問題だった。
仙洞の御所の建設には金も時間も手間もかかる。だが、仙洞の御所が確保できなければ譲位はまず不可能だ。
一方で、義昭の居城だった二条城は足利を象徴するものとして、織田にとっては忌むべきものとなっている。どうせ取り壊す予定だ。
二条城を仙洞の御所とできるなら、資金も節約できるし、足利の時代の終わりを内外に喧伝する効果もあるかも知れなかった。
ついでに言えば、正親町天皇自身の決意が固いのに、譲位に協力することを渋れば、朝廷の不満を買うこともあり得る。
この辺を妥協点とするのも悪くはなかった。
「承知いたしました。
関白様や公家衆とも相談して、前向きに進めさせていただきます」
「おお、ありがたい。ぜひに頼むぞ」
正親町天皇は気さくに微笑む。
好感の持てる人物。それが傍らで話を聞いている田宮の印象だった。
極貧生活を送って来たからというわけでもないだろうが、お高く留まったところも、他人を見下したところもない。
日本の皇族というのはもともと謙虚で、選民意識とは縁遠いのかもしれない。
そんなことを思っていた。
とにもかくにも、正親町天皇の譲位という悲願は、ここに大きく前進することとなる。
それは同時に、織田の権力と威光がさらに強くなることでもあった。
信長も、新しい帝を奉じて自分の権威の根拠とすることを決めたのだった。
「それとだ。
右大臣殿。もう1つの懸案事項なのだが」
デザートのジェラートを口に入れながら、正親町天皇は切り出す。
「わたくしの征夷大将軍就任ですか…」
信長はコーヒーに口をつけながら、気乗りしない様子だった。
「決して責任回避ではないのだが…。
足利義昭に将軍宣下を下したのは我が不覚だった。
足利義昭が逃亡した先で将軍の名を利用してよからぬことを企てるのは避けたい」
正親町天皇はそこで言葉を区切る。
「貴君が征夷大将軍を拝命してくれれば、義昭を名実ともに逆賊とすることができるのだ」
「義昭を逆賊とするために、というのはどうも…。
征夷大将軍は重大なお役目ですので」
信長は即答を避けた。
結局、信長の征夷大将軍就任に関しては、もう少し熟慮したいとして信長は返答を保留したのだった。
16
「知、どらいぶに行くぞ!」
そう言った信長に田宮は有無を言わせず連れ出され、73式小型トラックを借用して出かけていた。
本来なら車両は私的に使っていいものではないのだが、実際には「ちょっと買い物に」「彼女(彼氏)とおでかけに」とかなり自由に使われているのが現実だった。
日が傾きかけた山城の田舎道を、信長がハンドルを握ったトラックが軽快に走り抜けていく。
陸自の幹部たちが現場の意向を受けて、自衛隊以外の者たちにも運転技術を身に着けさせるようになってからだいぶ経つ。
ここは万年渋滞の21世紀の日本ではないし、運転できる人間は1人でも多い方がいい。
そういう判断が働いた結果だった。
知的好奇心旺盛な信長は、即席の自動車教習にいの一番に志願した。今では自衛隊員達にも劣らないほどに上達している。
「信長様はすっかり運転するのがお気に入りですね」
「それはもう。早いし、楽しいからの」
そう言った信長の横顔は、本当に楽しそうだった。
車をとばしてたどりついたのは近江。琵琶湖のほとりだった。
「ほう」
田宮は、出かける先にここを選んだ信長の慧眼に感心する。
ちょうど満月で、月の光が琵琶湖の水面に映えて幻想的な景色を作り出しているのだ。
魔法瓶の紅茶を飲みながら、信長と田宮はしばらく景色を楽しむ。
「知、朝廷からの征夷大将軍就任の要請をどう思う?」
信長が言葉を選びながら田宮に訊ねる。
「素晴らしいことじゃないですか。
信長様が名実ともに天下人になることです。
俺はそうなったら嬉しいですよ」
田宮の言葉に、信長は照れくさそうに微笑む。
「おだてるな。
実は私は疑問に思うておる。
征夷大将軍を中心とした政治体制は本当に理想的な体制なのかとな。
右大将、源頼朝が作り上げた体制は、結局紛争を解決しきれず社会不安を引き起こした果てに倒れた。
足利尊氏の立ち上げた体制は、そもそも紛争調停機関としてさえまともに機能しなかった」
信長の懸念は田宮にもわかった。
鎌倉幕府が成立した時、多くの人間が新しい時代の到来を喜んだことだろう。
だが、待っていたのは権力争いや土地を巡る紛争、変化に対応できない者たちの没落などの事態だった。鎌倉時代は常に社会不安を抱えていたのだ。
その鎌倉幕府が倒れ、建武の新政が破たんした後に成立したのが室町幕府だった。
だが、元々大名たちのまとめ役程度の立場に過ぎなかった幕府の力は不安定だった。
大名たちの力を持てあまし、争いが起こるのを止められないこともしばしば。時には大名の力を弱めるために幕府が率先して争いを起こすことさえあった。
その矛盾が噴き出したのが応仁の乱であり、そこから続く戦国時代だったのだ。
「私が健在な内は、おそらく世はまとまっているであろう。
だが、私の子や孫の代に、悲しいことが起こりはしないかとな…」
信長の表情は、天下人としての責任感と同時に、普通の女の子としての不安と優しさを映していた。
「今までの体制が失敗したなら、その失敗から学べばいいじゃないですか。
それに、成功が保証されてる国造りなんてありはしない。
為政者たるもの、時には”目をつぶってえい!”も必要だと思いますよ」
信長は、田宮のその言葉にはっとなり、ついで笑い出しそうになった。
端的に言えば、”お前が言うな”である。
自分も含めた女の子たち相手に、その”目をつぶってえい!”ができていれば、みんなを幸せにできるのに。
だが、信長の心は不思議なくらい軽くなっていた。
良くも悪くも、田宮と話していると悩んでいるのが馬鹿らしくなるのだ。
「わかった。
もし私がしくじったときは、知にも一緒に責任を取ってもらうぞ」
「はは。喜んで。
まあ、俺にどれだけの責任が取れるかわかりませんがね」
田宮と信長は笑い合う。やはり笑えているのが一番だと、2人は思えたのだった。
その後、他愛もないことを話している内に、二人は自然といい雰囲気になって行く。
「知…」
「信長様…」
信長はゆっくりと目を閉じる。
月の光が信長をいつもより美しく見せているようだった。
田宮は吸い寄せられるように唇を重ねていた。
「んん…」
「ちゅ…」
深く唇を重ねている内に、2人はセックスの衝動に襲われる。
が…。
乾いた音が周囲に響く。
「いけね!」
次いで聞き覚えのある声がした。
「そこにいるのは猿か!?」
人目もはばからず唇を重ねていて、このままいけば体も重ねていた。そんな自分たちの姿を見られていた恥ずかしさで、信長は大声を出してしまう。
「あはは~。
覗くつもりはなかったんですけどねー。
ていうかボクらの方が先にここにいたんですけど、なんかお二人がいい雰囲気だから声がかけづらかったといいますか…」
羽柴秀吉が湖畔に引き上げられている船の陰から現れる。手に持っているのは竹の水筒。さっきの音の原因はこれかと田宮は思う。
「というか、猿よ。なんでお前がここにいるのだ?」
「なんでと言われましても…。一応ここボクの所領なんですが…
だから吉継と三成も一緒なわけでして」
「石田三成です。信長様、お会いできて光栄です」
「大谷吉継です。安土城で一度お会いして以来です」
秀吉の後ろに続いて、長い黒髪が特徴の気の強そうな美女と、ふわっとした銀色の髪が目を引く色白の美女が現れる。
信長はしょうもない質問をした自分を恥じた。
秀吉は浅井と六角が滅んだ後の近江の統治を任されている。ついでに琵琶湖の流通と治安を担当する奉行も兼任しているのだ。三成と吉継はその補佐役の任にあったのだったか。琵琶湖周辺にいてもなんの不思議もない。
「はあ、結局大事なところで障害が発生するのだからなあ」
「考えてみればフラグでしたね」
嘆息する信長に、田宮はもはや諦念さえ抱きながら相手をする。
夜のドライブ、景色のいい場所、月がきれいなところで二人きり。漫画なら、いよいよというところで確実に邪魔が入るフラグだ。
ともあれ、まあ仕方ないかと信長は気持ちを切り替える。
「よし、私は腹を括ったぞ。
知、さきほどの言葉、忘れるでないぞ。
猿と黒いのと白いのもよろしく頼むぞ」
「黒いの…」「白いの…?」
三成と吉継は慣れていないので困惑していた。
が、田宮と秀吉は笑顔で信長の決断を喜んでいた。自分たちの主はこういう人だ。
時に破天荒で読めない人物だが、それゆえに面白い。
翌日、信長が征夷大将軍を拝命するという使者が、朝廷に送られたのだった。
征夷大将軍兼右大臣織田信長を盟主とする国づくりが始まる瞬間だった。
京都郊外。
「安西政人二等陸尉に対し!敬礼!」
陸自統括の木場一等陸佐の号令で、整列している自衛隊員たちが一糸乱れぬ動作で敬礼する。
その日は、本能寺の変で戦死した安西二尉(二階級特進)の埋葬式だった。
本能寺の変で戦死した者たちの共同墓地がこの地に作られていた。だが、安西の埋葬式だけは自衛隊式で行うべきという意見が強かった。
結局、他の戦死者たちと一緒に法要するのを丁重にお断りして、日をずらして自衛隊式の葬儀を行うこととなったのだ。
隊員たちはみな整然としていたが、悲しい気持ちは同じだった。
安西は人望があったからなおのこと。
「みなさんよろしいか?
ただ悲しむだけでよいのです。
安西二尉という存在に縛られたらあきまへん。それでは生きているあなた方にとっても、これから旅立とうとする彼にとっても不幸なことなのです。
どうか、どなたさまもお心穏やかに。
かの人の死について、憎しみや恨み、わだかまりを持つことのなきように」
葬儀のために呼ばれた僧の言葉を、ある者は話半分に、あるものは感慨深く聞いていた。
(黄泉路は順調か、曹長?)
安西が殺されたことで、一時は復讐心に駆られていた田宮も、今はどうということはない。ただ、安西の冥福を祈るだけだった。
また一人の人物が死んで英雄になった。
人の死に縛られることは避けたいが、死に慣れることも達観することもしたくない。
ではどうすればいいのか?
その答えは、自衛隊員達の誰にもわからなかった。
その時はまだ。
安土城。
二階の南に面する食堂は、信長の好みによって洋風にまとめられている。
テーブルと椅子が置かれ、調度品も南蛮商人から買い受けたもの、あるいは自衛隊の協力で制作したものだ。
非常におしゃれで、一見しては日本の家屋とわからないほどだ。
平素であれば、信長はじめ織田家の者たちが和気あいあいと洋食をつついている光景が見られる。
だが、この日の食堂は緊張の糸が張りつめていた。
「みな、その…もう少し楽にしてはくれぬか?」
上座に座る、人当たりはいいが威厳に満ちた壮年の男性が苦笑交じりに言う。
正親町天皇である。
権威は衰えたとはいえ、天皇とテーブルを囲んでいるのである。しかも、本来なら天皇とは内裏からほとんど出てこない存在だ。
そのような人物が行幸され、一緒に食事をしている。緊張しない方がおかしい。
「防衛駐在官殿、どうかな?
私はなにか作法がおかしいところはないであろうか?」
「いえ、非常によろしいかと…。
さすがは帝。学習熱心な方とは伺っておりましたが、テーブルマナーを学んでおられるとは…」
突然話を振られた田宮は、言葉に詰まらないように注意しながら返答する。
実際、正親町天皇の洋食のテーブルマナーは完璧と言って良かった。
カモ肉のローストを一口サイズにうまく切って行く。ナイフとフォークは持ち替えない。スープはすすらない、など。
同席する織田家の武将や自衛隊員たちは、自分たちにこそマナーにもとるところがないか心配なほどだ。
安土城周辺では、信長と自衛隊の影響で洋食が広まっている。
それに合わせて、テーブルマナーも多くの人間に周知されている。
正親町天皇は知的好奇心の旺盛な人物だから、古いものばかりありがたがらずに、洋食もたしなんでみようと考えたのかも知れない。
だが、よもや、ひざを交えて話をしたいから、織田家の者たちや自衛隊の幹部と一緒に食事がしたいなどと、帝から直々に望まれるとは思いもよらなかったのだ。
「それでだ。右大臣殿。
考えて頂けただろうか?」
皆がカモ肉を食べ終えるのを待って、正親町天皇が話を切り出す。
「皇子様へのご譲位を急がれたいというお話なれど…。
謀反が発生し多くの血が京に流れた後です。縁起がよろしくないのではと。
さらに、ご譲位に際して費用と人手の多くをを持つはずだったのが、ご存じ足利公方と明智日向守です」
「彼女たちは貴君に謀反を起こした挙句に逃げてしまった…。
譲位のための予算の都合がつかぬか」
正親町天皇は嘆息する。
実際、本能寺の変は念願だった皇子への譲位がようやく実現すると喜んでいた矢先の出来事だったのだ。
天皇の譲位というのは想像もつかないほどに金も手間もかかる。
応仁の乱で京が荒れ果てて以降は、天皇は3代の間、譲位を行うことなく崩御している。荘園からの収入はとっくに途絶えていたし、譲位のための資金を融通してくれる有力な大名も現れなかったからだ。
そして、譲位を経済面から支援するはずだった義昭と光秀は、クーデターに失敗し逃亡してしまった。
「悪いことに、比叡山以外の寺や土倉などの金融業者も、公方に資金を融通していたことが発覚しました。
当分営業停止とせざるを得ないでしょう。
ご譲位のための資金を融通してくれる先がないのです」
信長はシンプルなデザインのグラスに注がれたアイスティーを飲み干しながら捕捉する。
義昭が煽動していた騒乱に資金を出していたのは比叡山だけではなかった。
畿内にある寺はもちろんのこと、堺や大津と言った都市部の金融業者までが資金提供をしていたことが発覚したのだ。
当然のように、刑事罰や営業停止などの措置を取る必要がある。資金の融通どころではないだろう。
それに、資金だけの問題ではない。
織田の後ろ盾で即位した帝を奉じれば、織田家の立場はより強固になる。
その一方で、新しい帝が織田の傀儡だと難癖を付ける者が出て来る可能性はある。
難しい問題なのだ。
だが、正親町天皇の決意は固いようだった。
「うむ。私もそこは理解しておる。
そこでだ。
右大臣殿。二条城を私に譲ってはもらえまいか?」
正親町天皇の言葉に、信長はもちろん、同席する全員が目を丸くする。
「二条城ですか?」
信長にとっては意外な話だった。
「うむ。足利公方が都落ちして空き家になっていると聞く。
誰か入る予定がなければ、二条城を仙洞の御所としたいのだ。
代金は分割にしてもらえれば必ず支払おう」
信長は考える顔になる。
仙洞の御所とは、上皇、つまり退位した天皇の住居だ。
実は、前述した譲位に金がかかる問題の中でも最大の懸案事項がこの仙洞の御所の問題だった。
仙洞の御所の建設には金も時間も手間もかかる。だが、仙洞の御所が確保できなければ譲位はまず不可能だ。
一方で、義昭の居城だった二条城は足利を象徴するものとして、織田にとっては忌むべきものとなっている。どうせ取り壊す予定だ。
二条城を仙洞の御所とできるなら、資金も節約できるし、足利の時代の終わりを内外に喧伝する効果もあるかも知れなかった。
ついでに言えば、正親町天皇自身の決意が固いのに、譲位に協力することを渋れば、朝廷の不満を買うこともあり得る。
この辺を妥協点とするのも悪くはなかった。
「承知いたしました。
関白様や公家衆とも相談して、前向きに進めさせていただきます」
「おお、ありがたい。ぜひに頼むぞ」
正親町天皇は気さくに微笑む。
好感の持てる人物。それが傍らで話を聞いている田宮の印象だった。
極貧生活を送って来たからというわけでもないだろうが、お高く留まったところも、他人を見下したところもない。
日本の皇族というのはもともと謙虚で、選民意識とは縁遠いのかもしれない。
そんなことを思っていた。
とにもかくにも、正親町天皇の譲位という悲願は、ここに大きく前進することとなる。
それは同時に、織田の権力と威光がさらに強くなることでもあった。
信長も、新しい帝を奉じて自分の権威の根拠とすることを決めたのだった。
「それとだ。
右大臣殿。もう1つの懸案事項なのだが」
デザートのジェラートを口に入れながら、正親町天皇は切り出す。
「わたくしの征夷大将軍就任ですか…」
信長はコーヒーに口をつけながら、気乗りしない様子だった。
「決して責任回避ではないのだが…。
足利義昭に将軍宣下を下したのは我が不覚だった。
足利義昭が逃亡した先で将軍の名を利用してよからぬことを企てるのは避けたい」
正親町天皇はそこで言葉を区切る。
「貴君が征夷大将軍を拝命してくれれば、義昭を名実ともに逆賊とすることができるのだ」
「義昭を逆賊とするために、というのはどうも…。
征夷大将軍は重大なお役目ですので」
信長は即答を避けた。
結局、信長の征夷大将軍就任に関しては、もう少し熟慮したいとして信長は返答を保留したのだった。
16
「知、どらいぶに行くぞ!」
そう言った信長に田宮は有無を言わせず連れ出され、73式小型トラックを借用して出かけていた。
本来なら車両は私的に使っていいものではないのだが、実際には「ちょっと買い物に」「彼女(彼氏)とおでかけに」とかなり自由に使われているのが現実だった。
日が傾きかけた山城の田舎道を、信長がハンドルを握ったトラックが軽快に走り抜けていく。
陸自の幹部たちが現場の意向を受けて、自衛隊以外の者たちにも運転技術を身に着けさせるようになってからだいぶ経つ。
ここは万年渋滞の21世紀の日本ではないし、運転できる人間は1人でも多い方がいい。
そういう判断が働いた結果だった。
知的好奇心旺盛な信長は、即席の自動車教習にいの一番に志願した。今では自衛隊員達にも劣らないほどに上達している。
「信長様はすっかり運転するのがお気に入りですね」
「それはもう。早いし、楽しいからの」
そう言った信長の横顔は、本当に楽しそうだった。
車をとばしてたどりついたのは近江。琵琶湖のほとりだった。
「ほう」
田宮は、出かける先にここを選んだ信長の慧眼に感心する。
ちょうど満月で、月の光が琵琶湖の水面に映えて幻想的な景色を作り出しているのだ。
魔法瓶の紅茶を飲みながら、信長と田宮はしばらく景色を楽しむ。
「知、朝廷からの征夷大将軍就任の要請をどう思う?」
信長が言葉を選びながら田宮に訊ねる。
「素晴らしいことじゃないですか。
信長様が名実ともに天下人になることです。
俺はそうなったら嬉しいですよ」
田宮の言葉に、信長は照れくさそうに微笑む。
「おだてるな。
実は私は疑問に思うておる。
征夷大将軍を中心とした政治体制は本当に理想的な体制なのかとな。
右大将、源頼朝が作り上げた体制は、結局紛争を解決しきれず社会不安を引き起こした果てに倒れた。
足利尊氏の立ち上げた体制は、そもそも紛争調停機関としてさえまともに機能しなかった」
信長の懸念は田宮にもわかった。
鎌倉幕府が成立した時、多くの人間が新しい時代の到来を喜んだことだろう。
だが、待っていたのは権力争いや土地を巡る紛争、変化に対応できない者たちの没落などの事態だった。鎌倉時代は常に社会不安を抱えていたのだ。
その鎌倉幕府が倒れ、建武の新政が破たんした後に成立したのが室町幕府だった。
だが、元々大名たちのまとめ役程度の立場に過ぎなかった幕府の力は不安定だった。
大名たちの力を持てあまし、争いが起こるのを止められないこともしばしば。時には大名の力を弱めるために幕府が率先して争いを起こすことさえあった。
その矛盾が噴き出したのが応仁の乱であり、そこから続く戦国時代だったのだ。
「私が健在な内は、おそらく世はまとまっているであろう。
だが、私の子や孫の代に、悲しいことが起こりはしないかとな…」
信長の表情は、天下人としての責任感と同時に、普通の女の子としての不安と優しさを映していた。
「今までの体制が失敗したなら、その失敗から学べばいいじゃないですか。
それに、成功が保証されてる国造りなんてありはしない。
為政者たるもの、時には”目をつぶってえい!”も必要だと思いますよ」
信長は、田宮のその言葉にはっとなり、ついで笑い出しそうになった。
端的に言えば、”お前が言うな”である。
自分も含めた女の子たち相手に、その”目をつぶってえい!”ができていれば、みんなを幸せにできるのに。
だが、信長の心は不思議なくらい軽くなっていた。
良くも悪くも、田宮と話していると悩んでいるのが馬鹿らしくなるのだ。
「わかった。
もし私がしくじったときは、知にも一緒に責任を取ってもらうぞ」
「はは。喜んで。
まあ、俺にどれだけの責任が取れるかわかりませんがね」
田宮と信長は笑い合う。やはり笑えているのが一番だと、2人は思えたのだった。
その後、他愛もないことを話している内に、二人は自然といい雰囲気になって行く。
「知…」
「信長様…」
信長はゆっくりと目を閉じる。
月の光が信長をいつもより美しく見せているようだった。
田宮は吸い寄せられるように唇を重ねていた。
「んん…」
「ちゅ…」
深く唇を重ねている内に、2人はセックスの衝動に襲われる。
が…。
乾いた音が周囲に響く。
「いけね!」
次いで聞き覚えのある声がした。
「そこにいるのは猿か!?」
人目もはばからず唇を重ねていて、このままいけば体も重ねていた。そんな自分たちの姿を見られていた恥ずかしさで、信長は大声を出してしまう。
「あはは~。
覗くつもりはなかったんですけどねー。
ていうかボクらの方が先にここにいたんですけど、なんかお二人がいい雰囲気だから声がかけづらかったといいますか…」
羽柴秀吉が湖畔に引き上げられている船の陰から現れる。手に持っているのは竹の水筒。さっきの音の原因はこれかと田宮は思う。
「というか、猿よ。なんでお前がここにいるのだ?」
「なんでと言われましても…。一応ここボクの所領なんですが…
だから吉継と三成も一緒なわけでして」
「石田三成です。信長様、お会いできて光栄です」
「大谷吉継です。安土城で一度お会いして以来です」
秀吉の後ろに続いて、長い黒髪が特徴の気の強そうな美女と、ふわっとした銀色の髪が目を引く色白の美女が現れる。
信長はしょうもない質問をした自分を恥じた。
秀吉は浅井と六角が滅んだ後の近江の統治を任されている。ついでに琵琶湖の流通と治安を担当する奉行も兼任しているのだ。三成と吉継はその補佐役の任にあったのだったか。琵琶湖周辺にいてもなんの不思議もない。
「はあ、結局大事なところで障害が発生するのだからなあ」
「考えてみればフラグでしたね」
嘆息する信長に、田宮はもはや諦念さえ抱きながら相手をする。
夜のドライブ、景色のいい場所、月がきれいなところで二人きり。漫画なら、いよいよというところで確実に邪魔が入るフラグだ。
ともあれ、まあ仕方ないかと信長は気持ちを切り替える。
「よし、私は腹を括ったぞ。
知、さきほどの言葉、忘れるでないぞ。
猿と黒いのと白いのもよろしく頼むぞ」
「黒いの…」「白いの…?」
三成と吉継は慣れていないので困惑していた。
が、田宮と秀吉は笑顔で信長の決断を喜んでいた。自分たちの主はこういう人だ。
時に破天荒で読めない人物だが、それゆえに面白い。
翌日、信長が征夷大将軍を拝命するという使者が、朝廷に送られたのだった。
征夷大将軍兼右大臣織田信長を盟主とする国づくりが始まる瞬間だった。
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