雨音と素肌の記憶

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第一章「出会い — 雨音に呼ばれる夜」

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 東京の夜を濡らす雨粒が、マンションのガラスを静かに叩いていた。夏の終わりと秋のはじまりが交差するこの季節は、しとしとと降り続ける雨が心を落ち着かせると同時に、どこか胸の奥を締めつける。高瀬律(たかせ りつ)はワンルームの窓辺に腰を下ろしながら、一滴一滴の雨音に耳を澄ましていた。

 律は都内のIT企業で働く会社員だ。日々は忙殺されるように過ぎていくが、心の片隅には常に、決して癒えることのない傷がある。数年前、愛していた人を失った。その恋は若さゆえの過ちとタイミングの悪さが重なり、儚くも終わりを迎えた。以来、何かを真剣に愛することを怖れ、深く踏み込むことを避けて生きてきた。

 夜も更けた頃、少しだけコンビニに用事があって外へ出る。濡れたアスファルトがまるで夜の闇を映し出す鏡のように光っている。冷たい雨が肌を刺し、視界には白い街灯がぼんやりと揺らめく。律は傘を差し、誰もいない道を足早に歩いた。

 マンションのエントランスに戻ろうとしたとき、視線の端で不思議な光景を捉える。小柄な女性が入口近くのベンチに一人、じっと腰掛けていた。通り過ぎようとしたが、黒髪が水に濡れてまるで夜の闇と同化しているようで、思わず足を止めてしまう。フードをかぶっていないためか、髪からは絶えず水滴が落ちていた。彼女の瞳は暗闇でもはっきりとわかるほどに憂いを帯び、ふとこちらを見つめる。

 律は戸惑いながらも声をかけた。「こんな雨の中、大丈夫ですか?」
 女性は何も言わず、かすかに首をかしげるだけ。だが、その視線にはどこか誘うような寂しさが滲んでいた。律の中に微かな罪悪感と興味が混じり合う。誰もいない深夜に見知らぬ人を放っておくのも後味が悪い。そう思って、彼女を部屋まで連れていく決心をした。

 部屋に入り、落ち着いて改めて顔を見たとき、律は思わず息を呑んだ。彼女はさほど年齢を感じさせず、まるで少女のような儚さをもっていた。黒髪は細く、雨に濡れた肌はどこか透きとおっていて、その瞳にはどんよりとした雨雲が映り込んだかのような陰影がある。

 「とりあえず、タオルを…」そう言ってタオルを手渡そうとした瞬間、指先が彼女の手に触れた。触れた瞬間、律の胸が締めつけられるような感覚が走る。同時に、心の奥底に眠らせていたはずの記憶が、不意に鮮やかな色彩を伴って甦りはじめた。

 蘇るのは、かつての恋人と過ごした甘い時間—手を繋いで歩いた街の風景、笑いあった夏祭り、そして別れのときの苦い涙—それらが一瞬にして律の意識の表面を覆い尽くした。あまりの生々しさに混乱し、タオルを落としそうになる。まるで水面下に沈んでいた記憶が、一気に息を吹き返したようだった。

 彼女はじっと律を見つめる。その視線はとても静かで、けれども何かを訴えかけるようだった。まるで「知っているわ、あなたの痛みを」というふうに。声を出したいのに、言葉が見つからない。

 「君は…誰なんだ?」律は震える声で問いかける。
 しかし、彼女は返事をしない。ただ、名前が聞きたいのだと察したのか、ぽつりと口を開く。
 「雨宮…雫(あまみや しずく)」

 低く落ちた声は、そのまま雨音にかき消されるように小さく響いた。名前以外に情報はない。けれど、その名を口にするだけで、彼女の存在が不思議な重みとともに律の心へ深く刻み込まれる。

 それからほんの数分、どちらも言葉を交わさない。ただ、部屋の中に響くのは雨音と互いの呼吸音だけだった。雫を部屋に泊めるのは危険かもしれない、というか常識的にはありえないことだ。けれども、律には彼女を追い出すという選択肢が浮かばなかった。

 そこにあるのは、優しさだけではなく奇妙な吸引力だった。彼女の瞳に映る孤独が、律自身の胸に潜む孤独とどこか呼応している。律は静かにバスタオルを差し出し、着替えを準備する。服を借りるときに、淡く微笑む雫。その微笑は冷たさをはらむ雨夜には似つかわしくない、ほんの少しの温もりを含んでいた。

 それが、彼女との始まりだった。雨音に誘われるようにこの夜、律と雫は出会い、胸の奥に封じ込めていた記憶を呼び起こす謎の力に、律は翻弄されることになるのだった。
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