雨音と素肌の記憶

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第五章「選択 — 終わらない雨音」

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 激しい雨がまた降り出した夜、律の部屋では雫と二人、テーブルを挟んで向かい合っている。部屋の明かりは落としてあり、外からの微かな街灯がカーテン越しに差し込むだけ。雨音に包まれたこの空間は、まるで二人だけの異世界のようだった。

 律は意を決し、テーブルの上に古い写真を広げる。かつての恋人の姿が写っている一枚だ。視線を落とすと、辛い思い出が胸を締めつける。けれど、どこか懐かしく切ない愛しさがこみ上げてくる。
 「俺は、この写真を焼くべきかずっと迷ってた。でも、もう逃げるのはやめるよ。過去は消せないし、消しちゃいけないと思う。雫にも、忘れられない悲しみがあるんだろ?」
 雫はそっと視線を落とす。「そう…私が誰かを救えなかったという事実も、消えない。でも、ずっとその重みから逃げていた。人の記憶を呼び起こす力も、私はただ呪いのように感じていたけど…もしかしたら、これは私自身が他人の痛みに寄り添う術なのかもしれない」

 二人の言葉が静かに交わされる。雨は窓ガラスを叩きつけるように降り続き、その音がまるでリズムを刻むかのように会話を後押しする。
 律は写真を手に持ち、深く息を吸った。「俺はこの記憶を、消さないことにする。たとえ痛みが伴っても、大切なものだったから」
 それは、雫にも通じる選択だった。雫は自分の力を否定するのではなく、それを受け入れようと決める。たとえ傷をえぐることになっても、その先にしか進めないのだと思ったからだ。

 雫はそっと律の手を握り、唇を重ねる。雨音に溶けるように交わされたそのキスは、どこまでも深く、切なく、しかし確かな温もりを伴っていた。まるでお互いの痛みと孤独、そして失った時間を確かめ合うように感じられる。

 部屋の中で二人は抱き合い、互いの存在を確かめる。雨が降るたびに呼び起こされる過去は、もう逃げるべきものではない。むしろ、それがあるからこそ今の自分があり、これからの一歩を踏み出せるのだ。

 やがて、深夜を過ぎたころ、雨脚は急に弱まりはじめる。空気が乾きだしたように感じたとき、雫は小さく微笑んだ。
 「雨、止みそうだね」
 そう言って立ち上がろうとするが、律はその腕を引きとどめる。消えてほしくないという強い思いがあるのだ。雫は少し切なげに笑う。「あなたは、もう過去から解放されたみたい。私の役目が終わるのかもしれない…」
 律は首を振る。「君の役目なんて、そんなのはどうでもいい。俺は君と一緒にいたい。たとえ雨が止んでも、どこにも行かないでほしい」

 その言葉がどこまで届くのか、雫にもわからなかった。ただ、今はもう少しだけ律のそばにいたいと思った。そして、窓の外を見ると、雨はいつの間にかほとんど止んでいる。夜の闇は薄れはじめ、遠くの空がわずかに明るさを帯びていた。

 「ありがとう」雫はそう呟き、律に微笑みかける。その瞬間、律は気付く。彼女の瞳に浮かんでいた深い陰が、少しだけ薄らいでいることを。雨の夜と記憶の痛みが、二人を繋ぐ不思議な縁となっていたのだ。

 夜明けが近づく。雫は静かに律の手を離れ、窓際に立つ。静寂が訪れ、雨の名残だけが道端を湿らせている。
 「私は消えないよ。あなたが望むなら、きっとまたここに戻ってくる」
 それは約束のようにも、予告のようにも聞こえた。律は言葉を失い、ただ彼女の横顔を見つめる。

 そして、外でカラスが鳴き、朝を告げる気配とともに雫はふと笑みを浮かべる。
 「あなたが過去を背負うのなら、私もそうするわ。誰かを救えなかった痛みも、私だけのものじゃない。きっと雨が教えてくれるの。いつか晴れ間が見えるときがくるって…」

 そう言って振り向いた雫の瞳には、もう憂いだけではなく、どこか希うような光が差し込んでいた。律の心もまた、少しだけ未来を描ける自分に気づかされる。たとえ雨が止んだとしても、過去の記憶が完全に消えることはない。けれど、その痛みを抱えて生きる強さが、今この瞬間の彼らを支えている。

 雨音が消えゆく朝に、律はそっと呟く。「いつかまた、雨が降ったら…そのときは、一緒に聴こう。雨音と、俺たちの記憶を…」
 雫は微笑み、うなずく。それは終わらない雨音のはじまりでもあり、終わらない物語の合図でもあった。
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