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第四話
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毬子と別れた後、春は元来た道を戻っていた。
一時の感情に流された罪悪感も理由の一つだが、何かにケリをつけたらしい毬子のあの笑顔が忘れられなかった。
だから自分も、暴言を吐いたことにケリをつけなければ、と思っていたのだが…。
「いて……」
考え事をしながら歩いていたので、すれ違う誰かとぶつかってしまう。
「すみませんも言えなくなったのか、お前は」
「あ」
千羽だった。春の視野が一気に開ける。
「おいあんたどこ行ってたんだよ! 店長なんだろ!」
女子ほどの肺活量はないが、春はさっきあったことを早口にまくし立てた。
最後の方は、尻すぼみにブレーキがかかる。
「──それであの……ちょっと、すごく失礼なこと言っちゃって……申し訳なかったなーって……思って……思ったんだよ……です」
千羽は春の話を黙って聞いていた。それがまた怖い。ハイエナのような目をした女子の何十倍も。
「……悪かった」
「え…?」
いっそ殴ってほしいと思い始めた春の耳に届いたのは、短い謝罪の言葉。思わず聞き返してしまうほど小さな声だったが、どこか寂しそうな色を孕んだ声は、春の鼓膜をしたたかに打ち鳴らした。
「お詫びに奢るよ。ついてこい」
今日は無理矢理引っ張られるようなことはなく、千羽はさっさと歩き始める。店の前もあっさり通り過ぎ、春がしばらくボーッとしていても急かされるようなことはなかった。
「げっきょく……」
結局千羽の後についてやって来たのは、店の裏手の通りにある駐車場だった。
千羽は止めてあった車の一つに近づき、カギを開ける。
黒塗りのセダン。後部座席の窓ガラスは、外から中が見えないようになっている。これは本格的に……
「拉致される……」
「んなわけあるか。嫌なら着いてこなくてもいいんだぞ。あと……『つ・き・ぎ・め』って読むんだよ、その看板は」
「なるほど」
つきぎめ、の意味はわからなかったが、わかったふりをしておく。
「……で? 来るのか? 来ないのか?」
「行きますっ!」
「じゃあ乗れ」
「ハイ!」
着いていかない方がマズいという、マフィア的なアレの想像をした春は、潔く助手席に飛び込んだ。
車内では特に会話もなく、二十分ほどして車はとあるマンションの地下にある駐車場に着いた。
「え、ここって……」
「いいから、黙ってついてこい」
春は、結局のところ三分と黙っていられなかった。
「すっげぇ! たっけぇ!」
「うるせえな……近所迷惑」
「なあなあ、ここ何階?」
「さっきエレベーターで降りた階見ただろ」
「怖くてあんたの背中しか見てなかった」
「こ……あのなあ」
「うぉー! なあなあなあ、アレってスカイタワー⁉︎」
「……混ざってるし、あれはスカイでもタワーでもなく普通の──」
「こっからおれん家って見えるかな!」
「さあな」
「あれってウチの学校⁉︎」
「どれだよ」
「なあなあなあなあ! あれって──」
この調子で、春は部屋の大きな窓から見える景色に目を爛々と輝かせていた。ここしばらく晴れの日が続いていたので、視界はかなりはっきりしている。
「これが十万円の夜景か……」
「円じゃなくドルだと思うぞ。そしてそもそも、まだ夕方の五時だ」
九月の五時は、まだ明るい。日は傾いているが、夜というには明るすぎた。
「……お前って、素直なやつだよな」
「なんだよ。バカって言えよ素直に」
春が口を尖らせていると、千羽は近くへ来て春の頭にポンと手を置いた。
「いや。何かに対して素直に感動できるって、それも才能だよ」
「結局、バカにしてんだろそれ!」
振り払おうとした春の手は、虚しくも千羽の大きな手に捕らえられる。千羽はそのままグシャグシャと春の髪を掻き回した。
「なにすんだよ!」
「いやあ、さすが俺だと思って。一日経っても髪型が崩れてない」
「崩してるよ今あんたが!」
「問題ない。あとでセットし直してやるよ」
「う……」
気が済んだのか、千羽はそこで手を離した。
「ほら、こっちこい。できたぞ」
「できたって、何が」
春は気がついた。人間の欲を刺激するような、いい匂いに。
「奢ってやるって言っただろ」
リビングからひと続きになったダイニングには、高級レストランとまではいかないが、彩り豊かな料理が並んでいた。肉に野菜、サラダにスープ……バランスも完璧。
「え……奢るって、手料理?」
「お前最近ロクなもん食べてないだろ。そういう時は外食よりこっちの方がいいんだよ。ほとんど残りモノだけどな」
春の腹の虫が盛大に鳴る。千羽は堪えきれず吹き出した。
「ホントに素直だな、ハルは」
またアレだ。春は練習台だと宣言した時の、あの悪戯っぽい笑顔。
「全く、なんて日だ……」
口ではぶつくさと文句を言いながらも、体は素直だった。春は椅子を引いて腰を下ろした。
「……いただきます」
「ごちそうさまでした」
食事なんて、腹に何か入れればそれでいいと持っていたタチだが、それは間違いだったと思い知らされた。食べ終わったばかりだというのに、春の腹の虫は再び鳴く用意をしていた。
「うまかっただろ?」
「ちぇ。反則だぁ」
「何がだよ」
「イケメンのくせに、料理も作れて髪も切れるなんて!」
「髪切るのは仕事だからな」
「……イケメンは否定しねえのかよ」
口を尖らせるしかない春の前に、湯気の立ち上るカップが差し出される。自然とそれに手を伸ばすと、千羽は自然な手つきで春の髪を触り始めた。櫛や整髪剤を使っているわけでもないのに、春の髪はみるみるうちにまとまっていく。千羽の手汗にはワックス的な性質でもあるのだろうか。
「……あんたさ、髪見たらなんでもわかんの?」
「生活の乱れくらいはな」
「でもおれ、結構といかめっちゃ傷んでたしあの時」
「外見じゃない。病は気から、っていうだろ? あれと似たようなもんだ」
セットを終えたらしい千羽は春から離れた。キッチンの方まで歩いて行き、冷蔵庫からビールの缶を取り出す。
「俺は……『美は心から』だと思ってる。日々の精神状態、生活リズム、栄養バランス、そういう内面的な要素が外面に反映される。ま、そんなん気にしてばっかだと神経すり減るからな。たまの息抜きや自分へのご褒美も大事」
春はまだ、ビールがご褒美としてどれほどの価値があるのかはわからない。大人になればわかるのだろうか。
千羽が厳しい顔をして春に問いかける。
「最近、なんかあっただろ」
「……彼女と、別れた」
夏休み前、春には人生初の彼女ができた。バイト先で知り合った年上の彼女だったが、夏休み中何度かデートを重ねた上で言われたのは、『やっぱり、子供とは付き合えない』。結局、一ヶ月としないうちに別れることになった。
「──その腹いせに、なんかぶっ飛んだことやりたくなって……」
「それで、あの頭か」
千羽は呆れたような笑みを浮かべる。その反応に春は少しムカついた。
「あんたはなんでだよ? なんでこんな……こんな、ウンコ色の髪したガキに構うんだよ」
「お前と一緒、だったりしてな」
いつものあの顔だ。まるで子供がお気に入りのオモチャを見つけた時のような、悪戯っぽい笑顔。
春が詳しく追求しようと身を乗り出したところに、千羽が電話の子機を突きつける。
「家に電話しておけよ」
「電話したって、誰も出ねえよ。うち両親離婚しててさ、母さん夜勤だから夜いないし」
「そうか……」
「心配しなくても、捕まらない時間にちゃんと帰るよ」
テレビ脇のデジタル時計は、午後八時少し手前を指していた。
「近くまで送ってくよ。電車だと少し遠いだろ」
家の前の道路で車は止まった。
お礼を言って降りようとした春を、千羽が呼び止める。
「これ……明日の朝メシにでもしてくれ」
渡された紙袋には、パッキングされた夕飯の残りが入っていた。
「え、いいの?」今すぐ食べたそうに顔を輝かせる春。
「入れ物は、今度返しに来いよ」
「うん! ありがとう、千羽さん!」
「ああ……」
千羽は車の中でなんともいえない不思議な表情を作っていたが、食べ物に目を奪われていた春は、気がつかなかった。
家には、明かりがついていた。
「あれ、母さんいたの?」
「ああ、春……おかえりなさい」
リビングのソファには、疲れた顔をした母親が座り込んでいた。
「仕事は?」
「今日なんだか体調悪くて……。お休みもらったの。春、帰ったばっかりのとこ悪いけど、そこのコンビニで何か買って来てくれない?」
春は、財布を取り出そうとした母親を止める。そして、千羽から受け取ったパックを食卓に並べた。
「これ食べろよ。えーと……と、友達の家で夕飯ご馳走になって、残りもらってきたんだ」
若干名残惜しかったが、また食べに行けばいい。入れ物を返しに行くという口実もある。
「まあ……今度お礼に伺わないと……」
「い、いいんだよ! おれがお礼されてるっていうか……その友達美容師でさ、カットの練習台にされてて、そのお礼、みたいな」
「そう……いいお友達ね。それじゃあ、いただこうかな」
一時の感情に流された罪悪感も理由の一つだが、何かにケリをつけたらしい毬子のあの笑顔が忘れられなかった。
だから自分も、暴言を吐いたことにケリをつけなければ、と思っていたのだが…。
「いて……」
考え事をしながら歩いていたので、すれ違う誰かとぶつかってしまう。
「すみませんも言えなくなったのか、お前は」
「あ」
千羽だった。春の視野が一気に開ける。
「おいあんたどこ行ってたんだよ! 店長なんだろ!」
女子ほどの肺活量はないが、春はさっきあったことを早口にまくし立てた。
最後の方は、尻すぼみにブレーキがかかる。
「──それであの……ちょっと、すごく失礼なこと言っちゃって……申し訳なかったなーって……思って……思ったんだよ……です」
千羽は春の話を黙って聞いていた。それがまた怖い。ハイエナのような目をした女子の何十倍も。
「……悪かった」
「え…?」
いっそ殴ってほしいと思い始めた春の耳に届いたのは、短い謝罪の言葉。思わず聞き返してしまうほど小さな声だったが、どこか寂しそうな色を孕んだ声は、春の鼓膜をしたたかに打ち鳴らした。
「お詫びに奢るよ。ついてこい」
今日は無理矢理引っ張られるようなことはなく、千羽はさっさと歩き始める。店の前もあっさり通り過ぎ、春がしばらくボーッとしていても急かされるようなことはなかった。
「げっきょく……」
結局千羽の後についてやって来たのは、店の裏手の通りにある駐車場だった。
千羽は止めてあった車の一つに近づき、カギを開ける。
黒塗りのセダン。後部座席の窓ガラスは、外から中が見えないようになっている。これは本格的に……
「拉致される……」
「んなわけあるか。嫌なら着いてこなくてもいいんだぞ。あと……『つ・き・ぎ・め』って読むんだよ、その看板は」
「なるほど」
つきぎめ、の意味はわからなかったが、わかったふりをしておく。
「……で? 来るのか? 来ないのか?」
「行きますっ!」
「じゃあ乗れ」
「ハイ!」
着いていかない方がマズいという、マフィア的なアレの想像をした春は、潔く助手席に飛び込んだ。
車内では特に会話もなく、二十分ほどして車はとあるマンションの地下にある駐車場に着いた。
「え、ここって……」
「いいから、黙ってついてこい」
春は、結局のところ三分と黙っていられなかった。
「すっげぇ! たっけぇ!」
「うるせえな……近所迷惑」
「なあなあ、ここ何階?」
「さっきエレベーターで降りた階見ただろ」
「怖くてあんたの背中しか見てなかった」
「こ……あのなあ」
「うぉー! なあなあなあ、アレってスカイタワー⁉︎」
「……混ざってるし、あれはスカイでもタワーでもなく普通の──」
「こっからおれん家って見えるかな!」
「さあな」
「あれってウチの学校⁉︎」
「どれだよ」
「なあなあなあなあ! あれって──」
この調子で、春は部屋の大きな窓から見える景色に目を爛々と輝かせていた。ここしばらく晴れの日が続いていたので、視界はかなりはっきりしている。
「これが十万円の夜景か……」
「円じゃなくドルだと思うぞ。そしてそもそも、まだ夕方の五時だ」
九月の五時は、まだ明るい。日は傾いているが、夜というには明るすぎた。
「……お前って、素直なやつだよな」
「なんだよ。バカって言えよ素直に」
春が口を尖らせていると、千羽は近くへ来て春の頭にポンと手を置いた。
「いや。何かに対して素直に感動できるって、それも才能だよ」
「結局、バカにしてんだろそれ!」
振り払おうとした春の手は、虚しくも千羽の大きな手に捕らえられる。千羽はそのままグシャグシャと春の髪を掻き回した。
「なにすんだよ!」
「いやあ、さすが俺だと思って。一日経っても髪型が崩れてない」
「崩してるよ今あんたが!」
「問題ない。あとでセットし直してやるよ」
「う……」
気が済んだのか、千羽はそこで手を離した。
「ほら、こっちこい。できたぞ」
「できたって、何が」
春は気がついた。人間の欲を刺激するような、いい匂いに。
「奢ってやるって言っただろ」
リビングからひと続きになったダイニングには、高級レストランとまではいかないが、彩り豊かな料理が並んでいた。肉に野菜、サラダにスープ……バランスも完璧。
「え……奢るって、手料理?」
「お前最近ロクなもん食べてないだろ。そういう時は外食よりこっちの方がいいんだよ。ほとんど残りモノだけどな」
春の腹の虫が盛大に鳴る。千羽は堪えきれず吹き出した。
「ホントに素直だな、ハルは」
またアレだ。春は練習台だと宣言した時の、あの悪戯っぽい笑顔。
「全く、なんて日だ……」
口ではぶつくさと文句を言いながらも、体は素直だった。春は椅子を引いて腰を下ろした。
「……いただきます」
「ごちそうさまでした」
食事なんて、腹に何か入れればそれでいいと持っていたタチだが、それは間違いだったと思い知らされた。食べ終わったばかりだというのに、春の腹の虫は再び鳴く用意をしていた。
「うまかっただろ?」
「ちぇ。反則だぁ」
「何がだよ」
「イケメンのくせに、料理も作れて髪も切れるなんて!」
「髪切るのは仕事だからな」
「……イケメンは否定しねえのかよ」
口を尖らせるしかない春の前に、湯気の立ち上るカップが差し出される。自然とそれに手を伸ばすと、千羽は自然な手つきで春の髪を触り始めた。櫛や整髪剤を使っているわけでもないのに、春の髪はみるみるうちにまとまっていく。千羽の手汗にはワックス的な性質でもあるのだろうか。
「……あんたさ、髪見たらなんでもわかんの?」
「生活の乱れくらいはな」
「でもおれ、結構といかめっちゃ傷んでたしあの時」
「外見じゃない。病は気から、っていうだろ? あれと似たようなもんだ」
セットを終えたらしい千羽は春から離れた。キッチンの方まで歩いて行き、冷蔵庫からビールの缶を取り出す。
「俺は……『美は心から』だと思ってる。日々の精神状態、生活リズム、栄養バランス、そういう内面的な要素が外面に反映される。ま、そんなん気にしてばっかだと神経すり減るからな。たまの息抜きや自分へのご褒美も大事」
春はまだ、ビールがご褒美としてどれほどの価値があるのかはわからない。大人になればわかるのだろうか。
千羽が厳しい顔をして春に問いかける。
「最近、なんかあっただろ」
「……彼女と、別れた」
夏休み前、春には人生初の彼女ができた。バイト先で知り合った年上の彼女だったが、夏休み中何度かデートを重ねた上で言われたのは、『やっぱり、子供とは付き合えない』。結局、一ヶ月としないうちに別れることになった。
「──その腹いせに、なんかぶっ飛んだことやりたくなって……」
「それで、あの頭か」
千羽は呆れたような笑みを浮かべる。その反応に春は少しムカついた。
「あんたはなんでだよ? なんでこんな……こんな、ウンコ色の髪したガキに構うんだよ」
「お前と一緒、だったりしてな」
いつものあの顔だ。まるで子供がお気に入りのオモチャを見つけた時のような、悪戯っぽい笑顔。
春が詳しく追求しようと身を乗り出したところに、千羽が電話の子機を突きつける。
「家に電話しておけよ」
「電話したって、誰も出ねえよ。うち両親離婚しててさ、母さん夜勤だから夜いないし」
「そうか……」
「心配しなくても、捕まらない時間にちゃんと帰るよ」
テレビ脇のデジタル時計は、午後八時少し手前を指していた。
「近くまで送ってくよ。電車だと少し遠いだろ」
家の前の道路で車は止まった。
お礼を言って降りようとした春を、千羽が呼び止める。
「これ……明日の朝メシにでもしてくれ」
渡された紙袋には、パッキングされた夕飯の残りが入っていた。
「え、いいの?」今すぐ食べたそうに顔を輝かせる春。
「入れ物は、今度返しに来いよ」
「うん! ありがとう、千羽さん!」
「ああ……」
千羽は車の中でなんともいえない不思議な表情を作っていたが、食べ物に目を奪われていた春は、気がつかなかった。
家には、明かりがついていた。
「あれ、母さんいたの?」
「ああ、春……おかえりなさい」
リビングのソファには、疲れた顔をした母親が座り込んでいた。
「仕事は?」
「今日なんだか体調悪くて……。お休みもらったの。春、帰ったばっかりのとこ悪いけど、そこのコンビニで何か買って来てくれない?」
春は、財布を取り出そうとした母親を止める。そして、千羽から受け取ったパックを食卓に並べた。
「これ食べろよ。えーと……と、友達の家で夕飯ご馳走になって、残りもらってきたんだ」
若干名残惜しかったが、また食べに行けばいい。入れ物を返しに行くという口実もある。
「まあ……今度お礼に伺わないと……」
「い、いいんだよ! おれがお礼されてるっていうか……その友達美容師でさ、カットの練習台にされてて、そのお礼、みたいな」
「そう……いいお友達ね。それじゃあ、いただこうかな」
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