はるになったら、

エミリ

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第十一話

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 放課後。
 校庭で飛び交う様々な号令の声を聞きながら、春は大きくため息をついた。
 窓を閉めていても、彼らの声は騒音のように耳に響いてくる。時計の針の音さえ煩わしく感じた。
 教室に居残っているのは春一人。
 普段なら春の他にも居残りの常連がいるのだが、彼らも受験シーズンを控えて急に真面目になり、今日居残りをする羽目になったのは春だけだ。
 黒板には、居残り学習の範囲が書かれている。宿題の約二倍の量だった。
 窓の外は暗い。校庭の声も次第に数が減ってきた。
「おれさ、数学博士になんて絶対ならないからこんぐらいで許して?」
 ようやく解答を全て書き終え、明らかに内容が薄い計算式を見なかったことにしながら、春は席を立った。
 もう教室には戻らないつもりだった。荷物を全て持ち、黒板を乱暴に消して教室の電気を消す。

 職員室はまだ明るかった。春の担任教師以外にも何人か先生が残っている。
 担任は、職員室のドアが開く音で振り向いた。
「やっと終わったか、青海」
 春は「失礼しまーす」と小声で断って入室し、問題を解いたルーズリーフを裏にして担任に渡した。
 その場で採点されたらまた説教か……と身を強張らせた春の予想を裏切り、担任はルーズリーフを裏のまま受け取ってデスクの隅に置く。
「青海、まだ未定なのか」
 居残り学習の話ではない。担任が何のことを言っているのか、春にはすぐわかった。デスクの上に春の進路調査用紙が置かれている。
「あー……いやー……」
 歯切れの悪い返事をする春。担任はデスクに積み上がった書類の山から数冊のパンフレットを引っこ抜いて、春に渡した。様々な大学の冬季受験準備講習会に向けたお知らせだった。
「本来なら受験を決めた学生向けの講習会だが、二年生や一年生、浪人生向けのオープンキャンパスのようなことをやっているところもあるぞ。浪人するにしても、ある程度方向性を決めないとな」
「はあ……」
 その後の担任の言葉は、念仏を聞かされる馬になった気分で聞き流し、春は最後に曖昧な返事をして職員室を出た。


 外はもうすっかり夜だった。校庭で部活動をしていた野球部だかサッカー部だかも、もう後片付けをする下級生以外の姿は見えない。
 いつもの通学路を、春は何度もため息をつきながら歩いていた。
 大通りに差し掛かった時、ハッとして立ち止まる。そして、足を大通りではなく裏道の方へ向けた。
 確か、千羽との約束は今日だった。時間も遅くなってしまったし、居残り明けで疲れていたのもあり、春は断りのメールを入れるためにスマホの画面を開いた。
 着信とメールが一件ずつ入っている。どちらも千羽からだ。
『悪い、仕事が入った』
 春はその一文だけを読んで画面を閉じる。
 その時、鈍い衝撃が右肩に走った。
 画面を見ていた時間はそれほど長くはなかったが、道から意識を逸らしたことで、すれ違う人影に気付くのが遅れてしまったようだ。
「すいませ……」
 相手は少し先で足を止めた。怒られる、と思った春は身構える。
 ところがその相手は、間延びのするやわらかい口調で話し始めた。
「やあ君。ちょうどよかった。道を教えてもらえないかね?」

「……み、道ですか」
「うん。道」
 街灯に照らされたその人を見て、春は「この人は偉い画家に違いない」と思った。
 上下揃い、茶褐色のスーツにリボンタイ。真っ白な口ひげに茶色のベレー帽。背筋はピンと伸びてすらりと背が高く、流暢な日本語を聞かなければ外国人と思うほど彫りの深い顔立ちの老人だった。
 春は思わず見とれてしまい、口が勝手に動き出す。
「えーとこの道をまっすぐ行って──」
「おやおや、私はまだ目的地を言っていないのだがね」
「あ」
 老人は口許に手を当て、くっくと笑った。春は急に恥ずかしくなって下を向いた。
「落ち込むことはないよ。親切にどうもありがとう」
 老人は春の肩に手を乗せ、穏やかな口調で続ける。
「この辺りに美容室はないかね? それなりに名の通った店だと思うんだが」
「ああ、それなら……」
 春は一瞬口ごもった。だが、なぜ躊躇したのかを一瞬で忘れ、道案内を始める。
「この道をまっすぐ行って、その先のT字路を右に曲がって少しいくと大きめの通りに出るんですけど、そこまで行けば見えますよ。この辺で有名な美容室っていったら、たぶんその『ミリオン』って店だと思います」
「ソーソー! ミリオン! ありがとうね」
 まるでスキップをするかのような軽い足取りで、老人は去って行った。

 春は頭がぼんやりしたまま歩き出し、しばらくして曲がるべき道を見失ったことに気づく。裏通りは表の通りと違って、目印になるものがあまりない。まっすぐ歩いてきたはずなので、春はすぐ引き返した。
「おや? また会ったね」
 さっき道を尋ねてきた老人だった。
「あれ、おじさん道わかんなくなったんですか?」
「いいや」老人は絵に描いたように肩を竦めてみせる。「目当ての人に会えなかったんだよ」
 あ、と春は思った。
 そういえば、千羽から仕事が入ったとのメールが来ていた。おそらく、外の仕事だったのだろう。
「すいません……」
「なんで君が謝るの?」
「あ、いや、千羽さん外で仕事かもって、さっき言えばよかったなって」
 千羽の名前を聞いて、老人は一瞬驚いたように目を見開いた。だが、すぐに人当たりのいい笑顔になる。
「ところで君、道がわからなくなったの?」
「……」
 春は立ち止まり、回れ右をする。老人はさも当然のように、ぴったり横をついて来た。
 なぜついて来るのか、それを訊ねようとした春よりも一瞬早く、老人が口を開く。
「何か悩みでもあるの? 君、ずっとぼーっとしてるでしょ」
 老人とは、今さっき会ったばかりだ。なのに、春はなんとも言えない気持ちになっていた。老人の声には、なんでも白状してしまいたくなる、そんな不思議な効果があるような気がする。
 なんだか千羽さんみたいだな、と春は思った。
 ──いや。
 春はすぐ、考えを否定した。千羽とは違う。
 千羽に頭を撫でられると、心を揺さぶられているようでなんでも打ち明けてしまいたくなる。それなのに、別の感情が別の場所から急に沸いてきて、元あった感情を打ち消してしまうのだ。
 心の深い部分を見られたくない。彼には、弱い部分を見せたくない──。
 どうしてそう思うのかはわからない。だがそうやって葛藤しているうちに、春はいつも話をごまかしてしまうのだった。
「この、人生の大先輩になんでも言ってごらん。道を教えてもらったお礼に聞いてあげるよ」
 今回は純粋に、春は老人の声に心を揺さぶられていた。
「おれ、どうしたらいいのかな……」

 老人は、堰を切ったように溢れ出る言葉を、全て黙って受け止めてくれた。
 将来なんて、漠然としたものさえ見えない。何かに全てを捧げるほど打ち込んだこともない。家が貧乏だから、母親が身を粉にして働いているから……勝手な理由で選択肢を減らして、ただ逃げているだけだ。
 思いをさらけ出せば出すほど、春の目からは涙が溢れた。
 老人は春の話が終わると、静かに語り出す。
「きっかけは、些細なことでいいんだよ。君はまだ若い。まだ君にはね、間違った道に進んでも連れ戻してくれる人がいるし、どんなイバラ道に進んでも助けてくれる人がいるよ。自分でこの道じゃないと思ったら、回れ右して戻ったっていいんだ。私くらいの歳になるとね、戻れないかもね。その先に行ってみたい好奇心の方が勝っちゃうんだよね」
 老人の声を聞いていると、頭がぼーっとして宙に浮いた気分になる。何を言われているのかわからなくなるが、不思議と多くの言葉は春の心の中にとどまり続けた。

 春はいつの間にか、大通り沿いを歩いていた。
「あれ……?」
 老人の記憶は、朝見た夢のようにぼんやりしている。
 周辺を見渡しても、画家のような格好の老人は見当たらない。
「妖精さんだったのかな……」
 確かに、現実離れした服装ではあった。でも、妖精だったらぶつかったりしないし、道を聞いたりもしない。
 春は冷静にセルフ突っ込みを入れて、家路を急いだ。


 ***


「ただいまー」
「おかえりー」
 リビングから、テレビの音と共に母親の声が返って来た。
「春、ご飯は?」
 春は「いらない」と応え、母親の視線を避けるように急いでリビングを通り過ぎた。
 横目でちらっと見ると、テレビを見ながらくつろぐ母親はまだ通勤時に着て行った服のままだった。ソファーに投げ出されたカバンは、所々擦れて色褪せている。
 部屋に入るなり、春は今日担任からもらったパンフレットを床に放り投げた。
「はあ……。おれ、本当にどうしたらいいのかな……ん?」
 パンフレットの中に、毬子にもらった雑誌が混ざっている。何気無しに手を伸ばした。
 毬子が付箋を貼ったページをめくる。
「ヨーコ・クガジーマ……」
 千羽がヘアメイクを担当したという女優。名前はオシャレにアルファベットでデザインされていた。
「『今国内外で活躍するスーパーモデル、海外ブランドからオファー殺到の理由とは──』あ、この人女優さんじゃなくてモデルさんなんだ……きれいな人だあぁぁ……」
 春は千羽がスーパーモデルのヘアセットをしている様子を想像し、どうにも居心地が悪くなって雑誌を閉じる。
 閉じたところで他にやることもないので、春は毬子にもらったもう一冊の雑誌も開いてみることにした。
「あ……」
 付箋のページをめくって、春は思わず声をあげた。
 そのページに載っていたのは、女優でもモデルでもないただの一般人。雑誌の企画で、道端で声をかけた人にヘアメイクを施したらしい。千羽の他にも、様々なアーティストが取り上げられていた。
 千羽が担当したのは、保育士の女性だった。ビフォーとアフターとはまるで別人のように違うが、まるで別人ではない。その女性は、『いつもの私じゃないけど、これも私です』とコメントしていた。
「……母さんも、こんな風にヘアメイクしてもらえたらなあ──……ぁ」
 春は、ハッとした。
 ふと、先ほど出会った妖精のような老人の言葉を思い出す。

『──きっかけは、些細なことでいいんだよ』

 そして雑誌の広告のページを見た春は、こう言った。
「そうだ、京都行こう」
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