俺は美少女をやめたい!

マライヤ・ムー

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2章 城ヶ崎漣(じょうがさきれん)

第11話 放課後個人レッスン

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特にやることもないので、保健室のベッドに座ってスマホをいじっていたら、1時間目の終業チャイムが鳴ってしばらくした頃に杏子きょうこが迎えにきた。

「いい? 普通に振る舞うのよ普通に。まずはお友達からなんだから」

教室に入ると、みんなお喋りをぴたりとやめて、視線がこちらに集まった。

杏子に手を引かれ、みんなの視線を集めながら黒板を横切って進む様は、さながら被告人出頭ひこくにんしゅっとうという感じがしないでもない。
杏子は普段の男勝りっぷりからはちょっと考えられないような、慈愛じあいあふれる笑顔を俺に向けると、

「もう大丈夫? ハルカさん。熱が下がっても、あまり無理なさらないでね」

わざと周りに聞こえるようにそう言った。

「ここがあなたの席よ。あたしの隣」

俺は案内された席に座ると、しおらしく俯いて見せて、

「ありがとう、杏子さん。私、よく覚えていないのだけれど、熱に浮かされておかしなことをしてしまったみたいで……」

杏子に言われたとおりにそう言って、机に乗せた手を恥ずかしげにもじもじさせて見せた。

杏子は微笑みながら、

「お気になさらなくて大丈夫よ、もう誰も気にしてはいないもの。ねえみなさん」

そう言って振り返ると、みんなそれぞれに納得しているようで。

「まあ、お熱が」
「それなら致し方ないと思うわ」
「少し驚いたけれど……」

俺が教室に一歩入ったときの緊張感みたいなものは、いい具合にほぐれてきて、そうなると今度はそれぞれに話をしていたらしい小グループが徐々に周りに集まってきた。

「ハルカさんは、前の学校はどちらでしたの?」
「お父様のお仕事で来られたのかしら?」

男子校に通っていたせいで――いや、共学の高校に通ってようが同じことだろうけれど、俺はこんなに一時に女の子に囲まれたことがなかったから、興味津々といった感じでグイグイ迫ってくるえんじ色の制服の群れにすっかり圧倒されていた。

嬉しいというよりも、ちょっと怖い。

もともといたのが男子校だし、おまけに徒歩通学だから、女子高生を見かけることが生活の中でまったくと言っていいほどなかった。

中学のときも、同い年の女の子に2、3年歳を取らせただけの存在には思えなくて、友達のお姉さんなんか、すごくかっこよく見えたものだ。

今でも接点があるのは杏子くらいのもので、変な話だけれど同い年の女の子を異世界の天上人のようなものとして漠然ばくぜんと捉えていたフシがある。

共学に行った友達から、クラスにかわいい女の子がいるなんて話を聞いて歯噛みしたものだった。

「前の学校は共学でいらしたの?」

前の学校は男子校ですとは口が裂けても言えないから、姉と作った適当な嘘でごまかしつつ、女の子たちの隙間から城ヶ崎漣じょうがさきれんの方を見る。

彼女は自分の席に座っていて、2、3人の女の子と何か話をしている様子だ。

あごの下に曲げた人差し指を当てて、ころころと笑っている。

早く話しかけたいと思ったけれど、質問責めから抜け出せないうちに授業が始まってしまった。

英語の授業だったけれど、進み方は前に通っていた学校と同じところのようで安心した。

「前から疑問に思っていたんだが、どうして君たちは教科書に載っている内容をわざわざ教師に解説させているんだ」

まだロッカーをもらっていないから、鞄は机の下に置いてある。

ネクロノミコンが、そこから話しかけてきた。

「家で教科書を読めばいいだろう」

俺は背を丸めて、小声で返事する。

「……載ってないこともあるんだよ」
「ではその載ってないものを纏めて本にすればいい」
「それは、参考書ってのがあるの」
「ではなぜそれを読まずにわざわざ高い学費と時間を浪費して学校に通うのだね」
「そりゃ、みんながみんな、自主的に勉強できるわけじゃないからじゃねえの?」
「なら無理にする必要はあるまい」

ネクロノミコンはしつこく食い下がってくる。

暇なのか?

「……しとかないと大学受験とか困るだろ」
「なら受けなければいい」
「大学行かないと良い仕事に就けないの」
「つまりここに集う彼女らは、あどけない顔をして金儲けに来ているわけだ。大いに結構」
「……お前、そういうイヤミが言いたかっただけだろ」
「有村さん、どうかなさいましたか?」

しまった、先生に見つかった。

ネクロノミコンが発見されることはないだろうけれど、延々ひとりごと言ってるヤバいやつになってたかも知れない。

俺は慌てて顔を上げた。

「はいっ!? いえっ、なにも……」
「前の授業ではもう済んだ所かも知れませんけれど、ちゃんと聞いてて下さいね」
「すみません」
「やーいやーいおーこらーれたー」
「……るっせ」

俺は机の下に置いた鞄を足で小突く。

英語の授業が終わるとすぐ、杏子がため息混じりに言ってきた。

「あんた、授業中に何話してんのよ……」
「ネクロが話かけてくるから」
「そのネクロってのは私のことかね」

また、鞄の中から声がした。

「私はちょっと独り言を漏らしただけだったんだ。それにイチイチつっかかられて、辟易していたんだよ。授業がそんなに退屈かね。私は退屈だ」
「くーぬーやーろー」
「ほらまたそうやって構うからからかわれるのよ」

鞄からぴょこぴょこ飛び出てくる触手をひっつかんでやろうとして、杏子に腕を掴まれた。

ネクロの触手は、俺をからかうように机の脚をペンペン叩いて引っ込んだ。

「ちなみに、私の声は君たちにしか聞こえていないから安心したまえ」
「そうなの? 今も?」

杏子が周りの生徒を回しながら尋ねる。

「そうとも、そうでなければこんなに堂々たる美声を響かせているわけがなかろう。私の声には指向性があるんだ。人間の粗末な喉笛のどぶえとは出来が違うのだよ」
「つまりあの勉強がどうだって話、あたしにもあえて聞かせてたのね」
「だったらどうなんだね」

腰に手を当てて、杏子は言った。

「人間はね、この先の人生に役立つように、がんばって勉強するの」
「そうか。では君がこの先の人生で、トムに日本の郷土料理について説明する機会に巡り会うことを祈っているよ」
「応用ってもんがあるでしょ!」
「私には当然あるが、君にもあるとは知らなかった」
「くーぬーやーろー」

俺の机に向かって足を踏み出した杏子を、俺は慌てて止めた。

「ほら、構うからからかわれるんだよ……」

歯ぎしりする杏子の後ろから、クラスメイトが話しかけてきた。

「杏子さん、ハルカさん。次は移動教室よ。一緒にいきましょう。」

みんなでぞろぞろ音楽室に向かうのが、ここでの習わしらしい。
俺たちはその子と一緒に教室を出た。

えんじ色の制服が1クラス分、廊下をしずしずと歩むのは壮観だった。
交わされる話し声や、ときどき上がる笑い声にも品がある。
かつての俺のクラスメートどもに、爪のあかせんじて飲ませてやりたい。
しかし女子高生のお嬢様の爪の垢なんてのは、さぞかし高値で取り引きされることだろう。

杏子はそのクラスメイトと話をしながら、廊下を歩いていた。
ときどき何か言いたそうに、先を歩く城ヶ崎漣のウェーブがかった髪と俺とを交互に見ながら。
言わんとしていることは分かる。
さあ行ってこいという合図。

俺はこちらに目線を送る杏子に軽く頷いてみせて、城ヶ崎漣のもとへと歩き出した。
彼女は俺よりも、拳ひとつ分くらい背が低いようだ。
スカートの群れの中を会釈しながらすり抜けて、小さな肩の斜め一歩後ろくらいまで近づいてから、話しかけた。

「あの、漣さん……」

漣は振り返るよりも浅い角度で横を向き、歩調を緩めて俺と目を合わせた。
彼女の大きな目の中の、色素の薄い大きな瞳は、白い頬にほんの小さな影を落とす涙袋の上にあって、窓外の光を透き通して宝石のように静かだった。

けれどもその小さな、幅の狭いくちびるが。
さくらんぼの瑞々しく甘酸っぱいあの味が、彼女の微笑みに合わせて形を変えて、きゅっと凝縮したような赤いくちびるの描くが。
その匂い立つように濡れた曲線が、瞳の放つ涼しい光を和らげて、穏やかな日向に吹くそよ風のように感じさせていた。

「ハルカさん」

漣さんは俺の名を呼びながら、彼女に合わせて止まりかけた俺の足をいざなうように歩くペースを戻した。
それに戸惑って俺の足がつんのめるということもなく、自然な速度で2人の歩調が合う。
彼女の所作しょさのひとつひとつが、その瞳とくちびるが与える相反あいはんした印象と同じように、計算と優しさに満ちているように感じられた。

たぶん、俺がこの小柄な少女に話しかけてまだ5秒も経っていない。

けれども彼女の印象に圧倒されて、その瞳に優しく捉えられて、言葉が喉の奥で詰まってしまったような気がして、冷や汗の出るようなチリチリした皮膚感覚とともに、体がかっと熱くなる。

俺は自分を落ち着かせるために、鏡で見た自分の姿に思いをせた。

そうだ、俺だって、今は彼女に負けないくらいの美少女なのだ。

意を決して、俺は言葉を続けた。

「漣さん、今朝はごめんなさい。私、熱に浮かされてしまって。自分のしたことはよく覚えていないのだけれど、あなたのきれいなお声は覚えているわ」

よく言った俺!

目を伏せて、自分のふくらんだ胸の先を見ながらそう言ったのは、反省している様子を表現する意図もあったし、彼女の印象的な瞳に心を持って行かれないための方便でもあった。
あと、おっぱい見て、自分のスゴさを再確認して自信をつけるため。
城ヶ崎漣の胸は、杏子のような胸と背中間違えたのかな? というほどのぺったんこではないにせよ、小柄な体にほどよいサイズだった。

「そんな、きっとお熱が出ていらしたからよ」

漣が謙遜けんそんすると、その隣の女の子が会話に入ってきた。

「漣さんは朗読研究会のエースだものね」
「まあ、本を読むのにエースなんてなくってよ」

朗読研究会。

俺がいた男子校には当然、そんなもの無かった。
非公式に開かれる官能小説朗読会というのは存在したが、ああいうものとはおそらく違うのだろう。

俺が花も恥じらう男子校1年生の頃、横田という友人に誘われて、一度だけ参加したことがある。
それは俺が入学する前に廃部になった、ボクシング部の部室で行われた。

そのときテキストとして用いられたのは、『放課後美術レッスンーー筆に滴る彼女の秘蜜(原文ママ)』というweb小説だった。
そのサイトのURLを、それぞれが自分のスマホで開いて、順に読み上げるのだ。

ちなみにそのとき先輩に教えてもらったのが、『官能小説』で検索すると、上位に表示されるのは必ず女性向けのサイトなのだということだった。
この事実は、女の子が男を求めるのだという事実をフィクションとしてしか知り得ない俺たちをひどく興奮させた。

高校生にもなれば、エロ雑誌を読めば必ず登場する、俺たちのヒンデンブルク号を所望してやまない淫乱お姉さま方の存在を、ほんのわずかに疑うぐらいの知性は身につけている。
かと言って、騙されたつもりで楽しめるほど大人にはなれていない。
だから「女だってちゃんとエロいのだ」という検索エンジンのアルゴリズムによってなされた科学的証明は、これから始まるエロ世界に没入するための素晴らしいエッセンスとなった。

だがひとたび朗読が始まると、この会がそんな純粋な知的好奇心を満たすだけの罪のない集まりではないことに気がつく。

何せその小説を読み上げるのは、声変わりして久しい男子高校生たちだ。
最初は自分たちの口から飛び出す「肉棒にくぼう」とか「蜜壷みつつぼ」とかいう単語にいちいち吹き出しながら進行するのだが、やがて「あんあん」とか「もうだめ」とかいう感嘆詞かんたんしが男たちの喉から絞り出される頃合いになると、笑いは次第になりを潜め、場は次第に真剣勝負の様相を呈してくる。

その頃になると「俺、ちょっとトイレ行ってくるわ……」と退席するものが現れ出す。
たいていは3年の先輩だった。
この地獄の風景が耐え難いからではない。
今切々と読み上げられている『放課後美術レッスン』の行く末を、トイレの個室で、自分の息子とともに見届けるためだ。
web官能小説としては、それが本来のあるべき姿だろう。
みんなそれを察しながら「おう」と、そのリタイアを見送る。

そうして朗読者はひとり、またひとりと減っていく。
残ったものは、もはや意地になって朗読を続ける。
個室がもういっぱいだからという話ではない。それなら部活棟ではなく校舎のトイレを使えばいい。
窓を締め切った部室で汗をダラダラ流しながら「リエ君……僕もう……我慢できない……」「先生……ッ!」とか声の限りに叫び合っていると、人間はその場にいたものにしか分からない一種のトランス状態に陥る。
トランス状態でしか成し得ない芸当であるとも言える。

そして残りの朗読者が半数になったところで、とうとうそれを読み終えたとき、俺たちはまるで何かを成し遂げたかのような爽やかな開放感と、何ひとつ成し遂げられていない股間のむなしい疼きを感じるのだ。

そして「クソ笑ったよな」とか「川村先輩のあの読み方ウケるよな」とか、気もそぞろな感想を言い合いながら、ポケットに手を突っ込んで背中を丸めたまま、それぞれどこかに消えていく。

どこかとは、当然トイレの個室だ。

あんなおぞましい会合を、俺は他に知らない。
それに毎回参加していた横田という男はなんだったのか。

「……どうなさったのハルカさん?」
「え? べ、別に何も!」

漣さんの可憐な声によって、意識がイカ臭い男子トイレから、私立クリスチナ女学園の廊下へと引き戻された俺は、慌ててそれに答えた。

「前の学校のことを、少し思い出していて……」

嘘は言っていない。

「まあ」

漣さんは俺を見上げて言った。

「私も中学生のときに中等部に転入してきたから分かるわ。心細いわよね。でも杏子さんと仲良くしていらっしゃるみたいだし、私たちだってもうお友達でしょう? また、朗読研究会にもお顔を見せて下さいな」

「ありがとう、漣さん」

俺は漣さんに向かって微笑ほほえみながら、ふと彼女のくちびるから『放課後美術レッスン』の台詞せりふつむがれる光景を想像して、なんとも言えない気持ちになってしまった。
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