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3章 藤枝宮子(ふじえだみやこ)
第34話 あいるびーばっく
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「いでででででで……!」
俺は全身を締め付ける苦しみに思わず声を上げた。ガムテープでぐるぐる巻きにされた体が、男に戻ろうとしているのだ。
「ああいうことするなら、先に言えよっ」
月の消えた夜空をバックに、ネクロノミコンはすました声で言った。
「言ったところでどうにもなるまい」
「少なくとも、杏子はどうにかなっただろ」
杏子、ホテルのロビーの真ん中で筋肉モリモリマッチョマンになったりしてないだろうな。女子校の制服を着た変態として杏子が逮捕されてしまえば、会長のキスへの望みも潰える。
会長といえば、ドアの向こうから呻くような声が聞こえなくなっていた。やはり、新月の効果はあったらしい。
「そうだな、彼女の存在を忘れていた。まあいいだろう、彼女がどんなトラウマを背負おうと私は困らない」
「警察に捕まってたらどうするんだよ」
「そんなはずはない、今も連絡を寄越してきている」
「来たらすぐに見せろよっ」
俺はまたのそのそと体を動かして、ネクロノミコンの方へ戻った。
『 こういうことするなら事前に言え! 』
杏子のメッセージには怒りマークが付いていた。余裕あるじゃん。ネクロノミコンが返信する。
『 失敬、君の存在を忘れていた 』
煽り性能の高いセリフ付きスタンプ(ズッ友だよ!)も一緒に送信。700年代生まれの爺さんのくせに、完全に使いこなしていやがる。
『 次やったら絶対燃やす 』
ひとまずは、問題ないらしかった。
続くメッセージ。
『 隣のビル見える? 』
俺は床まで開いた大きな窓を見た。隣のビルは映画館付きの百貨店で、放映中の映画の垂れ幕がかかっている。縛られた状態でも、がんばって首を起こせば下まで読めた。
『
完璧少女ミミコちゃん ヒポポタマス伯爵の逆襲 好評上映中!
』
視点が違うのでピンとこなかったが、これを見て思い出した。あそこは一昨日、会長とのデートで行った映画館だ。
「ネクロ、杏子に前が映画館だって送ってくれ」
メッセージを送ってしばらく待つと、返信が来た。
『 垂れ幕の文字見える? ミミコちゃんの 』
『 見える 』
『 平行に見えるのはどの文字? 』
なるほど。垂れ幕の文字の位置で、フロアを特定しようというわけだ。厳密に何階とまではわからないだろうけれど、ある程度絞り込むことはできる。
床に寝ころんだまま窓を見ると、視線の先には『ミミコちゃん』のコの字が見えた。それをネクロに伝えさせると、次のメッセージ。
『 ライトか何かで、外に合図できる? 』
ネクロノミコンは俺が教えたとおりにスマホのフラッシュライトを起動させると、窓の方に触手を伸ばしてスマホを∞の字に振った。
外から見れば、ほんのわずかな光のちらつきだろう。ある程度フロアがわかったとはいえ、杏子はみつけてくれるだろうか。そもそも杏子はどこからこっちを見てるんだろう。地上からだとしたら、角度的に見えるかどうか。
ネクロノミコンがしばらく窓際でスマホを振っていると、SNSの着信音が鳴った。触手がしゅるしゅると縮み、俺の顔の近くに戻ってくる。
『 みつけた 』
さすが杏子! これでここが何号室か、ある程度検討はついたはずだ。
『 今行くから 』
杏子からメッセージが届く。
『 窓から離れてて 』
――はい?
窓から来るつもりなのか? 向かいのビルを見る限り、このフロアはおそらく10階よりもずっと上だ。杏子の意図は掴めなかったが、言われたとおり俺は縛られたまま部屋の隅まで転がっていく。
壁をよじ登ってくるつもりだろうか。それとも別の部屋を借りて、ベランダ伝いに?
壁を背にして寝転がったまま窓を見守っていると、外に黒い影が差した。ほんの一瞬だ。その、一瞬の後――大きな窓ガラスがすさまじい音を立てて、真っ白になって砕け散った。
粒状になって飛び散る強化ガラスの破片の中で、真っ暗な部屋を斜めに照らし出す強烈なライトの照射。躍り出る黒い影。
ガラスを突き破ったタイヤは柔らかい絨毯を削り取り、繊維を巻き上げながらコンパスのように旋回する。
降り注ぐ粒状ガラス、ライトの反射光にギラつく大型バイク。それに跨がっているのは、黒ジャケットに黒パンツの屈強な大男だ。
その姿は、さながら星の降る中に現れた漆黒の騎士――男はサングラスを外すと、革ジャケットの胸元に差した。細く鋭い眼差しの中で、ブラウンの瞳が輝く。部屋に反響する4ストロークのエンジン音の中で、男は低く呟いた。
「……あいむばっく」(CV:玄○哲章)
「知事だァァァァァァァァァァァァァァ!!」
米国某C州の知事じゃないか! しかも結構若い頃の趣だ。やっぱりどうしても、杏子の持つ男のイメージはアクション俳優になるらしい。
「待たせたワネ」
杏子は野太い声でそう言うと、バイクから降りて俺に巻き付いたガムテープを剥がしにかかった。
「ムゥン!」
バリバリバリバリバリバリ
「痛い痛い痛い痛い!」
すさまじい膂力でガムテープが千切り取られる。脚や手がヒリヒリして、体中べたべたになっているが、どうにか自由に動けるようになった。
剥がしたテープを見ると、ちょっとした雑誌くらいの厚みがあった。ちょっと怨念じみている。これだけ念入りに巻かれていれば、ミミコちゃんのパワーでも脱出できないわけだ。
ガムテープ何本使ったんだろう、里奈さま。
「とにかく助かったよ知事……じゃなかった杏子。
それにしても、いったいどこから?」
「向かいのビルの屋上から」
「おま……!」
滅茶苦茶しやがる――ビルの屋上からバイクでダイブするなんて。
しかし、杏子もそれだけ必死なのだ。
「やっぱり、ハルカも男に戻ってるのネ。まだ助かってないみたいヨ……」
この騒ぎを聞きつけたのだろう、向こうの部屋が騒がしくなった。たくさんの足音と男たちの声が、ドアの向こうからくぐもって聞こえてくる。ちょっと特殊な自由業という感じの黒服のお兄さんたちが、どたどたと部屋に踏み込んできた。最初に入ってきた男が、部屋の明かりをつけた。
「なんじゃあてめえらはァァァァァ!?」
明るくなった部屋に怒号が響きわたる。黒服の男たちがぞろぞろと入ってくる。こっちはクリスチナ女学園の制服を着た男子高校生に、革ジャケットのマッチョな大男。純度100パーセントの不審者だ。
「お嬢の部屋で何さらしとんじゃゴルァ!!」
「生きて帰れると思うなよおどれらァ!!」
やっぱり、本物は迫力が違うなァ――。
頬に傷があったり小指が無かったりするお兄さま方のご叱責に、俺はちょっと泣きそうになっていた。
黒服の肩の向こうに、部屋から出て行こうとする里奈さまと、彼女に無理矢理手を引かれる会長の姿が見える。そうだ、怖がっている場合じゃない。
しかしこの黒服たちを乗り越えていかないことには、会長の元にたどり着けない。それどころか、捕まってしまえばそれっきり。一生を女として過ごすどころか、その一生すら危うくなりそうだ。
その一瞬の躊躇いを突いて、黒服の一人が飛びかかってきた。思わず仰け反ったところに、立ちふさがる太い腕。黒服が叫ぶ。
「なんでこんなところに知事がおるんじゃあ!!」
「……はすたらびすたべいびー」
杏子は受け止めた黒服を片手で持ち上げると、すさまじい力で反対側の壁まで放り投げた。人が冗談みたいに飛んでいく。痛々しい破壊音とともに壁が大きく凹み、黒服は床に転がる。掛けてあった絵が落ちてきて、額縁のガラスが飛び散った。
「なんじゃてめえはぁぁぁぁあああ!!?」
「んだらぁぁあぁぁああ!!」
気色ばんだ黒服たちが、いっせいに襲いかかってくる。杏子は一歩前に出て、そのタックルをがっちりと受け止めた。
「……のーぷろぶれむ」
ミシミシと床のきしむ音。黒服の群れがざわめく。杏子ひとりが、数人の屈強な男たちを押し返しているのだ。
「もっと気合い入れて押せぇぇぇぇぇ!!」
「「「らぁああああああああ!!!」」」
男たちはサングラスの下に脂汗を流しながら、顔を真っ赤にして杏子を押し返そうとする。対する杏子の、腕の筋肉が膨れ上がった。
「ムゥン!」
一歩、また一歩と黒服の山が押し返される。壁が、床が悲鳴を上げた。まるで巨大な装甲車だ。黒服たちの革靴が床を滑る。そしてついに杏子は、黒服の山を向こうの部屋まで押し返した。黒服たちの壁が崩れ、外への道が開いた。ブラウンの瞳が目配せをする。
「……先に行け、私は後から追いかける」
それ言っちゃダメな奴だ。
「お前も早めに逃げろよ!」
「行かすかコラァァァアアア!!」
「……ちるあうと」
俺に掴みかかろうとする黒服の首を、杏子の太い腕が掴む。そのまま持ち上げると、右から襲いかかる一団へと投げつけた。観葉植物が倒れ、テレビの液晶を破壊する。次に来たひとりの胸ぐらを掴んで、天井のシャンデリアに叩きつけた。黒服は光の散らばるベッドの上を弾む。
ありがとう杏子、そしてごめん、里奈さまの保護者の皆さん!
俺はネクロノミコンを抱えて、部屋を抜け出した。
廊下に出ると、周りのドアが残らず全て開け放たれていた。なるほど、黒服たちはみんなこのフロアにいたわけだ。到着が早いはずだ。俺はエレベーターまで走った。
エレベーターは『R』の表示で止まっている。会長と里奈さまは屋上か。ボタンを押してみたが、エレベーターは動かない。入り口に何かを挟むかして、足止めしているらしい。この階より上のエレベーターはこの1本だけだ。
「くっそ!」
ネクロのおかげで会長の力は治まっているはずなのだが、一度動き出した激情は簡単には止まらないものらしい。俺は踵を返して非常扉を開き、階段を駆け上った。
今いたフロアは13階、ナカトミグランドホテルは40階建てらしい。俺は息を切らせながら階段を走る。階数が多い上に、高級ホテルだからかワンフロアがひどく長い。どんどん重たくなる足を無理矢理持ち上げて、ぜいぜいいいながら階段を蹴り続ける。心臓がばくばく鳴って、汗がとめどもなく流れ出る。まだ26階だ――。
「最初からとばすからだ、もっとペースを考えたまえ」
「いつもの……体なら……軽く……いけてた……!」
いつもながら人をバカにしたようなネクロノミコンの声に、俺は苛立ちながら答えた。無敵のミミコちゃんボディーならこんな階段、朝飯前のランニングにもならないだろう。男に戻ることでこんな弊害があるとは。
「もう少しだ、頑張りたまえ」
「あと14階も……あるだろうが……」
「そうじゃない。そろそろ月が出る頃だ」
踊り場の明かり取りから、夜空が見える。ネクロの作り出した新月の夜だ。その中心に、いびつな形の星が見え始めた。
いや、あれは星じゃない――。
その冷たい光が目に映るのと同時に、体の芯がざわめいた。
俺は全身を締め付ける苦しみに思わず声を上げた。ガムテープでぐるぐる巻きにされた体が、男に戻ろうとしているのだ。
「ああいうことするなら、先に言えよっ」
月の消えた夜空をバックに、ネクロノミコンはすました声で言った。
「言ったところでどうにもなるまい」
「少なくとも、杏子はどうにかなっただろ」
杏子、ホテルのロビーの真ん中で筋肉モリモリマッチョマンになったりしてないだろうな。女子校の制服を着た変態として杏子が逮捕されてしまえば、会長のキスへの望みも潰える。
会長といえば、ドアの向こうから呻くような声が聞こえなくなっていた。やはり、新月の効果はあったらしい。
「そうだな、彼女の存在を忘れていた。まあいいだろう、彼女がどんなトラウマを背負おうと私は困らない」
「警察に捕まってたらどうするんだよ」
「そんなはずはない、今も連絡を寄越してきている」
「来たらすぐに見せろよっ」
俺はまたのそのそと体を動かして、ネクロノミコンの方へ戻った。
『 こういうことするなら事前に言え! 』
杏子のメッセージには怒りマークが付いていた。余裕あるじゃん。ネクロノミコンが返信する。
『 失敬、君の存在を忘れていた 』
煽り性能の高いセリフ付きスタンプ(ズッ友だよ!)も一緒に送信。700年代生まれの爺さんのくせに、完全に使いこなしていやがる。
『 次やったら絶対燃やす 』
ひとまずは、問題ないらしかった。
続くメッセージ。
『 隣のビル見える? 』
俺は床まで開いた大きな窓を見た。隣のビルは映画館付きの百貨店で、放映中の映画の垂れ幕がかかっている。縛られた状態でも、がんばって首を起こせば下まで読めた。
『
完璧少女ミミコちゃん ヒポポタマス伯爵の逆襲 好評上映中!
』
視点が違うのでピンとこなかったが、これを見て思い出した。あそこは一昨日、会長とのデートで行った映画館だ。
「ネクロ、杏子に前が映画館だって送ってくれ」
メッセージを送ってしばらく待つと、返信が来た。
『 垂れ幕の文字見える? ミミコちゃんの 』
『 見える 』
『 平行に見えるのはどの文字? 』
なるほど。垂れ幕の文字の位置で、フロアを特定しようというわけだ。厳密に何階とまではわからないだろうけれど、ある程度絞り込むことはできる。
床に寝ころんだまま窓を見ると、視線の先には『ミミコちゃん』のコの字が見えた。それをネクロに伝えさせると、次のメッセージ。
『 ライトか何かで、外に合図できる? 』
ネクロノミコンは俺が教えたとおりにスマホのフラッシュライトを起動させると、窓の方に触手を伸ばしてスマホを∞の字に振った。
外から見れば、ほんのわずかな光のちらつきだろう。ある程度フロアがわかったとはいえ、杏子はみつけてくれるだろうか。そもそも杏子はどこからこっちを見てるんだろう。地上からだとしたら、角度的に見えるかどうか。
ネクロノミコンがしばらく窓際でスマホを振っていると、SNSの着信音が鳴った。触手がしゅるしゅると縮み、俺の顔の近くに戻ってくる。
『 みつけた 』
さすが杏子! これでここが何号室か、ある程度検討はついたはずだ。
『 今行くから 』
杏子からメッセージが届く。
『 窓から離れてて 』
――はい?
窓から来るつもりなのか? 向かいのビルを見る限り、このフロアはおそらく10階よりもずっと上だ。杏子の意図は掴めなかったが、言われたとおり俺は縛られたまま部屋の隅まで転がっていく。
壁をよじ登ってくるつもりだろうか。それとも別の部屋を借りて、ベランダ伝いに?
壁を背にして寝転がったまま窓を見守っていると、外に黒い影が差した。ほんの一瞬だ。その、一瞬の後――大きな窓ガラスがすさまじい音を立てて、真っ白になって砕け散った。
粒状になって飛び散る強化ガラスの破片の中で、真っ暗な部屋を斜めに照らし出す強烈なライトの照射。躍り出る黒い影。
ガラスを突き破ったタイヤは柔らかい絨毯を削り取り、繊維を巻き上げながらコンパスのように旋回する。
降り注ぐ粒状ガラス、ライトの反射光にギラつく大型バイク。それに跨がっているのは、黒ジャケットに黒パンツの屈強な大男だ。
その姿は、さながら星の降る中に現れた漆黒の騎士――男はサングラスを外すと、革ジャケットの胸元に差した。細く鋭い眼差しの中で、ブラウンの瞳が輝く。部屋に反響する4ストロークのエンジン音の中で、男は低く呟いた。
「……あいむばっく」(CV:玄○哲章)
「知事だァァァァァァァァァァァァァァ!!」
米国某C州の知事じゃないか! しかも結構若い頃の趣だ。やっぱりどうしても、杏子の持つ男のイメージはアクション俳優になるらしい。
「待たせたワネ」
杏子は野太い声でそう言うと、バイクから降りて俺に巻き付いたガムテープを剥がしにかかった。
「ムゥン!」
バリバリバリバリバリバリ
「痛い痛い痛い痛い!」
すさまじい膂力でガムテープが千切り取られる。脚や手がヒリヒリして、体中べたべたになっているが、どうにか自由に動けるようになった。
剥がしたテープを見ると、ちょっとした雑誌くらいの厚みがあった。ちょっと怨念じみている。これだけ念入りに巻かれていれば、ミミコちゃんのパワーでも脱出できないわけだ。
ガムテープ何本使ったんだろう、里奈さま。
「とにかく助かったよ知事……じゃなかった杏子。
それにしても、いったいどこから?」
「向かいのビルの屋上から」
「おま……!」
滅茶苦茶しやがる――ビルの屋上からバイクでダイブするなんて。
しかし、杏子もそれだけ必死なのだ。
「やっぱり、ハルカも男に戻ってるのネ。まだ助かってないみたいヨ……」
この騒ぎを聞きつけたのだろう、向こうの部屋が騒がしくなった。たくさんの足音と男たちの声が、ドアの向こうからくぐもって聞こえてくる。ちょっと特殊な自由業という感じの黒服のお兄さんたちが、どたどたと部屋に踏み込んできた。最初に入ってきた男が、部屋の明かりをつけた。
「なんじゃあてめえらはァァァァァ!?」
明るくなった部屋に怒号が響きわたる。黒服の男たちがぞろぞろと入ってくる。こっちはクリスチナ女学園の制服を着た男子高校生に、革ジャケットのマッチョな大男。純度100パーセントの不審者だ。
「お嬢の部屋で何さらしとんじゃゴルァ!!」
「生きて帰れると思うなよおどれらァ!!」
やっぱり、本物は迫力が違うなァ――。
頬に傷があったり小指が無かったりするお兄さま方のご叱責に、俺はちょっと泣きそうになっていた。
黒服の肩の向こうに、部屋から出て行こうとする里奈さまと、彼女に無理矢理手を引かれる会長の姿が見える。そうだ、怖がっている場合じゃない。
しかしこの黒服たちを乗り越えていかないことには、会長の元にたどり着けない。それどころか、捕まってしまえばそれっきり。一生を女として過ごすどころか、その一生すら危うくなりそうだ。
その一瞬の躊躇いを突いて、黒服の一人が飛びかかってきた。思わず仰け反ったところに、立ちふさがる太い腕。黒服が叫ぶ。
「なんでこんなところに知事がおるんじゃあ!!」
「……はすたらびすたべいびー」
杏子は受け止めた黒服を片手で持ち上げると、すさまじい力で反対側の壁まで放り投げた。人が冗談みたいに飛んでいく。痛々しい破壊音とともに壁が大きく凹み、黒服は床に転がる。掛けてあった絵が落ちてきて、額縁のガラスが飛び散った。
「なんじゃてめえはぁぁぁぁあああ!!?」
「んだらぁぁあぁぁああ!!」
気色ばんだ黒服たちが、いっせいに襲いかかってくる。杏子は一歩前に出て、そのタックルをがっちりと受け止めた。
「……のーぷろぶれむ」
ミシミシと床のきしむ音。黒服の群れがざわめく。杏子ひとりが、数人の屈強な男たちを押し返しているのだ。
「もっと気合い入れて押せぇぇぇぇぇ!!」
「「「らぁああああああああ!!!」」」
男たちはサングラスの下に脂汗を流しながら、顔を真っ赤にして杏子を押し返そうとする。対する杏子の、腕の筋肉が膨れ上がった。
「ムゥン!」
一歩、また一歩と黒服の山が押し返される。壁が、床が悲鳴を上げた。まるで巨大な装甲車だ。黒服たちの革靴が床を滑る。そしてついに杏子は、黒服の山を向こうの部屋まで押し返した。黒服たちの壁が崩れ、外への道が開いた。ブラウンの瞳が目配せをする。
「……先に行け、私は後から追いかける」
それ言っちゃダメな奴だ。
「お前も早めに逃げろよ!」
「行かすかコラァァァアアア!!」
「……ちるあうと」
俺に掴みかかろうとする黒服の首を、杏子の太い腕が掴む。そのまま持ち上げると、右から襲いかかる一団へと投げつけた。観葉植物が倒れ、テレビの液晶を破壊する。次に来たひとりの胸ぐらを掴んで、天井のシャンデリアに叩きつけた。黒服は光の散らばるベッドの上を弾む。
ありがとう杏子、そしてごめん、里奈さまの保護者の皆さん!
俺はネクロノミコンを抱えて、部屋を抜け出した。
廊下に出ると、周りのドアが残らず全て開け放たれていた。なるほど、黒服たちはみんなこのフロアにいたわけだ。到着が早いはずだ。俺はエレベーターまで走った。
エレベーターは『R』の表示で止まっている。会長と里奈さまは屋上か。ボタンを押してみたが、エレベーターは動かない。入り口に何かを挟むかして、足止めしているらしい。この階より上のエレベーターはこの1本だけだ。
「くっそ!」
ネクロのおかげで会長の力は治まっているはずなのだが、一度動き出した激情は簡単には止まらないものらしい。俺は踵を返して非常扉を開き、階段を駆け上った。
今いたフロアは13階、ナカトミグランドホテルは40階建てらしい。俺は息を切らせながら階段を走る。階数が多い上に、高級ホテルだからかワンフロアがひどく長い。どんどん重たくなる足を無理矢理持ち上げて、ぜいぜいいいながら階段を蹴り続ける。心臓がばくばく鳴って、汗がとめどもなく流れ出る。まだ26階だ――。
「最初からとばすからだ、もっとペースを考えたまえ」
「いつもの……体なら……軽く……いけてた……!」
いつもながら人をバカにしたようなネクロノミコンの声に、俺は苛立ちながら答えた。無敵のミミコちゃんボディーならこんな階段、朝飯前のランニングにもならないだろう。男に戻ることでこんな弊害があるとは。
「もう少しだ、頑張りたまえ」
「あと14階も……あるだろうが……」
「そうじゃない。そろそろ月が出る頃だ」
踊り場の明かり取りから、夜空が見える。ネクロの作り出した新月の夜だ。その中心に、いびつな形の星が見え始めた。
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