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しおりを挟む焦燥感が悠人を襲った。最近、終電が来る前の消滅の兆候が早くなっていたのだ。
あの日、過去の失敗を忘れたいと強く願ったことで、この奇跡は始まった。
しかし、もし彼女が自分の「忘れたい記憶」の集合体なら、彼女を存在させ続けるには、悠人が過去を忘れようとし続ける必要がある。
それは、彼女との現在の関係を、毎日リセットすることを意味した。
ある満月の夜、二人は誰もいない埠頭で話していた。遠くで終電のアナウンスが聞こえてくる。
「ねえ、雫」
悠人は震える声で尋ねた。
「僕が、君を忘れたくないと思ったら、どうなるの?」
雫の体から、微かに光の粒子が漏れ始めた。
「私は、皆さんの忘れたい記憶を糧に存在しています。もし、あなたが過去の全てを受け入れ、私を忘れたい記憶から『大切な記憶』に変えてしまったら……」
彼女は涙を浮かべた。
「私は、存在できなくなってしまいます」
彼女は、「あなたに忘れられたくなくて、あなたの忘れたい記憶を集めて、この姿を保っている」と告白した。
彼女にとっての存在意義は、悠人の『忘れたい』という強い願いだった。
終電のベルが、長く、寂しく鳴り響き始めた。
雫の体は、すでに朧げな光の輪郭しか残していない。あと数秒で、彼女は完全に消えてしまうだろう。
悠人は、彼女の光の輪郭を抱きしめた。
「もう、君のことを忘れようとしない」
その言葉は、彼自身の過去への決別であり、彼女の存在理由の否定だった。
「忘れたいなんて、二度と願わない。君と出会えたこの日々を、僕の『大切な記憶』にする」
彼の決意が、雫の体を完全に崩壊させた。光の粒が夜空に舞い上がり、静かに消えていく。
しかし、その最後の瞬間に────。
「悠人……」
微かな声が、彼の耳に届いた。彼女が、初めて彼の名前を呼んだのだ。
そして、彼女の消滅の光が、彼の心の中に、今日のこの日一日の、確かな記憶だけを残していった。
翌朝。
悠人は、いつもより早く目を覚ました。
ベッドの横には、昨日雫に渡したはずの、星型のピーチ味の飴がひとつ。
彼は、もう終電のホームには行かなかった。
過去の失敗も、失恋も、全てを「雫と出会うためのきっかけだった」と受け入れ、仕事に向かう。
彼の心の中には、終電が来ても消えない、雫との確かな愛の記憶が刻まれていた。
──完
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