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Hanamaru

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”人生は何度だってやり直せる”
 カーステから流れてきたJ-popが言っていた。でも、私は知っている。やり直せないものだってあるのだと。

 私が昔カフェでアルバイトをしていた頃、毎週決まって同じ時間に来る人が居た。歳は私と同じくらいの恐らく大学生。キャンバス生地のトートバッグを大事そうに抱えてやって来て、アイスカフェラテとチョコチップクッキーをいつも頼む青年。席に着くと、MacBook Airを取り出してパタパタと何かを入力し始める。課題だろうか。時たまクッキーを齧り、一度手を拭いてから打ち込みを再開する。”清潔感のある青年”というのが彼への第一印象だった。
 彼がやってくるのは木曜日の15時。いつからか、私はその時間を待ち遠しく思うようになった。知らぬ間に興味をそそられていたのだと思う。

 カランカラン。木曜日の15時。ドアに付けられていたベルが鳴る。見慣れたダークブラウンのショートヘアーが見える。
「香織ちゃん。私レジ入るから、香織ちゃんあっちお願い。」
「分かりました。」
後輩に指示を出して、私は半ば強引にレジに入る。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
私のアルバイトをしていたカフェは、入り口を入ってすぐのところにレジがあり、注文し、飲み物や食べ物を受け取ってから、席に着くスタイルだった。
「アイスカフェラテとチョコチップクッキーをください。」
「アイスカフェラテとチョコチップクッキーですね。お会計は740円になります。」
最初はこんなマニュアル対応から始まった。

 それを何回か重ねるようになって、少しずつマニュアル外の対応をするようになった。というより、私が仕掛けたのだ。
「いらっしゃいませ。ご注文はアイスカフェラテとチョコチップクッキーで宜しいでしょうか。」
私の先制攻撃に、彼の顔からは笑みが溢れる。
「はい。それでお願いします。」
「アイスカフェラテとチョコチップクッキーで、、」
「はい。740円です。」
食い気味の攻防戦が繰り広げられる。レジでの攻防戦はこれにて終焉だが、こちらにはまだ最終兵器が残されていた。
 このカフェではカップを渡す際に、中身を示した記号を手書きすることになっていた。そこで私は、アイスカフェラテのカップに”いつもありがとう! みずき”と書いてみた。最初気が付いていなかったようだが、半分くらい飲み進めたところで気付いたようで、クスクス笑いながらこちらを見た。その表情が堪らなく可愛らしかった。


 注文は次第に”いつもので”で伝わるようになっていた。
「みずきさんいつもので。」
「はい。いつものね。」
「はい。740円。」
声が重なった。二人してクスクスと笑う。
 その日の帰り際だった。分かりきったはずなのに、彼が不思議なことを言いだした。
「これはどこに片せばいいんですか?」
意味が分からなかった。頭の上に?マークを浮かべていると、彼からレシートを渡された。
「すいません。レシート不要です。」
そう言ってニコッとした。渡されたレシートを見てみると、そこにはLINEのIDが書かれていた。やられた。

 バイト終わりにIDを検索すると、Tsukasaと書かれたアカウントが表示された。アイコンは手書き調のイラストだった。友達に追加し、簡単な文を送る。
「こんばんは。みずきです。宜しくお願いします。」
すると間髪入れずに既読が付き、返信が来る。同じタイミングでLINEを開いていたのだろうか。
「ありがとうございます。司です。宜しくお願いします。」
改まった定型文の交換を済ませ、ここから会話スタートだ。
「急にあんなのズルいよ。」
「みずきさんだって、カップにメッセージ書いたじゃないですか。」
「あ。そうだった。」
スマートフォンを眺めながら、思い出し笑い。
「みずきさんは大学生ですか?」
「はい。20歳の大学生です。」
「なんだ。同い年だったのか。」
「そうなんだね。え。上に見えた?」
「そうですね。歳上かと思ってました。」
「そうかぁ。私は上に見えるのかぁ。」
「しっかりしてる感じがありましたので。」
お世辞でも少し嬉しかった。
「同い年ってことは、じゃあ敬語はなしで。」
ほぼ同時に送りあった。
「同じこと言ってるw」
「そうだねw 気が合うということでw」
 司との会話は思いの外弾んだ。会話の中で分かったこと。司がいつもパタパタ打ち込んでいたものは恋愛小説だった。作家を目指してるらしい。

 平日は夜のLINEのやり取りと、木曜日のカフェでのやり取り。休日はお互いの予定が合えば出かける。そんな日々が訪れた。どちらから告白をすることもなく、友達とは少し違う関係性になっていった。毎日”おはよう”から”おやすみ”まで送り合うLINE。声が聴きたくなって電話をすることも少なくなかった。同回生との飲み会後に、酔っ払った司から電話が来た時は驚いたけど。

 4回目のデートで私達は身体を重ねた。鶯谷の入り組んだ路地の奥にある、安いラブホテルだった。平日の夕方だった。学生というのは万年金欠の生き物なので、お金が掛かる宿泊ではなく、3時間の休憩にした。なので夕方。
 入り口を入ってすぐのパネルで、光っている部屋のボタンを押す。そして、三分の二程がロールスクリーンに覆われた受付で、支払いを済ませルームキーを受け取る。迷路のような廊下をダンジョンのように進み部屋へ。ビジネスホテルの一室をほんの少しだけ広くしたような部屋だった。
 部屋に入るなり、服を脱ぎ捨て交互にシャワーを浴びた。
「みずきちゃん。先に入っておいで。」
「いいの?」
「レディーファーストで。」
先にシャワーを浴びた私は、髪を乾かしながら司を待った。司がシャワーを浴びている時間はとても落ち着かなかった。こんなことなら一緒に入ればよかった。
 布団に潜り、抱き合い、温もりを交わしてキスをする。私は司が初めてだったが、司は私が初めてではなかった。でも、慣れているようには見えなかった。平日の夕方にシラフでするセックス。全然上手く出来なかった。でも、最初はそんなものだと何かの雑誌で読んだことがあったので、お互いに”あれ?”とか”こんなはずじゃ、、、”なんて言いながら笑った。

 それからというもの、いつのまにかお互いの家を行き来するようになり、帰るのが面倒になって泊まることもしばしば。帰るかどうかで悩むのも面倒になり、私たちは交際一年を待たずに同棲をすることになった。本来であればお互いの両親に挨拶を済ませてから、同棲を開始するのが筋だと思うが、お互いが上京組でお互いの家に足を運ぶとそれだけで計20万円ほど掛かってしまうため、電話で事情を説明した。

 あれよあれよと交際は進み、私達は大学卒業と共に籍を入れた。周囲の反対を押し切って。実のところ、私と出会う前の司は、女好きで有名だったらしい。でも、私の側に居る司からは、そんな気配は微塵も感じなかった。バイトが終わると、すぐに帰ってきて抱き合った。冷めてから夕食を食べるなんてのも日常茶飯事だった。どこに女遊びをする暇があるというのだ。私は司を疑いもしなかった。
 大学卒業後、私は中小企業の営業事務に、司は建築設計事務所のアシスタント職に就いた。最初の頃こそ、職場に慣れるのに苦労し、ストレスで言い争いになったこともあったが、次第にそんなこともなくなっていた。順風満帆な新婚生活だった。


 結婚して三年。順調かに思われた結婚生活は破綻を迎えた。この頃になると、司は恋愛小説どころかMacBook Airを開くことすらなくなっていた。それと反比例するように、マッチングアプリのアカウントとSNSの裏アカウントばかりが増えていっていた。完全に浮気だった。しかも、一度や二度ではなかった。私が知っている限り、時期はズレるものの四人の女性と関係を持っていた。三人目までは我慢をした。司を浮気させてしまう自分を責めたことすらあった。でも、流石にもう限界だった。
「みずき。本当にいいんだな。」
「うん。もう無理だよ。」
私達は離婚届に印を押した。


 司と別れてから、暫くは傷心中でした。司と別れたショックというよりは、独り身に戻った寂しさのようなものを、ひしひしと感じてしまっての傷心でした。その時の私は”きっと私には恋愛や結婚なんてものは、無縁のものなのだな。”と思っていました。それと共に恋愛や結婚が凄く贅沢なものに思えてしまいました。バツイチには尚更。
 しかしながら、そんな私を変えたのが皮肉なことにSNSでした。身元を明かさずに匿名の私を一から作り上げることが出来る。SNSでは”幸子”と名乗っていました。せめてSNS上だけでも幸せを感じたいと思ったからです。
 そしてその数年後、私はSNSで知り合った方と結婚をしました。働きながら趣味で小説を書いている男性でした。私はどうも物書きに惹かれる人間ようです。バツイチというネガティブ要素に悲観的になっていた私を受け止め、彼はこんなことを言ってくれました。

「私はバツイチという表現が嫌いです。世の中は不平等なことばかりなのに、なぜ離婚だけは平等にバツをつけるのか。そして、なぜそのバツは消すことが出来ないのか。中には相手に原因があり、それでもなんとかやり直そうと努力された方もいるでしょう。消せないバツは罪だけでいい。離婚は罪ではないはずです。私なら”お疲れ様。よく頑張ったね。”と花丸をあげたいです。」

なんて。ずっとコンプレックスに思っていたことが、最も簡単に肯定されてしまいました。私は彼に恋をする前に愛を知ってしまった。そして続け様に
「私にあなたを幸せにさせてください。」
と。
「宜しくお願いします。」
気付いた時にはそう返事をしていました。そして、瞳からは涙がこぼれ落ちていました。あの時彼が差し出してくれたハンカチは、彼の優しさそのもののように思えました。”そばにいるから、いくらでも泣きな。”と。

 彼との交際は、初めて本物の愛に触れた、本物の優しさを知った、そんな気がしました。そして、あれよあれよと結婚。結婚にはタイミングと勢いが大事と言いますが、彼との間にはその両方がありました。結婚後には娘も生まれて順風満帆の日々が始まりました。

 ただ、家事・育児に追われていると、時々”幸子”が恋しくなるようになってきました。悪いとは思いつつ、そのことを正直に夫に伝えると、
「いつも任せきりでごめん。たまのリフレッシュは必要だから、僕が休みの日に遊んでおいで。でさ、なんか面白そうなことがあったら教えて。小説のネタにするからさ。みずきがリフレッシュ出来て、こっちも小説のネタが出来て一石二鳥じゃない?あ。」
なんて言って、あっさり認めてくれました。きっと彼は私を心から愛し、信じてくれているのだと思います。この前なんて、遊んで帰ったら、夫と娘が私の似顔絵を描いてどちらが似てるかを口論していました。なんともまぁ可愛い二人です。

 今でも時々”幸子”に戻って遊んでいます。まぁ買い物と食事に付き合って貰うだけなんだけどね。それで事足りてしまうくらい今が幸せです。


『Hanamaru』
作:榊 海獺(さかき らっこ)



〈Profile〉
榊 海獺(さかき らっこ)
一九九○年生まれ、東京都出身。
会社員、作家志望、エッセイスト。
二○二一年よりアルファポリス内でエッセイ『なんでもいい』投稿中。同サイト内にて小説『さよならPretender』投稿中。
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