その香り。その瞳。

京 みやこ

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(56)SIDE:奏太

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 斗輝に頭突きされた。
 まさか、彼がそんなことをするとは考えられず、驚きと痛みで僕は涙目だ。
「痛い! なんですか!?」
 ビックリして目を見開くと、凛々しいしかめっ面が視界に映る。
「奏太を抱き締めているから、両腕が使えない。だから、頭突きした」
「僕が訊いているのは、そういうことではないです。どうして、僕に頭突きしたんですか?」
 突然額を襲った痛みに顔を顰めるけれど、僕以上に斗輝の表情が険しい。切れ長の目が、スウッと細くなる。
「奏太は出来損ないじゃないと、何度言ったら分かってくれるんだ?」
 怒りを感じさせる低い声を出されて、僕はヒュッと肩を竦める。
 頭突きされたことに感じた怒りはあっという間に消え、彼に対する申し訳なさがこみ上げる。
「ご、ごめんなさい。だって、あんなにたくさん抱いてもらったのに、それでも妊娠していないなんておかしいと思ったから……」
 慌てて謝ると、痛いくらいに抱き締められた。
「だからといって、奏太が出来損ないということにはならないだろ?」
 彼の声はいくぶん和らいだものの、まだ低い。
 さらに肩を竦め、僕はますます身を縮める。
「斗輝はなにもかも完璧な人ですから、問題があるなら僕じゃないかと……」
 しょんぼりと眉尻を下げたら、頭突きをされた額に彼が唇を押し当てた。
「まったく、落ち込む奏太が可愛いから、本気で怒れないな」
 クスッと笑った彼は、今度は僕の鼻先にキスをする。
 斗輝の怒りが解けたことにホッとして顔を上げ、改めて「ごめんなさい」と告げた。
「奏太からキスをしてくれたら、許してやる」
 それを聞いて、僕の顔がブワッと熱くなった。
「な、なんですか、それ」
「恥ずかしがり屋の奏太からキスをしてもらうのは、貴重なことだからな」
 そう言って、斗輝が今度は優し気に目を細める。
「で、でも、もう、機嫌は直っていますよね?」
 それなら、わざわざキスをする必要はないだろう。
 彼とのキスは好きだけど、自分からするのはまだまだ恥ずかしい。発情期中なら平気でも、今は正気に戻ってしまっている。
 それに、キスでもなんでもして、彼を足止めしたいという状況でもない。
 すると、斗輝が口をへの字に曲げた。
「少しも、機嫌は直ってないぞ」
 そうは言うものの、彼の目には穏やかな光が浮かんでいる。
「それは嘘ですよ、もう怒ってないですよね」
 指摘すると、彼の口がますますへの字に曲がった。おまけに、目を吊り上げてみせる。
 ちっとも怖くないけれど、ここまでされたら、僕がキスしない限りこの場は収まりそうにない。
 
――困ったな。

 僕は小さく苦笑する。
 早くこの状況をなんとかしないと、僕は着替えることができない。
 自分からキスをするのは恥ずかしいが、太腿丸出しも恥ずかしいのだ。
 僕は息を短く吸い込んで、彼の頬を覆うように手を添えた。
「……目を、閉じてください」
「分かった」
 斗輝は言われた通り、素直に目を閉じる。
 僕は彼の唇の位置を見定め、ドキドキしながらゆっくりと顔を近付けていった。 
 彼がするように舌を入れるなんて無理だから、唇をソッと押し付けるだけのキス。子供だましみたいなキスだけど、心臓がバクバクと大きな音を立てている。
 近付いた時と同じように静かに離れると、斗輝の目が開いた。
 果たして、こんなキスでも満足してくれただろうか。ドキドキしながら、彼の様子を窺う。
 すると、斗輝が深く息を吐いた。
「やはり、奏太からのキスはいいものだな」
 嬉しそうに笑う彼に嘘は感じられず、僕はホッと胸を撫で下ろす。
 僕も笑みを返すと、斗輝はさっきの話を再開した。
「今回、奏太が妊娠していないと言えるのは、篠岡製薬が出している抑制剤を飲んでいたからだ」
「どういうことですか?」
 抑制剤などどれも同じだと思っていた。
 僕は一葉先生が勧めてくれたから、その抑制剤を飲んでいただけ。
 首を傾げると、斗輝は説明を続ける。
「篠岡の抑制剤は、発情症状を抑えるのと同時に排卵を抑制するんだ。そのほうがよく効くらしいし、体への負担もいくぶん和らぐそうだ。ちなみに、その抑制剤は特許を得ている」
「そうなんですか」
 僕がパチパチと瞬きすると、斗輝が頷きながら苦笑した。
「処方する際に、一葉が説明したと思うんだが。排卵は医者の勝手で抑制できないから、奏太の許可を取ったはずだぞ」
 そう言われてみると、そんなことがあった気がする。ベータだと思って生きてきた僕は排卵と言われてもピンと来なくて、だから忘れてしまったのだろう。
 曖昧な笑みを浮かべた僕に、斗輝は苦笑を深めた。
「ただ、抑制剤はあくまでも発情症状を和らげるもので、完全に発情しないというのは難しいそうだ。俺と奏太のように番同士の場合だと、互いのフェロモンに引きずられて効果が薄れるらしい。だが、排卵についてはほぼ抑制できるとか」
「排卵しないのに、発情はするんですか?」
 あんなに頭も体もグズグズに蕩けるほど発情していたのに、排卵はされていないなんて、なんだかすごく不思議だ。
 そのことを尋ねると、斗輝も軽く首を傾げた。
「そういった人体のメカニズムは、まだ完全に解明されていないそうだ。精神状態や体質によって、さまざまなケースがあるらしいぞ。中には、発情していないのに排卵するケースも極まれにあったとか。これは、体の機能が未成熟な十代前半のオメガに見られたそうだ。このくらいの年頃の者は、精神的にも不安定な時期だからな」
「はぁ、不思議ですねぇ」
何気ない調子で相槌を打つと、斗輝が僕の目を覗き込んできた。
「そういった訳で、おそらく奏太は妊娠していないだろう」
「でも、完全に排卵を抑えることはできないんですよね? 僕が発情期前に飲んだ抑制剤は、他のオメガが服用するよりも少ない量なんです。それなら、妊娠した可能性もあるのではないでしょうか」
 きちんと服用しても、『ほぼ抑制できる』というのなら、規定量の三分の一程度しか服用していない僕は、妊娠する確率が上がるのではないだろうか。 
 疑問も不安も恐れもなんでも彼は受け止めてくれるから、僕は思ったまま言葉にする。
 すると、斗輝が一度だけ静かに瞬きをした。
「これは父に聞いた話だが、アルファは自分の番が妊娠したことを匂いで感じるらしい。番が発するフェロモンが、僅かに変化するそうだ」
「どんなふうにですか?」
「甘さが増すと言っていた。母が弟や妹を妊娠した時、父は母の首元に顔を埋め、『ああ、幸せの香りだ』と口にしていたな」
 斗輝は僕の首筋に顔を埋め、スンと息を吸い込む。
「綿菓子とオレンジを合わせたような香りは、今も変わっていない。発情期が終わってフェロモンがかなり薄くなっているが、それでも変わっていないことは分かるさ」
 それを聞いて、改めて僕はホッと息を吐く。
 そんな僕と咎めることなく、斗輝は優しく僕を胸に抱き込んだ。
「奏太が俺の子を妊娠しなかったのは残念だが、それでよかったと思う。ようやく出逢えた奏太がたった一週間で妊娠してしまったら、恋人としての時間を存分に味わう前に、奏太を子供に取られてしまうからな。それでは、あまりに寂しい」
「斗輝……」
 ポツリと彼の名前を呼ぶと、フワリと唇が押し当てられる。
「誰よりもなによりも奏太が愛しいから、奏太がやりたいと思っていることを邪魔しないように、俺の精子が奏太の卵子にあえて辿り着かなかったんだな」
「なんですか、それ」
 とんでもない話に、つい笑ってしまう。
 いくら彼が優秀だとしても、その精子までが意識を持つほどハイレベルだとは考えられない。
 クスクスと笑い続ける僕に、彼が耳元で囁く。
「精子レベルで、奏太のことを愛しているということだ」
 優しく甘く、そして真剣な声に、僕は笑いを収めて斗輝を見つめる。
 すると彼はもう一度僕にキスをして、穏やかな口調で語り掛けてきた。
「これから先も、奏太が嫌だと思うこと、不安に感じること、どんな些細なことでもいいから俺に話してほしい。約束してくれないか?」
 まっすぐすぎる愛情を向けられ、僕は素直に頷き返した。
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