その香り。その瞳。

京 みやこ

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(3)SIDE:奏太

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 有名大学の入試対策用塾などない地域だから、学校の先生と診療所の一葉先生に勉強を教えてもらう毎日。
 過保護な家族は僕が東京に行くことを猛反対したけれど、どうしても勉強したいことがあるからと、必死に説得した。
 それに一葉先生の弟さん――名前は二葉(ふたば)さん――が進学を希望している大学で校医をしていると伝えたら、最後にはなんとか折れてくれた。
 それからは、家族みんなが色々な面でサポートしてくれるようになった。
 みんなの協力と僕の努力の甲斐があって、無事に希望の大学に入学することができたのである。

 入学式まで、あと十日。僕は、ついに東京へとやってきた。
 一葉先生の計らいで、大学まで電車で三十分のところにあるワンルームマンションの一室を借りることができた。先生の知り合いが大家だということで、家賃は格安。なんともありがたい。
 僕としては普通にアパート暮らしでよかったのだが、防犯上、建物の入り口が暗証番号で開き、部屋の扉はオートロック付きのマンションのほうが安全だろうとのこと。
 僕が育った地域とはまるで違う都会だから、用心に越したことはないそうだ。
 体格からして華奢ではあるが、オメガだということは、自分から言わなければ人には分からないと思う。それに、抑制剤をきちんと服用すれば、発情期だって乗り切れるはずだ。
 呑気なことを考えていた僕に、先生はなにかの拍子で僕がオメガだと第三者に知られ、悪意を持つ誰かが部屋まで乗り込んで来たら危険だと言われた。
 そんなことが起こり得るのだろかと疑問に感じたところ、一葉先生が言うには、東京のような人が密集する場所では、そういった事件が少なくないとか。
 はじめは一葉先生のことを随分と心配性だと思ったけれど、実際に都会で暮らしてきた先生の話だから、心配性という一言では片付けられないかもしれない。
 また、これまでは少量の抑制剤で抑え込めた発情期の症状だけど、発情レベルが引き上がる可能性があるそうだ。これまでの僕の発情レベルが本来では考えられないほど低レベルのため、不意に正常レベルで発情することも考えられるとの話。
 その場合、木造アパートでは安全性が心配だという。
 フェロモンに誘発された誰かが、強引に玄関や窓から侵入してくる可能性があると諭された。発情期のオメガが発するフェロモンは、時として、相当危険なものらしい。
 でも、こんなちんちくりんな僕を襲う物好きなんているだろうか。
 両親と兄姉はしきりに「可愛い!」と言ってくれるけれど、それは身内の欲目としか思えない。
 鏡の中に映る僕は、十八歳にしては童顔で、目がクリクリしていて、まるで猫のようだ。僕が女の子だったらいいけれど、男でこの顔は残念でしかない。
 かといって、女の子のような可愛いらしさとも違う。男らしさは足りなくても、やっぱり、男には見える。なんとも、中途半端な僕である。
 オメガというだけで不便なこともあるけれど、僕としては、これからの生活は期待に胸が膨らむばかりだ。
 ただ、これまで鍵をまともにかける習慣がなかったのん気な地域出身なので、鍵持ちの生活に慣れるかどうか……
 帰ってきた時は、鍵をかけ忘れてもオートロックだから助かるけど、うっかり鍵を持たずに外に出てしまった時はどうしよう。目下、最大の心配事である。
 なにはともあれ、ついに始まる東京での一人暮らし。
 地元にいた時は家族に構われっぱなしで、正直、もっと放っておいてくれてもよかったのだ。自分のことは、自分で一通りできるし。
 東京へ引っ越すに当たり、家族の誰かが僕と一緒に暮らすという話も出ていた。
 だけど、誰が東京に行くのか揉めに揉め、『だったら、みんなで東京に引っ越すか』というありえない結論に達しそうだったので、それだけはやめてくれと懇願した。
 まったく、もう、過保護にもほどがある。家族全員、地元で働いているくせに、仕事を放り出すとは何事だ。
 荷ほどきをしながらその時のことを思い出し、なにやらどっと疲れが出てきた
 それでも、今日からは自由にノビノビできるのだ。一人暮らし、万歳!

 ところが、現実はそんなに甘いものではなかった。

 これまでのほほんとした村人に囲まれて育ってきたおかげで、お洒落でキラキラしている周囲にはついていけず、入学して間もなく、すっかり対人恐怖症になってしまったのである。
 講義が始まるギリギリの時間に教室に入り、終わったとたんに飛び出す。
 面倒見のいい同級生や先輩が僕を心配して声をかけてくれるけれど、実家周辺のスーパーで買った面白みのない綿シャツとチノパンという出で立ちの僕は、ブランド物の服をサラッと着こなしている彼らと目を合わせることもできない。眩しすぎて、目が潰れそうなのである。
 この大学は有名どころの子息や令嬢がわんさかいる学校なので、その辺を歩く生徒ですら、とにかくキラキラしている。こういう人たちは、きっと五足で三百円の靴下なんて履いていないだろう。
 僕のような人間がよく入学を許されたものだと、いまだに不思議だ。
 一葉先生の話では、『君の努力が実を結んだ結果だよ。あとは、まぁ、私と弟が君の保護者ということで、ちょっとした特別枠を作ってもらったってところかな』とのこと。
 なんだろう。田舎のガキんちょにも都会で学ばせてあげようという、ありがたい制度でもあるのだろうか。一葉先生の実家のことを全く知らない僕は、そんな風に考えていた。

 今日も今日とて、午前中の講義が終わった途端、教室を飛び出した。入学して三週間も経つというのに、毎度この調子だ。
 これではいけないと反省しつつも、人見知りはなかなか改善されない。
 とにかく、混雑がひどくならないうちに学食へと一目散。
 実家からの仕送りで生活しているので、生活費は極力切り詰め、いつも弁当持参である。
 ところが、今日は珍しく寝坊してしまって、弁当を作る時間がなかったのだ。
 無事に辿り着いた学食は、午前中の講義が終わって間もないというのに、ほとんどの席が埋まっていた。
 四人席に一人しか座っていないテーブルがいくつかあるものの、自分からは相席を頼みにくい。

――どうしよう。どこか、空いてないかなぁ。

 美味しそうな湯気が立ち上るうどんを乗せたトレイを手に、僕はキョロキョロと空席を探す。
 そして、奥まった場所にある四人席が空いているのを見つけた。
 窓から少し離れているその場所は、直接日差しが当たらない位置にあるが、天上近くにある大きな窓から差し込む陽光で十分に明るい。
 入り口付近の席とは違い、そこは適度に静かだった。

――こんないい席が空いているなんて……。ちょうど、誰かが席を立った後なのかな?

 そんな風に考え、僕はそそくさと歩み寄り、トレイを置いて椅子に腰をかける。
 その様子を目にした周囲が、唖然とした表情で固まった。
 だけど、空腹が限界に達していた僕は、周りの様子がまったく目に入らなかった。
 ダシが利いて、ほんのり甘いうどんを汁の跳ねに気を付けてゆっくり啜る。うん、美味しい。
 じっくりうどんを堪能して、満足げにお腹を撫でると、そこで、ようやく周囲の様子に気が付いた。
 表情を凍り付かせている者。胡乱気な視線を向けて、近くの人とヒソヒソと言葉を交わす者。
 どれもこれも、明らかに好意的ではなかった。

――僕、なにかした?

 混みあっている食堂で、ゆっくりじっくり食事をしていたことがマズかっただろうか。
 それとも、うどんをすする音が大きくて、はしたないと思われただろうか。
 理解できない状況に心臓が痛くなり、僕は慌てて立ち上がる。
 それでなくても、発情期を間近に控え、精神状態がなんとなく不安定なのだ。
 念のため、家を出る前に抑制剤を服用してきたものの、初めて受ける視線の嵐に、やたらと落ち着かない。

――早く出た方がよさそうだよね。
 
 椅子の上に乗せていたバッグを斜め掛けにすると、トレイを持って席を立つ。
 僕が一歩踏み出した時、ふいに食堂内が一斉にざわついた。
 彼らは入り口に顔を向け、ウットリとした表情になっている。さっきまで、訝しそうに僕を見遣っていた表情とは、まるで違っていた。

――みんな、どうしたの?
 
 キョロキョロと辺りに視線を巡らせていた僕は、やがて皆と同じように入口へと目を向ける。
 そして、ある光景を視界に入れた途端、ビクッと肩が跳ね上がった。
 食堂の入り口には、四人の学生が立っている。
 美貌と品位を兼ね備えた男女のアルファは、河原(かわはら)賢治(けんじ)先輩と、海野(うみの)美奈代(みなよ)先輩。
 学内でも指折りの秀才として知られているアルファは、清水(しみず)亮介(りょうすけ)先輩。
 そんな三人を従えているのが、すべての第二次特性の中でも最上級であり、アルファの中のアルファとされている澤泉(さわいずみ)斗輝(とき)先輩。
 四人とも、この大学の三年生だった。
 人見知りで周囲と距離を取ってしまう僕でも、彼らの名前と容姿の特徴は知っている。
ただ、僕のような田舎者は彼らと行動範囲が違いすぎるため、これまで実際に顔を見たことはなかった。

――噂以上に、存在感がある人たちだなぁ。

 周りの人間よりも、さらにキラキラオーラをまき散らしている四人。アルファという人種は、こうも人目を引くものなのかと、つくづく感心する。
 一葉先生も、二葉先生もアルファで、大人の色気と渋みのある素敵な男性だ。河原先輩も海野先輩も清水先輩も、もちろん整った容姿をしている。
 そんな素敵な五人よりも、澤泉先輩は一段と輝いて見えた。
 スラリとした長身は、きっと僕よりも頭一つ半は高いだろう。
 細身に見えるけれど、ちっともひ弱な感じはしない。肩周りとか腕とかお腹とか、きっと引き締まった筋肉が付いているんだと思う、
 全体的にバランスが良く、しかも手足が長いので、シンプルなブラックのジャケットに襟元をくつろげた白いシャツ、そしてダークブルーのデニムでも、もの凄くお洒落に見える。
 なにより恐ろしいほど整った彼の顔立ちは、同性としての悔しさを通り越して、ただただ見惚れるばかり。
 艶やかな黒髪と同じ色の眉は、形が良くてすっきりしていて、キリリとかっこいい。
 スッとした二重は目尻が上がっているけれど、怖いという印象はなかった。
 髪と同じ色の瞳は意志が強そうで、僕と二歳しか違わないとは思えないほど落ち着きを放っている。

――うわぁ。やっぱり、特別なアルファって存在感が違うなぁ。澤泉先輩、本当にかっこいいや。

 初めて極上のアルファを目にしたからだろうか、胸の奥がフワフワして落ち着かない。
 アルファの中でもさらに特別なアルファである澤泉先輩だからこそ、ポンコツオメガな僕がドキドキしているのだ。
 僕が自分のことをひそかにポンコツというのは、発情期の症状があまりに軽いから。それはそれで本人の負担が少ないので喜ぶべきことだけど、まるでオメガとして出来損ないだと言われているみたいに感じていた。
 そんな出来損ないの僕を反応させるなんて、さすが、澤泉先輩である。
 妙に感心しながら僕はいそいそとトレイを食器返却コーナーに置き、彼らの横をスルリと通り抜けた。
 その時、いままでに嗅いだことのない匂いに気付く。
 甘さと爽やかさを併せ持った、不思議な匂いだった。

――綿菓子とオレンジが混ざったみたいな匂いだけど、そんなデザートは食堂になかったしなぁ。なんの匂いだろう。

 クン、と鼻を鳴らしながら周囲を見回すものの、匂いの正体は分からない。
 この時の僕は、オメガには番となるアルファがいることは知っていたけれど、匂いで判別することを忘れていた。
 ベータばかりの村ではそういった知識はなんとなく知られている程度で、僕の家族も詳しくは知らない。そういう匂いを嗅いだことのある人がいないから、仕方がないだろう。
 僕がオメガと判明した数日後に一葉先生が説明してくれたものの、いまいちピンと来なかったせいで、ほとんど記憶に残っていない。
 そんな事情から、番同士が引き合う香りの存在というものが僕の認識から抜け落ちていて、自分の周りに漂うこの匂いは、単に『いい匂い』としか感じなかった。

――はぁ、美味しそうな匂いだなぁ。

 いつまでもこの匂いを堪能していたいと思っていたのだが、急に、体調がおかしくなってきた。 
 
――うわ。なんか、呼吸が苦しくて、体が熱い……

 心拍数が上がり、体温もジワリと上がる。おまけに、お腹の底がジクジクと疼きだした。
 これは、発情期の兆候である。

――なんで? 発情期が始まるまで二日もあるし、薬だって飲んできたのに。

 抑制剤を飲んできたにもかかわらず、こうして反応を示すのは、澤泉先輩がいかに優秀なアルファであるかということではないだろうか。

――トップクラスのアルファは、こうも違うんだね。

 いやいや、感心している場合ではない。抑制剤の効果があまり発揮されていないのは危険だ。これまでに経験したことがない状況に、背筋が寒くなる。
 このままでは、自我を失い、動けなくなってしまうかもしれない。
 倒れるだけなら、まだマシだ。
 発情を抑えきれず、人目もはばからず醜態を晒してしまったら、もう大学にいられなくなってしまう。
 体調の変化にどう対処したらいいのか分からず、もつれそうになる足を必死に動かし、僕は校医が控えている医務室へと向かった。

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