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1巻
1-1
しおりを挟む身長差34センチの出逢い
1 愛され社員は百五十三センチ
「それでは、以上でインタビューを終了いたします。ありがとうございました」
ここは日本最大手の某文具メーカーの会議室。ちょうど、海外事業部部長へのインタビューを終えたところだ。
私、小向日葵ユウカは赤瓦短大卒業後新卒で入社し、総務部広報課に配属された社会人一年目の二十歳。就職難のこの時代に、私がこんな大企業に就職できたなんて、まさにミラクルだ。
学歴が素晴らしいわけではないし、容姿が優れているわけでもない。……おそらく一生分の運を、就活で使い果たしただろう。
入社面接のとき、「この会社に就職したら、あなたはなにがしたいですか?」と面接官の一人に訊かれたことを思い出す。
そのとき私は「日本一の社内報を作りたいです!」と胸を張って答えた。
なにしろ、私は新聞部出身なのだ。
採用の決め手となるような答えではなかったかもしれないけれど、面接官をしていた一人の男性が興味を示してくれた。
彼は、異常なくらい綺麗な人で、「どんなことであれ、『日本一』を目指す心意気が素晴らしい。君、採用ね」と言った。なんとその超絶美形が、社長だったのだ。
前社長が急逝し、跡を継いだ社長はまだ三十歳そこそこ。
でも、人を見る目と先を見通す力は確からしい。彼が四年前に跡を継いでから、この会社は不況知らずで、右肩上がりに業績を伸ばしている。
安定した企業に就職できたし、仕事は楽しいし、毎日が充実していた。
これで素敵な彼氏でもいれば文句無しだが、残念ながら彼氏はいない。というか、これまでの人生で彼氏と呼べる人は一度もいたことがない。
中学、高校は一貫制の女子校で、短大も女子ばかりだった。そういう環境で育ってきたから、男の人はちょっと苦手だ。男性恐怖症とか、男性不信というわけではない。ただ、男の人との接し方が分からないのだ。
――でも、焦ることないよね。そのうち、彼氏くらいできるよ。恋愛経験ゼロの私があれこれ考えたってどうにもならない。なるようになるさ!
寂しくなると、そう自分に言い聞かせている。
総務部に戻り、録音したインタビューを聞いていると、ポンと右肩を叩かれた。七歳上で同じ部の中村留美先輩だ。
「タンポポちゃんが担当になってから、けっこう社内報の評判いいよ。さすが赤短の新聞部出身だね」
『赤短』とは『赤瓦短期大学』の略称で、私の母校だ。数多くのジャーナリストを輩出している有名な新聞部があり、私もそこに所属していた。
けれど私は、ジャーナリストを目指していたわけではない。祖父の形見である一眼レフカメラを使いこなせるようになりたくて、新聞部に入部したのだ。
そして部活動の中で記事を書くことの楽しさも覚えた。その経験を活かして、社内報を作りたいと思ったのだ。
今の世の中、たいていの企業は社内報などに力を入れない。
でもこの会社は現社長になってから、社内報が重要な位置を占めるようになった。社員の声を掲載して情報を共有すれば、社内環境の快適化につながるとの考えのようだ。
私は有名新聞部出身ということに加えて、妙なガッツを買われ、広報課に配属されて社内報を担当することになった。
社内報の編纂以外に、商品カタログのキャッチコピーや写真撮影も任されている。
ちなみに『タンポポちゃん』というのは、私のニックネーム。
『小向日葵』という苗字を聞いた留美先輩に、『小さいヒマワリかぁ。じゃあ、黄色くって、ヒマワリより小さい花ということで、タンポポちゃんだね』と言われて以来、私はそう呼ばれるようになった。
「学生時代にみっちり仕込まれましたからね。これからも頑張って、社員に愛される社内報を作りますよ!」
気合いの入った返事をしたら、留美先輩に優しく頭を撫でられた。
「愛され社員のタンポポちゃんが作る社内報だもの。そのうち、社員全員が愛読するようになるわ」
『愛され社員』なんて言われるのは恥ずかしいけれど、四大卒が大半を占める社内で、短大卒の私はほとんどの人より年下だ。そのせいか、みんながマスコット的に可愛がってくれる。
二十歳になってもなんだか子供っぽくて、そのうえ百五十三センチというちんまりした身長。おまけにちょっと「ぽっちゃりちゃん」に見える私。
――でも、私は標準体重だから! 他の女子が痩せすぎなんだよぉ!
「愛されているというか、子供扱いされている気がするんですけど……」
ションボリと肩を落としていると、横からスッと手を差し出された。
「まぁまぁ、これでも食べて元気を出しなさい」
キャンディーをくれたのは総務部部長。御年五十三歳。この人、顔がメッチャ怖い。
初めて見たときは、本当に焦った。『どうして会社に「ヤ」のつく自由業の人がいるの!?』と思ったくらい、迫力のある顔立ちなのだ。
「小向日葵くん、甘いものが好きだろう。遠慮はいらないよ、さぁ」
「は、はい」
こんなふうに、入社以来、おじさま方がやたらとお菓子をくれるのだ。
もう、私は小さな子供じゃないってのに。……くれるものは、しっかり貰っておくけどね!
2 美形な黒豹、登場
貰ったキャンディーを口に放り込み、デジカメで撮った写真に目を通し始めた。
仕事で使うのはこの最新式カメラだ。でも、私の本来の相棒は、自分でピント合わせをしなければならない、祖父から受け継いだ旧式の一眼レフ。
『そんなカメラ、いちいち面倒くさくない?』
よく人からそう言われる。でも、ぼやけていた景色のピントが徐々に合い始め、そしてパッとクリアになる瞬間がたまらない。この感覚はオートフォーカス機能が標準装備されたデジカメでは、味わえない。
「写真はこれでOK! 午後は社長にインタビューだね」
卓上カレンダーでスケジュールを確認する。
社内報には毎月、社長インタビューを載せており、来月分は今日の午後イチに取材のアポイントをとっていた。
「さっさとお昼ご飯を済ませておこう!」
私はデジカメを机の引き出しにしまって、席を立った。
昼食を済ませた私は、デジカメとボイスレコーダー、筆記用具を手に社長室に向かう。
社長室はだいたいビルの最上階にあるものだ。でも我が社の社長室は一階にある。
『上でふんぞり返っていては、社の動向に目が行き届かない』
それが社長の考えらしい。
今やこの会社は日本を代表する文具メーカーに成長した。そんな企業の社長なら、本当はすごく偉いはずなのに、本人はぜんぜん偉ぶっていない。私のへんてこな志望理由を聞いて採用してくれた、ちょっと風変わりな社長だ。
そのうえ、超絶美形。
フランス人の血が四分の一ほど流れているせいか、鼻筋がスッと通っていて、色素が薄く、明るい茶色の髪と瞳をしている。肌も白いから赤い唇が目立ち、それがなんともセクシーだ。
そして、経営のセンスは言うことなし。この世の奇跡とも言える存在が会社を治めている。
そんな社長のインタビューページは、女子社員から絶大な支持を得ている。中でもみんな、インタビューと一緒に掲載される社長の写真を楽しみにしているのだ。写真が趣味の私としては、「任せてくれ!」とモチベーションが上がる。
今日もバッチリいい写真撮るぞ~♪ お~!
意気揚々と社長室の扉をノックする。
「はい」
落ち着いた返事のあと、静かに扉が開いた。
「小向日葵さん、こんにちは」
私を迎えてくれたのは、社長第一秘書兼SPの竹若和馬さん。社長には第三秘書までいるけれど、社長室にいるのは竹若さんだけ。彼は身長が百八十七センチあるらしく、私がこの人と接するときは、思いきり見上げなければならない。
竹若さんは、いつもダークカラーのシックなスーツに身を包み、黒髪が切れ長の目にかかる様子が色っぽい和風美青年だ。その艶っぽさから、女子社員は彼を『現代の光源氏』と呼んでいる。
けれど、私は光源氏だとは思わない。しなやかな体躯、理知的な瞳、ダークカラーのスーツ、綺麗な黒髪から、『黒豹』みたいだと思っている。
そうそう。誤解のないように言っておいた方がいいかな。竹若さんは決して光源氏のように、女たらしではない。恋愛に関してはものすごいストイックで、言い寄ってくる女子社員をつまみ食いすることなんて絶対ないと聞いている。付き合っていた彼女と大学卒業時に別れて以来、ずっと仕事に打ち込んできたのだとか。
今は特定の彼女はいないらしい。で、女子社員たちが彼の恋人の座を巡って、水面下で熱いバトルを繰り広げているとのこと。これは竹若さんと同じ大学出身で、さらに同期入社の留美先輩が教えてくれた。
そういえば留美先輩が、『男のくせに、艶めかしいあの鎖骨は罪よね』と言っていたっけ。
羨ましいほど色気の溢れる竹若さんだけど、ただの優男ではない。剣道五段の猛者で、他にもいろいろな武道を極めているらしい。まぁ、社長のSPを務めているんだから、人を守れるくらい強くなかったらダメだよね。
とはいえ、普段の立ち振る舞いはものすごく優雅だ。
今日も流れるようなしぐさで私を社長室に入るよう促してくれた。
「どうぞ、お入りください」
「失礼いたします。社内報用のインタビューに参りました」
ペコリと頭を下げて、私は社長室に足を踏み入れる。
そのすぐ後ろから竹若さんがピタリとついてきた。
これまでに諸々の打ち合わせを含めて約十回ほど、社長室を訪れている。その度に竹若さんが私の後ろにピタリと立つ。
――いや、あの、私を護衛する必要はないんですけど?
怪訝に思って振り向くと、ニッコリと微笑まれる。
社長とは異なるタイプだけど、竹若さんも相当な美形だ。そんな人に微笑まれたら、クラクラするではないか。
――こっちは美形に免疫ないんだよ! フェロモン垂れ流すな! 鎖骨、へし折るぞ!
社長のインタビューを三十分ほどで終え、次は写真撮影だ。
今回は俯瞰で撮る予定。そのアングルの写真が見たいというリクエストがあったからだ。
我が社の役員はイケメン揃い。そのイケメンの頂点に立つ社長の写真を求めて、広報課までやってくる女子社員があとを絶たない。だが、そういうときは「万が一、悪用されたら困るから写真は渡せない」と言うように、と部長から指示されている。代わりに社内報に載せる写真のアングルのリクエストを受けつけるようにしたのだ。
「では、社長。写真撮影に移ります」
私はカメラを構えて、ふと気づく。
社長も竹若さんと同じくらいの長身なのだ。だから社長が座っていても、ちっこい私の視点からでは、イメージしている俯瞰の構図で撮れそうにない。
――もっと上から撮りたい……
キョロキョロと辺りを見回すが、踏み台にできそうな物は見当たらない。
「申し訳ございません。今回は俯瞰でのアングルを予定していたのですが、私の身長では無理です。段取りが悪くて恐縮なのですが、踏み台を探してきますので、少しお時間を頂けますか?」
そう言って、急いで社長室を出て行こうとした私に向かって、竹若さんが口を開いた。
「その必要はありませんよ」
落ち着いた声でそう言った竹若さんが、私の腰を両手で掴み、ヒョイと抱き上げた。一気に視界が広がる。
――え? ちょっと、なにこれ?
「あ、あのっ、竹若さん?」
ちょっと振り返ると、彼の顔が近い。
――肌、ツルツルだ。至近距離で見てもこんなに綺麗だなんて、羨ましいぞ。
マジマジと顔を眺める私に不愉快な表情も見せず、竹若さんが優しい口調で言った。
「社長はこのあとスケジュールが詰まっておりまして、時間に余裕がございません。ですから踏み台を取りに行くより、この方法が早いかと」
「あ、あ、ああ。そうですね。でも……」
どうしたらいいのか分からなくて、言葉が出てこない。竹若さんの顔を見つめると、彼はニッコリと微笑んでいる。優しげな表情をしているのに、有無を言わさない強引さを感じる。
――恥ずかしいけど、時間がないならしょうがないよね。準備不足だった私が悪いんだし。
「重いでしょうが、よろしくお願いします」
心臓がうるさいくらいに鳴っている。慌てて頭を下げると、彼は切れ長の目を細め、小さく笑いながら言った。
「小向日葵さんはとても軽いですよ。私がきちんと支えていますから、気にせず存分に写真をお撮りください」
竹若さんの声が真後ろから聞こえる。
――細身に見えるのに、すごい力持ち! 安定感がハンパない! これが俗に言う細マッチョか!
私はちょっとした感動に包まれつつも、社長の写真を撮り始めた。
「竹若さん、ありがとうございます。ご迷惑をお掛けしました」
無事に写真を撮り終えて、床に下ろしてもらった私は、竹若さんに頭を下げた。
「いいえ、大したことではありませんよ」
少し着崩れたスーツを直しながら、竹若さんが爽やかに答える。
「あの、撮り終えてから言うのもなんなんですが、私を抱き上げるより、背の高い竹若さんが写真をお撮りになればよかったのではないでしょうか?」
私の言葉に、彼はニッコリ微笑んで頷いた。
「確かにそうですね。ですが、写真に関して素人の私では、掲載できるレベルの写真が撮れるかどうか、心許なかったものですから」
「あっ、なるほど」
そんなやりとりを見つめる社長が、笑いを堪えるために口を押さえていたことに、私はまったく気づかなかった。
~その後の社長室~
「このあとの予定はなにもなかったはずだぞ。時間がないとか言って、彼女を抱き上げたかっただけなんだろ?」
小向日葵ユウカが去った社長室。社長が笑いながら竹若に訊ねる。
「ええ、ま、そうですが」
奥にある簡易キッチンで、コーヒーの用意をしていた竹若は、シレッと言ってのける。
「誰に迷惑をかけたわけでもないと思いますが。なにか問題でも?」
コーヒーを差し出しながら言う竹若に、社長の片眉がわずかに上がる。
「お前、あの行動は、ヘタするとセクハラだぞ?」
からかい口調はそのままに、けれど目にはたしなめるような色を滲ませていた。
それでも竹若は動じない。
「ですが小向日葵さんがなにもおっしゃらなかったので、セクハラは不成立ですね」
社長はやれやれと肩を竦めた。
「恋愛事に一切興味のなかったお前の心を動かすなんて、小向日葵くんは侮れないな。もちろん応援はしているが、くれぐれもヘタなことはするなよ。彼女は恋愛慣れしているタイプではないぞ」
竹若は社長の言葉に、かすかに首を傾げた。
「それは聞き入れられませんね。布越しの温もりでは物足りませんよ。素肌で触れ合ったときの喜びは、さっき彼女を抱き上げたときの何倍も大きいでしょう。……そろそろ本格的に動き出しますよ」
瞳の奥にうっすらと危うい光をたたえた竹若を見て、社長はふと思った。この部下の恋は、もしかしたら応援しない方がいいのではないか……と。
「まぁ、俺も片想いをしているから、お前の気持ちは分からなくはないが。しかし、一昨年の大手新聞社主催のフォトコンテストで、お前はグランプリを取ったじゃないか。そんなお前が『写真に関して素人』だと? 小向日葵くんがそれを知ったら、決していい顔はしないと思うぞ」
社長は企み顔で笑ったが、竹若の態度は落ち着いたものだった。表情を変えることなく、スーツの内ポケットから『あるもの』を取り出す。
「ここに、ある方の写真があります。……が、破り捨ててしまいましょう」
写真の女性はこの会社の社員で、社長の絶賛片想い中の相手だった。
「お前、そういうことするなよ!」
文具業界トップ企業の社長が、第一秘書におちょくられて慌てふためくのは、日常茶飯事だった。
3 抱っこ、ふたたび!?
ある日の午後、次号の社内報用の原稿をチェックしていた私は手を止めた。
「この写真、使えないな」
俯瞰で撮った社長の写真の出来が悪い。デジカメで確認したときは問題なかったが、プリントアウトしてみたら、全体的に明るさが足りない。
「んー、どうしよう。撮り直させてもらえるかなぁ」
入稿まで三日ある。多忙な社長に新たな予定を取りつけるのは無理かもしれないけど、できれば、撮り直させて欲しい。
「とりあえず、お願いするだけしてみよう」
社長室に電話をかける。呼び出し音が二回鳴ったあと、竹若さんの穏やかな声が聞こえた。
『はい、社長室です』
「お疲れ様です。総務部広報課の小向日葵です」
『お疲れ様です。どうかなさいましたか?』
「先日撮らせて頂いた社長の写真ですが、全体的に暗い仕上がりになってしまったんです。お手数をおかけして大変申し訳ないのですが、可能でしたら、撮り直しをさせて頂ければと思いまして。社長のご都合はいかがでしょうか?」
『そうですねぇ』
一言呟いたあと、受話器の向こうからパラリと紙をめくる音がかすかに聞こえた。おそらくスケジュール帳をめくっているのだろう。
『今日はこのあと、各支社長との会議。明日からは出張となっております』
「出張からお帰りになるのはいつでしょうか?」
『五日後になります』
――それじゃ間に合わないなぁ。どうしようかなぁ。困ったな……
受話器の向こうで、竹若さんが小さく笑った。
『小向日葵さんさえよろしければ、これから社長室にいらっしゃいませんか?』
「え? いいんですか?」
突然だけど、撮り直しをさせてくれるのなら、すごく助かる。
「でも、社長は会議前でお忙しいのでは……」
竹若さんの申し出は、願ったりかなったりのものだった。でも、それはあまりにも図々しいのではないかと、腰が引けてしまう。
『かまいませんよ』
私が考え込んでいると、竹若さんの優しい返事が戻ってきた。と、その後ろで『ちょっと待て! 俺、まだ昼食取ってないんだけど!?』とわめく声が聞こえてくる。
「あ、でも、お時間がないようでしたら、無理に撮り直しをさせて頂かなくても大丈夫です。パソコンで色を調整しますから」
聞こえてきた悲痛な叫び声に、居たたまれなくなった私はそう告げた。
『どうぞお気になさらずに。では、お待ちしております』
竹若さんは穏やかな声でそう言ったあと、静かに通話を切った。
「……電話の向こうで騒いでいたのって、間違いなく社長だよね。いいのかなぁ?」
そう思いながらも、私はデジカメを手に、総務部を飛び出した。
社長室の扉をノックすると、いつものように竹若さんが出迎えてくれた。
「どうぞ、小向日葵さん」
「急なお願いを引き受けてくださって、ありがとうございます」
頭を下げると、竹若さんが小さく笑みをこぼした。
「いえ、なんの問題もありませんよ」
彼が静かな口調で答えると、後方のデスクに座っていた社長が「問題大有りだ! 先に飯を食わせろ!」と文句を言っている。
まずい! やっぱり撮り直しは辞退させてもらおう。
「あ、あの、写真はこちらでどうにかしますから、社長のお食事を優先なさってください。失礼いたしました」
慌てて退室しようとすると、竹若さんはやんわりと腕を掴んで、私を社長室に引き戻した。
「まあ、そう遠慮なさらずに」
「いえ、社長にご迷惑かけるわけには。もともと私のミスですから」
「社長の意向で社内報に力を入れているのですよ。それに応えようと頑張っているあなたが、気に病むことはありません」
「そ、そうかもしれませんけど……」
困惑して俯いていると、竹若さんがクルリと後ろを振り返った。
「社長。社員に協力することも会社のトップの務めだ、と常日頃おっしゃっていますよね。このようなときこそ、器の大きなところをお見せください」
「そうは言っても、もう三時半過ぎだぞ! だったら、先に食べさせろ!」
切実な顔で空腹を訴える社長を見て、私はやっぱり退室することにした。
パソコンで修正すると、どうしても色味が不自然になるけど、構図的にはリクエスト通りだから、今回はそれで大目に見てもらうとしよう。
「……竹若さん。私、帰ります」
小さな声で呼びかけると、彼は「ご心配なく」と言い置いて、ふたたび社長に向かって口を開いた。と同時に、凍えるように冷たい声音が室内に響く。
「昼食ぐらいで、いい年した大人が騒ぎ立てないでください。人間、一食抜いたぐらいでは、死にはしませんよ」
竹若さんにそう言われた社長は、グッと息を呑んで黙り込んだ。この間、抱き上げられたときもそうだった。彼の口調はどこまでも穏やかなのに、なぜか逆らうことができない。
「さぁ、小向日葵さん。写真撮影をお願いいたします」
竹若さんが私を促した。
彼の雰囲気のあまりの変わり様に呆気にとられていると、竹若さんがそっと近づいてきた。
「前回と同じ構図でよろしいですね」
「へ? あ、は、はい。そうです」
「では、どうぞ」
竹若さんが私に満面の笑みを浮かべて、両腕を伸ばしてきた。
「……は?」
「上から写真を撮るのでしたら、以前と同じように私が抱き上げますから」
「い、いえっ。大丈夫ですっ」
私はいったん急いで社長室を出た。そして、廊下に置いておいた『ある物』を手にして戻った。
「今回はこちらを用意してきましたので、一人でも大丈夫です」
それは備品庫にあった小さな脚立。これさえあれば、ちっこい私でも俯瞰で撮れる。
ニコリと笑う私を見て、なぜか竹若さんの雰囲気が変わった。
表情は普段と同じなのに、目が笑っていない。社長にお説教していたときよりも、もっと冷たい。
――なんで?
事前の断りなく、脚立を持ち込んだのがマズかったのだろうか。
――そういえば、これ、あんまり綺麗じゃない。
掃除の行き届いている社長室に、薄汚れた脚立を持ち込んだのは失敗だったのかもしれない。でも、床に着く部分は綺麗に拭いてきたんだけどな……
「あ、あの……」
竹若さんはじっと脚立を見つめていた。どうしたらいいのか分からずに立ち尽くしていると、社長が苦笑混じりに声をかけてくれた。
「小向日葵くん。その脚立を使って、写真を撮ってくれ。お互いに時間がないことだし」
「は、はいっ」
社長の許可が出たので、脚立を見つめたままピクリともしない竹若さんの横をすり抜けて、私はそそくさと撮影の準備を始めた。
~その後の社長室~
ユウカが使った脚立が社長室に残されている。『私が備品庫に返しておきます』と、竹若が申し出たからだ。
「おい、親の仇みたいに睨むなよ」
視線だけで脚立を破壊しそうな竹若に向かって、大急ぎで出前のカツ丼に箸をつけながら、社長が声をかけた。
「『堂々と彼女に触れる』という私の楽しみを奪ったのですからね。恨みたくなるのも当然です」
竹若は感情のこもらない声で言い捨てた。
「お前、それは狭量過ぎるだろ」
顔をしかめた社長は、竹若の淹れた緑茶をグビリと飲む。
「なんとでも言ってください。私は彼女に対しては、独占欲の塊ですから」
そう答えた竹若が、ふと表情を緩ませた。
「社長、今から少々外してもよろしいでしょうか?」
脚立から視線を外して、振り返った竹若の目がかすかに笑っている。
「ん? かまわないが」
急に態度を変えた竹若の様子に首を傾げつつも、社長は許可を出した。すると、竹若は脚立をガシッと掴み上げ、「では、失礼いたします」と丁寧に頭を下げて社長室を出て行った。
その日以降、備品庫にあった小型、中型、大型の脚立、それに踏み台に至るまで、人が上に乗れる物はすべて会社からなくなっていた……
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