君の空になる

mimi*

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 「……都子」

 身体が、震えた。
 訝しげに千彰がこちらを見ているのが分かる。都子からその視線は彼女の名を呼んだ彼へと辿り、その視線に鋭さが灯った。
「お前、誰」
 彼――藤見良介に言い放った千彰の声は、驚くほどに冷え切っていた。
 すっと手を握られる。普通の精神状態なら振り払うはずのそれも、今の都子は指先さえも動かせるか分からなかった。すべては千彰のなすがまま、ぐっと抱き寄せられる。
「用もないなら、人の彼女の名前気安く呼ばないでくれる?」
 攻撃的な口調とともに良介をひと睨みし、千彰は都子に向かってこれ以上ない優しい微笑みを浮かべた。
「行こう、都子ちゃん」
 気付けばこくんと頷いていた。ただこの場にはいたくないとそれだけを心が叫んでいて、ここから連れ出してくれるのなら誰でもよかった。

 足取りは重い。
 もうあれから半年も経っているのに、こうして出会ってしまっただけで、名前を呼ばれただけで、まだ、こんなにも心を乱される。

――どうしよう。

 涙が枯れるくらい泣いたはずなのに、こんなに空は青いのに。

 わたしはまだ、良介のために涙を流すくらい、彼を忘れられてないんだ。


 良介の姿が見えなくなった頃から千彰の足取りが速くなった。疲れたように歩く都子を強引に引っ張り、やっと立ち止まったのは人気のない薄暗い路地に辿り着いてからだった。
「都子ちゃん、前、あいつと付き合ってたの」
 俯く都子に少しの遠慮も与えず、千彰はまるで信じられないというように問いかけてきた。その知ったような口ぶりに都子はそろりと顔を上げて、それから、僅かに首を縦に振った。
「なんだよ……あんな、奴」
 千彰の手のひらにぐっと力がこもる。掴まれた腕が痛くて、都子は言葉なく彼から逃げ出そうとした。
「もしかして俺と付き合わないっていうのあいつのせい? 顔がいい奴ってあいつのこと?」
 たたみかけるように千彰は問いかけてくる。
 都子は必死に首を振った。そんなんじゃない。そんなわけがない。良介のせいでこんなふうになっている自分を認めたくない。
「答えろよ! どうして、あんな奴」
「……った」
 微かに言葉した都子に、千彰の詰問が一度止まった。
「知らなかった……」
 そうじゃなきゃ、もっと惨めになっている。
「良介のことなんか知らなかったの……。何も、知らなかった」


*         *         *


 放課後の、生徒会室で。夕暮れの陽射しを浴びながら口付けを交わしたのが初めてのキスだった。
 幼い頃から憧れていたロマンチックなキス。良介とのそれはまさに都子がずっと夢見ていたもので、あのときは頭のどこを覗いても幸せという言葉しか見つからなかったほどだ。目の前の彼が愛しすぎて、このまま世界が終わってしまってもいいと思えた。

 良介は優しかった。端正な顔立ちに笑顔が浮かぶといつもより少しだけ幼く見えて、都子は笑顔を向けられるたびに名前も覚えていない男の子の顔を思い出した。
 ずっと昔、自分のことを『みやちゃん』と呼んで慕ってくれた男の子。笑顔がかわいくて、幼い都子は彼のことが大好きだった。一緒にいた期間は半年ほどだったと思う。気付けば彼はいなくなっていた。1週間ほど自分のもとに現れないのを不思議に思い、彼の家を尋ねたときにはすでに家はものの抜け殻状態だった。あとから人づてに両親が離婚して、彼は母親とともにその実家へ移り住んでいったのだと聞いた。

――都子のことが好きだ。

 甘い甘いキスのあと、良介は言った。わたしも、と掠れた声しか返せなかった都子に彼は優しい笑顔を向けてくれた。
 あの頃が一番幸せだった。何も知らないで、ただ良介のことが好きで、世界は彼一色だった。
 何も疑問に思わなかった自分が悪いんだ、と思う。
 良介はあまり自分のことを話さなかった。会話はいつも他愛もない話ばかりで、会う日も、待ち合わせ場所も、すべて良介が決めていた。
 全部初めてだった。男の子とふたりきりのデートも、キスも、その先も、良介が全部初めてだった。
 だから、裏切られたときのショックが大きかったのかもしれない。自分はただ遊ばれていただけなのだと、彼は自分のことなんか少しも好きじゃなかったんだと、知ったとき、心のすべてが消えていくように感じた。
 でも、実際は消えてなどくれない。良介への想いも、思い出も、心に残ったまま重い澱となって深くに沈んでいる。


「都子、ちゃん……」
 耳に、掠れた千彰の声が届いた。
 彼の手が側頭部に触れ、その指先がなぞるように肩まで落ちていった。

 気付いたときには千彰に掻き抱かれていた。拒めなかった。いや、拒まなかったのかもしれない。
 すぐに千彰の学生服は薄く染みを作っていった。
 止める術を知らないその涙は、ただ、都子の瞳からこぼれ落ちるだけだった。
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